Ride in Setouchi & San-in Day 106 (29/6/19) Uozumi Castle Ruins 三木合戦 [7] / 魚住城跡

旧波門崎燈籠堂
Funage Castle Ruins 船上城跡
アカシゾウ発見地/明石原人腰骨発見地/八木遺跡公園
Uozumi Castle Ruins 魚住城跡
梅雨が本格的に始まったみたいだ。かなり蒸し暑い。歩いているだけで汗だくになる。先週と随分違う。湿度がぐっと高くなって来てる様だ。
明石で有名なのが魚の棚商店街。土曜日だが、魚屋が店を開け、客の呼び込みをしている。今日は観光客目当てだろう。地元の人達は平日の朝早く、買いに行く。朝は余分に漁れた魚を安く売りさばくのだ。ここには活気が溢れている。ほとんどの店が開いている。多くの人が行き来している。三木で聞いたのだが、魚の棚はもともと三木にあったのが明石に移っていったと言っていた。インターネットで調べみたがそれらしき記事は見当たらない。三木城が廃城になったのと明石城の築城が始まった時期はほぼ同じ。播磨の中心地が三木から明石に移って行くのを敏感に察知して移動していったのかもしれない。
子供の時に住んでいた近辺をポタリングしてみた。子供の頃、遊びに行った友達の家も今は、ほとんどなくなっている。表札も変わっている。時の流れを感じる。今日は、二週間ほど前に滞在した姫路に戻る。そこから北にある竹田城に数日以内に行ってみようと思う。まだ少し行くかどうか迷って入る。それは、梅雨に入り、雨が続いて、本当に行けるか不安があるからだ。大雨も予報されている。雨の中の登山は辛いし、足元が不安定になり危険でもある。姫路で天気予報を見ながら行くタイミングを見ようと思っている。姫路で少し待機の時間ができるかもしれない。
まずは姫路まで、その姫路へのルートには海岸線の遊歩道を途中まで使う。以前も走ったことがある。

旧波門崎燈籠堂

明石を出発する際、そこの港に古い燈籠があると聞いたので、立ち寄る。明石も潮待ちの港だったのだ。
この港は家族で小豆島からこの明石に引越しをしてきた時に最初に住んだ所。港の中に小さな島があり、明石の中心部とは橋で結ばれている。まだ子供だったのでわからなかったが、決して環境の良いところでは無かった。昔は遊郭街だったと思われる家屋がまだまだ残っていた。明石の端で橋を渡らなければ行けない。まだまだ、人手が入っていない場所もあり、そこには浮浪者が住んでいた。そんな所だった。今はウォーターフロントで随分と変わってしまった。案内板の写真は昭和20年代のものだが、子供の時に住んでいた時の様子とさほど変わらない。今は高層マンションが建っている。昔の面影が消えてしまった。少し寂しい気もする。

Funage Castle Ruins 船上城跡

遊歩道から少し離れ、城跡に行ってみた。ここも昔の面影がなくなってしまった所だ。史跡の説明板があるだけ。戦国時代の平城跡は残っている方が奇跡に近い。平地に建てられていたので、廃城後は何かに変わってしまっているケースがほとんど。跡地に建てられているもので最も多いのが神社や寺だ。
ここには船上城と呼ばれる前には林ノ城があった。永禄年間に三木城主別所長治の叔父別所吉親が築城し、三木城の支城として機能していた。別所氏は明石まで影響力があったことは今回三木合戦を調べて初めて知った。多分、別所氏を知っている人も少ないだろうが、知っている人の中でも、別所氏は三木だけを治めていたと思っている人がほとんどだろう。天正6年 (1578年) の三木合戦に織田信長方の稲田植元に占領され、天正8年 (1580年) に蜂須賀正勝に与えられ、生駒政勝に城主が移り天正13年 (1585年) に廃城となった。その後、「天正の国替え」で明石則実に代わって明石郡を与えられた高山右近が、高槻城から一旦枝吉城に入城し、船上城の築城と城下町の建設に取り掛かった。林ノ城をベースに改修したか、新しい城を築城したか不明だが、場所は同じ所であった。高山右近はキリシタン大名であった為、僧侶達は明石から追放されたと言われている。城内にあったと思われている宝蔵寺 (写真 近くにあるので寄ってみた) は教会として使用され、外国人宣教師が数人常駐していた。高山右近はその後、呂宋 (フィリピン) に追放され一生を終えるのだが、船上城に在城中には二千名が信者となった。この高山右近も興味ある人物だ。あの戦国時代に信仰を最優先し、戦国大名という特権を捨て、日本を追放になり異国で没した。追いかけてみたい人物の一人。
再び、遊歩道に戻り走る。とにかく蒸し暑い。少々バテ気味だ。この蒸し暑さはきつい。予定変更して、姫路への道の途中にインターネットカフェが土山にあるので、今日はそこに泊まることにする。
という事で、少し気楽になり、遊歩道沿いの涼しい所で休憩を何回となく取りながら、先に進む。しばらく進むと古代遺跡の場所があらわれる。

アカシゾウ発見地/明石原人腰骨発見地/八木遺跡公園

明石ではアカシゾウと明石原人については小学校で必ず学ぶ。明石の天文科学館に説明展示があり、授業の一環で良く訪れた。(今でも展示をしているのかは知らない) 
現場は単に発見地としての看板があるのみなので、観光客などは全くいない。暑くなってきているので海水浴客がちらほら見える程度。この海岸線はいくつも海水浴場がある。子供の頃、友人たちと泳ぎに来たのを思い出した。子供の頃は、ここに来るのもすごく遠出をしているように思っていた。子供と大人の距離感覚は随分と違う。

Uozumi Castle Ruins 魚住城跡

ここは播磨五泊の一つで、魚住泊の元に発展していた。この地は14世紀中頃から住吉社領魚住荘を代々領した魚住氏が治めていた。この城は魚住氏の城。三木合戦では別所側につき、天正6年 (1578)、三木城を支援する紀州の雑賀衆、毛利勢を受け入れ、かつ糧道を確保する為に海上輸送に便利な明石市江井ヶ島に築かれた。これが今来ている場所にあった。城は三木籠城軍を支える一大補給基地として機能し、城に面した港には毛利水軍の小舟が充満していたが、三木合戦後は毛利軍が引き揚げ、その存在理由を失い廃城。
ここも城跡は看板のみで遺構はない。毛利軍が物資の荷下ろしをしたのは今の江井ヶ島港がある所 (写真右下)。
蒸し暑く、珍しくバテてしまった。やはり、姫路までは行く気力がなく、魚住からそう遠くない土山のインターネットカフェをに向かう。インターネットカフェは時間でチャージするので、食事などは済ませてから行くようにしている。だいたい12時間コースで泊まるのだが、ここは9時間コースしかない。3時間ぐらい延長すれば良いと思い、受付でチェックイン。そこで、判明したのはここは24時間営業でなく、朝5時に閉店となる。つまり、朝5時に追い出されるという事。1200円で安いから我慢して利用する。泊まりの客は自分の他にはいない。確かに朝5時までに出ないといけないので泊まりは辛いだろう。部屋はビリヤード場とボーリング場の間にあり、話し声や、ビリヤードのボールをキューで弾く音、ボーリングが転がる音、ピンが飛び散る音で、深夜まで騒騒しい。と思っていたがいつの間にか寝てしまっていた。こんな劣悪な環境でも寝れるようになっている。慣れとは恐ろしいものだ。


2コメント

  • 1000 / 1000

  • Kazu Saeki

    2019.07.08 13:51

    問題多い市長との評判だが、市民は評価している様だ。再選されたし。時には強引に引っ張って行かねばいけないのだろう。
  • sumito dohi

    2019.07.08 01:05

    間が空いてしまいましたが、コメント復活(笑)です!いやぁ、欲をかいて色んなことに手を出すと駄目だということが良く分かった2か月でした(ちょっと痛い授業料でした。。。)さてさて、明石はさすがにすごいですね!現市長が子供を中心にした市政を力強く行っていて、「地域をよくするには子供が元気でないと駄目だ」という発想から、市役所としても痛い思いをしながら(給与カットなど)邁進してきた結果、佐伯さんの写真にもあった“元気な街”に変貌したようです。ちょうど一冊明石市の市長さんの本を読んだところだったので、タイムリーでした。このブログから1週間経ってますからもう体調は戻っているとは思いますが、キツイときぐらいは安宿でもちゃんとした布団で寝てくださいね。。。身体もちませんよ。