Okinawa 沖縄 #2 Day 258 (17/01/24) 旧中城間切 中城村 (17) Tomari Hamlet 泊集落
旧中城間切 泊集落 (とまり、トゥマイ)
泊原 (トゥマイバル)
- 県道 (ケンドー)
- 堀川の前 (フッチャヌメー)、旧村屋跡
- 泊の大クワディーサー
- 産井戸 (ウブガー、下ヌ井戸 シチャヌカー)
- 御世城ヌ井戸 (ウヨーグスクヌカー)
- 御世城 (ウヨーグスク)
- 御世川 (ウヨーガーラ)
- ウフバルミチ
- 東ヌ井戸 (アガリヌカー)
- 根屋 (ニーヤ)、安里 (アサトゥ、泊安里 トウマイアサトゥ) の神屋
- 坊主墓 (ボーズバカ)
- 臼太鼓井戸 (ウスデークガー)、臼太鼓毛 (ウスデークモー)
- 大屋 (ウフヤ) 神屋
- 中城グスク遥拝所 (グスクウトゥーシ)
- 棚原 (タナバル) 門中の神屋
- タマウノーシガー
- 上ヌ井戸 (イーヌカー)
- ミルクガー
- 産井 (ウブガー)
- 上ヌ毛 (イーヌモー)
- 東門 (アガリジョー) 門中の神屋
- 踊り洞穴 (ウドゥイガマ)
- 大城井戸 (ウフグスクガー、西ヌ井戸 イリヌカー)
- ウドゥンガーラ/メーンターガーラ
- 西砂糖小屋 (サーターヤー)、中砂糖小屋 (サーターヤー)
- 最初の砂糖小屋 (サーターヤー)
- チバグスク、唐船石
- 丸博神社
- ウンジャガーラ
- ユーナジー [添石集落拝所]
前原 (メーバル)
- 東リ門御嶽 (アガリジョーウタキ)
- 泊公民館 (倶楽部、村屋)、下砂糖小屋 (シチャンサーターヤ) ユジュー砂糖屋 (サーターヤー)
- 村火ヌ神 (ムラヒヌカン)
- 竜宮 (リュウグウ)
- 慰霊碑
- 馬浴溜池 (ウマアミシグムイ)
- 潮垣道 (スガチミチ)
- 堀川の前小 (フッチャヌメーグヮ)
浜原 (ハマバル)
- 沖縄電力 吉の浦火力発電所
与武野原 (ユンヌバル)
- カンセンアタイ、米軍ゴミ捨て場
- 久場への道
- ウシヤチャーバル
- ヤットゥクルー
- ウマウクイモー
照原 (ティラバル)
- オミヤ (お宮)
- 照屋樋川 (ティラヒージャー) [添石集落拝所] (未訪問)
- ユシ按司の墓
古島原 (フルジマバル)
- 照屋御嶽 (ティラウタキ) [添石集落拝所 1月10日 訪問]、金満 (カネマン) 御墓 (ウハカ)、かねまん之碑
- 照屋御井戸 (ティラウカー) [添石集落拝所 1月10日 訪問]
- 与喜屋 (ヨキヤ) ノロの墓 [添石集落拝所 1月10日 訪問]
川尻原 (カージリバル)
- 伊寿留 (イジュルン) 按司の墓 [伊舎堂集落拝所 1月10日 訪問]
- 上伊舎堂ヌ殿 (イィシャドウヌトゥン) [伊舎堂集落拝所 1月10日 訪問]
- 伊舎堂ヌ井戸 (イシャドウヌカー) [伊舎堂集落拝所 1月10日 訪問]
旧中城間切 泊集落 (とまり、トゥマイ)
中城湾海岸に港があったことから、このように呼ばれていた。昭和初期頃までは糸満の漁師の舟が海岸近くに停泊していたが、現在では護岸が整備され、港らしいものは見られない。
泊集落は泊原の南側と与武野原の国道沿いに集中している。明治時代までは県道 (ケンドー) の北側にあった。沖縄戦では他の集落と同様に大きな被害を受けている。戦後、元々、住んでいた集落の場所は米軍に接収され、収容所から村への帰還が許可された際には、元の集落の西側の土地に茅葺屋根の家を立て復興が始まった。その後、元の集落の土地は開放されたが、そこに戻る住民は少なく、復興が始まった場所と久場との境辺り国道329号線沿いに民家が拡張している。
時期ごとの民家の分布を地図で重ね合わせるとその変遷がよくわかる。結局、元の集落には戻らず、新たな村づくりを行っている。現在の泊の集落の中心は戦後の復興期に住み始めた地域になっている。
元々は人口の少ない地域だったが、大正期には人口は増えて、中城村では中堅の字にはなったが、それ以降は人口は増加せず、現在では4番目に人口が少ない地域になっている。
琉球国由来記等に記載されている拝所
- 御嶽: なし
- 殿: 中城城内之殿 (中城グスク内)
祭祀行事は与喜屋ノロによって執り行われていた。
泊で現在の行われている祭祀行事は少なくなり、簡素化となって村挙げての祭祀はほとんどない。昔はノロガ行っていた祭祀行事を自治会が行っている。
泊集落訪問ログ
泊は泊原 (トゥマイバル)、前原 (メーバル)、浜原 (ハマバル)、伊那具原 (イナグバル)、与武野原 (ユンヌバル)、宇富原 (ウフバル)、照原 (ティラバル)、古島原 (フルジマバル)、川尻原 (カージリバル) の九つの小字から成り立っている。 泊集落は元々は泊原の南側にあり、現在ではそれに加え、与武野原の国道沿いに集中している、浜原の海岸側一帯は工場地帯になっている。 伊那具原は戦後海岸の一部が埋め立てられ、発電所が立地している。 中城グスクは川尻原にある。かつての泊の集落は中城グスクの南東側下方にあったと伝えられている。いつ頃、現在地に移転してきたのか定かではない。 今では畑とギンネムの生い茂る藪になっており面影を留めていない が、遺物の散布が確認されている。
泊原 (トゥマイバル)
琉球王国時代から戦前までは泊の集落は泊原の南側に集中していた。まずは、この泊原 (トゥマイバル) 内にある史跡や拝所を見ていく。
県道 (ケンドー)
先日訪れた小字 伊舎堂から県道 (ケンドー) を進むと泊交差点に出る。ここからは旧県道は国道329号線に合流している。県道の北側が小字 泊原で、この県道が南側の小字 前原 (メーバル) との境界線になっている。県道は潮垣道 (スガチミチ) に並行してあった道で琉球王国時代には郡道として存在しているが、添石で二本に分岐し、中城グスクを経て北中城村の大城、荻堂へ、もう一本が泊経由で大城を抜け荻堂で先の道と合流していた。郡道は1909年 (明治42年) に改修され県道 (ケンドー) となっている。1914年 (大正3年) に馬車軌道が与那覇-小那覇間で開通し、1916年 (大正5年) には馬車軌道は泡瀬まで伸びている。戦後は米軍が軍道 (現在の国道329号) を建設し、その数区間はこの県道と重なっている。
堀川の前 (フッチャヌメー)、旧村屋跡
国道329号線 の泊交差点の場所は広場になっており、堀川の前 (フッチャヌメー) と呼ばれていた。公民館 (倶楽部、村屋) ができる以前はムラの集会場所として使われていた。大正時代に伊舍堂の古民家を購入し、その材料をもとにしてこの場所に村屋を建設している。
泊の大クワディーサー
産井戸 (ウブガー、下ヌ井戸 シチャヌカー)
堀川の前 (フッチャヌメー) の広場の隅に産井戸 (ウブガー) があり、下ヌ井戸 (シチャヌカー) とも呼ばれている。フッチャとは「掘った」という意味で、ここは井戸を掘った場所の前という事でフッチャヌメーと呼ばれている。大正期か昭和初期頃、この井戸を掘る前には、この近くの現在の国道329号の所で産井を掘ったが水が出ず、この場所に井戸を堀り、産井としたそうだ。水道が普及するまでは、正月の若水 (ワカミジ) や産水 (ウブミジ) など生活用水として広く利用されていた。 泊では井戸のある家庭は少なく、明治中期頃まで天水や川の水に頼っており、共同井戸は人々の貴重な水源だった。
御世城ヌ井戸 (ウヨーグスクヌカー)
堀川の前 (フッチャヌメー) から村の道を東に行くと、大岩の根元には自然石に囲まれた直径50cmほどの井戸跡があり、御世城ヌ井戸 (ウヨーグスクヌカー) と呼ばれている。水はなく戦後、形式保存されたものになる。
御世城 (ウヨーグスク)
御世城ヌ井戸の北には幾つもの大岩が横たわっている。この井戸の名の由来となった御世城 (ウヨーグスク) がある。
御世川 (ウヨーガーラ)
ウフバルミチ
御世城 (ウヨーグスク) の前の道はウフバルミチと呼ばれている。県道 (ケンドー) から分岐し、中城グスク内にあった中城村役場へと通じる道だった。集落内にあるウフバルミチは、もともとは、ここより西側を通っていたが、風水師の判定により、泊ムラの鼻筋にあたるためフンシー (風水) が悪いということになり、道を東側にずらしたのがこの道筋になる。
東ヌ井戸 (アガリヌカー)
御世城 (ウヨーグスク) のウフバルミチを挟んだ場所、大クワディーサーの後方には東ヌ井戸 (アガリヌカー) がある。石灰岩の大岩の根元に、石積みで丸く囲われた井戸で、現在も水が湧き出ている。
根屋 (ニーヤ)、安里 (アサトゥ、泊安里 トウマイアサトゥ) の神屋
東ヌ井戸 (アガリヌカー) の北西、堀川の前 (フッチャヌメー) から坂道を登った所には泊邑の創始家とされる根屋の安里 (アサトゥ、泊安里 トウマイアサトゥ) の屋敷跡になる。母屋があり、敷地内にはウヮフール (豚便所) 跡や井戸跡も残っている (写真下)。資料写真には母屋東側にコンクリート製の神屋が写っているのだが、なくなっていた。安里は泊邑の政治と祭祀のリーダーで、ムラの根人 (ニーンチュ) と根神 (ニーガン) は代々この家系が受け継いでいた。 舜天王統三代義本王 (在位 1249~59年) の系統と伝えられている。 戦前の神屋ではムラの総会や学事奨励会や運動会の選手激励会も行われていたそうだ。
坊主墓 (ボーズバカ)
根屋 (ニーヤ) の母屋の南側に石灰岩の大岩があり、その上に祠が置かれた小墓 (写真下) がある。 そこはかつて岩の上に住んでいた坊主御主 (ボージウシュウ) の墓と言われている。岩の根元に香炉が置かれ、そこから祈願を行っている。
臼太鼓井戸 (ウスデークガー)、臼太鼓毛 (ウスデークモー)
大屋 (ウフヤ) 神屋
根屋 (ニーヤ) の西側には護佐丸が城主となる前に中城グスクの城主だった先中城按司の子孫と伝わり、泊の按司元 (アジムトゥ) とも呼ばれる大屋 (ウフヤ) の屋敷があり、敷地内にコンクリー ト製の神屋があり、火の神、昔中城按司や先中城按司の元祖 (ガンス)、 床の間 (アギトゥク)、 ムラクサイ、 クニクサイ、 ユークサ イとされる香炉が並んでいる。 先中城按司初代は、当初は台城 (デーグスク) に居住していた。この時代の按司を昔中城按司と呼ぶ。14世紀中ごろに中城グスクの一部を築き始め、その後、一族が数世代かけて南の郭、西の郭、一の郭、二の郭を築城し、居城していたと伝えられている。中城グスク時代の按司を先中城按司と呼んでいる。この先中城按司四代目の時に中山王から立ち退きを命じられ、糸満の真栄里 (メーザトゥ) に移り、そこで真栄里グスク (先中城グスク) を築いたと伝えられている。その後、子孫にあたる泊大屋子が泊邑に戻って住むようになった。それが現在の泊大屋だという。 泊大屋系統の門中はムラ行事には泊大屋を中心に一緒に参加していた。糸満真栄里参拝に行くときも、これらの門中が揃って御馳走や酒を担ぎ、三味線を引きながら歩いて出向いたという。その際、一行が当間マーチュー (現当間公民館) の辺りまで来ると、当間ムラの人たちが「ナナマジラーガチューンドー」 と言いながら通せんぼをして、 何か芸をしないと通さなかったというエピソードも伝えられている。泊大屋を中心にした門中は、島尻、大里、真栄里などいくつかの地を経て泊邑に落ち着いたということから、 「ナナマジラー」と呼ばれるようになったという。
中城グスク遥拝所 (グスクウトゥーシ)
泊大屋の神屋を左側には祠が二つあり、右側は台 (デー) グスクと中城グスクへの遥拝所と言われ、海石で造られた祠のなかに、3つの自然石と石灰岩の香炉が置かれている。左側には骨甕があり、戦後泊大屋の屋敷の裏山から出てきた人骨が納められているという。
棚原 (タナバル) 門中の神屋
タマウノーシガー (ウフグイガー)
泊大屋の後方にタマウノーシガーと呼ばれる井戸がある。現地の表示ではウフグイガーと書かれている。祭祀が終るとここから水を汲んで祭祀で使用した道具などを洗ったという。 普段の生活用水としては使用されず、祭祀の時だけに利用されたと推察されている。ムラの祭祀は、最後は必ず泊大屋で終わり、ノロがタマ (勾玉) をウノー シ (納める) というという意味でこの名称がついたと言われる。井戸にはまだ水が湧いている様だ。
上ヌ井戸 (イーヌカー)
タマウノーシガーから林の中に山道があり、そこを登って行くともう一つ井戸がある。集落の後方 (北東側) 棚原 (タナバル) 門中の神屋の北側にあたり、上ヌ井戸 (イーヌカー) と呼ばれている。岩盤の根元が掘り込まれ、石積みで囲まれている。現在も水を湛えている。戦後しばらくは洗濯など生活用水の一部として利用されたそうだ。
ミルクガー
上ヌ井戸 (イーヌカー) から西へ伊舎堂の福泉寺への野道を登って行くと、道沿いに岩があり、その根本に直径85cmほどの井戸跡がある。香炉が二つ置かれている。ミルクガーと呼ばれているが、その名の由来については書かれていない。ミルクとは弥勒の意味だろうか?水は枯れている。資料ではこの井戸は泊村の祭祀の対象にはなっていないとなっていたが、現地の表示柱には泊区拝所となっている。
産井 (ウブガー)
上ヌ毛 (イーヌモー) 近く、現在の国道329号線上には、かつて、産井 (ウブガー) があったという。大正期か昭和初期頃、泊の地相を風水師に判定させた際、風水 (フンシー) を改善するには産井 (ウブガー) を掘る必要があるといわれ、ムラで協議した結果、この場所の近く (現在の国道329号線上) を掘った。残念ながら、水は出なかった。 それに代わって掘られたのが大クワディーサー近くにある下ヌ井戸 (シチャヌカー) だという。水の出なかったこの産井 (ウブガー) は、井戸を埋めてはいけないという習わしにより、そのまま残されることになった。その後の国道建設にともない拝所を国道の歩道沿いに移動している。 現在でもハチウビーなどムラ行事の際には拝まれている。
上ヌ毛 (イーヌモー)
東門 (アガリジョー) 門中の神屋
踊り洞穴 (ウドゥイガマ)
東門 (アガリジョー) 門中の神屋から北に道を登っていくと踊り洞穴 (ウドゥイガマ) と呼ばれる洞穴がある。柵で囲われて近づく事はできないのだが、除くと幾つかの入り口らしきものが見える。戦前には、このガマの近くに岩があり、ムラアシビが始まる三日前から歌や踊り、三線の練習を行っていた。その場所の近くにあるガマということで、この名称がつけられたという。 沖縄戦が始まった当初は泊の住民は日本軍と南に移動した組と村に残った組があった。村に残った住民は初めは各々の場所に避難していたが、次第に、このガマや周辺のガマに移ってきた。100人程の住民が避難していた。ガマ内部に川があり、外に出ずとも飲み水を得ることができたそうだ。このガマの避難民の一人は砲弾の破片で犠牲になっている。その後、ガマは米軍に見つかり取り囲まれたが、住民の中にハワイ移民を経験した女性がいて、通訳として米軍との交渉にあたり、住民に個別に訪問して投降を説得した結果、住民は桃原 (現・沖縄市) の捕虜収容所へ送られ、多くの命が救われている。 おじいもこのガマに避難していたそうで、今でもこの女性に感謝している。この人がいなければ、多くの人が死んでいただろうと言っていた。おじいの長兄は軍人として、南部に移動し、日本軍の最後の本部だった摩文仁で戦死したと語ってくれた。踊り洞穴 (ウドゥイガマ) は現在では崩れてしまった箇所もあり、昔の面影をとどめていないそうだ。
大城井戸 (ウフグスクガー、西ヌ井戸 イリヌカー)
ウドゥンガーラ/メーンターガーラ
西砂糖小屋 (サーターヤー)、中砂糖小屋 (サーターヤー)
産井 (ウブガー) の西、国道329号線沿い南側は西砂糖小屋 (サーターヤー、写真上)と中砂糖小屋 (サーターヤー、写真下) があった場所になる。泊には四つのサーターヤーがあり、そのうち西サーターヤー、中サーターヤー、ユジェーサーターヤーの三つがこの国道付近に並んでいたが、昭和17年頃にユジェーサーターヤーは現在の公民館付近の下サーターヤー付近に移動している。
最初の砂糖小屋 (サーターヤー)
チバグスク、唐船石
丸博神社
ウンジャガーラ
ユーナジー [添石集落拝所]
ミルクガーの道を更に西に進み、伊舎堂との境付近はユーナジーと呼ばれる場所で山林となっている。この中にユーナジウガンと呼ばれる拝所があるそうだ。この場所付近にきた際に、おじいと出会い、このユーナジーの拝所について聞いてみると、知らないという。このおじいは先に訪れた棚原門中の人で、四男で分家している。この拝所は添石集落の拝所なので、泊のおじいが知らないのももっともな事だ。ユナジウガンは、シーシガンワーの近くにあるギイスノテラ (シーシノティラ) の霊石を移動し、ここに安置したと伝えられている。また、ユナジウガンの下方には、霊石を祀ったとされるマス島袋に関係のある家のヒヌカンも祀られ、屋敷跡が残っていたことから、最近までその子孫が拝んでいたという。マス島袋が、シーシーガンワー付近から移動しユナジバルへ移り住んだと思われ、その際に霊石も新たな屋敷近くに移したと考えられている。周辺には、ユナジガーと呼ばれる井戸も残っていることから、この小字古島原一帯に添石の集落があったと推察できる。現在は雑木が生い茂っており、そこへ行くことが困難なため、周辺の畑からユナジウガンに向かって遥拝している。
前原 (メーバル)
東リ門御嶽 (アガリジョーウタキ)
泊公民館 (倶楽部、村屋)、下砂糖小屋 (シチャンサーターヤ) ユジュー砂糖屋 (サーターヤー)
村火ヌ神 (ムラヒヌカン)
公民館の敷地内の裏手に村火ヌ神 (ムラヒヌカン) が置かれ、各種祭祀の際に拝まれている。海石で造られた祠に自然石が3つと、香炉が置かれ ている。自治会の拝みはここから始めることになっている。
竜宮 (リュウグウ)
慰霊碑
馬浴溜池 (ウマアミシグムイ)
潮垣道 (スガチミチ)
堀川の前小 (フッチャヌメーグヮ)
公民館のすぐ西側、県道 (ケンドー) 沿いに堀川の前小 (フッチャヌメーグヮ) と呼ばれる場所がある。ここでは西組が綱引きの網を編んでいただという。泊では、昭和初期頃までワラバーツナ (子供の綱引き行事) が開催され、フッチャヌメー (東) とフッチャヌメー小 (西) に分かれて網作りが行われていた。当時はここにも大きなクワディーサーがあり、ウマチーの際はムラ人が集まり、ウンサク (神酒) を飲んだ。また祭祀が終わるとノロと根人 (ニーンチュ) を見送った場所だった。
浜原 (ハマバル)
沖縄電力 吉の浦火力発電所
与武野原 (ユンヌバル)
カンセンアタイ、米軍ゴミ捨て場
久場への道
ヤットゥクルーバル
馬送り毛 (ウマウクイモー)
照原 (ティラバル)
小字 泊原の北は小字の照原 (ティラバル) の丘陵の傾斜地になっている。戦前までは少ないながら民家があったが、現在では民家は見られない。ミルクガ-からユーナジー付近への道の北側には多くの墓が造られている。照屋原の北、中城グスクの南側斜面にはかつては照屋村の村拝所が多くみられる。照屋村が添石村と合併し現在の添石集落に移住した後も、添石集落で拝まれている。
オミヤ (お宮)
照屋樋川 (ティラヒージャー) [添石集落拝所] (未訪問)
時間がなく訪問できなかったのだが、中城グスクの城郭北側、通称、馬場の東側下方に照屋樋川 (ティラヒージャー) と呼ばれる湧水がある。 戦後、貯水タンクを設置し利用していた。現在は、過去の台風で周辺の岩が崩れ落ち、塞がれてしまい消失している。 この湧水は水が豊富で、かつてこの一帯には照屋村という集落 があったのではないかといわれ、その村の人々がこの照屋樋川 (ティラヒージャー) を利用していたと考えられている。添石では、ハチウビー (新暦1月2日) の際に拝んでいる。
ユシ按司の墓
中城グスクの東方にユシ按司の墓がある。先中城按司系統の按司墓と伝えられているが、 何代目の按司で、いつ頃造られた墓なのか詳細は不明。
古島原 (フルジマバル)
古島原内には添石集落の古島のひとつに当たる照屋村が17世紀半ば迄存在しており、中城グスクの南側崖下の斜面に照屋村の拝所が残っている。森の中には何本か野道があるのだが、自動車道路からの入り口は見当たらず、樹々をかき分けて強引に中に入っていった。あまり人が入らないのだろう、野道は草が生い茂っている。
照屋御嶽 (ティラウタキ) [添石集落拝所]、金満 (カネマン) 御墓 (ウハカ)、かねまん之碑
中城グスクーの郭の東側崖下に照屋御嶽 (ティラウタキ) がある。琉球国由来記の照屋ノ嶽に相当する。かつて、この付近にあった照屋村の御嶽と考えられている。照屋村は、17世紀後半から18世紀前半にかけて添石村に統合されたと伝えられている。ここにはかねまん之碑と記された墓碑が建ち、かねまんといわれる墓がある。先中城按司 ( (ウサチナカグスクアジ) 系統の墓と考えられている。墓に散在していた遺骨を先中城按司の子孫にあたる泊大屋が取りまとめ、葬っ た際に多くの古銭が出てきたことで「かねまん」と」呼ばれている。この墓は泊大屋によって拝まれている。鎌倉芳太郎ノートにはかねまん之碑が建てられた顛末が記載されている。
ウドゥイヤーの上方に灯炉のような火 の光があり、上出栄の山戸がそれを見て不審に思い、その火を追いかけたが何もなかった。 また、同じ場所で、白衣装のようなものを屋号上知念小の山戸が見て不審に思い追いかけて行くと、そこには松の根があるだけで何も見えなかった。 このようなことから、ムラが易者に占わせたところ、 照屋御嶽に土砂に埋まっている遺骨がありそれがとても苦しんでいるので、墓を立てて安置するよう諭された。 念のため他の易者にも占ってもらったところ、 同じようなことを言われたため、急いで墓を造らないと不審なことが治まらないということで、ムラ人が協議をして明治29年8月30日から9月3日まで祈願し、9月4日から墓を造り完成させ、13日に厨子を安置したという。
照屋御井戸 (ティラウカー) [添石集落拝所]
県道146号線から中城グスクへ向かう左側 の道沿いに階段があり、その上方に照屋御井戸 (ティラウカー) がある。この井戸も、照屋樋川 (ティラヒージャー) と同様に、かつて照屋村の人々が利用した井戸と考えられる。 現在は、コンクリートで補修されているが、水は確認できない。
与喜屋 (ヨキヤ) ノロの墓 [添石集落拝所]
中城グスク三の郭の東側崖下の泊地区川尻原にヨキヤノロの墓がある。森の中を探しまくるようやく見つけた。樹々に覆われて一部しか見えない。樹々を伐採して全体が見える写真が資料にあったので、合わせて載せておく。この墓には歴代のヨキヤノロ (添石ノロ) が葬られていると伝えられ、墓室内に14基の厨子甕が納められているそうだ。
この与喜屋ノロの墓から中城グスクの三の郭の外側へは道があり、石畳の階段が設けられている。中城グスクからは通行止めでアクセスできない。この道がいつ頃からあったのかは不明。
川尻原 (カージリバル)
字 泊の最北の小字の川尻原 (カージリバル) には丘陵の上標高約160mに中城グスクがある。この中城グスクには1月5日と10日に訪問している。中城グスクの訪問レポートは別途。
伊寿留 (イジュルン) 按司の墓 [伊舎堂集落拝所 1月10日 訪問]
上伊舎堂ヌ殿 (イィシャドウヌトゥン) [伊舎堂集落拝所 1月10日 訪問]
伊舎堂ヌ井戸 (イシャドウヌカー) [伊舎堂集落拝所 1月10日 訪問]
泊集落の古島は台グスクの下辺りにあったと伝わっている。この場所は字泊ではなく字久場にある。今日はおじいとの話しに時間を使ったので、ここには来れなかった。次回は久場を訪れる予定なので、その際に訪問予定。
久場にある泊集落の拝所
- 御先中城按司墓 (ウサチナカグスクアジバカ)
- 台 (デー) グスクの火ヌ神 (ヒヌカン)
- 照屋 (ティーラ) 火ヌ神 (ヒヌカン)
参考文献
- 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
- 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
- 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
- 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
- 中城村 戦前の集落 シリーズ1 泊 (2016 中城村教育委員会)
- 中城村 戦前の集落 シリーズ 4 伊舎堂 (2016 中城村教育委員会)
- 中城村 戦前の集落 シリーズ 5 添石 (2016 中城村教育委員会)
- ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
- 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)
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