Ride in Setouchi & San-in Day 97 (20/6/19) Nakayama Village 中山千枚田

Nakayama Village 中山千枚田
肥土山農村歌舞伎舞台跡
マリア観音
佐々木信胤の廟
八人石切丁場
豆腐石切丁場
天狗石切丁場

Nakayama Village 中山千枚田

この中山地区のどこかに高山右近が一時期匿われていたと言われる。明石の船上城 城主から、キリシタン追放で城主の地位を捨てて、信仰に生きると決めてから、福島政則に助けられて、この小豆島そして、九州へと移り、最後はルソンのマニラに追放され、マニラ到着後40日で病気で亡くなった。信仰に生きた生涯であった。この中山は山と山との谷間にあり、どこからも見えないところにあり、潜伏には都合が良かったのかもしれない。自転車でここに来るのはどこからも坂道を登らなければならず大変だ。戦国、江戸時代はもっと大変だっただろう。何故こんな不便な所に人が住んでいたのか?隠れ住まねばならないならない理由があったのだろう。小豆島にはこのように何故こんな所に人がと言う所が何箇所もある。複雑な理由が背景にはある。
ここにも瀬戸内芸術祭の作品が展示されている。
住民の細やかな楽しみの農村歌舞伎の舞台と野外観覧席。この農村歌舞伎と舞台などは播磨地方でこの後の旅でしばしばお目にかかることになる。上方の文化圏に近いということで色々なちいきで発展したのだろうか?

肥土山農村歌舞伎舞台跡

中山から一山超えた所にも農村歌舞伎の舞台が残っている。神社の境内にある。中山のもそうだが、観客席が舞台を見やすいように快い傾斜になっている。農民が集まりここに座り、年に数回の娯楽を楽しんだ風景が見えるようだ。
瀬戸内芸術祭の作品がここにもあった。猪鹿垣の島という作品だそうだ。島には多くの野生動物が生息していて、猪と鹿は農作物を片っ端から食べてしまうので、このような石垣で侵入を防ごうとしていた。それをモチーフにしている。今は電気ワイヤーに取って代わられたが.... ただこのウルトラマンか猫なのかよく分からないものは何を意味しているのか?
山を降りた海岸線の道の駅で観光案内板があった。うまくまとめてあるので今後の参考にとこの記事内に入れておく。この道の駅から見える瀬戸内海は海の色が格別。
小豆島で一番ひらけている土庄にあるカトリック教会には高山右近像が建っている。何故か右近像の人物のバランスが変にも見えるのだが、旅の後半で高槻城を訪れた際に同じ像を見ることになった。高山右近が小豆島にいたとは初めて知った。多分島の人もあまり知らないと思う。
小豆島は島ではあるが比較的上方や四国に近いので何人か歴史上の人物や出来事に関連していることがある。そうだったのかという発見ができる。その様な場所を訪れてみた。

マリア観音

高山右近の影響もあるのだが、小豆島は天草島原の乱と深く関係している。これはこの冬に九州旅行をして、その時のテーマの隠れキリシタン所縁の地を巡った時に知った。まずは原城で壷井文書と呼ばれる原城から徳川軍に宛てた矢文で、一揆を起こした理由が書かれてある。これが小豆島で出てきたのだ。小豆島は上方から天草への船輸送を担当していた。その時に小豆島の船員が隠し持っていたもの。一揆鎮圧後、天草、島原の人口が激減した後に、小豆島から島原に多くの人が移住した。有名な島原素麺はこの時小豆島からの移民が伝えた。島原からも小豆島に逃げてきたキリシタンがいた。それが小豆島でも隠れキリシタンの痕跡がある理由だ。

佐々木信胤の廟

もう一つは佐々木信胤の廟。南北朝時代の武将だが、恋に生きた人。小豆島には多くの信胤ゆかりの地がある。一年前に信胤が守っていた星ケ城跡にも登った。小豆島では信胤の物語が言い伝えられている。先に訪れた中山農村歌舞伎の演目の一つにもなっている。その抜粋を載せておく。
1335年(建武2年)11月、足利尊氏が建武政権に対して反旗を翻した時、備前国(現在の岡山県)児島には佐々木信胤(のぶたね)がおりました。佐々木氏は近江源氏の流れで、先祖の佐々木盛綱が源平合戦における藤戸の先渡の功によって備前国児島を賜り、そこに住む子孫が地名から飽浦(あくら)と名乗っていました。尊氏が反旗を翻した時、信胤は尊氏側につき、讃岐の細川定禅と共に京都攻めにも加わっています。ところが、その後、信胤は尊氏の重臣である高師秋(こうのもろあき)と菊亭殿女房お妻(又は、お才)の局をめぐって対立し、師秋が都を離れた折りに彼女を奪って児島に連れ帰りました。お妻の局は当時京都で三人のひとりにかぞえられるほどの美女だったそうです。師秋の恨みを受けて武家方にとどまることができなくなった信胤は南朝に転じました。
 1340年(暦応3年)、信胤は、児島から兵を挙げ、お妻の局を連れて小豆島に渡り、星ヶ城山の山頂に城を築き全島を支配しました。小豆島へ拠ったのは、東は熊野水軍や淡路の沼島水軍と手をにぎり、西は忽那島に迎えられていた征西将軍懐良親王らと提携しながら、北朝方の海上交通を断つことにありました。信胤は全島を支配するとともに、強力な水軍を背景として大いに北朝方を苦しめました。 しかし、8年後の1347年(貞和3年)、淡路・阿波・讃岐・備前4か国の大軍を率いた北朝側の淡路守護細川師氏により攻撃を受け、まる1ヶ月間の合戦の末、その軍門に下りました。家臣の多くは討死したといわれており、島内にはいくつもの「城崩れ」の神社があるといいます。信胤は討死したともいわれ、許されて小豆島「肥土庄」の領家職を与えられたともいわれています。あるいは落ちのびて1362年(貞治元年)の白峰合戦に南朝方として加わったともいわれています。
小豆島は大阪城の石垣の採石で有名なのだが、今でも多くの石材店がある。今は景気は今ひとつで廃業に追い込まれた石材店もある。島には道路沿いに石の作品がてんてんと置かれている。随分と観光整備をしている。数年前まではこの様なものはあまりなかったのだが。今は観光に力を入れているのがよくわかる。ただうまくいっているのかどうかは分からない。観光には交通が不便な所だから...
これも新しい観光地だ。残石がゴロゴロしている採石場跡。ここから大阪城に石が運ばれたのだ。以前から残石を観光に使い展示場はあったが、実際の採石場を観光地として整備したのはここ数年のことと思う。数カ所この様な石切場があり今回はそのうち三ヶ所に行ってみた。採石場は海岸線の崖に集中してある。まあ、考えればもっともなことだが。この崖に沿っての道路からの瀬戸内海は綺麗だ。

八人石切丁場

採石された石にはそれぞれ刻印が打たれてある。

豆腐石切丁場

天狗石切丁場

石というよりは巨岩を砕いた様だ。とてつもなく大きな岩が採石の途中で放置されていた。
今日は坂道が多かったので、少し疲れた。小豆島では布団で寝れるので快適。明日はゆっくりと休暇にしよう。

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