杉並区 04 (28/01/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧下井草村 (4) 柿ノ木

杉並区 旧井荻町 (井荻村) 旧下井草村 小名 柿ノ木 (かきのき 小字 柿ノ木山、小字 谷頭、小字 柿の木)

  • 住吉町 (すみよしちょう 旧小字 柿ノ木山) [現 井草三丁目、井草四丁目、下井草五丁目の一部]
    • 井荻駅
  • 矢頭町 (やがしらちょう 旧小字 谷頭) [現 井草四丁目、井草五丁目]
    • 井草森公園 (機械技術研究所跡)
    • 開高健記念文庫
    • 矢頭公園
    • 屋敷林
    • 橋場跡 (2024年4月7日 訪問)
    • 稲荷山跡 (2024年4月7日 訪問)
    • 矢頭上橋跡、矢頭橋跡、矢頭中橋跡、矢頭下橋跡
    • 第5妙正寺川橋梁 (2024年4月7日 訪問)
  • 柿ノ木町 (かきのき 旧小字 柿ノ木) [現 上井草一丁目、今川一丁目の一部]
    • 柿ノ木北公園
    • 柿ノ木公園
    • 井口益太郎家

一昨日に沖縄から東京に到着。元々は4月に東京に来る予定だったのだが、在京の大学時代の同窓生の集まりが、急に決まったとの事で、参加する事にした。せっかくの東京滞在なので昨年12月に始めた杉並区史跡巡りの続きに為、一週間の予定はを組んでいる。
今日は江戸時代の下井草村小名柿ノ木を巡る。


杉並区 旧井荻町 (井荻村) 旧下井草村 小名 柿ノ木 (かきのき 小字 柿ノ木山、小字 谷頭、小字 柿の木)

小名の柿ノ木には、江戸時代の初期に、野生の柿の木が生えていた柿ノ木山 (井草四丁目、機械試験場 [現在の井草森公園]) が、将軍家の狩場になり、その所に住んでいた住民は井草川の南岸へ移住させられている。柿ノ木山の人達が住んだ土地なので、柿ノ木と呼ばれるようになったという説と、この地に人目をひく柿の木があったからという説がある。江戸時代の小名の柿ノ木は1889年 (明治22年) に柿ノ木山、谷頭、柿の木の三つの小字に行政区変更されている。

明治時代の柿ノ木の民家の分布図を見ると、柿ノ木町に集まっており、ここが旧小名の柿ノ木の中心はだったことが判る。江戸時代に立ち退きを強制された柿ノ木山には民家は見られれず、所沢道の街道沿いに民家が少し存在していた。谷頭 (後の矢頭) の民家は千川上水の分水口があった橋場に集中している。1925年 (大正14年) から1935年 (昭和10年) にかけて井荻村土地区画整理事業が行なわれ、その間に1927年 (昭和2年) には西武池袋線に井荻駅が開業している。それにも拘わらず、隣の瀬戸原 (四宮町) では住宅地が急拡大しているのにもかかわらず、柿ノ木では戦前までは大きな民家分布の拡大はそれ程大きく変わっていない。住宅地が拡大するのは戦後で、西武池袋線の周辺から拡大していき、昔の農地は急速に消えていき、現在は地域全土が住宅街になっている。

先に訪れた小名 八成と同様に、小名 柿ノ木には寺社仏閣が存在しない。江戸時代には各村に鎮守の神社があったはずなので、消滅したのか、元々なかったのか?



住吉町 (すみよしちょう 旧小字 柿ノ木山) [現 井草三丁目、井草四丁目、下井草五丁目の一部]

前述の小字 柿ノ木山はその後、1932年 (昭和7年) の行政区変更で住吉町に町名が変更されている。現在の井草三丁目と四丁目の一部に相当する。

住吉町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通りだが、この地域には史跡などは紹介されておらず、また見るべきスポットも紹介されていない。明治時代には小さな集落が一つしかなかったこともあるのだろう。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: なし
  • 庚申塔: なし
  • 馬頭観音: なし
  • 地蔵尊: なし
  • その他: なし


井荻駅

井草と下井草の境界が西武新宿線になる。境界線を走る西武新宿線北側が住吉町で境界線上に井荻駅がある。1927年 (昭和2年) に開業している。駅前、線路沿いに商店街、繁華街が伸びている。
西武井荻商店街振興組合が昭和初期ごろの井荻駅周辺の地図をインターネットに掲載していた。これをみるとほとんどは畑や原っぱで、井荻駅前に数軒の商店が見られる。井草川には幾つもの橋が架けられている。昔からあった橋ばかりでは無い様に思える。碁盤目状に区画整理が実施された際に造られた橋もあるのではと思える。同じサイトに昭和15年の井荻駅 (左下)、現在の環状8号線と交わる井草川に架かっていた柿ノ木橋の写真 (右下) が紹介されていた。


矢頭町 (やがしらちょう 旧小字 谷頭) [現 井草四丁目、井草五丁目]

明治時代の地図を見ると谷頭は下井草村と上井草村にまたがって広がっている。1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に下井草村の谷頭は矢頭町となっている。谷頭の「谷」は水が滲み出る窪地を意味し、井草川のことを指していると思われる。「頭」は頭部つまり奥のことで谷頭は井草川の水源地域を表した地名と考えられている。また、別の説では昔、太田道灌が豊島氏の石神井城を攻略した際に、この地に布陣して前方の敵陣めがけて盛んに矢を放ったので「ヤガシラ」の名が生まれたともいう。

矢頭町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。この地域にも寺社が存在しない。

住吉町と同じく、明治時代の地図を見ても集落はこの地域の西側に三ヶ所ほどしかない事もその理由だろう。
  • 仏教寺院: なし
  • 神社: なし
  • 庚申塔: なし
  • 馬頭観音: なし
  • 地蔵尊: なし
  • その他: なし

井草森公園 (機械技術研究所跡)

井荻駅の西を通る笹目道路の東には杉並区内では一番広い公園の井草森公園がある。ここでは、まだ紅葉を見ることができる。

この辺りは、江戸時代には将軍家の狩場だった。この井草森公園は1996年に開園しているが、それ以前は、1939年 (昭和14年) に銀座木挽町より移転してきた旧通商産業省工業技術院機械技術研究所 (写真上) が1980年につくば市へ移転するまで置かれていた。戦前は国産の機械は海岸製品と競争するには数段劣っており、これに危機感をもった政府は機械工業改善の為に機械の基礎研究、分析、鑑定試験、新技術 の開発などを目的として国立の機械試験所を設立している。機械技術研究所では、第ニ次世界大戦中は飛行機のエンジンを作る工作機の試作、戦後は農業機械などの開発やその他の機械の研究が行われていた。研究所の研究、指導が実を結び、機械工業製品は「メイド・イン・ジャパン」と呼ばれた世界の超一流となり、大いに外貨を獲得し、経済大国日本の原動力となった。 筑波に移転した研究所跡地には井草森公園公園の他、不燃ごみ中継施設である杉並中継所 (写真下) も造られたが、付近住民は不燃ごみ中継施設の影響でのどや目に痛みを訴えるいわゆる「杉並病」に苦しみ、社会的な問題となった。その後、不燃ごみの減少等により2009年に廃止されている。(下の写真は2024年4月7日に再訪した時のもの。桜の花見客で賑わっていた。)


開高健記念文庫

井草森公園の南の住宅街の中に開高健記念文庫がある。開高健の旧宅だった場所になる。開高健は1955年に大阪から上京し、芥川賞受賞の1958年にこの地に居を構えている。代表作の「輝ける闇」や「夏の闇」はここで執筆されている。2014年に開高健記念会が公益法人化された際に土地と建物が財団に寄贈され開高健記念文庫が作られた。(こことは別に茅ケ崎にも開高健記念館がある) 入ってみたかったのだが開館していないようだ。後で調べると、開館日は水曜日と木曜日、第1日曜日、第3日曜日の1時から3時までで予約制になっていた。予約などしていないし、今日は閉館日だった。

開高健の全著作、初出誌類、関連書籍・雑誌類のほか、蔵書類、直筆原稿、写真・画像類、愛用・愛蔵品などが展示・公開されているようだ。


屋敷林

井草5丁目に中に屋敷林が残っている。この辺りは杉並区緑地保全地区に指定されているので、かつての森などがそのまま保存維持されている。ここの緑地保全地区の林の中に稲荷神社の祠が置かれていた。屋敷神だろうか?

橋場跡 (2024年4月7日 訪問)

屋敷林の北川にはかつては千川上水 (現在は暗渠の千川通り) が流れていた。ここに千川上水を越す橋が架けられて、戦前迄は橋場 (はしば) と呼ばれていた。

稲荷山跡 (2024年4月7日 訪問)

橋場の東側には昭和初期までは稲荷山と呼ばれた所があり、井口益太郎家祖先が祭り創めた稲荷社があったそうだ。現在は畑となっており、昔の面影は消え失せてしまっている。

矢頭公園

旧小字 谷頭には史跡などは残っていないのだが、この谷頭の名が矢頭公園として残されている。名前は谷頭ではなく、その後の町名となった矢頭と変化している。

矢頭上橋跡、矢頭橋跡、矢頭中橋跡、矢頭下橋跡

矢頭公園の北にはかつては井草川が流れていた。現在は暗渠となり遊歩道に整備されている。この川には幾つもの橋が架かっていた。現在では橋は消滅しているのだが、幾つかは石碑が置かれている。この井草川は水源を切通し公園として北上し上井草村から下井草村を流れて、井草地域に入り大きく曲がり南下いている。井草地域を流れていた井草川には三つ橋が架かっていた。矢頭公園の西には矢頭上橋がある。
矢頭公園方面に進むと矢頭橋跡。
矢頭公園を過ぎると矢頭中橋跡がある。
更に井草川遊歩道を進むと、再度、西武新宿線で遊歩道は分断されている。この手前には八頭下橋が架かっていたのだが、石碑はなかった。

第5妙正寺川橋梁 (2024年4月7日 訪問)

井草川遊歩道は西武新宿線によって分断され、線路を通す際には第5妙正寺川橋梁が架けられている。線路を越えると下井草町になり、小字の境界線にある井荻駅に向かう井草川遊歩道が続いている。何故、井草川でなく妙正寺川となっているか疑問になり、調べると井草川は妙正寺公園内にて妙正寺川に合流する。井草川が妙正寺川に繋がっている事から、井草川を妙正寺川の上流として地元では井草川も妙正寺川と呼んでいた事から、このように名付けられたそうだ。


柿ノ木町 (かきのき 旧小字 柿ノ木) [現 上井草一丁目、今川一丁目の一部]

西武新宿線を南に渡ると、小名 柿ノ木 (大字 柿ノ木) の三つ目の小字の柿ノ木になる。江戸時代に柿ノ木山が将軍家の狩場になり、そこに住んでいた人々が強制移住させられた地域になる。小字 柿ノ木は 1932年 (昭和7年) には柿ノ木町となり、現在の上井草1丁目に相当する。

柿ノ木町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。この地域の南には比較的大きな集落が集中しており、代々名主を勤めた旧家もあるのだが、なぜかこの地域にも寺社が見当たらない。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: なし
  • 庚申塔: なし
  • 馬頭観音: なし
  • 地蔵尊: なし
  • その他: なし


柿ノ木北公園

西武新宿線の南の線路沿い柿ノ木北公園がある。公園の東にかつての井草川が流れていた。以前の川筋が暗渠になっている。
公園から線路で分断された井草川遊歩道が再開し井荻駅方面に伸びている。小字 柿ノ木には史跡は見当たらないのだが、その名が公園名として残っている。

柿ノ木公園

井草川遊歩道を進み、遊歩道を少し南に外れた所にもう一つ公園がある。柿ノ木公園でこの地域が、かつての小字 柿ノ木だった事がわかる。

井口益太郎家

柿ノ木図書館に立ち寄ろうと道を上井草一丁目の南に進んだ所に立派な屋敷林があった。この様な所は江戸時代の豪農である事が多い。近づくと井口益太郎家と書かれており、古い門構になっている。井口家は江戸時代から名主を勤めた名家になる。ここには杉並区の歴史や南豊郡の構成、組織、機能などが記載された明治以降の下井草村戸長役場文書と南豊島郡役所文書が保管されていたそうだ。


下井草村 小名 柿ノ木 訪問ログ



小名 柿ノ木には史跡が残っていないので、まだまだ時間が残っている。ここから南にあったかつてに天沼村の小名 本村に移動して見学を続ける。


参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 井草のむかし (2019 井口昭英)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪(1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪(1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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