Ride in Setouchi & San-in Day 105 (28/6/19) Akashi Castle Ruins 三木合戦 [6] /明石城跡
和田村四合谷ノ付城
高男寺本丸
Mitsuda Castle Ruins 三津田城
Ogo Castle Ruins 淡河城跡
Shikitsu Castle Ruins 枝吉城跡
Akashi Castle Ruins 明石城跡
Gesho Temple 月照寺
Kokeji Temple 高家寺
三木での滞在は約1週間にもなった。はじめは2日間と思っていたが、三木合戦を深掘りして行くと、色々と行きたい所が増えて長くなってしまった。今までは表面上しか理解していなかったが、三木合戦は奥が深い。この合戦に絡んだ城や人が数多くそれが複雑に絡み合っている。400年も前の話なので残っている文献では全容を知る事が出来ないが、その空白を想像して埋めて行くのは楽しい。今日は、三木合戦の史跡の残りを廻り、明石市に向かう。
和田村四合谷ノ付城
ここは第1期付城として設置された。他の第1期付城群から飛び地の様に東に離れた所にある。有馬街道を抑える付城。地元の人には湯の山街道の名称の方が馴染みがある。有馬は湯治場として当時から人気があり、秀吉も何度も訪れている。三木合戦の最中、織田軍として三木城攻めに参加していた荒木村重が上月城攻めから撤退した後に毛利方に寝返った。村重は有馬のある摂津を治めており、毛利についた事で三木城への新たな兵站ルートが出来た。その意味ででこのルートからの兵站運搬を阻止するためにこの飛び地の様な付城が重要になった。
左の小山が付城跡。南北朝時代に北朝方の赤松氏が南朝の城を攻めるために築かれていた物を秀吉勢が利用した。近藤兵部、五十嵐九郎右衛門がここに配置された。
高男寺本丸
ここも和田村四合谷ノ付城からそれほど離れてなく約1キロ東にあり、同じ目的で設置された。岡村伊豫が配置されていた。
Mitsuda Castle Ruins 三津田城
先程書いた南北朝時代に北朝の赤松氏が攻めた南朝方の山城であった。和田村四合谷ノ付城からは4キロの所に位置する。秀吉はこの城を利用。城跡までは登らず位置確認のみ。写真の満願寺の後ろにある山が城跡。
Ogo Castle Ruins 淡河城跡
今度は別所方の城跡を訪れる。今回三木合戦を調べていて印象に残ったのが淡河定範。この城の城主で、天正7年 (1579年) 9月10日の大村合戦で力尽き自刃した武将だ。定範は別所家執事として、安治の弟吉親、重棟らとともに長治を後見役として支えた。三木合戦では淡河氏は三木城の後詰めをつとめ、国境の守備を担って淡河城の守りを固めた。秀吉軍の攻撃で三木城の支城が次々と落ちていったが、智略にすぐれた淡河定範の守る淡河城は最後まで残っていた。秀吉は定範の弟長範と相婿である黒田官兵衛に降伏を説かせたが、秀吉の誘いには一切応じなかった。この前年の10月に荒木村重の寝返りで、毛利水軍は海路より、兵庫港へ陸揚げ-花隈城(神戸市)-丹生山-淡河城-三木城 の運搬ルートを確保できた。秀吉軍にとり、先に述べた付城の効果は薄く、兵站運搬を阻止するに至っていなかった。そこで秀吉は補給ルートの丹生山砦攻め落とし、次に淡河城を攻める。
天正7年5月、淡河定範は、一族・郎党、足軽人夫らを集めて、車菱を敷き逆茂木や大綱を張り巡らせるなどの防備を固めた。また、近在より牝馬を集め、防戦の準備を整えたところで、「淡河の城では、連日のように城外に出て作業をしている」という噂を流した。
これを聞いた寄せ手はチャンス到来とばかりに、同年6月27日、羽柴小一郎秀長が五百騎を二手に分けて攻め寄せた。ところが、淡河城の車菱に足を痛めるものが続出、秀長は攻めあぐねた。奇略を練っていた淡河定範は、かねて集めていた牝馬を秀長勢のなかに放った。牝馬に反応した牡馬が狂奔したことで寄せ手は大混乱となり、そこへ淡河勢が攻め込んだ。秀長らは多くの戦死者を出し逃げ散った。秀長勢を粉砕したした淡河軍ではあったが、多勢に無勢で勝ち目無しと判断し、城に火を放って一族・郎党三百余人が三木城に移り籠城。そして約2ヶ月半後に大村の合戦となる。
Shikitsu Castle Ruins 枝吉城跡
戦国時代初期にこの明石の地域豪族の明石氏により築かれた。明石氏はこの地域を支配していたが播磨守護代の別所氏の傘下に入ることになる。秀吉の播磨侵攻 (三木合戦) の際は、西播磨のほとんどの豪族が別所側についたが、明石則実は羽柴秀吉軍に味方し、野口城を攻城、これらの功績により天正13年 (1585年) に豊岡城の城主となり明石を離れる。(黒田官兵衛の母が明石氏の出で、姻戚関係にあった。秀吉に付いたのは官兵衛の関係か?) 文禄4年 (1595年)、豊臣秀次の謀反に連座して切腹。明石則実が豊岡へ移ったあと城主はあのキリシタン大名の高山右近と言われている。(違うという説もある)
Akashi Castle Ruins 明石城跡
徳川の世になって、西の外様大名 (毛利) の抑えとして姫路城に次いでこの明石に注目していた。明石は、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国のルートがあり、古来より交通の要衝であった事が理由であった。元和3年 (1617年) 信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真は、明石川河口西岸にあった船上城 (翌日訪問) に入城。第2代将軍徳川秀忠より明石城の築城命令があり、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用された。本丸、二の丸、東の丸は明石城の主郭部分の石垣、土塁、堀などは徳川幕府が担当し、三の丸と町屋に関しては、小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められた。
これから城を見て行くが、この明石で小学、中学、高校と過ごし、城跡のある明石公園は隅々まで知っている。しかし、城跡として詳しく見たことは無かった。今回が初めてだ。多くの城跡を見てきた後では、比較ができ、初めて明石城の素晴らしいを知った。100名城に選ばれているが、この中でも上位を占めると思う。
[中堀]
[大手門]
三の丸からの本丸の坤櫓 (ひつじさる) と巽櫓 (たつみ) 大手門を入ると目の前に三の丸広場と本丸の石垣に建つ二つの櫓を目に入って来る。明石城の紹介にはいつも使われる情景
城への入り口は大手門以外に数ヶ所城門がある。東不明門と西不明門
[東不明門] 三の丸へ入る。
門を入ると三の丸広場から櫓が小さく見える。広大な敷地だ。
[三の丸]
三の丸跡には初代藩主の小笠原忠政の時代に宮本武蔵が設計した庭園が復元されている。元々は現在の陸上競技場がある所にあった。ここに住んでいた時はこの様な物は無く、明石城は殆ど整備されていなかった。公園内を探検し遊んだ。今は全て綺麗に整備されすぎて、新しい発見が無く少々つまらなくなった。本来の三の丸は武家屋敷であった。
[西不明門]
東不明門と反対側に門がある。ここからは居屋敷郭を囲んでいた内堀と外堀の間の通路に入る。現在は内堀もなくなり、駐車場入り口になっている。
[居屋敷郭]
内堀で囲まれた藩主の御殿だったが、現在は内堀も消滅して野球場になっている。球場では明石市の中学生の野球大会が行われていた。中学生時代は野球部だったので、この球場では何回かプレーした。懐かしい。
御殿表門の切手門は移設され、月照寺山門として現存している。この後、夕方に行ってみた。
[山里曲輪]
城の下の敷地にはもう一つ曲輪があった。現在は陸上競技場になっている。
いよいよ本丸に登る。本丸は東の丸、北の丸、二の丸、稲荷郭で守られている。これら本丸へは二の丸と稲荷郭からの二ヶ所からしか入れない様になっている。まずはこの本丸を守る4つの郭を廻る。面白い古地図が残っている。朱色で城内の通路となるルートが記載されている。
[稲荷郭]
居屋敷郭を囲む内堀沿の通路から坤櫓の下の曲輪への階段を登り、次に坤櫓の下の階段を登り門をくぐると稲荷郭で天守台のすぐ下に位置する。古地図によると写真右上には山の門があり、それを潜ると左に曲がりまた先の門 (左下) があったとなっている。
稲荷郭には二つの2層櫓があった。写真右下が正櫓跡と左下が奥に丈櫓跡がある。
本丸には稲荷郭を本丸石垣に沿って奥まで進んだ所に北の丸からのルートと合流。そこに石階段と門がある。そこを通れば本丸に入る。写真は北の丸から合流する万の門。
[北の丸の一部] 橋を渡り登って行くと北の丸の中心部になるが、今は遺構は無く、兵庫県立図書館、明石市立図書館、競輪場になっている。中学時代にはこの公園が明石市の駅伝大会のルートで北の丸を走った事が思い出になっている。中学一年生の時に第1走者で区間賞をもらった。今ではもうそんな長い距離は走れないのだが....
桜堀と
[東の丸]
三の丸から本丸へはもう一つ道がある。三の丸の東の端から階段でのぼる。写真はその階段を上から写したものと角櫓跡。
東の丸にあがったところ。東の丸から三の丸に降りる天の門とそこからすぐに現在の上ノ丸へ出る出の門がある。北の丸への真の門跡がある。
[二の丸]
東の丸への方の門跡と二の丸跡
本丸への入り口には二重の門があった。二の丸側は大の門で本丸側は番の門。さらにこの門には下の南の帯曲輪からも階段で上がって来られる。
[南の帯曲輪]
[本丸]
本丸の四隅に三層の櫓があった。現在は2つ残っているが、乾櫓と
[巽櫓]
[坤櫓]
[天守台]
天守閣は最後まで造られなかった。
少し時間があるので、明石城に関連した史跡を廻る。
Gesho Temple 月照寺
御殿表門の切手門が移設された月照寺。ここから淡路島への明石大橋が臨める。
月照寺の直ぐ下には天文科学館がある。日本標準時のが町では子午線がここに走っている。(三木市の同じ東経なのだが、明石のが方が断トツで有名) ここには何度となくきた。当時は珍しかったプラレタリウムを見にきたものだ。
Kokeji Temple 高家寺
元和年間(1615~1624)に、本堂は初代藩主小笠原忠政によって廃寺となっていた大寺の場所に再建された。市内の中では最古の仏堂。
この後、更に2ヶ所を廻ったのだが5時を過ぎていたので門が閉まっていて中には入れなかった。今日はこれでおしまいにして宿に向かう。明日はもう一度、姫路に向かう。途中に三木合戦所縁の場所を見る予定。
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