Okinawa 沖縄 #2 Day 228 (14/12/22) 西原町 (19) Tanabaru Hamlet 棚原集落
西原町 棚原集落 (たなばる)
- 棚原公民館
- ナカジンヌ嶽 (チカジンヌ嶽、中ヌ嶽)
- ナカジンヌカー (未訪問)
- 屋比久宗家神屋
- 棚原の石畳道
- 中道 (ナカミチ)
- 宮里家屋敷跡 (歴史公園)
- アブガー (消滅?)
- ミーガー
- 白河在戦跡壕跡
- 白河井 (シラカーガー)
- 神井 (カミガー)
- 樋川井 (ヒージャガー)
- 田井 (ターガー)
- 大殿内 (ウフドゥンチ) 神屋
- 下ヌ嶽 (シチャヌタキ)
- 宮平ヌ御井 (ナーデーラヌウカー) (未訪問)
- 名称不明の井戸
- 御嶽井 (ウタキガー 消滅?)
- スムヌカー (下ヌ井 シチャヌカー)
- 村屋跡 (未訪問)
- サーターヤー跡、前ヌ井 (メーヌカー 消滅)
- 名称不明の井戸
- フクイダ
- 棚原野戦病院壕跡
- 日本軍兵舎
- 棚原比嘉家の土帝君 (トゥティークー)
- 棚原ノロ殿内 (タナバルヌルドゥンチ)
- 上ヌ嶽 (イーヌタキ、マニシカニービ御嶽)
- 殿小 (トゥングヮー、棚原里主所火神、地頭火ヌ神)
- 西ヌ井 (イリヌカー)
- 野国総管へのお通し (ウトゥーシ)、今帰仁城へのお通し (ウトゥー シ) (未訪問)
- 後原井 (クシバルガー) (未訪問)
- 遊び場 (アシビナー)
- 棚原貝塚
- 古墓群
- 棚原グスク
- 棚原城ヌ殿
- タカジビーヌ御嶽 (未訪問)
- 森之平嶽 (モリノヒラ嶽、ムンヌ御嶽) (未訪問)
- 茂保之嶽 (シギマタヌ嶽、シージマタヌ嶽) (未訪問)
- 琉球大学医学部
- 高嶺徳明顕彰碑
- 献体者の碑、納骨堂
- 獣魂碑
西原町 棚原集落 (たなばる、タナバル)
西原町の他の地域と比較すると、昔から人口は村内で中間ぐらいで位置してる。人口増加率は、西原町平均を下回っている。
- 御嶽: 上之嶽 (神名: コバッカサノ御イベ、マニシカニービヌ嶽)、茂保之嶽 (シギマタヌ嶽 神名: コバツカサノ御イベ、シージマタヌ嶽、在千原)、森之平嶽 (モリノヒラ嶽 神名: コバツカサマネツカサノ御イベ、ムンヌ御嶽)
- 拝所: 棚原巫火神、棚原城之殿、棚原里主所火神 (殿小)
- 拝井: 白川ノ巫川 (神井 カミガー)、フクイダガー、カビジーヌカー、クシバルガー、前ヌカー、西ヌカー、トゥングゥーヌカー
- 記載ない拝所: ナカジンヌ嶽、下ヌ嶽、タカジビーヌ嶽
戦前まで棚原集落で行われていた村祭祀は下記の通り。
琉球王統時代には村の祭祀は棚原ノロにて執り行われていた。
公民館の前に棚原集落の史跡などの案内板が置かれており、それを参考にして集落巡りを始める。
棚原集落訪問ログ
棚原公民館
ナカジンヌ嶽 (チカジンヌ嶽、中ヌ嶽)
ナカジンヌカー (未訪問)
屋比久宗家神屋
棚原の石畳道
中道 (ナカミチ)
宮里家屋敷跡 (歴史公園)
アブガー (消滅?)
ミーガー
白河在戦跡壕跡
北から南下してきた米軍は宜野湾の我如古一帯に陣取っていた日本軍と激戦を行い1945年4月23‐24日には占領し、グスクのあった棚原高地の日本軍に迫っていた。4月25日には棚原高地は陥落し、米軍は翁長、幸地に侵攻し、日本軍が陣取っていたHorseshoe、Kochi Ridge (幸地グスク)、Howへの攻撃を開始している。この様に棚原は米軍侵攻のルートにあたっていたことから集落は大きな被害を被っている。この戦闘や島尻に避難した住民の45%が亡くなっている。
白河井 (シラカーガー)
集落内には、共同井戸、拝井泉が15カ所あり、西原町内でも井泉の多い集落だったが、宅地造成などで、そ の半数近くが形骸化されている。
神井 (カミガー)
樋川井 (ヒージャガー)
田井 (ターガー)
大殿内 (ウフドゥンチ) 神屋
下ヌ嶽 (シチャヌタキ)
宮平ヌ御井 (ナーデーラヌウカー)
名称不明の井戸
御嶽井 (ウタキガー 消滅?)
スムヌカー (下ヌ井 シチャヌカー)
村屋跡
サーターヤー跡、前ヌ井 (メーヌカー 消滅)
名称不明井戸
フクイダ
棚原野戦病院壕跡 (第62師団野戦病院 棚原分室)
棚原集落から外れた南東の丘の麓、行政区では翁長なのだが、そこには沖縄戦当時、棚原野戦病院壕が置かれていた正式には第62師団野戦病院 棚原分室という。この一帯に配置されていた独立歩兵第11大隊用に造られた。壕には当時、3つの入口があり、その先に人が立って歩けるほどの通路が続いていた。ベットがわりに板を敷き、200名程の負傷兵が収容されていた。西原に住む女性15人が補助看護師として配置されていたが、5月に日本軍の解散命令が下されている。現在では壕を支えていた梁がなくなり、落盤が起き危険なので立ち入り禁止となっている。中にはまだ戦争当時の遺品が残っている。また物品が見つかるという。壕の前の畑では今でも壕で亡くなった多くの人を埋めた遺骨が出てくるそうだ。
日本軍兵舎
棚原比嘉家の土帝君 (トゥティークー)
棚原ノロ殿内 (タナバルヌルドゥンチ)
上ヌ嶽 (イーヌタキ、マニシカニービ御嶽)
昔、西原邑棚原に、稲福婆 (いなふくばぁ) というノロがいた。 ある日、他の祝女 (ノロ) 達と一緒に金鼓 (ちんく: 命令伝達や宮殿、寺院などで通知伝達に用いた鉦と太鼓) を鳴らしながら、神歌 (おもろ) を唱え、上ヌ嶽の前で神遊びをしていると、突如、稲福婆がいなくなった。 一緒にいた他のノロや村人達が総出で、村内を探し回ったが、見つけることができず、稲福婆は、行方不明になってしまった。 その事件から3年経ったある日、我謝村に住んでいる鍛冶屋大主 (かじやうふしゅ) という人物が、海で釣りをしていると、漂流している人の形をしたものを見つけた。 よく見ると、漂流していたのは人間で、頭には髪の毛が全く無く、全身には貝がくっ付いていた。 その人間は、大主に「私は稲福婆です。神遊びをしている時に竜宮へ連れて行かれました。しかし、そこでの食べ物は貝しかありませんでした。」と話し、黄色い物を吐き出した。 大主は、すぐさま稲福婆を介抱し助けた。 その話を聞きつけた人々は、稲福婆を竜宮から来たので儀来婆 (ぎらいばあ) と呼んだ。竜宮は儀来河内 (ぎらいかない) と言われていたので、そう呼ばれるようになったそうだ。 村人たちや身内の者は、竜宮での話を聞きたいと、稲福婆のもとへやってきましたが、稲福婆は一切話すことはなかった。 やがて、稲福婆の噂は、首里まで広がり、ついに王様の耳にも伝わった。 王様は、竜宮での話をぜひ聞きたいと、稲福婆をお城に呼び寄せた。すると、今度は、お城にたくさんの人々が殺到してしまった。 野次馬達が騒いでいるのを見た稲福婆は、両脇に手を挟んだ瞬間、忽然とどこかへ消えてしまった。 身内の者や村人たちが、またもや消えてしまった稲福婆を探し回ると、今度は上ヌ嶽で見つけた。
殿小 (トゥングヮー、棚原里主所火神、地頭火ヌ神)
西ヌ井 (イリヌカー)
野国総管へのお通し (ウトゥーシ)、今帰仁城へのお通し (ウトゥー シ) (未訪問)
後原井 (クシバルガー) (未訪問)
遊び場 (アシビナー)
棚原ノロ殿内から棚原グスクの方向の上の方に集落でのイベントなどを行っていた遊び場 (アシビナー) 跡がある。今は使われていない様だ。と思っていたら、インターネットでは12年に1度、酉年に行われる棚原のムラ芝居の会場になるそうだ。酉年にしか使わないというのは気になる。何かの理由があるのだろうか? 調べて見てわかった。ノロ殿内に保管されている弥勒 (ミルク) 神が生まれたのが酉年だったからだそうだ。12年に一度行われる祭は「まーるあしび」と呼ばれ、この弥勒 (ミルク) 神に五穀豊穣を祈願するお祭り。先程のノロ殿内で祈願を済ませ、弥勒 (ミルク) 神の行列がこの遊び場 (アシビナー) まで行われ、ここで舞台を作り、琉球踊りや組踊、ミルク太鼓など数々の伝統芸能が催される。
棚原貝塚
古墓群
棚原グスク
棚原グスクは、およそ14世紀~15世紀に属するグスク跡で、棚原集落の北西にあり、標高150mの石灰岩丘陵上の尾根に沿って広がっている。『琉球国由来記』には「棚原城之殿」が記載されており、この殿がある平場が、このグスクの主郭と推測されている。平場の北から西および南側にかけては断崖で、北側下方には牧港川が流れ天蓋の要塞となっている。南側の緩斜面部には、棚原集落が展開している。グスクの大手は集落の後方に展開しており、中世の典型的なグスクを中心とした集落が形成されている。
貝塚を過ぎると、グスク跡の立て札が見えてきた。そこには沖縄戦で投下された砲弾の遺構が残されて保存されている。道の反対側には拝所か墓らしき小屋がある。この棚原グスクがある棚原高地にも沖縄戦当時、日本軍陣地が置かれていた。
棚原城ヌ殿
道を進むと突き当たりは広場になっている。ここがおそらく本丸だろう。殿 (トゥン) が見える。琉球国由来記にある棚原城之殿と考えられている。周りには平御香 (ヒラウコウ) を燃やした跡のある自然石を積んだ場所が2カ所あった。15世紀 (三山時代) から16世紀にかけて安慶名城を拠点に沖縄本島中部一帯を三代にわたり支配した安慶名大川按司 (一世、二世、三世?) の弟が、当地に配され棚原按司と称したといわれている。当初、琉球大学北口近くの千原にグスクを築こうとしたが、地形が築城に向かず、この棚原山に築城したと云われている。(別の説では千原のイシグスク [この後、訪問] を居城としたが、手狭なため棚原にグスクを築いたという。) 伝承では、初代棚原按司が幸地按司 (幸地グスクはこの近くにある) に滅ぼされた後、真栄里按司の子が跡目を継ぎ5~6代続いた後、 中央集権で首里に移住し、その後廃城になったとされている。
タカジビーヌ御嶽 (未訪問)
ミ-ガ-の東の山頂にタカジビーヌ御嶽と呼ばれる拝所があるそうだ。御嶽とは呼ばれているが シージマタヌ嶽とムンヌ御嶽への御通しの遥拝所だった。現在は看護師宿舎の駐車場となっている。
森之平嶽 (モリノヒラ嶽、ムンヌ御嶽) (未訪問)
ミ-ガ-の道を北に進むと下り坂になり、その道の西側の御嶽毛 (ウタキモー) という森の中には琉球国由来記にある森之平嶽 (モリノヒラタキ) があったという。現在ではムンヌ御嶽友呼ばれ、神名 コバツカサマネツカサノ御イベを祀っている。ここは山原 (ヤンバル) から来た人々がつくった部落の跡だともいわれている。その御嶽とのチュクサイ (一対) の井泉もあるそうだ。ここへは道らしきものがあるのだが、その先は樹々が生い茂っている。それをかき分けて中に入るが、御嶽や井戸らしきものは見当たらなかった。タカジビーヌ御嶽から遙拝されているとなっていたので、現在では実際にここに来て御願を行っていないので荒れ放題になっているのだろう。
茂保之嶽 (シギマタヌ嶽、シージマタヌ嶽) (今後訪問予定)
琉球大学医学部
棚原集落から東に坂を登ると、棚原と上原にまたがる琉球大学上原キャンパスがある。琉球大学は1977年 (昭和52年) から1984年 (昭和59年) にかけて首里から移転している。この上原キャンパスには1979年 (昭和54年) に医学部と琉球大学附属病院が置かれている。琉球大学医学部と琉球大学附属病院は2015年 (平成27年) に返還されたキャンプ瑞慶覧の西普天間住宅地区跡地に建設される国際医療拠点ゾーンへの移転が決まり、昨年から工事が始まり、2024年6月完成、25年初頭の移転完了の予定となっている。跡地の利用についてはまだ協議中でまだ決まっていないようだ。棚原住民の話では、琉球大学附属病院の一部機能は残るとも聞いていると言っていた。
高嶺徳明顕彰碑
琉球大学上原キャンパス入り口を入った所正面に高嶺徳明顕彰碑が置かれている。高嶺親方徳明は1653年 (順治10年) 生まれ、中国語の能力を評価されたことで久米村に入り、魏姓 (魏士哲) を賜っている。1688年 (康煕27年)、35歳の時に進貢船の小唐船脇通事 (進貢二号船在船通事) として福州へ赴任した際に口唇裂の治療を学び、1689年 (康煕28年) に帰国し、琉球国内の口唇裂の患者を全身麻酔を用いて治療した後、王孫 (後の尚益王) の口唇裂治療に成功している。華岡清洲が麻酔による乳がんの手術を成功させた1804年 (嘉慶9・文化元年) より100 年以上も前の出来事だった。
献体者の碑、納骨堂
獣魂碑
これで、二日間かけての棚原集落巡りは終了し、帰路に着き、丘陵を与那原に降りて帰宅する。
参考資料
- 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
- 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
- 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
- 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
- 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
- 西原町 歴史文化基本構想
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
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