練馬区 12 (23/01/23) 上板橋村 - 小竹町/旭丘
旧上板橋村 小竹町 (こたけちょう)
- 江古田浅間神社
- 武蔵ヶ原古戦場碑
- 稲荷小祠
- つげの木の庚申 (5番、6番、7番、8番、9番)
- 八雲神社
旭丘
- 穴守稲荷
- 子育稲荷 (消滅、移設?)
- 能満寺
- 庚申塔 (4番)
- 千川地蔵
- 庚申塔 (1番、3番)
- 庚申塔 (2番)
旧上板橋村
板橋は平安時代から交通の要所で、源頼朝は1180年 (治承4年) に下総から武蔵に入ったとき、板橋で陣をとったとされている。奥州平泉で育った義経も、兄頼朝が平氏討伐の挙兵をした際に川口から板橋を経て武蔵府中へ向かったと言われている。江戸時代はじめに板橋は、ー上板橋村と下板橋村に分かれた。上板橋村には小竹、江古田、向原、小山、毛呂 (もろ)、根ノ上 (ねのかみ) など11の小名があった。
1932年 (昭和7年) に東京市域拡張により板橋区が誕生した際には板橋区に属し、それぞれは小竹町、江古田町となっている。1944年 (昭和19年) に板橋区に練馬支所ができ、小竹町と江古田町(現旭丘)は練馬支所管内となった。1947年 (昭和22年) に、練馬区が板橋区から分離独立したとき、両町は練馬区に移管された。練馬区にならなかった旧上板橋村の小名の小山、毛呂 (茂呂)、根ノ上は合併し小茂根 (こもね 板橋区) となり、向原は小竹向原となっている。1960年 (昭和35年)、小竹町は旭丘に一部を移管し、地番整理を行い江古田町は旭丘一丁目と二丁目、小竹町は小竹町一丁目と二丁目となっている。
1922年 (大正11年) に武蔵野鉄道の江古田駅が開業した後は沿線沿いは戦前までには住宅街になっている。1960年代には住宅街は拡張し、ほぼ前期期までに広がっている。
小竹町の人口は入手できた人口データの1956年以前に既に増加している。高度成長期の前半は人口増加がみられるが、後半は人口増加が鈍化している。それ以降は徐々に人口が減少していたが、2010年以降は微増に転じている。現在は横ばい傾向にある。世帯あたり人数は.7人と低くなっている。
旭丘の人口は練馬区の中では、1956年と比較して減少している少ない地区のひとつになっている。高度成長期の1969年が人口のピークで約9,900人だったが現在は約7,300人と26%も減少となっている。
まちづくり情報誌「こもれび」- 江古田
小竹町・旭丘訪問ログ
小竹町 (こたけちょう)
練馬区史 歴史編に記載されている小竹町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: なし
- 神社: 江古田浅間神社、八雲神社
- 庚申塔: 5基 馬頭観音: なし
江古田浅間神社
昔、小竹町と江古田町の人々がこの神社の所有をめぐって争ったところ、夏にもかかわらず雪が降る天変地異が起きた。これに驚いた双方は争いをやめ、共有の氏神として祀ることにし争いを収めた。
武蔵ヶ原古戦場碑
稲荷小祠
つげの木の庚申 (5番、6番、7番、8番、9番)
- 右端には1698年 (元禄11年) の唐破風笠付角柱型の庚申塔 (9番) が置かれ、正面には「奉寄進庚供養」文字とその下には三猿が刻まれている。
- その隣には1680年 (延宝8年) 造立の舟形の石塔に地蔵菩薩立像が、その足元には三猿が浮き彫りされている。右脇には「奉造立庚申供養二世安樂所」と刻まれているので庚申塔 (5番) になる。練馬区では地蔵菩薩像の庚申塔は三体しか登録されておらず、その希少なタイプの一つになる。この地蔵菩薩像の庚申塔は江戸時代初期に多く作られている。
- 真ん中の庚申塔 (7番) は1772年 (明和9年) 造立で唐破風笠付角柱型になっており、正面には日月雲 邪鬼を踏みつけた合掌型六臂青面金剛立像が浮き彫りされている。青面金剛の横には二鶏、下には三猿も刻まれている。
- その隣、左から二つ目の庚申塔 (6番) は江戸時代初期の1673年 (寛文13年) の造立のもので、板碑型の三猿庚申塔となっている。ここなる庚申塔の中では最も古いものだ。
- 左端には1717年 (享保2年) の駒型庚申塔 (8番) で、塔正面には日月雲 邪鬼を踏みつけた合掌型六臂青面金剛立像、足の両脇に二鶏、下部には三猿が浮き彫りされている。
八雲神社
旧上板橋村 旭丘 (あさひがおか)
- 仏教寺院: 能満寺
- 神社: 穴守稲荷、子育稲荷 (消滅、移設?)
- 庚申塔: 4基 馬頭観音: なし
穴守稲荷
子育稲荷 (消滅、移設?)
能満寺
庚申塔 (4番)
千川地蔵
六地蔵
庚申塔 (1番、3番)
- 左側は1697年 (元禄10年) 造立の舟形光背の庚申塔 (3番) で地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。右脇に「奉新造立庚申供養二世安樂祈所」と刻まれているので、確かに庚申供養塔だ。左脇には造立年月日。その下に武州豊嶋郡上板橋村能滿寺。足元には本願とあり10名の名前が刻まれていた。
- 右側のものも庚申塔 (1番) で、1676年 (延宝4年) 造立され、舟形光背型の塔に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。右脇「奉新造庚申供養二世安樂処」とあるのでこれも庚申塔だ。
庚申塔 (2番)
これで今回の東京での史跡巡りは終了。明日は一日、娘との時間に使い。1月25日に沖縄に帰る。25日当日、フライトは国内線なのだが国際線ターミナルからの出発で、ここ二年間閉鎖状態だった国際線も人が増え始め、ようやく新型コロナも落ち着いてきているようだ。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)
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