Okinawa 沖縄 #2 Day 244 (12/03/23) 旧首里西原村 (1) Taira Area 首里平良町
旧首里西原村 首里平良町 (たいら、テーラ)
- 昭和橋
- 平良小堀 (テーラクムイ)
- 太平橋 (旧平良橋 テーラバシ)
- 平良市場 (テーラマチ) 跡
- 平良町三叉路
- 平良交番所跡
- 平良祝女殿内 (テーラヌルドゥンチ) 跡
- 高平良山 (タカデーラヤマ)、高平良御鎖ヌ屋敷跡 (タカデーラウザシヌヤシチ)
- 土帝君 (トゥーティークン)
- 三界 (サンカイ )
- 樫木道 (チャーギミチ)
- フシマン洞 (トー)
- 殷氏仲松家之墓 (インウジナカマチケヌハカ)
- 末吉陵 (シイシヌタマウドゥン)
- 羽地御殿ヌ墓 (ハニジウドゥンヌハカ)
- 知念坂 (チニンビラ)
- 中之毛 (ナーカヌモー)、平良公民館
- 平魂之塔
- サントゥー井戸 (ガー)
- 旧宿道 (スクミチ)
- 龕屋跡 (ガンヤー)
- 旧石道小路 (スージ)
- 平良殿内 (テーラドゥンチ) 跡
- 道絡り (ミチグヤー)
- 新井戸 (ミーガー) 跡
- 平良前原 (テーラメーバル)
- 平良学校所跡 (城北小学校)
- 新道 (ミーミチ)
- 宮古井戸 (ナークガー)
- 首里第三尋常高等小学校跡 (若夏学院)
自転車の修理も終わり、遠出も再開したのだが、自転車による遠出と歩きでの近場集落巡りを交互にしていくことにした。自転車だけだと、足腰に負担が少ないので、ウォーキングで少しは不可をかけたほうが良いと思った次第。もう一つの理由は、いずれ、歩きで東海道、四国遍路、そしていつになるかわからないがフランスからスペインへのCamino de Santiago de Compostela に挑戦してみたい。そのためには毎日25kmから30kmを二か月間続けられるようにとの訓練も兼ねようと思った次第。
旧首里西原村 首里平良町 (たいら、テーラ)
首里区の中では、明治時代には5番目に人口の多い地域だったが、現在は人口の少ない地域になっている。
首里平良町訪問ログ
昭和橋
平良小堀 (テーラクムイ)
太平橋 (旧平良橋 テーラバシ)
平良市場 (テーラマチ) 跡
平良町三叉路
平良交番所跡
平良祝女殿内 (テーラヌルドゥンチ) 跡
高平良山 (タカデーラヤマ)、高平良御鎖ヌ屋敷跡 (タカデーラウザシヌヤシチ)
傲慢な高平良御鎖は、ある日、大謝名比屋 (おおじゃなのひや) が持っていた名馬を見て、譲り受けようと望んだが、断られ乗馬の遺恨から、比屋を闇討ちにした。大謝名の兄の謝名子 (シャナヌシー) と普天間法印の弟 慶運 (チーウン) 坊の二人は歳姿 (遊芸人) に身をやつし、高平良の一家が厄払いの浜下りをする隙を狙い高平良御鎖を討ち取る。
高平良家門中のいる場所では、この組踊の上演は今日でもご法度だそうだ。
土帝君 (トゥーティークン)
三界 (サンカイ)
樫木道 (チャーギミチ)
フシマン洞 (トー)
殷氏仲松家之墓 (インウジナカマチケヌハカ)
末吉陵 (シイシヌタマウドゥン)
羽地御殿ヌ墓 (ハニジウドゥンヌハカ)
知念坂 (チニンビラ)
中之毛 (ナーカヌモー)、平良公民館
平魂之塔
サントゥー井戸 (ガー)
旧宿道 (スクミチ)
龕屋跡 (ガンヤー)
旧宿道を進んだ左脇は平良村の龕屋 (ガンヤー) のあった場所で、終戦後まで朱色の龕 (ガン) が朽ちかけたまま納められていた。 平良町の龕 (ガン) は、二百年ほど前に、平良村の村獅子頭 (ムラシーシ) と末吉村の龕と交換したと伝わっている。
旧石道小路 (スージ)
大正期の民俗地図を見ると、 平良町の あちこちに王国時代の名残りである石道 を見ることができます。 沖縄では 「いし みち」といい、石を敷き詰めた公道であ り、雨天時のぬかるみなどの弊害をなく し、往来を円滑にする役目がありまし た。 王府の命で舗装されたそれらの公事 道 (クージミチ) は宿道となり、 王都首 里から地方の各間切りへの起点となって いました。
平良殿内 (テーラドゥンチ) 跡
更に宿道を進んだ所にマンションが建っている。ここは向氏の分家筋にあたる平良殿内 (テーラドゥンチ) の屋敷跡と伝わっている。1879年 (明治12年) の廃琉置県当時、首里士族 (脇地頭) は54軒あったのだが、この脇地頭家は廃藩置県で失業没落し、地頭の所領へ移住し屋取 (ヤー ドゥイ) として農業に従事する者も多かった。 この中には赤平町にあった平良殿内も含まれ、この平良村に移ってきたのか、それとも別邸だったも知れないとされている。
道絡り (ミチグヤー)
宿道を進むと十字路に出る。この場所は平良町と大名町の境になる。この様な路の交叉した場所を昔は絡り (グヤー) と呼んでいた。現在ではカジ マヤーとかアジマーと呼ばれている。廻輪することを古語で「ぐり」とか「ぐりぐり」というのだが、琉球方言でリ音はイ音に転ずるので、交叉して道路が廻輪していることを「グーイ」といったと考えられる。ミチグヤーとは道路が交叉して廻っている所を称している。この先の大名村は昔は平良村に属していたので、大名町には平良村時代の史跡がいくつもあるのだが、それは首里大名町を訪問する際に見学することにする。
もう一度、平良三叉路に戻り、今度は石嶺方面への道沿いの史跡を見ていく。
新井戸 (ミーガー) 跡
平良前原 (テーラメーバル)
新井戸 (ミーガー) から城北小学校方面へ道を降りていくと川にあたる。この辺りは平良前原 (テーラメーバル) と呼ばれた地で、1906年に平良村字平良と共に首里に編入された地域だった。現在は住宅が密集している。
平良学校所跡 (城北小学校)
橋を渡ると登坂になる。この坂を登った所は城北小学校となっている。この小学校はかつては平良学校所が置かれていた。琉球王国時代の各所に学校所が置かれたのだが、首里や那覇以外は、各間切で番所が置かれた村に、各間切に一つの学校所が置かれていた。当時は平良村は西原間切に属して、学校所が置かれる条件ではなかったが、平良村は特別に学校所が置かれていた。平良村が当時は西原間切の中でも有力の村だったことが判る。
新道 (ミーミチ)
来た道を戻り、県道241号を北に進む。この県道は1933年 (昭和8年) に虎頭山に連なる山頂を削った儀保 (首里) の割り取り工事の際に開通した道で新道 (ミーミチ) と呼ばれていた。
宮古井戸 (ナークガー)
首里第三尋常高等小学校跡 (若夏学院)
新道 (ミーミチ) から北に外れた路地を進んだ所に若夏学院があるが、ここは西原村時代の1895年 (明治28年) に平良真地馬場 (テーラマージンマイー) の御桟敷 (ウサンシチ) の裏側に西原尋常高等小学校の分校創設された。1911年 (明治44年) に嶺吉尋常小学校 (石嶺の嶺と末吉の吉から名付けられた) と改められ、10年後の1921年 (大正10年) からは首里第三尋常高等小学校となっている。1945年 (昭和20年) の沖縄戦で校舎は焼失し、戦後、この跡地には琉球政府立実務学園や沖縄県立若夏学院となり、その施設の中に那覇市立城北中学校若夏分校も置かれている。
今日は集発が遅く、途中で翁長おじいとと出会い話し込んだので、自宅に帰ってきたのは7時半といつもよりかなり遅くなった。集落巡りで地元の人と出会い話すのは何よりも楽しく貴重なものなので、予定が消化できなくても最優先にしている。特に沖縄戦とその戦後を語ってくれる人は年々少なくなっているので、今日はこの出会いはラッキーだった。家も教えてもらったので、また会う機会があるだろう。
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
- 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
- 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
- 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
- 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)
- 新 琉球王統史 09 尚質王 (2006 与並岳生)
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