杉並区 04 (28/01/24) 旧杉並町 (杉並村) 旧天沼村 (1) 本村

天沼村 小名 本村 (小字 本村 / 割間 / 東原、旧天沼三丁目) [現 本天沼一丁目、本天沼二丁目の大部分、本天沼三丁目の大部分、下井草一丁目]

  • 大鷲神社 (2023年12月4日 訪問)
  • 三峯神社 (2023年12月4日 訪問)
  • 稲荷神社
  • 庚申塔 (54番)
  • 地蔵菩薩像 (60番)
  • 蓮華寺
    • 総門、弁天堂、摩尼殿
    • 山門、本堂 (無動閣)
    • 庫裏
    • 切支丹燈籠 (59番)
    • 大乗妙典供養塔 (57番)、地蔵菩薩立像 (56番) 他
    • 馬頭観音 (55番)
    • 大宝篋印塔
    • 地蔵菩薩像、六地蔵 他
  • 三峯神社、厳島神社
  • 猿田彦神社
  • 本天沼稲荷神社


小名 柿ノ木に引き続き、杉並村が誕生する前の天沼村 小名 本村を巡る。


天沼村

天沼村は慶長年間 (1596 ~ 1615年) 以前には既に成立していたと考えられる。江戸時代初期の天沼村は阿佐ヶ谷村と共に幕府直轄の天領 (多くは伊賀者の給地だった) で典型的な過疎の農村だったが、三代将軍家光の時代の1635年 (寛永12年) に阿佐ヶ谷村、下荻窪村、堀ノ内村とともに、麴町山王日枝神社 (当時は山王権現) へ寄進され、年貢の拠出高でも優遇を受け発展している。それ以降、幕末まで日枝神社領だった。
天沼の名の由来については諸説ある。
  • 以前からの説は奈良時代に置かれた乗瀦駅を「あまぬま」と読み、その場所を読みから、天沼付近を比定している。杉並区史ではこの説をとっているが、練馬区では乗瀦駅は「のりぬま」の読みだったとして「のりぬま」が「ねりま」と変化したとし、乗瀦駅は練馬に存在し、練馬の名の由来としている。現在では乗瀦練馬説の方が有力だそうだ。
  • 天沼とは雨水がたまってできた沼のことで、天沼村を横断している桃園川の源泉の小さな池の弁天池は大雨が降り続くと付近一面が沼になったので「雨沼」と呼ばれていた。この「あめぬま」が訛り「あまぬま」と呼ばれる様になり、めでたい嘉い字を用いて天沼に書き表されるようになったともいう。
  • 大雨で沼地となった弁天池ではなく妙正寺池が沼地になった事から天沼の地名となったという説もある。
天沼村は現在の本天沼1~3丁目と天沼1~3丁目のほぼ全域にあたり、江戸期には北側を本村、真ん中に宝光坊、南側には中谷戸 (なかやがいと) と三つの小名に分かれていた。
1889年 (明治22年) に町村制に移行し、阿佐ヶ谷、天沼村、高円寺、馬橋、田端、成宗村が合併し杉並村が誕生している。天沼村は大字天沼となり、東原、割間、本村、宝光坊、山下、小谷戸、中谷戸、四面道の八つの小字に区画整理がされている。この年には甲武鉄道が新宿~立川間で開業して近代化がこの地でも始まる。二年後の1891年 (明治24年) には、杉並区内初の駅、荻窪駅が開設された。甲武鉄道の国営化や青梅街道の拡幅工事、市電から地下鉄丸の内線の開業などもあり、関東大震災以後、大正時代には僅か42世帯しかなかった本村は、昭和に入ってから、都心からの移住が増え、農村から住宅地へ大きく変貌を遂げることになる。
1932年 (昭和7年) には杉並町、井荻町、和田堀町、高井戸町の四町が合併し杉並区が編成された際に旧天沼村 (大字 天沼) は天沼1~3丁目に再編成されている。1963年 (昭和38年) から1965年 (昭和40年) にかけて住居変更が実施され、旧小名の本村は下井草1丁目、本天沼1~3丁目、宝光坊は天沼1丁目に、小名の中谷戸は天沼2~3丁目に変更されている。


小名 本村 (小字 本村 / 割間 / 東原、旧天沼三丁目) [現 本天沼一丁目、本天沼二丁目の大部分、本天沼三丁目の大部分、下井草一丁目]

天沼村の中心地が小名の本村だった。1889年 (明治22年) の町村制移行で、旧小名の本村には小字 本村、割間、東原が誕生している。概ね現在の本天沼一丁目~三丁目に相当する。1965年 (昭和40年) にかけて住居変更で、旧天沼三丁目を中心として、向井町、阿佐谷六丁目の一部を本村があったという事で本天沼と名付けられている。
本村の時代別の民家の分布を見ると明治時代には民家は少なく、地域西側の小字本村に比較的多く見られる。区画整理が行われた大正末期から昭和の戦前までには、小字本村ではあまり変化が無いのだが、それまではほとんど民家がなかった東原にぎっしりと民家が建てられている。東原の東側の阿佐ヶ谷も民家が既に密集しているのを見ると、住宅地開発による人口増加は首都圏に近い東側から始まっている様だ。戦後はほぼ全域が公共施設を除き住宅地へと変貌している。


小名 本村内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。

  • 仏教寺院: 蓮華寺
  • 神社: 大鷲神社、三峯神社、稲荷神社、三峯神社、厳島神社、猿田彦神社、本天沼稲荷神社
  • 庚申塔: 54番
  • 馬頭観音: 55番
  • 地蔵菩薩: 地蔵菩薩像、地藏菩薩 (60番、56番、88番)
  • その他: 切支丹燈籠 (59番)、大乗妙典供養塔 (57番)、大宝篋印塔

小名 本村の北側から巡って行く。



大鷲神社 (2023年12月4日 訪問)

下井草村の小名井草前だった下井草二丁目と三丁目の境だった旧早稲田通り (所沢道、長命寺道、新高野道) を南に進むと早稲田通りにぶつかり下井草一丁目に入る。
この地点が天沼村と井草村の境界付近で、昭和初期までは出張 (でばり) と呼ばれていた。この境界線はお互いに出張っているような境界になっているので、この様に呼ばれたそうだ。江戸時代から明治時代にはこのあたりには割間の集落があり、現在の下井草一丁目は、1889年 (明治22年) に町村制で小字割間となっている。小字割間は茅原を区画して開墾したので、その名が生まれたといわれている。ここから現在の早稲田通りの東京方面も長命寺道 (新高野道) だった。早稲田通りを少し東に進んだ道沿いに大鷲神社がある。正式には出世大鷲神社といい、1920年 (大正10年) にこの近く西の畑の赤松に飛来した大鷲を悪戦苦闘の末に仕留めたのだが、村人たちはその祟りを恐れ、「おとりさま」と呼んで祭神として祀り創建したもの。祠の中には鷲の剥製の写真が置かれていた。これが仕留めた鷲なのだろうか?毎年11月の酉の日には酉の市がたっていたそうで、現在では小規模に祭が行われている。その酉の市の写真がインターネットにアップされていた。祠の扉が開帳されて祭神の大鷲が拝める。大鷲神社から西に向かう早稲田通り (長命寺道) は大正時代までは急な坂道で難所の一つで、源坊坂 (げんぼうざか) と呼ばれていた。昭和初期の区画整理事業で道は拡張され、坂は削られて現在は平坦な道となっている。


三峯神社 (2023年12月4日 訪問)

大鷲神社の横にある駐車場の道路沿いにもう一つ小さな神社が置かれている。三峯神社だが、この神社に関わる情報は見つからなかった。杉並区には多くの三峯神社がある。大きな神社の末社だったり、街中に地元の講中が造ったものだったり色々だ。秩父の三峯神社を中心とした三峯講は江戸時代に関東や東北に広がり、各集落で講中が組織されていた。ここもこの地域の講中の三峯神社なのでは無いだろうか?

稲荷神社

小字割間から早稲田通りを南に越えると小字東原になる。小字割間と小字東原の境界線が長命寺道 (現在の早稲田通り) で、江戸時代から明治時代にはこの街道沿いに民家が並んでいた。小字東原は本村の東にあり、昔は一軒の家もない茅原であったので、東原と呼ばれていた。
本天沼二丁目交差点から南の道を少し進んだ三叉路に稲荷神社が置かれている。この神社の情報は見つからず、多分、ここに住んでいた人の屋敷神と思える。敷地も祠も綺麗にされており、供物も置かれている。祠の側には井戸もあり、水神を祀っている様だ。

庚申塔 (54番)

早稲田通りから南の住宅街の中に庚申塔 (54番) が残っている。1701年 (元禄14年) に造立された笠付角型の石塔で、正面上から日月、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。

地蔵菩薩像 (60番)

旧小字東原と旧小字本村の境界となっていた所には本天沼北公園があり、その一画に置かれた堂宇の中には舟形石塔に浮き彫りされた地蔵菩薩立像が安置されている。堂宇には「意安地蔵尊」と書かれているが、意味はわからなかった。かつては「稲穂地蔵」と呼ばれ、行き倒れの人々を供養の為に、1717年 (享保2年) に念佛講中43人によって造立されたもの。この地蔵尊も綺麗に手入れがされており、地元の人達に大切にされていることが分かる。地蔵尊の涎掛けはファッショナブルな物になっている。定番は魔除けとされる赤の涎掛けなのだが、時代と共にその意味は薄れているのだろう。地蔵尊の傍らには小さな石塔がある。多分、道祖神と思われる。この辺りで道祖神を見かけることはあまり無いので珍しい。

蓮華寺

地蔵菩薩像 (60番) の南には真言宗室生寺派の天沼山 (てんしょうざん) 蓮華寺がある。開山は真長 (しんちょう) 和尚と伝えられている。開創時期については明らかでは無いが、真長和尚が室町時代に開創し、鏡薫和尚 (天和2年1682寂) の時代には大いに栄え中興したと伝えられている。
蓮華寺には、かつては稲荷神社、三峯神社、厳島神社があったが、明治の神仏分離により、稲荷神社は本天沼稲荷神社、三峯神社と厳島神社は本天沼稲荷神社の境外末社なっている。

総門、弁天堂、摩尼殿

蓮華寺の南側に置かれた総門から山門への参道が伸びておりその間には池の庭園があり、弁天堂が置かれている。1977年 (昭和52年) に百数十年ぶりに再建されたもので、弁天堂の中央には、一面八臂の弁財天女立像とインドネシア・ジャワ島のブランバナン寺院より請来されたシヴァ・グル神石像が安置されているそうだ。弁天堂の向かいには蓮華寺の斎場会館の摩尼殿 (写真下) も置かれている

山門、本堂 (無動閣)

参道を進み、山門から境内に入ると、正面に本堂が建てられている。現在の本堂は1962年 (昭和37年) に再建されたもので、本尊の如意輪観世音菩薩が堂内陣の西脇間に安置されている。本堂中央の須弥壇には、秘仏の不動明王立像と御前立ち座像 (前立仏)、そして、1944年 (昭和19年) には、室町時代の作で厄除不動と呼ばれた不動明王立像を出羽湯殿山から請い受け安置している。この不動明王立像は、昔、出羽の漁村で漁師が網にかかった不動像を家で祀り大漁と無事を祈りお金持ちになったということで霊験あらたかな仏様とされ、羽黒山に移され、更に北海道開拓の成功を祈願して函館の慈恵寺へ移動、その後、この蓮華寺に移されたもの。
以前の本堂は1706年 (宝永3年) に隆海和尚が客殿を改造し使用していた。1917年 (大正6年) からは寺子屋も兼ね、その後、杉並第五小学校の前身である桃野 (とうや) 尋常高等小学校の分教場に使用されていた。堂前にその記念碑 (右下) が置かれている。

庫裏

境内は綺麗に整備された庭園になっている。庭園の奥には庫裏が建てられている。

切支丹燈籠 (59番)

庫裏の前の庭の中に切支丹燈籠が置かれている。元々は笠付だったそうだが、笠は失われている。角柱を長細く掘り込んで中に人物 (基督像) が浮き彫りされている。この形は切支丹燈籠では典型的なタイプになる。

大乗妙典供養塔 (57番)、地蔵菩薩立像 (56番) 他

境内の西側、墓地との垣根沿いには多くの石塔や石仏が並んでいる。山門を入った左側にある石造物から見て行くと、向かって左から
  • 弘法大師と刻まれた石塔だが、詳細不明
  • 1728年 (享保13年) に造立された笠付角柱の大乗妙典供養塔 (57番) で正面に梵字の हूं (ウン)「 奉納大乗妙典六十六部願成就脩」と刻まれている。
  • 造立時期不詳の丸彫の錫杖、宝珠を持った地蔵菩薩立像 (56番) で旧寺前の六地蔵の一体だそうだ。
  • 造立時期不詳の丸彫の錫杖、宝珠を持った地蔵菩薩立像
  • 1885年 (明治18年) に念仏講中により造立された舟型石塔に錫杖、宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。

馬頭観音 (55番)

弘法大師の石塔の隣には堂宇があり、その中に、1748年 (寛延元年) に造立された舟型石塔に三面八臂の馬頭観音が浮き彫りされている。

大宝篋印塔

本堂側には上野寛永寺の塔頭の稜雲寺にあった一ツ橋徳川家七代当主徳川慶寿 (1823-1847) の持仏石塔が置かれている。納骨仏舎利塔で一ツ橋12代の徳川宗敬の寄進と書かれている。

地蔵菩薩像、六地蔵 他

更に本堂側には4基に石造物が置かれている。向かって左から

  • 舟型石塔に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。詳細不明。
  • 1937年 (昭和12年) に大正6年に亡くなった娘の供養塔として造立された丸彫の地蔵菩薩像で台座には子育地蔵尊と刻まれている。
  • 1713年 (正徳3年) に造立された舟型石塔に上部に梵字の ह्रीः (キリーク) が刻まれ阿弥陀如来像が浮き彫りされている。
  • 笠付塔に6体の地蔵尊が浮き彫りされている。詳細は不明だが、六地蔵尊と思う。普通は6体の独立した地蔵尊が並んでいるのだが、それ以外に石塔の正面に6つの地蔵尊を浮き彫りされたものもいくつか見かけた。ここの様に石塔六面に個々の地蔵尊を浮き彫りしているものは初めてだ。

三峯神社、厳島神社

蓮華寺の山門を出て1ブロック南に行くと、元々は蓮華寺持だった三峯神社と厳島神社が置かれている。江戸時代には既に祠があったと伝わっている。1907年 (明治40年) に共に本天沼稲荷神社の境外末社となっている。同じ敷地にあるのだが、鳥居のある入り口は別々になっている。蓮華寺に近い方の神社が三峯神社になる。杉並区には多くの三峯神社があり伊弉諾命を祀っている。三峯信仰が盛んだったのだろう。
奥の方が厳島神社 (市杵嶋神社) で市杵嶋比売命を祀っている。祠の中の石塔には市杵嶋比売命のレリーフが置かれている。

猿田彦神社

三峯神社、厳島神社の北にも本天沼稲荷神社の境外末社が鎮座している。林の中に板塀で囲まれた猿田彦神社になり、猿田彦命を祀っている。猿田彦神社も杉並区ではよく見かける。江戸時代には第六天社と呼ばれ、この神社も蓮華寺持だった。1907年 (明治40年) に天沼稲荷神社へ合併され、その境外末社になっている。

本天沼稲荷神社

三峯神社、厳島神社の西側に本天沼稲荷神社がある。旧天沼村小名本村の鎮守で、祭神として保食神 (うけもちのかみ)、相殿として先程見学した厳島神社の市杵嶋比売命と猿田彦神社の猿田彦命を祀っている。社伝によると1635年 (寛永12年) に天沼村が赤坂の山王社日枝神社社領地となって、稲荷信仰が広まってから創建されたとしているが、蓮花寺の過去帳では、1614年 (慶長19年) に板倉周防守よりこの神社境内を除地 (免税地) となったとあるので、それ以前の創建とも考えられる。
1913年 (大正2年) に奉献された石鳥居を入ると右手に1823年 (文政6年) に寄進された手洗水盤が置かれている。
境内正面に拝殿、本殿がある。江戸時代には山王社日枝神社領だった関係から、1868年 (明治元年) に山王社の徳川家葵の紋が入った内殿を譲り受け移築し、本殿として使用していた。この時に、山王祭の風景を描いた板絵着色祭礼図の大絵馬 (写真右中) も奉納されている。その後、1907年 (明治40年) に字四面道の厳嶋神社 (市杵嶋姫命) と字本村の猿田彦神社 (猿田彦命) を合祀している。 社殿は1925年 (大正14年) に大改修、1968年 (昭和43年) にも当初の様式で修築され、更に2003年 (平成15年) に社殿の造営を行い、現在に至っている。また、境内の右手にあるのは神楽殿 (写真下) になる。


天沼村 小名 本村 訪問ログ


参考文献

  • すぎなみの地域史 4 杉並 令和2年度企画展 (2020 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 中巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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