Ride in Setouchi & San-in Day 123 (16/7/19) Takatsuki Castle Ruins 高槻城跡

Takatsuki Castle Ruins 高槻城跡
Uemiya Shrine 上宮天満宮
Imasirozuka tumulus 今城塚古墳
太田茶臼山古墳 (治定されている継体天皇陵)
Ibaragi Castle Ruins 茨城城跡

今日は、かつて摂津と呼ばれた地域の城を巡る。戦国時代は荒木村重がこの摂津を織田信長に与えられ統治していた。その家臣としては名の通っているもので、高山右近、中川清秀がいる。高山右近は高槻城、中川清秀は茨城城を居城としていた。この二つの城を中心にこの摂津を探索。

Takatsuki Castle Ruins 高槻城跡


この城の始まりはかなり古く10世紀の末、990年に近藤忠範が築城した説がある。戦国時代は芥川山城の三好長慶の市場で入江春継が守っていた。1568年、織田信長により芥川山城が落とされると、この高槻城も開城となり、和田惟政が城に入る。この和田惟政の家臣だったのが高山友照・右近父子であった。惟政が白井河原の戦いで池田氏の被官・荒木村重と中川清秀の軍に敗れて討死した後、その子・惟長が城主となったが、高山友照・右近殺害を企て、事前に察知していた高山父子に反対に殺害された。この時に、高山父子は当時摂津をの君主の池田氏に取って代わった荒木村重に協力を求めており、惟長の殺害後、荒木村重の配下となり、高槻城主となる。高山友照・右近父子はキリスト教の良き理解者で領内には20ヶ所の教会、当時の高槻領人口の60%以上、1万8千人もの人々がキリシタンとなり、宗教活動を活発にしていた。惟長を殺害時に首に致命傷を追いながら奇跡的に助かった事で、右近はますますキリスト教にのめり込んだと言われている。後に、牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高など多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。細川忠興・前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。
荒木村重が織田信長に反旗を翻した時には、高山家内では村重派と信長派に分かれ議論があったが、右近の結論は右近らしいもので、高槻城を信長に返上し、自ら城主の座を退いた。これは信長とも戦わず、村重を責めることもないものだった。荒木村重が敗れ尼崎城、花隈城、そして安芸に逃走した後は、高山右近は高槻城主に返り咲き、芥川郡も与えられた。
天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。(これは明石で訪問。)

しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行され、右近は領地と財産をすべて捨て信仰を守ることを選んだ。この時代に、領主がこのような選択をしたのは右近しか知らない。凄い信仰と信念だ。このような真似ができる人はいないだろう。その意味で非常に気になる戦国武将だ。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島 (小豆島土庄のカトリック教会に高槻城にある銅像と同じものが立っていた。ここと右近が潜んでいた村を訪ねた) や肥後国などに住むが、天正16年 (1588年) に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き暮らした。
左 高槻城  右 小豆島土庄カトリック教会
徳川家康によるキリシタン国外追放令で、加賀を退去し、長崎から家族と共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着。しかし、疲れや気候のため病気になり得て、マニラ到着からわずか40日後に息を引き取った。享年63歳。彼の生涯を振り返ると、10才でキリシタンとなってから、信仰と領主としての狭間で苦悩し、強い信仰を示し、人に感動を与えたものだったと思う。マニラですぐに亡くなったのは彼の使命が日本での迫害に屈せず、信仰に生きた所で終わったのだろう。ドラマのような人生だ。しかし、もう少し考えると、為政者としてはキリスト教が君主よりも信仰が優先する例として捉え、ますますキリスト教に警戒を増したと思う。素晴らしい生き方だと思う。ある意味で、あの時代を自分の意思で出来るだけ自分に素直に生きたのだろう。この高槻城に来たのは、城を見るというよりは、高山右近をみじかに感じたかった。時代は違うが、彼がいた同じ空間に来れたと思うと、彼の事をもっと知りたくなった。右近を題材にした歴史小説は吉川英治や加賀乙彦が書いているので是非読んでみたい。特に加賀乙彦はキリスト教信者なので、どのように描いているのかが気になる。歴史小説の巨匠の吉川英治と比較してみるのも面白いだろう。
CG 復元図
城の敷地内には教会堂があった。一般の信者も城に入り礼拝したのだろう。この教会堂のすぐそばには野見神社がある。当然高山右近が移封された後に建ったのだが、この境内には永井神社があり、江戸時代の高槻藩主の永井氏を祀っている。

Uemiya Shrine 上宮天満宮

この神社は羽柴秀吉が中国大返しの後、明智光秀を倒すべく本陣を広い参道置いた所。ここは高山右近の領内で、右近は秀吉に味方して、山崎合戦では先方を務めた。山崎合戦ではここから男山へ本陣を前進させている。

Imasirozuka tumulus 今城塚古墳

高槻から茨城に向かう途中に、立派な古墳跡がある。昨日見た古墳よりも大きい。6世紀前半では最大級の古墳である。第26代継体天皇の真の陵とする説が有力と言われている。古墳跡は復元され、綺麗に整備されている。戦国時代には織田信長が三好長慶を攻める際に、この古墳を城に改造したと推測されている。
この継体天皇は「記紀」によれば、15代応神天皇の5世孫であり越前国を治めていたと記され、「日本書紀」では11代垂仁天皇の女系の8世の子孫とされている。この記述は怪しく、研究者の間では、全くそれ以前の天皇家とは血縁関係は無かったのではと言われている。そうであれば、現在の天皇家が古代から続いているとは言えない。6世紀の事で真実など今知るすべは無いのだが、これ以降の全く天皇家とは関係のない人物が天皇にまつりあげられた可能性もあるだろう。当時は天皇が今のようには神格化されていなかった。たまたま当時天皇家が政権を取り、その後は真の為政者に利用されていた事は確かだ。これは実に面白い。天皇の権威を認めていない政治家や軍部が自分たちの都合で神格化し操り、皮肉なことにその神格化が独り歩きを始め、それに縛られることとなっている。論理的に見れば天皇もただの人ではあり、天皇制は単に作り上げられたもので、いつ放棄してもおかしくない。しかし、長い歴史の中で、日本文化の形成にはこの天皇制が大きく関わっており、無視できない存在になっている。一般庶民が望郷の念を抱くのと同じようなものかもしれない。語弊があるかもしれないが、現在の天皇制は天然記念物と同じように保護されている様にも感じる。天皇家に生まれた人達は幸せなのだろうか? 自由な行動は許されず、常に人の興味本位の視線に晒されている。兄は神道の神主をしているので、この記述は不敬と思うだろうが、自分はこう思っている。

太田茶臼山古墳 (治定されている継体天皇陵)

話を戻すが、この近くには太田茶臼山古墳があり宮内庁はここをを継体天皇陵と治定している。ここはさすが宮内庁の管轄で柵で囲まれて中には入れない。中は陵の拝所まで宮内庁は造っているらしい。旅の最中にこの手の過去の天皇の陵の拝所があったが、本当にその天皇の墓かどうかも疑わしい所に拝所なるものを造るのはどうかと思う。これも天皇家の権威つけの一環で政治的なものだ。こんな事を一生懸命やっている宮内庁役人がいるのだ。このようなものに税金が使われていると思うと少し馬鹿馬鹿しく思える。
この周囲には9つの陪冢があり二つ見つけた。陪塚(ばいちょう・ばいづか、陪冢) とは中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬したものや、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために築造されたと考えられている。この陪冢が多くあるので当時の有力者の墓である事は間違いない。

Ibaragi Castle Ruins 茨城城跡

高槻市の隣が茨木市でここは戦国時代に摂津の荒木村重の家臣の中川清秀が居城としていた所。中川清秀以前は楠正成が築城したと伝えられており、その後、茨木氏の居城であった。元亀2年 (1571)、茨木氏は荒木村重に攻められ落城。この戦いで戦功を挙げた、中川清秀に与えられた。賤ヶ岳合戦で、清秀が討死後、城主は何度か入れ替わるが、片桐且元が入城する。(且元は、賤ヶ岳の七本槍の一人。徳川方への内通を疑われ、大坂冬の陣の直前に家康へ寝返った。) 一国一城令によって茨木城は破却され、現在は、完全に市街地の中に飲み込まれて、遺構をまったくない。本丸があった場所に建っている茨木小学校に復元櫓門と茨木神社のに移設された搦手門が茨木城を偲ぶ唯一のものだった。
茨木小学校に着いた時点で雨が降り始めた。雨足はかなり強くなってきた。まだ宿のチェックインには時間があるので、近くで雨宿りをし、小降りになってから宿に向かう。今日と明日は大阪の中心で労働者の街の十三に泊まる。以前は街は肉体労働者で溢れ、怪しげな歓楽街であったが、今はかなり綺麗になっている。今回の瀬戸内/山陰の旅も後二日を残すのみとなった。

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