Okinawa 沖縄 #2 Day 235 (07/02/23) 旧首里北平等 (3) Akahira Area 首里赤平町

旧首里北平等 首里赤平町 (あかひら、アカフィラ)

赤田1丁目の史跡

  • ユーリガー
  • 上之角 (ウィーヌカドゥ)
  • 蔡温旧宅跡
  • 下の角 (シチャヌカドゥ)
  • 嘉真栄 (竈飯 カマイー)、火之神御嶽 (未訪問)
  • 上之橋口 (ウィーヌハシグチ)
  • 上儀保道 (ウィージーブミチ)
  • 新垣菓子店
  • 宜湾殿内跡、宜湾朝保生家跡
  • 赤平公民館

赤田2丁目の史跡

  • 義村御殿跡 (赤平村学校所跡)
  • 耳邪井戸 (ミンジャーガー)
  • 澹園 (たんえん) 跡
  • 仏ヌ坂 (フトゥキヌフィラ)
  • 赤土毛 (アカンチャーモー)、那覇漁業無線局跡
  • 虎頭山 (トゥラジヤマ)
  • 佐藤惣之助の詩碑
  • 読谷山御殿跡
  • 水揚 (ミジアギ) 跡
  • 石粉毛 (イシグーモー)


先月1月25日に東京から戻り、東京での村巡りの編集がようやく終わり、今日から沖縄の集落巡りを再開する。前回までの首里区の村巡りの続きで、今日は徒歩にて首里赤平町を訪れる。



旧首里北平等 首里赤平町 (あかひら、アカフィラ)

赤平は、昔はは虎頭山を背景に城御殿邸宅や殿内屋敷が軒を連ね、琉球王国時代の名宰相の蔡温もここに暮らしていた。屋敷町を代表するものとし て、王国最後の尚泰王の第二王子 尚寅の宜野湾御殿を筆頭に、羽地、具志川、読谷山、義村、本部などが広大な御殿屋敷を構えていた。 いずれも700~800坪の広さで、 石垣囲いの豪勢な邸宅だった。 また蔡温の具志頭殿内や、大宜味、玉城、安良城、伊舎堂などの殿内も軒を並べていた。明治、大正、昭和と時代の変遷とともに、屋敷も次第に消え、町の様相も変わっていったが、読谷山御殿、蔡温の具志頭殿内が、わずかに屋敷の名残りをとどめている。 戦後は町を二分する形で町の中央に赤平大通りができ、モノレールも通り、にぎやかな町並みになっている。赤平町を包み込むように虎頭山が北の守りを固めている。 地名のおこりは猛虎がうなり声をあげているような巨岩が、 山頂の林間にあったことから。首里八景の一つで、月見の名所でもあり、多くの歌に詠まれていた。戦前は、松林に覆われ緑の陰が濃く、虎頭山の東端には尚家の番小屋が あって、大正のころまでは山の管理にあたっていたという。沖縄戦でほとんど姿を消失し、戦後から近年まで漁業無線局が置かれてたが、現在は都市公園用地として更地になっている。

今日訪れた首里赤平町の史跡を首里古地図にプロットしてみると、下の様になるのだろう。資料にあった史跡と屋敷の名称が一致しないのだが、時代によって屋敷の所有者が変わっているのかもしれない。歩いた路地と古地図の道はほぼ一致していた。


民家の分布変遷を見ると明治期は現在の一丁目に集中している、戦後、県道82号線が拡張されこの両側、特に北側に民家が増えている。2000年以降、南側にも拡張している。

首里赤平町の人口は明治期1880年には1,252人だったが、本土復帰後、1,550人迄増えるが、現在では1,076人と明治期よりも少なくなっている。


首里赤平町訪問ログ


ゆいレールのモノレールが走る県道82号線 (環状2号線) を首里駅から儀保駅に向かって進む。今日は晴天で気温も23度と過ごしやすい。今日からは半袖シャツとショートパンツに衣替えをした。まずは県道82号線の西側の赤平1丁目にある史跡から見て行く。

ユーリーガー

県道82号線の左側の下にユーリーガーという井戸跡がある。このユーリーガーは王府の許しを得て掘った井戸だと伝えられている。 王府から許しを得ることを「ユーリ」といったことが、名前の由来になる。 井戸の東側の、小高い丘に祠が置かれ拝所 (写真下) となっている。


上之角 (ウィーヌカドゥ)

ユーリーガーから県道82号を儀保駅方向に少し進むと降り坂になっている細い路地がある。この路地が始まる上のところは上之角 (ウィーヌカドゥ) と呼ばれていた。文字通り上部にある角という意味だ。

この上之角があるところはかつては屋敷があった。その屋敷跡に降りて行くと奥の方に屋敷を囲っていた特殊な二段積み石垣が残っている。また、屋敷跡には井戸も残っている。


蔡温旧宅跡

上之角から道を西側に降りていくと琉球王国時代の政治家蔡温の住居跡がある。蔡温の祖先は1392年に琉球に渡ってきた久米三十六姓の一人で、1682年 (尚貞14年) に久米村生まれている。具志頭親方文若 (唐名 蔡温) は歌人でもあり、園と号していた。蔡温は1708年に、通事 (通訳) として中国へ渡り、そこで儒学などを学び、帰国後の1713年 (尚敬元年)、 13歳で即位した尚敬王の国師となり、首里の虎頭山のすぐ下にある澹園と呼ばれている場所に最初の屋敷を賜っている。1728年 (尚敬16年) に三司官に就任し、1753 (尚穆2年) に辞任するまで25年間三司官を務めている。 この間、1735年 (尚敬23年) の羽地大川の改修、地方の山林視察など自ら治水治山の実践を行い、山林眞秘などの実学書を残している。ほかにも儒教の教えをまとめた書物や王国の政治、経済についての提言書など多くの著書を残し、近世琉球王国を代表する政治家と称されている。 1761年 (尚穆10年) に80歳で亡くなっている。三司官に就任した翌年の1729年 (尚敬17年) に長男蔡翼に尚敬王の王女が嫁ぐことになり、この場所に2度目の邸宅を賜っている。沖縄戦当時、屋敷は日本軍の宿舎となり、石垣の石は飛行場建設のために供出させられた。戦後、道路拡張により、敷地の一部は削られたが石垣が残っている。蔡温が掘ったという井戸も残っていると資料に記載されていたが、資料の写真の場所には井戸は見当たらない。先程見た井戸がそうではないだろうか? 空き地になっている場所は屋敷跡としては狭すぎる。先程の屋敷跡も蔡温の屋敷の敷地の様に思える。


下の角 (シチャヌカドゥ)

蔡温旧宅跡の南西隅は、下の角 (シチャヌカ ドゥ) と呼ばれていた。

この一帯は王府時代、 御殿殿内の屋敷が軒を連ね、舗装された石道が続き、今でも汀志良次村へ行く石道や石垣が散見される。


嘉真栄 (竈飯 カマイー)、火之神御嶽 (未訪問)

更に道を降りていくと儀保川 (ジ―プガーラ) 近くに拝所があるのだが、探すも見つからなかった。次回もう一度探してみる。尚寧王の時代、冊封使をもてなすための料理を作った場所といわれている。 混効験集によると「かまい」は首里城の女官の食事を作った所とあり、昔は2人の阿母がここに住んでいて、日々、米飯を煮て城中の女官に食事を提供していたと記録されている。 現在は民家の中庭にブロックを積んで囲みんだ「火之神御嶽」と聖域になり、赤平町では、旧暦の9月9日 重陽の節) に御願を行なっている。


上之橋口 (ウィーヌハシグチ)

カマイーのすぐ側、儀保川 (ジープガーラ) に橋が架かっている。ここは赤平、儀保、当蔵の三つの町の境界が交わる地点になる。下流 (西側) にある下之橋 (シムヌハシ) に対して上之橋 (ウィーヌハシ) と呼ばれていた。この辺りは上之橋口 (ウィーヌハシグチ) と呼ばれて、王府時代は石敷道で整備され、浦添間切や中城間切へと延びる宿道だった。ここから北へ伸びる宿道は上儀保道と呼ばれていた。橋の側にあるラクダ公園には桜が満開になっている。沖縄はすでに春になっている。


上儀保道 (ウィージーブミチ)

上之橋 (ウィーヌハシ) から県道82号線への緩やかに登って行く道を上儀保道 (ウィージーブミチ) という。この道を境に西側がかつての上儀保村で西側が赤平村だった。


新垣菓子店

上儀保道を北に進むと新垣菓子店がある。琉球王国時代から首里王庁に納める琉球菓子を作っていた菓子店で、現在でも菓子づくりを続けている。新垣家は屋号を小橋川といって、昔から王府おかかえの菓子屋だった。

金楚糕 (チンスコー)、花ボール、薫餅 (クンペン)、 鶏卵糕 (チイルンコウ)、闘鶏餃 (タワチーチヨウ)、松風 (マチカジ) などの上級琉球菓子を王家に納入していた。


宜湾殿内跡、宜湾朝保生家跡

新垣菓子店のすぐ北には、上儀保道沿いに琉球王国時代には宜湾殿内の屋敷があった。宜湾殿内は第三代尚真王の長子の浦添王子朝満・尚維衡の支流第6代前川親方朝年が元祖になる。 宜野湾殿内第ニ代目の宜湾朝保はこの屋敷で生まれている。第19代国王尚泰の二子 尚寅が1875年 (尚泰28年) 宜野湾間切総地頭職になったことから、宜野湾の名を避けて宜湾と称した。彼は琉球王国の最後の三司官職をつとめ、上京して明治政政府から琉球国尚泰王を琉球藩王に封ずる命を受けて帰国するが、(写真右下の向かって前列左端が宜湾朝保) 明治政府は約束を反故にし、琉球併合を断行したことから、守旧派 (頑固党) から激しく非難されて、三司官職を辞任している。


赤平公民館

上儀保道を進むと県道82号に出る。この場所と先ほどの上の角との間に赤平公民館がある。ここにも満開の桜が見られた。



県道82号の東側が現在の儀保2丁目になる。次はこの2丁目二ある史跡を見ていく。



義村御殿跡 (赤平村学校所跡)

公民館から県道82号を渡った所には琉球王国時代には義村御殿だった。琉球王国末期から明治にかけて、政治の激動期に自らの信念を貫いた人として義村朝明が知られている。義村朝明は先代尚謙の跡目をついで東風平間切の総地頭職となり、疲弊した東風平間切を再建した功績により、王府から褒賞を受けている。 琉球併合時は、反日、守旧派の中心人物として頑強に日本への帰属を拒み続けた。 日清戦争時も、清国勝利を祈願するほど反日運動に徹した硬骨漢だった。漢学の素養がふかい教養人だった。戦後は土地所有が認められず土地売買は禁止されていたので、屋敷内に赤平村学校所 (養 平館) が置かれていた。この地には西之平等学校も併設されていた。戦前はパナマ帽の製作所もあった。戦後、しばらくは、赤平町のクラブ (公民館) が建てられていた。 現在は赤平市街地分譲住宅となっている。


耳邪井戸 (ミンジャーガー)

赤平の村ガーの耳邪井戸 (ミンジャーガー)がある。昔は螺旋状に下った窪地に井戸があり、螺旋状の降り口が外耳の形に似ていることから、方言のミミガーが変化してミンジャーガーになったという説と、井戸口の周囲が常に じくじくして、ミンジャイ (耳垂れ) 状態にあったからという2つの説がある。豊かな水で干ばつにも涸れることがなかったという。戦後、埋められたが、近年に掘りおこされたが井戸は涸れていた。掘り出された黒石 (マーイサー) が井戸の上に置かれて、井拝み (カーウガミ) の対象になっている。


澹園 (たんえん) 跡

先程訪れた蔡温邸宅跡は下賜された二番目のもので、最初の下賜邸宅が耳邪井戸のすぐ側、ここにあった。球陽には「尚敬王が即位した1713年に家宅を国師・蔡温に賜い、久米村から首里赤平村に移し、住まわせた」 とある。現在、澹園跡は住宅地となり、かつての面影は残っていない。

康熙辛卯 (1711年尚益2年) の夏、唐栄の蔡温 (神谷親雲上文若) 擢んでて王世子 (尚敬) の師を授けられ、兼ねて近習職を務む。壬辰 (1712年) 冬 12月14日、世子即位す。 温、日々禁城に進む。面して路己に遙遠にして、風雨寒暑には来往最も難し。この年 (尚敬1年 康 52年 1713年) の夏、特に家宅をひて此に移住せしむ。 首里西の平等の赤平邑なり

虎頭山のすぐ下にあるこの邸宅は澹園と呼ばれ、蔡温の歌人としての号にもなった。蔡温がこの地を詠った漢詩の澹園即興がある。

家在赤平松嶺麓
饞過松嶺即園林
門依閭竹堂依水
径結蒼苔樹結陰
向戸庭花交尽美
綾枝山鳥各成吟
幽楼無事惟如此
更難誰人謝古今
家は赤平松嶺の麓にあり
わずかに松嶺を過ぎれば即ち園林なり
門は閭竹に依り堂は水に依り
径には青苔結び樹は陰を結ぶ
戸庭に向かえば 花交じわりて美を尽くし
綾ある枝に 山鳥は各吟を成す
幽楼事無きこと惟だ此くの如く
更に難し 誰人か古今を謝せん


仏ヌ坂 (フトゥキヌフィラ)

耳邪井戸 (ミンジャーガー) から西へ少し進むと1、人家の脇の路地を右折すると虎頭山に登る急な坂道がある。登り口に仏の坂 (フトゥキヌフィラ) と案内板があった。道は石敷道だっだのだが、下半分は石畳は殆ど無くなっており、上部だけに残っていた。

坂 (フィラ) の中ほど右側に小さな洞穴のフトゥキ (仏) を祀る祠がある。火災を防いだり、無病息災を願って祈りをする御嶽で、赤平の村火神 (ムラヒカン) との伝承もある。この坂が仏の坂 (フトゥキヌフィラ) と呼ばれるようになった由縁になっている。


赤土毛 (アカンチャーモー)、那覇漁業無線局跡

仏の坂を登りつめて左手に、屋敷跡らしい場所があって、虎岩の御殿 (トゥラジヌウドウン) と呼ばれ、王府の小さな別墅と考えられている。仏の坂から虎岩の尾根越えて久場川への里道が通っていた。この一帯は土が赤土であったことから、赤土毛 (アカンチャーモー)と呼ばれていた。 昔、この一帯の赤土を村の中央に敷きつめて、道をつくったことから赤ビラ (赤い坂) の地名が生まれたと伝えられている。 虎岩の御殿と里道は沖縄戦後消滅して、那覇漁業無線局が置かれていました。この無線局も近年に他へ移転し公園用地として更地になっている。


虎頭山 (トゥラジヤマ)

赤土毛 (アカンチャーモー)、那覇漁業無線局跡の前は虎瀬公園になっている。虎頭山 (トゥラジヤマ) という丘陵で、赤平、久場川、汀良の町界が接する交点にある。かつては老松が林立し、首里八景の虎頭松濤と呼ばれた名勝の地だった。沖縄戦で松林は消滅し、名前の由来となった虎岩も破壊されてしまった。 三司官の具志頭親方蔡温は、しばしばここへ登って、 経世の方策を練ったと伝えられている。ここには先月1月7日に首里久場川町を巡った際に訪れている。以下はその時のレポート。

戦後、丘陵の東側及び周縁部は削られて宅地化されたが、1982年 (昭和57) に頂上一帯が整備され虎瀬公園となった。公園内には遊歩道が整備されている。

虎頭山の頂上には東屋が置かれ、そに脇にはコンクリート製の小さな祠が置かれていた。何を祀っているのかの情報は見つからなかったが、祠の中には大きな石が置かれている。ビジュル (霊石 ) だろう。その脇には歌碑と力石 (チチイシ) だろうか?丸い石が置かれていた。

ここから首里城 (写真右下) や那覇街並みが臨める。

この虎頭山には2019年8月22日に訪れている。その際にここから見える首里城の写真を撮っていた。首里城火災の数ヶ月前だったので、まだ赤瓦の正殿などが写っている。

虎頭山の中腹の遊歩道を歩いていると、別の東屋があり、その脇には井戸拝所があった。香炉も置かれている。

虎瀬山公園の入り口付近に出っ張った岩が金網フェンスで囲われている。近くで金網の中を覗くと、何箇所かがコンクリートで固められている。古墓の入り口か、洞窟か、旧日本軍の陣地壕だろうか? 沖縄戦では首里城の地下に掘られた32軍の司令部壕防衛のため虎頭山の久場川の斜面に野砲陣地が構築され米軍との間で激戦がくり広げられた。 歴史的にも地形的にも首里城を守る防護ラインを 形づくる役割を担ってきた場所だった。


佐藤惣之助の詩碑

虎瀬公園内の西側の様子が2019年8月に訪れた時とちょっと様子が変わっていた。その時にはあった佐藤惣之助詩歌碑が写真右上の様に無くなっている。この歌碑は元々は1959年 (昭和34) に、惣之助の出身地である川崎市から、那覇市との友好と文化的交流親善を深めるため送られ、当時首里城にあった琉球大学構内、かつてのクンダグスク上方にヒンプンを模して陶板碑が設置されていた。琉球諸嶋風物詩集から宵夏の1節の「しづかさよ空しさよこ の首里の都の宵のいろを誰に見せやう眺めさせやう」 が刻まれていた。首里城復元により、1992年に首里・那覇が眺められるこの虎瀬公園に移設されていたのだが、川崎市や那覇住民の要望で元の首里城公園に戻ったそうだ。佐藤惣之助は川崎市出身の詩人で1890年 (明治23) 生まれ。12才の頃から俳句を学び、詩作を志した。1922年 (大正11) に、沖縄及び台湾旅行を行い、『琉球諸島風物詩集』(1922年12月刊)を上梓した。詩集には、琉球諸島で接した風物を、琉歌の調子と琉球の言葉を取り入れて詠んだ詩85篇の他、紀行文が収められた。惣之助は新人教育にも力を入れ、津嘉山一穂 (つかやまいっすい)、伊波南哲 (いばなんてつ) など多くの沖縄出身の詩人を送り出した。1942年 (昭和17年) 死去、享年53歳。


読谷山御殿跡

虎頭山から、もう一度県道82号線に降りる。儀保駅近くに読谷山御殿跡があり、現在は民家になっている。読谷山御殿の始祖は第13代国王尚敬王の第2王子の読谷王子朝憲、尚和。 兄は第14代尚穆王で、兄の摂政として王を補佐し、10代将軍徳川家治の就任慶賀使として江戸へ随行していたこともある。この読谷山朝憲の子の読谷山朝英は系図座奉行、西之平等総与頭、西之平等学校所奉行を勤め、1803年に摂政に就任し、1804年に尚瀬王襲封の謝恩使として江戸に赴いている。 現在では枯山水庭園様式の庭がわずかに御殿の面影をとどめ、数個の庭石が残っているそうだ。


水揚 (ミジアギ) 跡

赤平と儀保の町境、戦前は上儀保 (ウィージープ) 道と呼んだ道があり、その道沿いにある盛光寺 (在 儀保) の向かい一帯の住宅地は、沖縄戦の終結から1950年初頭まで、石粉を敷いた広場になっていて、その奥の方に木製の巨大な円形の水槽が置かれていた。そのころ、石嶺団地の北側にアメリカ占領軍外人部隊の駐屯地があり、この巨大水槽は山川樋川下流から取水した用水を受け、更にポンプアップして、その基地へ送水する施設だった。この水揚げ広場は、米軍基地に行く労働者と米軍の送迎車で、早朝からごった返していた。 現在では閑静な住宅地になっている。


石粉毛 (イシグーモー)

水揚 (ミジアギ) 跡の後方は高台になっている。この丘陵は琉球石灰岩でできていて、岩を削り、 石粉 (イシグー) をつくったことから石粉毛 (イシグーモー) と呼ばれるようになった。石粉は石灰岩を細かく砕いたものでコーラルともいわれている。この石粉を撒き突き固めて道路や家の土間をつくっていた。石粉毛の丘には大きな洞穴があって、適当な湿度を年中保っていたことから、戦前は多くの女性たちがここでアダンの葉を原料としたパナマ帽を編んでいたといいます。現在では、この石粉毛跡は公園となっている。


今日は朝9時出発し、識名、首里金城町、首里当蔵町を経由して赤平町に向かった。朝早くの出発で時間は充分あるので、道の途中にある史跡も見学した。その史跡レポートはその地域の訪問記に含める。今日は23度と3月の気候だったそうだ。どうりで、日中は汗をかくほどだった。この機構が続けばいいのだが。今日は8時間程の行程だった赤平まではアップダウンが多く、獲得標高は500mだった。500mの山に登ったことになる。家に帰る念入りにマッサージをしたので、この日は足がつることはなかった。



参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)

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