Okinawa 沖縄 #2 Day 241 (01/03/23) 旧首里南風平等 (2) Tobaru Area 首里桃原町

旧首里南風平等 首里桃原町 (とうばる、トーバル)

  • 普天間小 (フティマグヮー)
  • ウチンガー樋川 (ウチンガーフィージャー)
  • 屠畜場 (トゥトゥンバー) 跡
  • 後ヌ道 (クシヌミチ)
  • 後見せ坂 (クシミシビラ) 後方下坂 (クシヌシチャビラ)
  • 桃原公民館、沖縄県立女子工藝学校/沖縄県立首里高等女学校学跡、浦添御殿・玉川御殿跡、聖廟、村学校所 (義塾)
  • 松山御殿跡、桃原農園
  • 佐司笠樋川 (サシカサフィージャー)
  • 世果報御井小 (ユガフーカーグヮー)
  • 謀叛屋敷 (ムフンヤシチ)


前回訪問した首里山川町には比較的を多くのスポットがあり、まだ訪問記を書き上げていない。未完訪問記が増えるのは不味いので今日は首里区に中で、比較的見る史跡やスポットの少なく首里桃原町を巡る事にする。


旧首里南風平等 首里桃原町 (とうばる、トーバル)


桃原町は琉球王国時代には南風平等の北端の村で、西の真和志平等と接していた。 儀保、当蔵、大中、山川町に囲まれ、大中町の北に位置する。桃原はトーバルの当て字で「トー」はウチナーグチで平たい所を意味し、バルは原を表して「平らな原」と言う意味で、めでたい文字の「桃」を当てている。

桃原村の高台の町の中心部には按司や王族につながる士族の御殿、殿内が多く、代表的な御殿には玉川御殿、浦添御殿、玉城御殿、小禄御殿でこのほか東風平、内間、森山、津嘉山、富盛殿内などがあった。


首里桃原町は一丁目と二丁目で構成されているが、琉球王国時代から戦前にかけては二丁目が中心地で士族屋敷跡に民家が集中していた。戦後は比較的平坦な一丁目の南側にも民家が広がっている
首里桃原町の人口は首里区ではそれほど多くなかった。1880年 (明治13年) では653人だったが、1921年 (大正10年) には1051人に増加している。沖縄戦で人口は激減したが、戦後の復興で1960年代後半には大正10年レベルまで人口は戻っている。しかし、その後は一貫して人口減少が続き、現在では800人程までになっている。世帯数も横ばい状態となっているので、今後も人口減少が続くと思われる。

首里区の中では首里桃原町の人口は下から四番目となっている。


首里桃原町訪問ログ




先日訪れた大中町の端まで行き、そこから隣村だった桃原町を散策していく。


普天間小 (フテンマグヮー)

儀保大通り (桃原本通り) 沿いに普天間権現発祥の地と伝わる拝所がある。琉球王国時代には小禄御殿跡 (古地図では棚原親雲上) に普天間小 (フテンマグワー) の拝所が置かれている。ここに伝わる説話は首里から普天間宮への道沿いの各所にもある。その由縁あるスポットを幾つか訪れている。説話はその場所で少しずつ異なっていくつかのバージョンがある。この場所で紹介されている言い伝えは以下の通り、
この場所にあった権現屋敷に美女がおり、 家人以外に姿を見せることなく機織りをしていました。ある時、誰かに自分の姿を見られたことを恥じ家を出てしまいました。 彼女の持っていた糸をたどると、普天間の洞窟に続いていたと言います。 以後、人々は神の化身として普天間権現と呼び崇めるようになりました。

別バージョンでは

昔、二人の姉妹がいた。妹は平凡な娘であったが、姉はどういうわけか夜部屋にとじこもって、他人に顔を見られるのをいやがっていた。 ある日、妹は恋している男から、姉の顔を一度でもよいから見せてくれたのまれた。妹はあれこれ考えたあげく計をうかべた。「自分が庭でころんで怪我をしたまねをする。大声で姉に助けを求める。そのとき、姉が部屋から出てくるはずだから、貴方は庭の隅にかくれていなさい」と妹は恋する男に言って、その通り演じた。 妹は庭でころんだまねをし、姉の名を大声で呼んだ。男は庭の片隅にかくれて姉のあらわれるのを待っていた。予期通りに姉は部屋から出てきたのである。しかし、男に顔を見られたと知った彼女は、家をすて、路上を飛ぶようにして消え去った。どこに行ったか当初は わからなかったが、彼女の着物にまつわりついていた芭蕉のつむぎ 糸がそれを教えてくれた。糸をたどっていくと、その糸は普天間の洞窟の入口までのびていた。姉はその洞窟にかくれたのである。 姉は神としてまつられたという。
ここにあった普天間小は戦前は鳥居などなかったのだが、沖縄戦で破壊され、その後、1953年 (昭和28年)、町民の寄付金等で鳥居と祠が建てられている。

ウチンガー樋川 (ウチンガーフィージャー)

普天間小から儀保大通りを渡って左側の路地 (スージ) をいくと目の前が開ける。
町の北西の端は崖になっている。この辺りはウチンガーモーと呼ばれていた。
この道沿いに井戸がある。ウチンガー樋川 (フィージャー) という。「ウチン」とは落ちると言う意味から崖 (ウツ) を表している。崖の中腹から湧き出る水を井戸にしたことから、ウツノカーから変化して、ウチンガー樋川 (フィージャー) または ウチン井 (ガー) と呼ばれている。 桃原村の村井 (ムラガー、共同井戸) 飲料水として使われていた。

屠畜場 (トゥトゥンバー) 跡

ウチンガーの急な坂 (ヒラ) を下りると広場に出る。 ここに沖縄戦前ま でウチンガーの豊富な湧き水を利用し、首里の食文化を支える重要なは屠豚場があった。 屠畜場 (トゥトゥンバー) と呼ばれていた。現在は首里の伝統織物である首里織を研修指導する場所として首里織工芸館になっている。

後ヌ道 (クシヌミチ)

崖沿いを桃原村を囲みむ様に道が通っている。後ヌ道 (クシヌミチ) で村の後方の村境だった道になる。

後見せ坂 (クシミシビラ) 後方下坂 (クシヌシチャビラ)

後ヌ道は坂道にぶつかる。この坂道を後見せ坂 (クシミシビラ) という。普天間小 (フテンマグヮー) に関連するもので、家人以外に姿を見せない美女が、誰かに姿を見られたことを恥じ、家を飛び出し、彼女の走りゆく後ろ姿を最後に見た坂 (ヒラ) がここだったと言う由来でこの様に呼ばれている。また、桃原の後方 (クシ) にある下り坂 (シチャビラ) と言う事で後方下坂 (クシヌシチャビラ) とも呼ばれている。
坂道を降り切った所が宝口で、ここは首里儀保町を訪れた際に来て、紙漉所、宝口樋川などを見ている。

桃原公民館、沖縄県立女子工藝学校/沖縄県立首里高等女学校学跡、浦添御殿・玉川御殿跡、聖廟、村学校所 (義塾)

後見せ坂 (クシミシビラ) を登り、後ヌ道の南側に桃原公民館がある。公民館の前庭の隅に沖縄県立女子工藝学校、沖縄県立首里高等女学校学跡地と書かれた石碑が建っていた。1897年 (明治30年) に「学齢を超過し、婚期前にある女子に小学校教育の補修と女子一般の技芸を授ける目的で、実業補習学校が首里城内の南殿と近習詰所跡を教室として使用して、首里尋常高等小学校女子部に付設されて創立されている。3年後の1900年 (明治33年) に首里女子実業学校として独立、1934年 (昭和9年) に沖縄県立女子工藝学校と改称し、この浦添御殿跡地に校舎を新築移転した。1943年 (昭和18年) には沖縄県立首里高等女学校と改称したが、僅か二年で1945年 (昭和20年) の沖縄戦で焼失し廃校となっている。戦後1948年に沖縄戦で犠牲となった女性徒の慰霊碑のずいせんの塔がこの学校敷地内にが建立された。(後に糸満市米須に移設されている)  首里高等女学校からは61名の4年生が学徒動員され瑞泉学徒隊と呼ばれ南風原町のナゲーラ壕の第62師団 (石部隊) 野戦病院壕で従軍看護として働いていた。南部への撤退命令が出ると、伊原や米須の壕に移っていった。従軍した学徒の33名が犠牲になっている。
この場所は琉球王国時代には浦添御殿、玉川御殿の屋敷となっていた。浦添御殿は、尚穆王の次男の尚図 浦添王子朝央 (1762年 - 1797年) を元祖とする第二尚氏の分家で、代々浦添間切の按司地頭を務めた。一世朝央は尚穆王/尚温王の摂政を務め、沖縄三十六歌仙の一人としても知られる三世 朝熹も尚育王/尚泰王の摂政を務めている。四世 朝忠は分家に当たる向氏奥武殿内からの養子で、廃藩置県後は脱清して独立運動を展開した頑固党の人物。浦添の澤岻には浦添御殿の墓がある。
浦添御殿の隣に屋敷があった玉川御殿は1世から7世まで読谷山按司、その後、13世まで仲里按司を称していたが、13世朝慶に男子がなかったため、尚灝王の七男尚慎 (1826~1862) が養子に入って兼城間切の按司地頭職に就任し14世玉川王子朝達と称した。朝達は、琉球王国最後の江戸幕府への謝恩使で、島津斉彬と連携して琉球の改革に取り組もうとしたが、斉彬急死後の保守派による政変で、親薩摩派 (斉彬派) の粛正現が始まり、国王廃位を企てたという謀叛の嫌疑で牧志恩河事件に巻き込まれて、領地の兼城間切糸満村に蟄居し、失意の内に亡くなった人物で、史劇「玉川王子」の題材となっている。
1897年 (明治30年)、1836年 (尚育2年) に国学の南に建立され廃琉置県で廃廟となっていた孔子廟の神位が1894年 (明治27年) に浦添御殿に遷座されている。孔子廟は1934年 (昭和9年) には首里城内の銭蔵跡に再々遷座され、沖縄戦で焼失している。またこの場所には、琉球王国末期の1835年 (尚育1年) に村学校所 (義塾) が設置され、明治中期まで継続されていた。

松山御殿跡

儀保大通り (桃原本通り) に戻り、今日最初に訪れた普天間小 (フテンマグヮー) から少し東に松山御殿跡がある。この松山御殿は琉球王国最後の国王尚泰の四男の松山王子尚順 (1873 - 1945) の屋敷で、5000坪もある広大な屋敷だった。この屋敷の敷地には琉球王国時代は湧川親方屋敷、兼城按司、宜野湾親方、摩文仁親方の御殿、殿内があったのだが、廃琉置県後に尚順が買い受け、松山御殿を建設している。尚順は廃藩置県で父 尚泰と共に7歳で東京に移住させられ、1892年 (明治25年)、20歳の時に兄の尚寅と共に帰郷した。翌年の1893年 (明治26年)、太田朝敷、護得久朝惟、豊見城盛和、高嶺朝教らと共に琉球新報を設立、1899年 (明治32年) には沖縄銀行を設立、他にも沖縄広運の設立し、積極的に経済活動を行なっていた。1904年 (明治37年)、貴族院男爵議員に選出され、1915年 (大正4年) まで勤めている。現在でも屋敷跡の一画には尚家の大邸宅がある。
1924年 (大正13年) には松山御殿屋敷敷地 (約4,000坪) を利用して沖縄初の造園業の桃原農園を設立し、沖縄の温暖な気候を活用し、熱帯果樹や香辛料、観葉植物の収集研究を進め栽培を行っていた。1930年 (昭和5年) には、沖縄で初めてパイナップルを栽培をしている。孔雀や猿、台湾毒蛇なども飼育し、有料観覧もしている。沖縄戦で焼失したが、尚順の六男の尚詮が、桃原農園の復興に着手し、1951年 (昭和26年) には、合資会社桃原農園として再開し、庭園部分には首里トロピカルガーデンを開園し、1999年 (平成11年) まで運用していた。
琉球政府時代には、嘉手納飛行場や普天間飛行場、上之屋住宅地域の緑化を手掛け、米軍工事へと進出し、海中公園、発電所、石油基地、米軍保養地の奥間ビーチ、国際通りの植栽・植樹など、当時の公共工事などで桃原農園は発展していった。本土復帰後も、沖縄海洋博、那覇空港、下地島空港など、多くの大規模な公共工事を手掛けている。現在はここにあった首里トロピカルガーデンは無くなってマンションになっているのだが、その庭園の一部が残っていた。

佐司笠樋川 (サシカサフィージャー)

尚家屋敷の裏には佐司笠樋川 (サシカサフィージャー) が残っている。鬱蒼とした木々に覆われた静かな空間の中にある。元々は琉球王国時代は湧川親方屋敷、明治以降は松山御殿の中にあった樋川になる。尚家の好意で一般に公開されている。 1520年 (尚真44年) 頃に、 見里王子朝易 (湧川家の祖) の室である佐司笠按司加那志 (サシカサアジガナシー、尚真王長女) が樹木に白鷲が飛来するのを見て不思議に思い、掘ったところ湧き水が出たとの伝承から佐司笠樋川と呼ばれるようになったと言う。また、白鷲伝承から鷺泉とも呼ばれていた。干ばつでも枯れることなく、一般住民の飲料水として利用されていた。
琉球石灰岩の石積みをほぼ半円形で三層に巡らせ、四角い樋口からの水を半円形の貯水池で受ける構造になっている。

世果報御井小 (ユガフーカーグヮー)

佐司笠樋川のすぐ隣には世果報御井小 (ユガフーカーグヮー) がある。 王府時代から桃原村、大中村の人々にも生活用水として使われてきた井戸で、 沖縄戦で埋没したが、 昭和末期に掘り出された。
今まで見てきた井戸の中では非常にユニークな形になっている。井戸へは石垣に囲まれた下る道を降りて、石のトンネルを潜ってようやく井戸に到達する仕組みになっている。この様な形の井戸は初めて見た。

謀叛屋敷 (ムフンヤシチ)

尚家屋敷の東側の住宅地の中には琉球王国時代には謝名の屋敷があったそうだ。球陽の尚寧4年 (1592年) の条に「首里西州の謝名一族謀叛す。 」記されて、その事から謀叛屋敷 (ムフンヤシチ) と呼ばれていた。琉球王国の文献ではこの記述以外に尚寧王の時代に反乱が起こったとの物は無く、この「謀叛」は王統内の政治抗争を武力で抑えた程度のものだったのではと考えられている。

桃原町にはそれほど多くの史跡は無いので、まだまだ時間があり、桃原町の北側にある末吉公園を散策した。末吉公園は丘陵の斜面に造園されている今でも多くの古墓が残っている。末吉公園に丘陵上部の山道を散策した。2時間程山の中を歩いたのだが、末吉公園は広大で、三分の一ぐらいしか見れなかった。この首里末吉町には近々、訪問する予定なので、その際に残りを見てまわる。帰宅は7:30で7時にようやく日没となり、週ごとに日照時間が延びている。

参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)

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