Okinawa 沖縄 #2 Day 246 (19/03/23) 旧首里西原村 (2) Oona Area 首里大名町
旧首里西原村 首里大名町 (おおな、ウフナー)
- 真和地原 (マージバル) [首里大名1丁目]
- 国頭毛小 (クンジャンモーグワ)
- 平良真地 (テーラマージ)、平良馬追い (テーランマウィー)
- 御桟敷跡 (ウサンシチ)、西原尋常小学校平良分校跡
- 馬浴場跡 (ウンマアミシー)
- 大名公民館
- 白氏門中神屋
- 洗濯井戸跡 (シンタクガー)
- 冠リ井戸 (カブイガー)
- 真和地井戸 (マージガー)
- 毛氏美里殿内の墓
- 馬氏与那原殿内の墓
- 金武良仁 (キンリョウジン) 楽宗絃声碑、金武良仁・良章父子の胸像
- 馬氏金武家の墓
- 豊平良顕顕彰碑
- 上ヌ御嶽 (ウィーヌウタキ)
- 富川殿内 (トゥミガードゥンチ) の墓
- 馬場小 (ンマィーグヮ)
- 松山御殿 (マチヤマウドゥン) の墓
- 下ヌ御嶽 (シムヌウタキ)
- 宜湾親方 (ジワンウェカタ) 朝保の墓
- 撫で井戸 (ナディガー、平良樋川 テーラヒージャー)
- 泉井戸 (イジュンガー)
- 具志頭親方 (グシチャンウェカタ) 蔡温の墓
- 大名小学校
- 石屑 (イサグ)
- 大名村サーターヤー跡
- 東恩納盛男顕彰碑
- 大名原 (ウフナーバル) [首里大名二丁目]
- 南ヌ坂 (フェーヌヒラ)
- 大名原 (ウフナバル)
- 運天井戸 (ウンティンガー)
- 後原 (クシバル) [首里大名三丁目]
- 後原 (クシバル)
- 第三小学校跡 (若夏学院)
- イチンニー墓
- 花城親方紹興墓
- 稲干し (ユブシ)
旧首里西原村 首里大名町 (おおな、ウフナー)
この事で、閑散としていた三丁目は住宅密集地域と変わっている。2010年から老朽化した大名市営団地の建替・増築事業が始まり、その影響で人口は減少しているが、段階的に完成し、人が戻り人口増加が始まっている。事業は現在でも続いているが、工事中に沖縄戦での不発弾が見つかり、工事は少し遅れている。増築も予定されているので、今後は完成予定の2029年までは人口増加が続くと思われる。
2020年末では首里大名町は首里区の中では三番目に人口が多い地域となっているが、大名市営団地の工事が進むにつれ人口増加が予測され、近々首里鳥堀町を抜いて二番になるだろう。
首里大名訪問ログ
真和地原 (マージバル) [首里大名1丁目]
国頭毛小 (クンジャンモーグワ)
平良真地 (テーラマージ)、平良馬追い (テーランマウィー)
御桟敷跡 (ウサンシチ)、西原尋常小学校平良分校跡
馬浴場跡 (ウンマアミシー)
大名公民館
白氏門中神屋
洗濯井戸跡 (シンタクガー)
冠リ井戸 (カブイガー)
真和地井戸 (マージガー)
毛氏美里殿内の墓
馬氏与那原殿内の墓
金武良仁 (キンリョウジン) 楽宗絃声碑、金武良仁・良章父子の胸像
馬氏金武家の墓
豊平良顕顕彰碑
上ヌ御嶽 (ウィーヌウタキ)
富川殿内 (トゥミガードゥンチ) の墓
馬場小 (ンマィーグヮ)
松山御殿 (マチヤマウドゥン) の墓
下ヌ御嶽 (シムヌウタキ)
宜湾親方 (ジワンウェカタ) 朝保の墓
撫で井戸 (ナディガー、平良樋川 テーラヒージャー)
泉井戸 (イジュンガー)
具志頭親方 (グシチャンウェカタ) 蔡温の墓
丘陵地にある墓群の西の端辺りに琉球史の大政治家である蔡温の墓がある。戦前までの墓 (写真右下) は沖縄戦で破壊され、現在の墓は戦後に建造されたもので、中には銘書き付の厨子は小さい物を含めて全部で14個あり、最も古いのが蔡温と思戸金夫人の厨子になる。
具志頭親方蔡温は1728年 (尚敬16年) ~ 1752年 (尚穆1年) の25年の長きわたり三司官を勤め、数々の政治改革をおこなっている。1713年には第二尚氏13代尚敬王が13才で即位した際に王の教育に為、国師に推挙され、1719年 (尚敬7年) には冊封使随員の携行した貨物の評価 (ハンガー) 代銀2000貫を要求されたのだが、粘り強い交渉によって、その評価を500貫に抑え、その功績により、翌1720年 (尚敬8年) に三司官座敷に叙せられ、1728年 (尚敬16年) に三司官に任ぜられた。1734年(尚敬22年) に起こった平敷屋友寄事件で、親方部を含む上士15人の処刑している。
薩摩藩の支配で、琉球王国は経済的に困窮状態だったが、農業政策と林業政策を中心に政治改革を行なっている。特に林業政策は特筆することができ、蔡温松の名で呼ばれた琉球松とアダン (タコの木) と組み合せた防潮防風林や、宿道沿いの琉球松の植栽などは高い評価を受けている。
大名小学校
首里大名町の西の端には大名小学校がある。この場所は特に史跡ではないのだが、先に訪れた学校所跡 (西原尋常小学校平良分校跡) に関連している。西原尋常小学校平良分校は1902年 (明治35年) に、平良尋常小学校として西原尋常小学校から分離独立。 翌1903年 (明治36年) には、児童数の増加に伴い、平良村後原に校舎 (現在の若夏学院分校の場所でこの後に訪問) を新設し嶺吉尋常小学校と改称され移転している。昭和22年に現在の城北小学校敷地に学校が建設され、昭和29年に那覇教育区立城北小学校となった。那覇市への人口の流入増加によって、1977年 (昭和52年) にはこの場所に大名小学校が建設され、城北小学校より分離している。
石屑 (イサグ)
大名小学校の西側一帯は、隆起珊瑚礁の風化した赤土島尻マージに琉球石灰岩礫 (石屑 イサグ、イシクス) の混った、方音でいうイシクスーマージの畑地帯だった。 現在は特別養護大名老人ホームが設けられている。
大名村サーターヤー跡
大名小学校から平良馬追いへは坂道になっており、この坂道の途中道沿いには、戦前、大名村サーターヤーが置かれていた。
東恩納盛男顕彰碑
大名原 (ウフナーバル) [首里大名二丁目]
南ヌ坂 (フェーヌヒラ)
大名原 (ウフナバル)
運天井戸 (ウンティンガー)
後原 (クシバル) [首里大名三丁目]
後原 (クシバル)
第三小学校跡 (若夏学院)
イチンニー墓
花城親方紹興墓
稲干し (ユブシ)
今朝は朝寝坊で出発がお昼だった。結構見るところが多かったことや、途中世間話もあり、集落巡りが終わったのは午後6時を過ぎていた。この時間まで見て回れるのはありがたいのだが、自宅に戻ったのは8時近くで真っ暗となってしまった。
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
- 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
- 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
- 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
- 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)
- 大名界隈歴史さんぽガイドブック (H30 大名小学校区生涯学習館)
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