Okinawa 沖縄 #2 Day 257 (10/01/24) 旧中城間切 中城村 (15) Ishado Hamlet 伊舎堂集落

旧中城間切 伊舎堂集落 (いしゃどう)

伊舎堂原 (イシャドゥバル)

  • 倶楽部、伊舎堂公民館 (伊舍堂農業構造改善センター)
  • 親殿内小 (エードゥンチグヮ)
  • 藍井戸 (エーガー)
  • 伊舎堂安里 (イシャドゥアサトゥ) 門中の神屋
  • 新垣 (アラカチ) 門中の神屋
  • 伊波の角 (イファヌカドー)
  • 県道 (ケンドー、吉の浦線)
  • マーチューグヮー (オミヤ)
  • 樋川井戸 (ヒージャーガー)
  • 砂糖屋 (サーターヤー)
  • 伊舎堂川 (イシャドゥガーラ)
  • 砂糖屋 (サーターヤー)

前原 (マエバル)

  • 伊舎堂前の三本ガジュマル
  • 砂糖屋 (サーターヤー)
  • エーグムイ
  • ナーシルダー (苗代田)

浜原 (ハマバル)

  • 潮垣道 (スガチミチ)
  • 伊舎堂安里のカチ (垣)

壷川原 (チブガーバラ)

  • 蓮根井戸 (リンクンガー)
  • 砂糖屋 (サーターヤー)
  • 壷川 (チブガー 消滅)
  • 花の伊舎堂歌碑
  • ドーダイガ-
  • 県営中城第二団地

池武当原 (イチントウバル)

  • 石坂 (イシビラ)
  • 上ヌ毛 (イーヌモー)
  • サクヌヤマ
  • 上ヌ井戸 (イーヌカー)
  • 龕屋毛 (ガンヤーモー)、龕屋 (ガンヤー) 跡
  • 沖縄成田山福泉寺
  • 添石村の井戸跡 (添石村の拝所)

仁原 (ジンバル)

  • 添石集落の拝所
    • ギイスノテラ (ヤハンメー御嶽) [1月5日 訪問]
    • シーシガンワー [1月5日 訪問]
    • ノロ殿内 (ヌンドゥンチ) の墓 [1月5日 訪問]
    • 中城高原ホテル跡
    • イントーガラガラ、拝所 (未訪問)
    • 雷岩 [1月5日 訪問]

自転車走行距離:44.07km、ウォーキング距離: 14km



旧中城間切 伊舎堂集落 (いしゃどう)

伊舎堂は中城村の北東部に位置し、東側は中城湾に面し、西側は登又、南側は添石、北側は泊に接している。 
字伊舎堂は伊舎堂原 (イシャドウバル)、前原 (メーバル)、浜原 (ハマバル)、壺川原 (チブガーバル)、池武当原 (イチントウバル)、仁原 (ジンバル) の6つの小字 (原名) で構成されている。現在の伊舎堂集落は国道329号の東側の平坦地の伊舎堂原と前原の上部に集中し、前原と浜原には畑が広がり、浜原の海岸一帯は工業地帯となっている。国道329号の西側は丘陵斜面になっている。
伊舎堂集落の始まりは中城グスクの北側にあり、伊舎堂古島と伝えられている。伊舎堂村は1600年代には中城村と呼ばれており、中城間切の中で主邑 (ドゥームラ) だったが、その後、中城間切が世子の直轄領になり、世子が中城王子と称されるようになった事から、1668年に中城という文字の使用を禁ずる制度ができ国内に発令され、中城村は1668年から1713年までの約50年の間に伊舎堂村へと改称している。中城間切の総地頭であった中城親方も伊舎堂親方へ改称している。その後、伊舎堂邑は上ヌ毛 (イーヌモー) にある上ヌ井戸 (イーヌカー) 付近に移動し、その後、現在の場所に落ち着いたと伝えられている。
琉球王国時代の伊舎堂村は、現在の登又の一部、喜石原 (キイシバル)、永田原 (ナガタバル)、平田原 (ヒラタバル)、犬野武原 (インヌンバル) も含んでいた。これら地域は1902年 (明治36年) に登又が分離独立した際にその行政区の一部として伊舎堂から分離されている。(地籍の変更は1945年 (昭和20年) に行われた。)

下の地図の様に伊舎堂の集落は明治時代から現在まではほとんど変化しておらず、民家の広がりはあまり見られない。大きな変化は、壺川原に1998年 (平成10年) に3LDKの56戸の県営中城第二団地が建てられてたことぐらいだ。


伊舎堂の2023年末の人口は839人で、明治時代の人口 (登又の一部を含む) とほぼ同じとなっている。沖縄戦で人口は激減したが、その後、徐々に増えてようやく明治時代と同レベルになった。ここ数年は人口減少が続いている。

明治、大正時代には伊舎堂は比較的人口の多い地域だったが戦後は、人口は他の地域に比べて伸びが鈍く、現在では中城村では真ん中のグループになっている。

沖縄戦では伊舎堂集落はほとんど全壊状態となっていた。中城村全体でも戦没者率は極めて高く、当時の人口の48%で、二人に一人は犠牲になっている。この伊舎堂でも住民の42%が犠牲となっている。

戦後、米軍の捕虜となった村民は山原 (ヤンバル) の収容所に送られていたが、1946年 (昭和21年) 1月に帰還許可がおり、中城村の村民は、まず当間又下に仮設住宅が設けられた一時収容所に移り、その後、津覇、新垣、 伊舎堂・添石、奥間に一時収容所が建設され再度移動している。一時収容所となった伊舎堂集落には伊舎堂、添石、久場、泊の住民が村に戻る準備として生活していた。伊舎堂・添石では、沖縄戦でほとんどの民家が破壊されていため、風が吹くと倒れそうな簡単なテントを建て仮設住宅としていた。 (写真下)


琉球国由来記等に記載されている拝所

  • 御嶽: ダイ森ノ御イベ (台グスク 在字久場)、ミツ物ノ御イベ (台グスク 在字久場)
  • 殿: 上伊舎堂之殿 (中城グスク内 在泊)
  • 神屋: 伊舎堂里主根所

琉球王国時代、伊舎堂の祭祀は大城ノロが管轄していた。大城ノロは伊舎堂以外にも大城、熱田、和仁屋、久場の祭祀も司っていた。中城グスクにあった上伊舎堂之殿だけは管轄外の与喜屋ノロによって執り行われていた。

昔から行われていた伊舎堂集落での祭祀は、年々減ってきており、現在では村としては年に数回程度で、それ以外は各家庭、各門中で行っている。


伊舎堂訪問ログ



伊舎堂原 (イシャドゥバル)

伊舎堂の民家が集中しているのが伊舎堂原で拝所などもこの小字に集まっている。まずはこの地域から散策をする。

倶楽部、伊舎堂公民館 (伊舍堂農業構造改善センター)

現在の伊舎堂農業構造改善センターの場所には戦前は倶楽部と呼ばれた村屋があった。当初、建物は茅葺きだったが、瓦葺きに建て替 えられた。倶楽部の前は広場になってお り、そこでは原山勝負の出し物や、クングヮチクニチに披露するスーマチの練習が行われていたという。村屋 (倶楽部) ができる以前の琉球王統時代から廃藩置県頃までには伊舎堂殿内の屋敷があったと考えられている。駐車場の奥の斜面に石畳の道があり大きな木の下まで続いている。そこには石が積まれている (写真下)。拝所なのだろうか?


親殿内小 (エードゥンチグヮ)

伊舍堂農業構造改善センターの敷地内には、伊舎堂村が現在の伊舎堂原に移動してきた際に、中城グスク付近にある上伊舎堂ヌ殿 (イシャドゥヌトゥン) をこの場所にウンチケー (お招き) したと言われている。祠の中にはビジュル石と香炉に見立てた石が安置されている。 戦前は今よりも小さな瓦屋根の祠で、現在よりも少し後方に建てられていた。親殿内小は現在も伊舎堂集落の年中行事の際に拝まれている

親殿内小の屋敷は道を挟んだ所にあったそうだ。


藍井戸 (エーガー)

親殿内小の向かいにはエーガーがあり、年中行事の際に拝まれている。伝承では、かつてはこの敷地内には伊舎堂殿内の屋敷があり、 その人たちが利用していたと伝えられている。名前の由来は、親殿内小近くの井戸であることや、藍染めをする際に利用したため、エー (藍) ガーと呼ばれるようになったのではないかと言われている。

農業構造改善センターには三つの力石が残っている。地域によってはチチイシ、差石 (サシイシ)、カタミイシ、真石 (マーイシ、マーイサー) 等呼ばれているが、伊舎堂ではクルトゥ石 (砂岩でできた石) と呼ばれている。戦前には一番クルトゥ (100㎏)、二番クルトゥ (60㎏)、三番クルトゥ、13歳以下が使用したワラバークルトゥ (40㎏) の四つのクルトゥ石が倶楽部の入口に並べられ、青年たちが力試しをしていた。力試しの方法は、手始めに軽い石を使い、両手で抱えて膝まで持ち上げ、それが出来ると次は胸の高さまで、そして最後は腕を伸ばし頭上まで持ち上げるといった順序で行い、軽い石で一通りできたら、重い石へと挑戦していったそうだ。一番と二番は藍井戸 (エーガー) の後方に、ワラバークルトゥは親殿内小の祠の後に置かれている。


伊舍堂農業構造改善センターの前の一本南の道を境として、北側は後村渠 (クシンダカリ)、南側は前村渠 (メーンダカリ) の二組に分けられ、村御願 (ムラウガン旧暦7月16日) にはこの二つの組によってダニオーラセーやスモー (角力) が競われていた。



伊舎堂安里 (イシャドゥアサトゥ) 門中の神屋

伊舎堂原内の南側には伊舎堂安里門中の神屋が置かれている。伊舎堂安里門中屋敷は一ブロック全てが敷地になっており、昔から伊舎堂の有力門中だった事が分かる。伊舎堂安里門中は護佐丸の兄である伊寿留 (イジュルン) 按司の子孫と伝えられており、古島から現在の場所に最初に降りてきた家だった。 この場所には本家の屋号 伊舎堂安里の屋敷があり、琉球でも有数の豪農として知られ、屋敷内には食料を貯蔵するための倉があった。伊舎堂の海岸には魚垣 (ウオガチ) も所有していた。伊舎堂安里では二月 (ニングヮチ) ウマチー (麦の初穂祭)、五月 (グングァチ) ウマチー (稲の初穂祭)、六月 (ルクグァチ) ウマチー (稲大祭) を行っており、五月ウマチーの際には各地からの参拝者が絶えないという。なぜか三月 (サングヮチ) ウマチー (麦大祭) は記載されていない。 現在、伊舎堂で行われている年中行事のほとんどは、始めに伊舎堂安里の神屋を拝んでおり、伊舎堂の年中行事との関係も深い。沖縄戦では伊舎堂安里の屋敷は日本軍の宿舎として使用され、10人程が駐留していた。伊舎堂集落では陣地壕などは造られず、宿舎のみに使われていた。


新垣 (アラカチ) 門中の神屋

公民館の東側には伊舎堂邑の古島の創始家で、根屋 (ニーヤ) である新垣 (アラカチ) 門中の本家にあたる屋号 大新垣の屋敷内に神屋が置かれている。根屋は村の祭祀を担う家で、 神役である根人 (ニーチェ) 、根神 (ニーガン) を輩出する家だが、現在は祭祀を行う神役は途絶えている。 本家大新垣の家には 「新垣筑登之親雲上」 と書かれた木片の位牌が戦火を逃れて現存している。 門中の行事として、 戦前は三月ウマチー、五月ウマチーを行っており、 三月ウマチーには由緒ある墓や神屋を参拝していたという。 現在は五月ウマチーのみを行っており、各地からの参拝者が絶えないそうだ。


伊波の角 (イファヌカドー)

公民館から一ブロック東南の道の四つ角辺りは他の道よりも幅が広く広場として利用されていた。倶楽部 (現在の公民館) ができる前はこの伊波のカドーで集会を開いていたという。戦前は、村御願 (ムラウガン) の日に行うワラバージナ (子ども綱引き) が行われていた。その後、このワラバージナは三本ガジマルで行われるようになった。


県道 (ケンドー、吉の浦線)

現在は国道329号線が幹線道路になっているが、この国道は戦後1953年 (昭和28年) に軍道13号線、琉球政府道13号線として開通されたもので、戦前は、この県道 (吉の浦線) が主要道路だった。この道路が伊舎堂原と前原の境になる。中城村内では久場から泊を経て吉の浦線を通り、奥間、和宇慶へと続いている。この道は明治時代までは中頭郡の管理する郡道だったが、1909年 (明治42年) 頃、県費により道路改修が行われ、県道となった。1914年 (大正3年) に沖縄人車軌道が設立され、1916 年 (大正5年) までには与那原―泡瀬間の全線に馬車軌道が敷設され、トロッコを利用して、西原製糖工場へサトウキビが搬入された。製糖期をはずれると、キドー (軌道) と呼ばれた客を乗せる屋根つきの軌道馬車が通っていた。

伊舎堂では旧県道沿いにマチヤ (商店) が3軒や、当時は中城村に二局あったユウビンチク (郵便局 写真下) のひとつ、巡査ヌヤー (駐在所 写真上) が立地していた。この県道の南は小字の前原で、現在でもほとんどが耕作地になっている。



マーチューグヮー (オミヤ)

伊舎堂原の東の端、ケンドー (吉の浦線) 沿いにマーチューグヮーと呼ばれる拝所が置かれている。お宮 (オミヤ) とも呼ばれている。伊舎堂村の火ヌ神 (ヒヌカン) と伝えられており、現在も年中行事で拝まれている。 中城グスク付近のデーグスク (台城) にある火ヌ神をウンチケー (お招き) し、敷地内の中央にクルトゥ石 (砂岩でできた石) を置いてアコウの木で囲い、火ヌ神として祀っていた。 祠と鳥居は1936年 (昭和11年) に戦前の皇民化政策によって建立され、天照大神が勧請されている。伊舎堂から出征する時に、武運長久を願い兵士を送り出した。クルトゥ石は祠の中に安置されている。 かつて、周囲はフクギと松の木で覆われており、この場所は聖域として、木々の伐採は禁止されていた。


樋川井戸 (ヒージャーガー)

後村渠 (クシンダカリ) と前村渠 (メーンダカリ) の境界になっている道の北、国道329号の近くに樋川井戸 (ヒージャーガー) がある。 水を溜める穴が掘られており、西側にある上ヌ井戸 (イーヌカー) から溝を掘って水を引いていた。 また、伊舎堂ガーラにも繋がっており、大雨の際には大量の水が伊舎堂ガーラに流れないように溝をより深く掘った。かつては生活用水としても利用されていたが、沖縄戦が始まる前には各家には井戸が設けられたため、使用されなくなって いた。現在はコンクリートで埋められ、アワ石で囲われている。


砂糖屋 (サーターヤー)

樋川井戸 (ヒージャーガー) を南西に進んだ突きあたりに茅葺きのサーターヤーがあった。詳細は不明だが、個人で使用していたと言われている。


伊舎堂川 (イシャドゥガーラ)

樋川井戸から砂糖屋跡沿いの道は南に海岸に向かって伸びている。この道沿いには人工の水路が造られている。大雨が降ると、上方の上ヌ井戸から大量の水が流れてきては度々集落が水浸しになったので、排水用として深い溝を掘り、この水路を造ったという。伊舎堂では伊舎堂川 (イシャドゥガーラ) と呼んでいる。雨が降ると水とともに土砂も流れてくるので、雨が止むと共同作業で溝の土砂をかき出す作業に追われたそうだ。現在では大部分は暗渠になっている。


砂糖屋 (サーターヤー)

暗渠になっている道を海岸方向に進み、伊舎堂原から前原の境、ケンドー沿いの添石集落内にも伊舎堂の砂糖屋 (サーターヤー) があった場所がある。ここには金城門中が使用していた茅葺きのサーターヤーがあったそうだ。現在は住宅地となっている。



前原 (マエバル)

伊舎堂原の前が前原 (マエバル) になる。ケンドー沿いには数軒の民家があるが、それ以外はほとんどが耕作地になっている。


伊舎堂前の三本ガジュマル

ケンドーを泊方面に進むと、三本ガジュマルと呼ばれる場所がある。その名の如く三本のカジュマルがたっている。伊舎堂集落がこの地に移動した際に、まずは屋号 伊舎堂安里が移り住み、続いて上ヌ安里 (イーヌアサトゥ)、前ヌ安里 (メーヌアサトゥ)、新垣 (アラカチ)、前和仁屋 (メーワナ)、前武田 (メーンター)、金城 (カナグスク) が降りてきた。以上の7つの家は七チネー (七つの家) と言われている。伊舎堂安里、新垣、金城の3組の夫婦がここに住み始めたときに記念として1本ずつ植樹したのがこの地になる。三本ガジュマルは台風や戦争で幾度も倒れたが、その度に植え替えられ、現在は三代目だそうだ。1955年 (昭和30年) には伊舎堂集落で集落移動400年祭が行われ、記念として三本ガジマルを囲む石垣が築かれている。ということは、中城グスクの北の古島から移住してきたのは15世紀半ばということになる。

当初、古島から現在の伊舎堂原に移動した人々は次々に体調を崩したため、もとの古島へ戻ってしまったそうだ。厄除け祈願のため臼太鼓 (ウスデーク) を踊りながら伊舎堂原へ移動したという。それで何事もなく生活ができ、その後、伊舎堂村の人々も徐々に伊舎堂原に住み始めたと伝わっている。

三本ガジュマルの広場の前、ケンドーにバス停がありその脇に、三つの石が置かれている。パイプで囲まれて大切に保存されているようだ。何になのだろうか?この形は鼎をに建てた火ヌ神によくみられる。火ヌ神だろうか?それとも三本のガジュマルに係わるものだろうか?


砂糖屋 (サーターヤー)

三本ガジュマルの隣、ケンドー道沿いにも屋号伊舎堂安里と玉城が共同で使用していた茅葺きの砂糖屋 (サーターヤー) が置かれていた場所になる。このサーターヤーも伊舎堂の他のサーターヤーと同様に1934年 (昭和9年) 頃に廃止されている。この場所にはサーターヤーに代わり、新たにキビを機械で絞る発動機 (圧搾機) を導入した改良製糖場が建てられた。伊舎堂の人々は製糖工場と呼んでいた。(他の地域ではハツドーキヤーと呼んでいた) 


エーグムイ

三本ガジュマルから東側の道を海岸方面に少し進むとエーグムイという溜池がある。戦前は畑仕事に使った馬を洗うために使われた。また、サーターヤーを利用していた時期はサーター車を回す馬に水を浴びせていたのでウマアビシグムイ (馬浴び溜池) とも呼ばれていた。戦前は現在よりも広く、馬二頭を同時に浴びせられるほどの広さがあり、子どもたちも水遊びに利用していたそうだ。


ナーシルダー (苗代田)

砂糖屋 (サーターヤー) の奥は伊舎堂で稲作が行われていた時代に稲の苗を育てていたナーシルダー (苗代田) があった場所になる。稲作は砂糖キビに変わりほとんど行われていないのだが、現在でも各地で稲の胚を苗代田に撒いていた旧暦10月にはタントゥイ (種取) 行事が行われている。伊舎堂でも、かつては、田圃を所有している人々は、発芽の成長を促す為に籾もみを水につけてザルに入れ、木綿をかぶせて上からお湯をかけるということを繰り返す作業を行い。その後に、稲の成長に差がでないように籾すりをした胚をナーシルダー (苗代田) に一斉に撒いていた。



浜原 (ハマバル)

前原 (マエバル) の海岸側は浜原 (ハマバル) と呼ばれる小字になる。ほとんどが耕作地で海岸沿いには工場が建ち並んででいる。 


潮垣道 (スガチミチ)

前原の海岸側は浜原 (ハマバル) になる。この地域はほとんどが耕作地になっている。これは戦前から変わっていない。この浜原と前原の境界線が潮垣道 (スガチミチ) になる。この潮垣道はケンドー (旧県道) ができる前は唯一の主要道路で、サトウキビを運ぶトロッコ軌道が敷設されていた。戦前はスガチミチから下は浜辺だったという。戦後徐々に埋め立てられ、現在に見られるさとうきび畑になった。


伊舎堂安里のカチ (垣)

戦前、伊舎堂安里は伊舎堂の海岸に大きなカチ (垣) を所有していた。カチ (垣) は、浅瀬の干潟 (ガタ) に石垣を積んだ魚垣のことで、サンゴ礁の上に岩を積み上げて、陸に向かって八の字型に約 100m程の石垣が作られ、カチの奥 (沖の方) にはフクルと呼ばれる魚を追い込むスペースがあり、干潮になって海水が引くと潮だまりができ、魚が捕れるような構造になっていた。カチの管理は伊舎堂安里の台所番をしていた屋号前元が行い、1ヶ月の中で最も干潮になる日に魚を捕りに行っていたという。 毎年9 月・10月頃になるとイシガチノーシ (石垣直し) が行われ、多くの人を雇い石垣の修繕を行った。戦況が厳しくなると、裕福をしてはいけないということでカチの修繕は禁止され、それに伴い、利用はされなくなり、現在では一部を残して消失している。

沖縄戦当時、日本軍はこの干潟 (ガタ) で射撃訓練をしていた。陸側に射撃する場所 (射座)が設けられ、海側に標的が設置されていた。この近くには住民の田畑もあり、射撃訓練の時には農作業への影響も出ていた。



壷川原 (チブガーバラ)

次に小字 伊舎堂原の東隣の壷川原 (チブガーバラ) を見ていく。この地域は20世紀末までは認可はなく、上ヌ毛 (イーヌモー) 之森戸それ以外は耕作地で、民家などはなかった。


蓮根井戸 (リンクンガー)

伊舎堂原の東に隣接した壷川原 (チブガーバラ) の中に木々が生い茂る林がある。この一帯はウドゥイモー (毛) と呼ばれ、上ヌ毛 (イーヌモー) の一部になる。

ここでは、かつては、ムラアシビ(村遊び)が行われた場所になる。この林の下側に蓮根井 (リンクンガー) がある。サクヌヤマの中腹から地下を通り、この場所に水が溜まり、井戸として利用されていた。当時は洗濯などの生活用水として使われていたという。水はきれいで、かつてはこの水を利用して蓮根を栽培し、王府に献上したと言い伝えられている。その言い伝えから伊舎堂では蓮根井戸 (リンクンガー) と呼ぶようになったという。同じ名前の井戸が隣村の添石にもあったので、この地域は蓮根栽培が盛んだったことが判る。


砂糖屋 (サーターヤー)

蓮根井戸 (リンクンガー) の東側にも砂糖屋 (サーターヤー) が置かれていた。ここには瓦葺きのものが一軒、茅葺きのものが二軒あり、それぞれは班ごとに使用していた。ここのサーターヤーも1934年 (昭和9年) 頃に廃止され、製糖作業は三本カジュマルの所に建てられた製糖工場に移っている。


壷川 (チブガー  消滅)

砂糖屋 (サーターヤー) の隣には井戸が置かれ、そこから排水路が海岸に伸びていた。井戸と排水路を壷川 (チブガー ) と呼んでいた。 井戸はサーターヤーや生活用水に利用され、 排水路は井戸に溜まった水を流していた。井戸の方は現在では消失している。


花の伊舎堂歌碑

蓮根井戸 (リンクンガー) があるウドゥイモー (毛) の上方、国道329号号線沿いに花の伊舎堂歌碑が置かれている。蓮根井戸 (リンクンガー) からは石畳の階段や坂道が整備されている。新しく造った石畳の中には古いものも混在しているので、昔にも道があったように思える。

ここに置かれている歌碑に刻まれた歌の作者や詠まれた年代は不明だが1869年以前から歌われていたと考えられている。言い伝えによると、昔、各ムラを歩き周り綿花を売っていた若い女性が詠んだとされている。花の伊舎堂とは、綿花栽培の盛んな伊舎堂や中城グスクの城下町である華やかな伊舎堂などの解釈がある。この琉歌に節をのせたものがジッソウ節で、1869年に国王である尚泰の命で野村安趙らが編纂した御拝領工工四にも記載されている。東恩納寛惇による揮毫の歌碑は1959年 (昭和34年) に琉球政府文化財保護委員会によって建立されている。

思ゆらば里前 (あなた様が私を想うのならば)
島とまいていまうれ (私のムラを訪ねてきてください)
島や中城花の伊舎堂 (私のムラは、中城にある花の伊舎堂です)


ドーダイガ-

花の伊舎堂歌碑から国道329号線を字泊方面に少し進んだ字境界付近の道沿いには戦前まではドーダイガ-と呼ばれた井戸があった。沖縄戦後、米軍によって埋められ消滅している。ドーダイガーは婚姻儀礼の一つである「婿いじめ」を行った場所で、伊舎堂では結婚する際に花婿を木の馬に乗せ、「ドーダイ ドーダイ」とかけ声を上げて木の馬を激しく揺らしながらドーダイガーまで運び、井戸を拝ませ、ウビナディ (水撫で) を行ったり、水を浴びせたという。この儀式を行わないと、ニーセーヤド (青年会組織) には入れなかったそうだ。


県営中城第二団地

壺川原には1998年 (平成10年) に3LDKの56戸の県営中城第二団地が建てられている。戦前の集落から拡張しているのはこの団地ぐらいで、伊舎堂人口の17%を占めている。賃料が安いので、建設以降はほぼ満室が続いている。



池武当原 (イチントウバル)

壷川原の西、伊舎堂原の北は小字 池武当原 (イチントウバル) で、ここから中城グスクがある丘陵への傾斜地が始まる。


石坂 (イシビラ)

壷川原と池武当原の境界が石坂 (イシビラ) で中城グスクへの道だった。中城グスクから降りてくるときにこの道を通った。滑り止めとして石が敷かれていたので、地元の人々はイシビラと呼ぶようになった。現在、この道の国道329号線側は雑草地になっており、通れなくなっている。


上ヌ毛 (イーヌモー)

花の伊舎堂歌碑があるウドゥイモー (毛) 一带から国道329号北側斜面部にかけては上ヌ毛 (イーヌモー) と呼ばれる。かつては、家の屋根を葺くために利用された茅が生息していた茅毛 (ガヤモー) で、伊舎堂村でが所有されていた。伊舎堂では、茅を刈り取る場所が班ごとに決まっており、刈り取ることができるのは正月前の1日だけと決められていた。クシユックィー (腰休め) の時に茅を刈る順番を決め、家屋の修復が必要な家を優先に刈り取らせた。茅は有料で、刈り取る際にお金を支払った。茅が余ると、他のムラに売って班の資金にしたり、家畜の餌にしたという。ガヤモーの管理には、細かい規則があった。禁止事項とは「自分の班以外のガヤモーに入ってはいけない。」「茅の勝手な刈り取りの禁止。」「ガヤモー内に生えているススキやソテツの採取の禁止。」これらの規則を破ると違反者として札をかけられ、札をかけている間は1日5厘、違反の内容によっては1日1銭を字に支払わなければならなかった。札をかけられた人は次の違反者を探し、その人に札をかけることによって罰金の支払いは止まったという。


サクヌヤマ

上ヌ毛 (イーヌモー) にある上ヌ井戸 (イーヌカー) へ向かう道の東側は谷間になっている。肉眼ではこの急な傾斜の谷間は確認できるのだが樹々が見終始ており写真ではその谷間が判る言うには撮れなかった。この様に上ヌ毛 (イーヌモー) の中心部が窪地になっていたので、方言で谷間を表す「サク」から、この一帯をサクヌヤマと呼ぶようになっていた。


上ヌ井戸 (イーヌカー)

道は上ヌ井戸 (イーヌカー) に通じている。伊舎堂村の共同井戸だったので、村井戸 (ムラガー) とも呼ばれていた。出産時にはここから産水 (ウブミジ) を汲んでいた。 この付近は伊舎堂村の人々が古島から、現在の場所に定住する前に一時期住んでいた場所で、その時に生活用水として使用したと言われている。 戦前までは水が豊富であったが、1951年 (昭和26年) にイーヌカー付近で16戸の家屋が潰されるほどの大規模な地滑りが発生し、水脈がかわり水が枯れたと言われている。


龕屋毛 (ガンヤーモー)、龕屋 (ガンヤー) 跡 

国道329号から西側の字 添石付近に、かつては伊舎堂の龕屋 (ガンヤー) があった。龕屋 (ガンヤー) の南側は広場で龕屋毛 (ガンヤーモー) と呼ばれ、葬式の準備はこの場所で行っていた。龕屋毛は松が生い茂り、自由に立ち入ることはできなかった。ここにあった龕屋は沖縄戦の戦火を逃れて戦後も残っていたが、1959年 (昭和34年) に起きた大規模な地滑りによって土砂に埋もれたが、龕 (ガン) は土砂から取り出され解体して伊舎堂公民館の屋根裏に保管していたが、伊舎堂農業構造改善センターに建て替えられた際に処分されてしまった。現在は林で中には入れない。写真に撮ったこの辺りが龕屋毛 (ガンヤーモー) だったのではと思う。



仁原 (ジンバル)

字伊舎堂の北の端には6つ目の小字 仁原 (ジンバル) になる。この地域には民家はほとんどない。17世紀初頭までは、この地域の中、現在の沖縄成田山福泉寺周辺には添石村があった。その後、東にあった照屋村と統合して現在の小字添石の門口原 (ジョーグチバル) に移住している。この地域にはかつての添石村の拝所が数多く残っており、現在でも添石集落住民に拝まれている。

この仁原 (ジンバル) には中城グスクに向かうハンタ道が通っている。ハンタ道には添石の国道329号線から県道146号線に入り向かう。県道146号線は中城城跡公園へ向かう観光道路とともに、正月には沖縄成田山への初詣の参拝道路になる。道の途中には特別養護老人ホーム 春華園、介護老人保健施設信成苑がある。ここから道は二股になり、146号線を進むと中城グスクになる。


沖縄成田山福泉寺

県道146号線を登っていくと、真言宗智山派の沖縄成田山福泉寺がある。(昭和50年) に成田山新勝寺の別院として本尊分霊を勧請し、本尊を不動明王として始まっている。沖縄のお寺としてはかなり立派な堂が建てられている。沖縄では檀家の習慣がないので寺の経営維持は難しく、日本の全県の中では断トツに少なく、最下位47位で90寺しかない。46位は鹿児島県だが、それでも 481寺もある。福泉寺の信者数については興味あったのだが、わからなかった。この辺りに現在の伊舎堂集落の古島に樽伊舎堂村があったとされている。


添石村の井戸跡 (添石村の拝所)

沖縄成田山福泉寺の敷地内にも井戸跡があったそうだ。近くにはギイスノテラ (シーシノテラ) などの拝所もある。現在の添石集落の古島になる添石村は、この一帯にあったと伝えられており、この井戸はその祖先が使用していたのではないかと考えられている。 現在は、雑木に覆われ、確認することはできないため、ハチウビー (新暦1月2日) の際には、周辺からこの井戸跡に向かって拝んでいる。確かな場所はわからないが、この辺りと思われる。


春華園まで戻り、二股道から、県道146号線を外れた道を登っていく。道の先に歩道橋が見えてきた。日本ある歩道橋の手前の方がハンタ道への入り口になる。

このハンタ道の入り口からは先日訪れた新垣グスクの山が見える。新垣へのハンタ道はここに建設されたオーシャンキャッスルカントリークラブ (アコーディア・ゴルフ) によって消滅し分断されている。この歩道橋から中城グスクまではかつてのハンタ道が残っている。

歩道橋を渡ると、石の階段があり、ハンタ道が伸びている。道沿いに「熱田根所門中」の石柱が立っていた。この奥に拝所があるそうだ。



添石集落の拝所

ハンタ道沿いには幾つか拝所がある、これら拝所は伊舎堂集落のものではなく、かつてはこの周辺にあった添石村 (現在の添石集落の古島) の拝所だったので、現在でも添石集落に拝まれている。


ギイスノテラ (ヤハンメー御嶽) [1月5日 訪問]

ハンタ道を進むと道が二本に分かれている。右の道が昔からのハンタ道になる。左の道は中城グスクへの迂回路になる。中城グスクの西側に建設された中城高原ホテルの解体工事で、通行不可になっていた際に、この迂回路で中城グスクに向かっていた。この迂回路に入った所に石階段がありい、その上に小洞穴がある。その中に霊石が祀られている。ギイスノテラと呼ばれる拝所で、琉球国由来記には「ギイス嶽: 神名ギイス森ノ御イベ」とされ、添石村のマス島袋という人の祖先が、霊石を村の上洞に安置し、その子孫が祭祀を司ったと記されている。 添石では、昔から添石 (シーシ) ノ寺 (ティラ) と呼ばれ、添石の拝所として拝まれていた。かつてはこの周辺一帯に添石村の集落があったと伝えられている。

ギイスは高い嶺を表し、この上の岩山は添石(シーシ) ガンワーと呼ばれている。昔はこの場所で男装をした女性と意中の男性が逢引 (ギイスノテラ参り) をしたといい、夜半前 (ヤハンメー) 御嶽とも呼ばれている。首里末吉町の末吉宮にも夜半参り御嶽 (ヤハンメーリウタキ) があったが、こちらの方は逢引場所ではなく、女官が恋の成就を祈願した場所だった。

1月5日はハンタ道、1月10日にはこの迂回路で中城グスクに向かったのだが、迂回路の道沿いには多くの古墓はある。ほとんどの墓は樹々で覆われ、墓の入り口が開いているものが多かった。墓を移転させたのだろう。この一帯は喜石原古墓群と呼ばれている場所で、古い掘込墓 (フィンチャーバカ) が多くみられる。


シーシガンワー [1月5日 訪問]

ギイスノテラから本来のハンタ道を少し進むと道沿いのギイス森にシーシガンワーと呼ばれる岩がある。(地籍は字登又喜石原) この岩は、獅子が吠えているような形をして いたと言われるが、現在は一部が崩れ落ちている。


ノロ殿内 (ヌンドゥンチ) の墓 [1月5日 訪問]

ハンタ道を更に進むと道沿いにノロ殿内 (ヌンドゥンチ) の平葺墓がある。ハンタ道から墓への階段がある。木々で覆われた道を登ると、突き当りが墓になっているのだが、樹々で覆われて墓は全く見えない。

いつも持参している鎌で生え茂っている草や枝を取り除き、ようやく墓が見えるようになった。ノロ殿内 (ヌンドゥンチ) の墓は琉球石灰岩に横穴を掘削して墓室を造り、横穴の入口に琉球石灰岩の切石を積んだ構造になっている。墓室内は正面に5段 側室に2段の棚を設け、その上に22基の厨子甕が安置されており、ノロ殿内 (ヌンドゥンチ) の家族墓として、歴代のノロも葬られていた。泊の泊原に新たに墓が造られ、遺骨はそこへ移されている。沖縄の拝所は年中樹々や草で覆われている。お参りなど祭事がある際には数日前に周りを綺麗にするんだが、数週間後には草や木々で覆われもとに戻ってしまう。綺麗にした際の写真 (右下) が資料にあった。


ハンタ道を進むとハンタ道が復元されている区間にでる。古い石畳から、新しい石畳に変わり、周囲は整備された跡がある。ここには中城高原ホテルが建てられていた場所で、2020年に解体されて、ハンタ道が復元されている。


中城高原ホテル跡

中城城跡が1955年 (昭和30年) に重要文化財に指定受けた際に、中城城跡の管理運営を行っていた中城公園組合が、観光客誘致のために中城高原ホテル建設を決定。組合の計画ではグスクの一の郭に建設予定だったが、文化財保護を主張する委員会と対立に政治問題化し、最終的にはホテル建設を本丸から城壁外の高台に建設場所を変更することで決着。1975年 (昭和50年) に沖縄の実業家・資産家の高良一氏により、1970年代前半に建設が開始したが、その後、建設をしていた企業が倒産、1972年 (昭和52年) の本土復帰に伴い、ホテルへのアクセス道路が文化財保護区域に指定されたことから、ホテルへは自動車でのアクセスができなくなった。その結果、建設途中のまま工事が中断し放置されてしまった。その後、長期間にわたり放置され廃墟と化していたが、2018年 (平成30年) に沖縄県が所有者と補償契約に合意し、ホテル解体が決定。約2億円をかけて2019年 (令和元年) から解体作業を開始、2020年に解体完了。

この経緯を見ると、なんとも気の毒な顛末だ。高良氏は1907年に宮古島生まれ、第一相互銀行の頭取や沖縄県観光連盟の初代会長を務めた。政界でも活躍し、1948年に戦後初の那覇市議選に当選し、1957年から12年間にわたり那覇市議会議長を務めた。また、行政と協力し中城公園を経営、また戦後には那覇市に映画館「アーニー・パイル国際劇場」や「平和館」を建設し、沖縄復興に大きな貢献をした人物だった。この高原ホテル建設も沖縄の為という使命感があったことは確かだろう。多大な資材をつぎ込み建設途中で行政の一方的な通告で、アクセス道路を失ってしまった。高良氏にとっては何とも勝手な行政と思っただろう。中城グスクが整備された現在ではバカ白グスクへのアクセス道路は完備している。高原ホテルは中城グスク跡に隣接していたので、行政がもっと協力的な姿勢があれば、この與那事にはならなかっただろう。

写真左上の様に当時の高原ホテルは完全に撤去されている。廃墟となっていたホテルの写真がいくつもあり、その一部を載せておく。


イントーガラガラ、拝所 (未訪問)

ハンタ道沿いにはもう一つ添石村に係わる拝所があると資料んは載っていた。イントーガラガラn洞窟とその近くの拝所だが、場所は明確には記載されておらず、高原ホテルの展望台近くにあるようだ。1月5日と10日にこの拝所を探したのだが、結局見つからなかった。展望台があった場所には道らしきものはあるのだが途中で深い草で覆われ、それ以上は進むことができなかった。イントーガラガラは、戦前には、添石の子供たちがこの辺りまで薪を取りに来たようで、ガマの中は格好の遊び場だった。中は鍾乳洞になっており、入り口から中に入ると最初は平らな部分になっているが、さらに奥へ進むと一変して深い崖状になっている。昔は、現在の入口とは別に穴があり、そこに石を投げ入れるとガラガラと音がして落ちていくことから、その名がついたといわれている。この洞窟の北側近くには拝所もある。この拝所の由来については、添石村の殿 (トゥン) であるという伝承も残っているが、定かではない。 戦前までヌンドゥンチ関係の家がこの辺りを拝んでいたということから、添石と何らかの関わりを持つ拝所である。現在は、旧暦6月25日のウハチーの時に、添石自治会によって拝まれている。写真が資料にあったので、ここに載せておく。


雷岩 [1月5日 訪問]

ハンタ道の終点の中城グスク之正門の手前に琉球石灰岩の大岩がある。かつてこの岩に雷がよく落ちていたことから地元では「雷岩」と呼ばれている。集落を結ぶ道、新垣グスクを経由して首里へいく道、宜野湾間切番所への道の3つの道が交わる交通の要衝として雷岩は目印の役割を果たしていたそうだ。この雷岩には伝承がある。中城グスクの城主だった護佐丸が勝連城主阿麻和利に攻められ、自害した日には、天候が急転し暴風雨となり、はげしい 落雷があった。その時に忽然と出現したのがこの岩だと伝えられている。

ここからは中城湾に面している集落群が見渡せる。

この先に中城グスクが見えている。もう少しでハンタ道終点の中城グスク正門が見える。

以上が添石集落に係わる拝所。1月5日と10日には中城グスクも見学したのだが、そのレポートは別途。



伊舎堂集落が拝んでいる拝所は小字 伊舎堂外にもある、中城グスクの北側に400年ほど前に集落が始まり、居住していた古島に係わるもの。それらは所在地の地域を訪れた際に、レポートに追加する。

  • 北中城村字大城
    • 大山ヌ井戸 (ウヤマヌカー)
    • 井戸跡
  • 北中城村字荻道
    • 荻道樋川井戸 (ヒージャーガー)
  • 中城村字泊
    • 伊寿留 (イジュルン) 按司の墓
    • 上伊舎堂ヌ井戸 (イシャドウヌカー)
    • 上伊舎堂ヌ殿 (イィシャドウヌトゥン)
  • 中城村字久場
    • 台グスクの拝所


この後、中城グスクを見学し、山を下り、途中、添石の古島のひとつだった照屋村があった場所で拝所を探した。中城グスクの南側の急峻な崖下の傾斜地にあるのだが、かなり時間がかかってしまった。終わったのは5時半を過ぎ日没が近い。急いで国道329号線まで降り、自転車で帰路に着いた。運悪く、途中でパンク。タイヤに穴が開いている。これではチューブ交換しても、すぐにパンクしてしまう。チューブtタイヤの間に千円札を折って挟み応急処置で何とか切り抜け、家に到着。既に8時を過ぎていた。タイヤが限界なのはわかっていたので、タイヤは通販で注文しているのだが、届くのはまだ先のようだ。次回の集落訪問までは時間が空いてしまうだろう。


参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村の文化財 第7集 中城村の屋取 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 4 伊舎堂 (2016 中城村教育委員会)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 5 添石 (2016 中城村教育委員会)
  • ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)

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