Okinawa 沖縄 #2 Day 259 (20/01/24) 旧中城間切 中城村 (18) Kuba Hamlet 久場集落
旧中城間切 中城村 久場集落 (くば、クバ)
前原 (メーバル)、稲子原 (イナグバル)
- 久場の大赤木
- 久場の戦後復興の拠点
- 久場公民館
後浜原 (クシハマバル)、前浜原 (メーハマバル)
- 久場崎浮桟橋
- 戦後引揚者上陸碑
- 中城モール
- 中城モールビーチ
久場原 (クババル)
- 久場崎収容所
- 米軍フィリピン兵駐屯地、久場崎学校地区大井井戸 (ウフガー)
- 御嶽 (ウタキ)
- 久場子墓 (クバシーハカ)
- 御願ヌ上 (ウガンヌイー)
- 倶楽部 (村屋 ムラヤー) 跡
- 砂糖小屋跡 (サーターヤー)
- 種子取庭 (タントゥイナー)
- 統合拝所
- 龕屋跡
賀武道原 (ゲルガンドウバル)
- ヒートゥイ石 (未訪問)
台城原 (デーグスクバル)
- 殿庭 (トゥンナー)
- 護佐丸の墓
- 金満御墓 (カネマンウハカ)
- 台グスク (デーグスク)
- 台グスクにある拝所 (伊舎堂集落拝所)
- 長崎毛 (ナガサチモー)、長崎御井 (ナガサチウカー)、デーグスク屋取
自転車走行距離:49.9km、ウォーキング距離: 6.2km
旧中城間切 中城村 久場集落 (くば、クバ)
久場は、中城村の北端に位置し、標高176mのデーグスク (台城) を頂点とした西側の丘陵斜面部から国道を挟んで、東側の平野部に開けた集落で、南は字泊に面し、東は中城湾、北 は北中城村字熱田、西は北中城村字大城に接している。
久場は、稲子原 (イナグーバル)、前原 (メーバル)、久場原 (クババル)、南風原 (フェーバル)、賀武道原 (ゲルガンドウバル)、勢頭原 (シードウバル)、伊世良原 (イヨーラバル)、宇地間原 (ウジマバル)、宇保賀真原 (ウフガマバル)、台城原 (デーグスクバル)、後原 (クシバル)、真尻原 (マーシリバル)、前浜原 (メーハマバル)、後浜原 (クシハマバル) の14の小字から成り立っている。かつての久場の集落は、中城グスクの北東側下方にあったと伝えられている。そこには久場の拝所である殿庭 (トゥンナー) もあることや、その周辺からは、青磁などの遺物が採取されていることか ら、この一帯が集落地であったことがうかがえる。
去る沖縄戦で米軍は集落地にキャンプ (キャンプス久場崎) を設営し、地上戦を優位に進めるとともに、戦後も引き続き米軍基地として占領・接収し、兵舎や海外引き揚げ者の収容施設として使用し、その後、米人学校 (クバサキ ジュニア ハイスクール) として使われることになった。そのため久場の人々は元の集落に戻ることができず一時期、伊舎堂や添石の屋敷内に、テントや茅葺きの家を建てて居住し、添石や伊舎堂の人たちから畑や屋敷を割り当ててもらい生活をしていた。1951年に伊舎堂で土砂崩れが起き、近くの十数軒の民家が立ち退きを余儀なくされ、そこに居住していた久場の人たちも、伊舎堂に戻れなくなってしまった。これを機に久場の人たちは畑地であった小字 稲子原 (イナグバル) を整地して集落を建設し移動が始まった。この新しく造った集落内の道幅は狭く、万一火災などが発生しても消防車が入れない状況のため、区民は不安を抱えることになった。1981年 (昭和56年) にようやく、かつての集落地が返還されることになり、区画整理事業が進められ、1989年 (平成元年) に竣工している。
琉球国由来記等に記載されている拝所
- 御嶽: 久場ヌ嶽 (神名不詳)
- 殿: 上久場之殿 (殿庭 トゥンナー)
- 神屋: 上門根所 (所在地についての情報は見つからず)
祭祀行事は大城ノロによって執り行われていたが、久場ヌ嶽での祭祀は久場の百姓によって執り行われていた。
現在、久場では村としての祭祀行事は継続しておらず、垣糧、各門中が行っている。
久場集落 訪問ログ
字久場の南から、久場集落、久場の古島、デーグスクの順番で史跡、拝所を見ながら散策をする。
前原 (メーバル)、稲子原 (イナグバル)
久場の大赤木
久場の戦後復興の拠点
久場公民館
後浜原 (クシハマバル)、前浜原 (メーハマバル)
久場崎浮桟橋
戦後引揚者上陸碑
久場崎の海岸に戦後引揚者上陸碑が建っている。碑の近くに突堤付近 (写真左上) が浮桟橋があった場所で、この突堤の砂浜に近く場所が上陸地だった。これは1996年 (平成8年) 3月に中城村終戦50周年記念事業により建立された。ここは、かつて沖縄戦により県外に疎開していた人たちや、敗戦によって海外移民先から帰還を余儀なくされた人たち、また戦地から復員した人たちが、軍用船の海防艦に乗り、ふるさと沖縄の地に最初に降り立った場所。 戦後の沖縄復興はここから始まっている。この碑は、当時の戦争の悲惨さを後世に伝える為に建設され、三本の柱のモニュメントはそれぞれが引き揚げて来た直後の人々の心境の「不安、喜び、希望」を表している。
中城モール
久場の海岸沿いには中城村にある二つのショッピングセンターの一つがある。もう一つは丘陵に上の南上原にあり、ここにある中城モールは2015年にオープンしている。家具が中心だが、スーパーマーケットのかねひでも入っており、丘陵下の中城村集落の買い物の中心地になっている。久場は南上原に次いで人口の多い地域になる。ショッピングモールがあることも一因だろう。
中城モールビーチ
久場原 (クババル)
久場の中心地が久場原 (クババル) で中城グスク、台 (デー) グスク付近にあった古島から伊集して集落を形成している。戦後は米軍に接収され立ち入りは禁止されていた。1981年 (昭和56年) に返還が決まり、1989年 (平成元年) に区画整理事業が竣工している。その後、元あった集落の地に住宅が増えていき、戦前以上の町ができている。
久場崎収容所
戦後、台湾、中国、マリアナ諸島など海外戦地や日本各地からの沖縄出身引き揚げ者は浦賀、名古屋、大竹、佐世保、鹿児島の5つの港経由で米軍の LST (戦車揚陸艦) で帰還している。ここにあった浮き桟橋 (通称久場崎 浮桟橋) に上陸し、接収された久場集落に造られた収容所に6日間ほど一時的に隔離し収容された。収容所は6000人もの収容できるカマボコ兵舎 (コンセット 写真右中) が並んでいた。ここで予防注射の接種、DDT (写真左下はDDT散布を受ける列、右下は散布を受けている婦人) など必要な諸検査や処置をおこなっていた。1946年 (昭和21年) 8月から12月まで沖縄へは約17万人の帰還者 (当時の沖縄人口の4分の一にあたる) があり、ここ久場崎では10万人を迎え入れている。(余談だが、資料に目を通していると、引き揚げ者の統計では沖縄人、琉球人、大島人と区別している。大島とは奄美大島の事だが、当時に日本政府は沖縄人と琉球人を区別していた様だ。琉球人とは八重山諸島の住民の事) 1946年 (昭和21年) 8月17日に引き揚げ者第一陣が桟橋に到着、以後、同年12月の収容所閉鎖までに、多くの県民がこの久場崎に帰還してきている。
米軍フィリピン兵駐屯地、久場崎学校地区
大井井戸 (ウフガー)
御嶽 (ウタキ)
久場子墓 (クバシーハカ)
御願ヌ上 (ウガンヌイー)
倶楽部 (村屋 ムラヤー) 跡
砂糖小屋跡 (サーターヤー)
種子取庭 (タントゥイナー)
統合拝所
龕屋跡
賀武道原 (ゲルガンドウバル)
戦前には久場集落から台グスクへ一本、中城グスクへはニ本の道があったが、現在では当時の道は残っていない様だ。自動車道路が出来てからは使われず自然消滅してしまったのだろう。台グスクと中城グスクへの自動車道路の道で前原から坂道を登り、賀武道原 (ゲルガンドウバル) の中の道を進む。かつては台グスクへの道だっただろう野道が集落から丘陵上に伸びているのだが、道は途中で途切れている。
ヒートゥイ石 (未訪問)
台城原 (デーグスクバル)
自動車道路を進み、賀武道原 (ゲルガンドウバル) の北が台城原 (デーグスクバル) になる。ここには台城 (デーグスク) があったことから、このように呼ばれている。久場集落の現在地に移住してくる前に古島が置かれていた場所になる。
殿庭 (トゥンナー)
台グスクの手前、自動車道から下に降りていく野道があり、その先には殿庭 (トゥンナー) と呼ばれる拝所がある。かつては、この一帯に久場集落の古島があったと伝えられている。琉球国由来記には上久場之殿 (イークバヌトゥン) と記載され、五月と六月ウマチーの際に大城ノロによって祭祀が行われていた。戦前迄は麓にある久場集落からこの上久場之殿までは神道が通っていたというのだが、道らしきものは見当たらない。神道は消滅している様だ。
護佐丸の墓
自動車道を進むと護佐丸の墓への登り階段が置かれている。階段は新たに造られており、その階段に沿って、石畳道が残っている。昔はこの石畳道を通って墓参をしていたのだ。
中城按司護佐丸盛春 (毛国鼎 もうこくてい) は沖縄では最も人気の高い武将で、15世紀の第一尚氏時代の按司 (大名) の一人だった。護佐丸は、第一尚氏の尚泰久王に仕え、中城グスクの城主だったが、勝連城主阿麻和利 (あまわり) の策謀 (護佐丸の謀反の嫌疑) により、阿麻和利が率いる王府軍に攻められ、1458年に中城グスク内で自害したと伝えられている。護佐丸の三男・盛親(もりちか)だけは乳母とともに中城グスクを脱出し、乳母の故郷である糸満国吉へと逃れ国吉比屋によって国吉グスクでかくまわれて養育されている。盛親は第二尚氏の第一代尚円王に登用されて豊見城間切の総地頭職に任ぜられ、豊見城親方盛親を名乗っている。その子孫は毛氏豊見城殿内を筆頭に五大姓 (五大名門) の一つとして三司官をはじめ、首里王府の主要な役職に多数が就き、琉球屈指の名門の一つとして栄えた。この墓は、1687年に護佐丸から八代目の子孫である豊見城親方盛定が、首里王府から土地を拝領して造ったと伝えられ、初代護佐丸盛春と、二代目の盛親から、盛庸、盛章、盛続、盛良と続き、七代目の盛常までの遺骨が納められている。八代目以降は那覇市繁多川の識名の豊見城殿内 (ティミグシクドゥンチ) の墓に納められている。戦前は徴兵出征する際に、久場の人達により拝まれていたそうだ。
金満御墓 (カネマンウハカ)
台グスク (デーグスク)
台グスクにある拝所 (伊舎堂集落拝所)
台グスクには琉球国由来記に記載されている拝所がある。 火ヌ神は伊舎堂にあるマーチューグワーにウンチケー (お招き) したと言い伝えられている。現在もハチウビー (新暦1月2日) で拝まれている。琉球国由来記によれば、デーグスクには伊舎堂村のニヶ所の拝所があり、それぞれ「ダイ森ノ御イベ」と「ミツ物ノ御イベ」が祀られているが、これが台グスクにある二つの拝所)に該当するのかについては記載がなかった。この2ヶ所は毎年3月、8月に四度御物参 (中城王子の繁栄を祈願する祭祀) が大城ノロによって執り行われていた。
長崎毛 (ナガサチモー)、長崎御井 (ナガサチウカー)、デーグスク屋取
デーグスク (台グスク) や護佐丸の墓の周辺一帯を長崎毛 (ナガサチモー) という。台グスクは標高170mの高い位置にあり先端が切り立って岬のようになって見えるため、長い崎という事からこの様に呼ばれるようになったという。戦前まではこの長崎毛 (ナガサチモー) の台グスクと中城グスクの間には泊の屋取が4軒あったそうだ。屋取集落は琉球王国時代は貧困氏族の帰農政策により、明治以降は失業氏族が農業に従事してできた集落だが、ここの屋取集落は少し事情が異なる。1726 ~ 78年頃に護佐丸の墓やその周辺の管理を行うため、美里間切池原村 (現在の沖縄市池原) の地頭職を務めていた毛氏護佐丸門中系統の池原 (毛氏)、名幸 (田氏)、小那覇、大山 (毛氏) などの人々が移住しデーグスク屋取と呼ばれていた。そのうち久場区域には内ヌ池原、前ヌ池原、新名幸小、上之当名幸の4軒があった。通常、屋取集落とその本村とは殆ど交流がないのだが、この様な背景での移住だったこともあるのだろう、このデーグスク屋取は久場集落とは良好な関係だったそうだ。
これで久場集落にある史跡や拝所巡りを終了。急遽、来週末に東京で大学時代の同窓会が設定されたので、東京に行く予定を入れた。一週間ばかりの滞在で均衡の史跡も見ようと思っている。明日からはその下調べをするので、次回の沖縄集落巡りは東京から帰ってきてからになる。
参考文献
- 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
- 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
- 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
- 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
- 中城村 戦前の集落 シリーズ11 久場 (2016 中城村教育委員会)
- 中城村 戦前の集落 シリーズ 1 泊 (2016 中城村教育委員会)
- ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
- 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)
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