Okinawa 沖縄 #2 Day 254 (31/12/23) 旧中城間切 中城村 (13) Aragaki Hamlet 新垣集落 (1)
旧中城間切 新垣集落 (あらがき、アラカチ)
若南原 (ワカナンバル)
- 新垣川 (アラカチガーラ)、若南原 (ワカナンバル) の石橋
- 新垣 (アラカチ) の石橋
- 若南川 (ワカナンガーラ)
- 若南坂 (ワカナンビラ) 石畳
- 一時収容所、配給所
前原 (メーバル)
- 県道開削記念碑 (ヒモン)
- 新垣公民館、砂糖小屋跡 (サーターヤー)
- 中城ハンタ道
- 日本軍陣地跡
- 倶楽部 (村屋) 跡、クムイ (溜池) 跡
- 中道 (ナカミチ)
上原 (イーバル)
- 新垣綱曳き発祥地、サーターヤー跡
- クムイ跡、中城初等学校の分校跡
- フーリ毛 (モー)、冬至坊主小 (トゥンジーボージャーグワー)、坊主小 (ボージャーグゥー)
- 栄元坂 (ユムトゥビラ 与元坂)
- 馬場跡 (ンマイー)
- マージグヮー、マージグヮー石 (イシ)
- 種取毛 (タントゥイモー、ヒーウチャゲーモー)
福川原 (フクガーバル)
- チンマーサー
- 龕屋跡 (ガンヤー)
- 鍛冶屋 (カンジャー) ガマ
- 新垣上原集落遺 (古島)
- 根所 (ニードゥクル)
- ディーグニー
- 新屋 (ミーヤ) 門中の神アサギ
- 殿根 (トゥニ) 門中の神アサギ
- 神道 (カミミチ)
- ワーランガー
- 七門御墓 (ナナジョウウハカ)
- 金満御墓 (カニマンウハカ)
- 牛の鼻モーモー (ウシヌハナモーモー)
- カーブヤーガマ
- 新屋井戸 (ミージャーガー、上ヌ井戸 イーヌカー)
- 下ヌ井戸 (シチャヌカー)
- 新垣グスク
- 殿曲輪、殿 (トゥン 内原 [ウチバラ] ヌ殿)
- 西ヌ井戸 (イリヌカー)
- 東ヌ井戸 (アガリヌカー)
- 蛸壺 (タコツボ)
- 四の曲輪
- 二の曲輪、御嶽 (ウタキ 新垣ヌ嶽)
- 三の曲輪
- 一の曲輪
佐波地原 (サファジバル)
- ターチャーイシ (二つ石 ペリーの旗立岩)
- 里主バンタ
沖縄の集落巡りは11月末に首里末吉町訪問以来となる。10月11日から11月14日まで東京と小豆島を訪れ、12月1日から9日までは長女の結婚相手の両親と顔合わせで、再度東京に帰った。この時に風邪をひいてしまった。2019年1月に九州の旅で熊本で風邪をひいてから4年ぶりに風邪をひいた。これ以降、調子が悪かったのだが、沖縄に帰ってきてすぐ、12月12日には母親が亡くなり、急遽、故郷の小豆島まで葬式の為に帰郷。12月はあわただしく遠出の余裕がなかった。ようやく体調も戻り、生活も落ち着いたので、沖縄の集落巡りを再開する。今年3月まで訪問していた中城村の続ぎを行う。ここ数日は雨で今日の大晦日にようやく雨が上がったので新垣集落を訪問する。
旧中城間切 新垣集落 (あらがき、アラカチ)
地形の起伏が激しく、集落の北側後方に標高約161mの新垣山 (アラカチヤマ) が聳え、山を頂点に南向けに急傾斜し、その傾斜に沿って集落が立地している。新垣集落内は坂が多い。集落東側は、当間や屋宜集落にかけて急傾斜し中城湾が眼下に展望できる。この一帯は崖地帯になっており、崖ぶちに沿って中城城跡に繋がるハンタ道が通っている。その地形ゆえ、陸の孤島と称されるほど交通に不便な地であったが、1934年 (昭和9年) に現在の国道329号から奥間を通り集落の南側を東西に横切る県道普天間与那原線 (県道35号線) が開通し、交通の便は解消されている。とはいえ、この新垣へはこの県道35号線のみが唯一の道で、現在でも交通の便は良くない。隣の登又へは直接行く自動車道はなく、道35号線で宜野湾方面経由になる。中将湾に降りるのも道35号線で奥間に至る道だけだ。バスも運行しているが、便数は少なく車は必要だ。
戦前、戦後まもなく迄は、民家は上原、前原、若南原に集中していたが、現在は井原や後原、下川原、岡武座原まで集落が広がっている。新垣グスクは福川原にあり、そこには祭祀を行う拝所が集中している。
字新垣の人口は1880年 (明治13年) では624人、1919年 (大正8年) では714人で現在の人口 (サンヒルズタウンの除く) よりも多く、中城村では人口の多いグループだった。沖縄戦で人口が激減して以降、他の地域に比べ人口は伸び悩んでいたが、1993年に中城サンヒルズタウンの住宅地建設で字新垣の人口は増加し戦前の人口を上回っている。
沖縄戦で人口は激減している。1945年4月1日に読谷に上陸した米軍は翌日の2日には中城グスクに侵入、4月4日には新垣グスク周辺の高射砲陣地が猛攻撃を受け、多くの戦死者を出している。新垣集落住民の戦死者は325人で、当時の村の人口は約600人で、村民の54%が犠牲になっており、戦没者率ではかなり高かった。
戦後、1946年に村民は帰還が始まり当時の人口は270人程での再出発だった。その後人口は増加し、本土復帰の前の1970年には472人まで増えたが戦前の人口レベルにははるかに及ばない。新垣は他の中城村の集落に比べ、利便性に劣った事もあるのか、その後は人口は減少している。1993年 (平成5年) に字新垣の下川原と岡武座原と字登又にまたがって中城サンヒルズタウンの住宅地が開発され、新垣の人口は増加に転じている。2009年 (平成21年) の中城サンヒルズタウンの人口 (字新垣と字登又) は 536人 (208戸) とサンヒルズタウンを除く字新垣の人口を上回っている。[中城サンヒルズタウン人口の字新垣と字登又の内訳は不明。地図を見ると7割程度が字新垣に属しているようだ]
中城サンヒルズタウンにも立ち寄った。新垣山に向かって緩やかな坂道が伸びて、その両側に戸建て住宅が広がっている。
琉球国由来記等に記載されている拝所
- 御嶽: 新垣ヌ嶽 (御嶽 神名: 天次アマタカヌ御イベ)
- 殿: ウチバラヌ殿 (殿)
- 拝井: 西ヌ井戸 (イリヌカー)、東ヌ井戸 (アガリヌカー)、ミージャーガー (上ヌ井戸 ウィーヌカー)、ワーランガー
- その他: 七門御墓 (ナナジョーウハカ)、金満御墓 (カニマンウハカ)、根所 (ニードゥクル)、新屋 (ミーヤ)、ディーグニー、綱引きの祈願所
新垣集落では昔からの祭祀は段々と減っていっているようだ。ここで野祭祀はウマチーなど農耕に係わる祭祀以外は新暦で行っている。明日は正月で初水の行事があるのだが、昔はミージャーガ-から汲んでいたが、今では適当にやっているようだ。
新垣集落訪問ログ
小字若南原 (ワカナンバル)
新垣川 (アラカチガーラ)、若南原 (ワカナンバル) の石橋
新垣 (アラカチ) の石橋
若南川 (ワカナンガーラ)
若南坂 (ワカナンビラ) 石畳
一時収容所、配給所
前原 (メーバル)
戦前には下村渠 (シチャンダカリ) と呼ばれた新垣集落の中心地のひとつ
県道開削記念碑 (ヒモン)
新垣公民館、砂糖小屋跡 (サーターヤー)
中城ハンタ道
日本軍陣地跡
倶楽部 (村屋) 跡、クムイ (溜池) 跡
中道 (ナカミチ)
上原 (イーバル)
中道 (ナカミチ) から上は上村渠 (イーンダカリ) と呼ばれた上原 (イーバル) で下村渠 (シチャンダカリ) の前原と共に新垣集落の中心地だった。
新垣綱曳き発祥地、サーターヤー跡
クムイ跡、中城初等学校の分校跡
サーターヤー跡地の隣は広場になっている。その中にクムイ (溜池) も造られ、ちょうど白い建物があった場所にあったとおじいに教えてもらった。この広場の場所には、戦後、1946年 (昭和21年) から1950年 (昭和25年) 12月末まで、当間に置かれた中城初等学校の分校が設置されてた。この分校には登又、新垣、北上原の小学1~ 2年生が通っていた。茅葺き屋根の校舎は地域住民が資材を持ちより建設された。床は土間、教室の壁はススキで造られており、窓にガラスは無く、雨が降れば教室に水たまりができたそうだ。分校が廃校になった後は生徒は先に訪れた当間道を通って通学していたと公民館で話をした殿根屋門中の男性が教えてくれた。
フーリ毛 (モー)、冬至坊主小 (トゥンジーボージャーグワー)、坊主小 (ボージャーグゥー)
栄元坂 (ユムトゥビラ 与元坂)
馬場跡 (ンマイー)
マージグヮー、マージグヮー石 (イシ)
馬場跡 (ンマイー) の道の北側にはポンプ場付近まで丘陵の傾斜地になっており、マージグヮーまたはレーシヌメーと呼ばれている。このマージグヮーの上部に大岩が聳え、マージグヮーイシまたはレーシと呼んでいる。両名称とも由来については不明。
種取毛 (タントゥイモー、ヒーウチャゲーモー)
福川原 (フクガーバル)
上原からハンタ道を登ると福川原 (フクガーバル) に入る。ここには新垣集落のクサティ (腰当) で御願所や拝所が集まっている。
チンマーサー
龕屋跡 (ガンヤー)
鍛冶屋 (カンジャー) ガマ
新垣上原集落遺 (古島)
根所 (ニードゥクル)
ディーグニー
新屋 (ミーヤ) 門中の神アサギ
根所 (ニードゥクル) の南側は畑となっている。この畑の所が前吉門 (メーユシジョー) の屋敷跡で、その奥に建物が見える。この建物は新屋 (ミーヤ) 門中の神アサギになる。新屋 (ミーヤ) も旧家 (七門) のひとつで、新垣の拝所となっている根所 (ニードlゥクル ) の分家で新垣の祭祀に関わる神役を出していた門中だった。多くの集落で古島の屋敷は上の方から身分の高い家が置かれ、分家などは本家の下に置かれる。新屋 (ミーヤ) 屋敷が新垣上原遺跡の中でも下方に位置しているのだが、これは新屋の当主が一度新垣を出されたが、神役を出している家であることから、3、4代 目の頃に呼び戻されて現在地に屋敷が準備されたからと伝わっている。
殿根 (トゥニ) 門中の神アサギ
神道 (カミミチ)
ワーランガー
神道 (カミミチ) の階段を上ると正面は高い崖が聳え、道は右に殿 (トゥン) に向かって曲がっている。その道の途中、新屋敷屋敷跡の北側、神道沿い左側の崖の麓にワーランガーがある。名の由来は不明。大岩の根元に石積みがみられ、以前は水が湧き出ていたが、現在は水が枯れている。以前は八月カシチーとウガンプトゥチの際に拝まれていた。
ワーランガ-は崖岩の根元にあるのだが、この崖岩の背後には皿に高い崖が聳えている。この崖の上が新垣グスクの三の曲輪があった場所でグスクを敵から守る要所に当たる。崖は三の曲輪から二の曲輪、殿曲輪の入り口まで続き、新垣グスクの防御壁となっていた。
七門御墓 (ナナジョウウハカ)
金満御墓 (カニマンウハカ)
牛の鼻モーモー (ウシヌハナモーモー)
カーブヤーガマ
牛の鼻モーモー (ウシヌハナモーモー) の奥にもガマがあり、このガマ内にはたくさんコウモリ (カーブヤー) が生息していたのでカーブヤーガマと呼ばれていた。また伝承では首里の人と今帰仁の人がこのガマの前で戦ったとあり、今帰仁 (ナチジン) ガマとも呼ばれた。沖縄戦中は屋宜の国民学校にあった御真影 (天皇陛下、皇后陛下の写真) をここに避難させ、また、日本兵や新垣の人々もこのガマに避難していた。このガマも木々で覆われて全容がわかる写真が撮れない。資料には木々が伐採され、草が刈られた写真 (右上) があったので、それもあわせて載せておく。
新屋井戸 (ミージャーガー、上ヌ井戸 イーヌカー)
下ヌ井 (シチャヌカー)
新垣グスク
うらおそいおもろのふし一 あらかきの、ねたか、
もりくすく、てたか、
ふさよわか、くすく
又 てにつきの、ねたか、もり
新垣の根高杜城 (新垣グスク) は
城主の居城にふさわしいグスクである。
一 あらかきの、くにの、ねにけよ、
しよる、つかい、
もゝとの、つかい
又 天つぎの、しまのねに
新垣の天頂の国の根(中心)に
今日している神迎えは、
いく度もくり返したお招きなのだ
グスクでは良質の輸入陶磁器も多く出土していることも含めて考えると、当時の新垣グスクとその周辺の地域が繁栄していたことが想像できる。新垣グスクは一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪、殿曲輪の五つの曲輪からなっていた。
まずは殿曲輪から新垣グスク内を見ていく。グスクの北側と西側は急峻な崖になっている。南側は自然の岩場を利用した城壁で守られていたように思える。東側はなだらかな地形で、堀切や土塁が構築されていたようだ。
殿曲輪、殿 (トゥン 内原 [ウチバラ] ヌ殿)
神道の階段を上がった所が広場にんっており、その中心に祠が置かれている。これが殿 (トゥン) と呼ばれる拝所で、琉球国由来記には内原ヌ殿 (ウチバラノトゥン) 記載されている。ヨキヤ巫と呼ばれるノロの管轄する祭場で、祠内には御神体として幾つかの自然石 (霊石) と香炉 (ウコール) が置かれて祀られている。新垣集落の人々はこの近くにある新垣ノ嶽と共に御嶽 (ウタキ) と呼んでおり、周辺の植物の伐採は控えられている。 戦前までは旧暦5月と6月に行われるウマチー (稲ニ祭) の際にはこの平場に新垣集落の住民が総出で集まりウンサク (神酒) をお供えて拝んでいたが、現在では自治会を中心に祈願が行われている。また、グスク時代にはここにはヨキヤ巫が常駐し祭祀を行っていたと伝わり、ノロ殿内の役割を果たしていたと考えられる。
西ヌ井戸 (イリヌカー)
殿 (トゥン) の左側の木の根元には西ヌ井戸 (イリヌカー) がある。石積みが施され、以前は水量が豊富だったが、現在は水は枯れてしまっている。戦前までは新垣集落住民に旧暦5月と6月に行われるウマチー (稲ニ祭) の豊作祈願に拝まれていたが、現在では自治会を中心に五月・六月ウマチーの際に祈願が行われている。
東ヌ井戸 (アガリヌカー)
殿 (トゥン) の広場から一段下がった場所に東ヌ井戸 (アガリヌカー) がある。草で覆われて井戸の形が見えないので、持参している鎌で草を刈って撮影した。それでも井戸の形が分かるようには写っていなかった。この井戸も石積みが施され、以前は水量が豊富だったが、現在は水は枯れてしまっている。戦前までは新垣集落住民に旧暦5月と6月に行われるウマチー (稲ニ祭) の豊作祈願に拝まれていたが、現在では自治会を中心に五月・六月ウマチーの際に祈願が行われている。
蛸壺 (タコツボ)
東ヌ井戸 (アガリヌカー) 付近に、深さ数十センチ程の溝が南北に数メートル程掘られた跡が残っている。これは日本軍が沖縄戦時に掘った蛸壺 (タコツボ)で、新垣グスク周辺が日本軍の陣地になっていたことをうかが わせる。
四の曲輪
東ヌ井戸 (アガリヌカー) のある広場の奥の崖上が四の曲輪になる。四の曲輪には道がなく入れなかった。
二の曲輪、御嶽 (ウタキ 新垣ヌ嶽)
三の曲輪
二の曲輪の奥が三の曲輪と考えられている。それほど大きな曲輪ではない。ちょうど先ほど通ったワーランガ-の崖の上に当たる。三の曲輪は樹々の覆われて中に入ることは断念。
一の曲輪
二の曲輪の上には石垣で囲まれた一の曲輪があるのだが、そこへの道は見つからない。そこで強引に林の中を木々をかき分けて一の曲輪に向かう。石垣の囲い (写真右上) を越え一の曲輪に入ったがそこも木々で覆われている。村の人たちもめったにここには来ないのだろう、最近では手入れなどはされていないようだ。一の曲輪の中には所々に大岩 (写真下) があった。
一の曲輪の中に二の曲輪の上に当たるところに天継 (アマチジ) と書かれた拝所があった。石碑には神が降臨した場所と書かれていた。
一の曲輪の西の端には大岩があり、岩の窪みの中に霊石のようなものが置かれている。多分ここも拝所なのだろう。この大岩の先は絶壁となっており、すぐ下が三の曲輪が位置している。
一の曲輪内を東に進むと北側も急峻な崖の上には拝所が置かれていた。金満ウタキと刻まれている。仲加門中の屋号新仲加小が造立している。(新仲加小は多分新垣集落内にある新名加小野事ではないかと思う)
この東の大岩野上からは宜野湾、普天間方面が一望できる。
新垣グスク見学を終えて、殿まで戻り、神道を降りると中城ハンタ道に合流する。階段下からハンタ道を示す石畳が整備されている。
佐波地原 (サファジバル)
福川原 (フクガーバル) の北側は佐波地原 (サファジバル) になる。この地域にはほとんど民家は見られない。
ターチャーイシ (二つ石 ペリーの旗立岩)
1853年にぺリーー行が琉球国の沖縄本島の周辺や内陸部を調査を行い、その際に調査隊が首里、西原を経て中城グスクへ向かっていた。その途中にここに立ち寄った際の様子が随行した画家ウィリアム・ハイネが版画 (左の版画) として残している。それによると、その岩の頂上に旗を立て、麓では岩山征服を記念し祝砲を撃ち鳴らしたという。一行はこの岩にバナー・ロック (Banner Rock) と名付けている。ここから中城グスク二向かう様子も版画 (右) として残っている。
里主バンタ
中城ハンタ道、代替道
ペリーの旗立岩までは自動車出行くことができるのだが、この先のハンタ道は細くなり、自動車は通行不可。中城グスク二自動車で行くには新垣集落まで戻り県道35号線から県道29号線を経ていくことになる。中城グスクへのハンタ道はゴルフ場建設でこの一定区間は消滅しており、歴史の道として代替道が整備されている。元々の中城道はゴルフ場受付建物の横からゴルフ場を突っ切るルートだった。
まだまだ予定していた新垣のスポットは残っているのだが、今日で全部は訪問できないので、明日、もう一度訪れて残りを見学することにして帰路に着く。これで今年の集落巡りは終了。今年は夏以降、軽い熱中症や足の痛み (まだ少し痛みは残っている)、娘二人の結婚、母親の葬式などで帰郷など、今年後半は沖縄の集落巡りは思うように進まなかったが、今年最後は沖縄の集落巡りで終えることができた。
参考文献
- 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
- 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
- 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
- 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
- 中城村 戦前の集落 シリーズ 7 新垣 (2016 中城村教育委員会)
- ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
- 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)
- 青い目が見た「大琉球」 (1987 ラブ オーシュリ)
0コメント