Okinawa 沖縄 #2 Day 254 (31/12/23) 旧中城間切 中城村 (13) Aragaki Hamlet 新垣集落 (1)

旧中城間切 新垣集落 (あらがき、アラカチ)

若南原 (ワカナンバル)

  • 新垣川 (アラカチガーラ)、若南原 (ワカナンバル) の石橋
  • 新垣 (アラカチ) の石橋
  • 若南川 (ワカナンガーラ) 
  • 若南坂 (ワカナンビラ) 石畳
  • 一時収容所、配給所

前原 (メーバル)

  • 県道開削記念碑 (ヒモン)
  • 新垣公民館、砂糖小屋跡 (サーターヤー)
  • 中城ハンタ道
  • 日本軍陣地跡
  • 倶楽部 (村屋) 跡、クムイ (溜池) 跡
  • 中道 (ナカミチ)

上原 (イーバル)

  • 新垣綱曳き発祥地、サーターヤー跡
  • クムイ跡、中城初等学校の分校跡
  • フーリ毛 (モー)、冬至坊主小 (トゥンジーボージャーグワー)、坊主小 (ボージャーグゥー)
  • 栄元坂 (ユムトゥビラ 与元坂)
  • 馬場跡 (ンマイー)
  • マージグヮー、マージグヮー石 (イシ)
  • 種取毛 (タントゥイモー、ヒーウチャゲーモー)

福川原 (フクガーバル)

  • チンマーサー
  • 龕屋跡 (ガンヤー)
  • 鍛冶屋 (カンジャー) ガマ
  • 新垣上原集落遺 (古島)
  • 根所 (ニードゥクル)
  • ディーグニー
  • 新屋 (ミーヤ) 門中の神アサギ
  • 殿根 (トゥニ) 門中の神アサギ
  • 神道 (カミミチ)
  • ワーランガー
  • 七門御墓 (ナナジョウウハカ)
  • 金満御墓 (カニマンウハカ)
  • 牛の鼻モーモー (ウシヌハナモーモー)
  • カーブヤーガマ
  • 新屋井戸 (ミージャーガー、上ヌ井戸 イーヌカー)
  • 下ヌ井戸 (シチャヌカー)
  • 新垣グスク
    • 殿曲輪、殿 (トゥン 内原 [ウチバラ] ヌ殿)
    • 西ヌ井戸 (イリヌカー)
    • 東ヌ井戸 (アガリヌカー)
    • 蛸壺 (タコツボ)
    • 四の曲輪
    • 二の曲輪、御嶽 (ウタキ 新垣ヌ嶽)
    • 三の曲輪
    • 一の曲輪

佐波地原 (サファジバル)

  • ターチャーイシ (二つ石 ペリーの旗立岩)
  • 里主バンタ


沖縄の集落巡りは11月末に首里末吉町訪問以来となる。10月11日から11月14日まで東京と小豆島を訪れ、12月1日から9日までは長女の結婚相手の両親と顔合わせで、再度東京に帰った。この時に風邪をひいてしまった。2019年1月に九州の旅で熊本で風邪をひいてから4年ぶりに風邪をひいた。これ以降、調子が悪かったのだが、沖縄に帰ってきてすぐ、12月12日には母親が亡くなり、急遽、故郷の小豆島まで葬式の為に帰郷。12月はあわただしく遠出の余裕がなかった。ようやく体調も戻り、生活も落ち着いたので、沖縄の集落巡りを再開する。今年3月まで訪問していた中城村の続ぎを行う。ここ数日は雨で今日の大晦日にようやく雨が上がったので新垣集落を訪問する。



旧中城間切 新垣集落 (あらがき、アラカチ)

新垣 (あらがき、アラカチ) は中城村で一番古い集落と言われ、中城村の西部に位置し、北側が字登又、南側が字北上原、 西側が宜野湾市に面する。

地形の起伏が激しく、集落の北側後方に標高約161mの新垣山 (アラカチヤマ) が聳え、山を頂点に南向けに急傾斜し、その傾斜に沿って集落が立地している。新垣集落内は坂が多い。集落東側は、当間や屋宜集落にかけて急傾斜し中城湾が眼下に展望できる。この一帯は崖地帯になっており、崖ぶちに沿って中城城跡に繋がるハンタ道が通っている。その地形ゆえ、陸の孤島と称されるほど交通に不便な地であったが、1934年 (昭和9年) に現在の国道329号から奥間を通り集落の南側を東西に横切る県道普天間与那原線 (県道35号線) が開通し、交通の便は解消されている。とはいえ、この新垣へはこの県道35号線のみが唯一の道で、現在でも交通の便は良くない。隣の登又へは直接行く自動車道はなく、道35号線で宜野湾方面経由になる。中将湾に降りるのも道35号線で奥間に至る道だけだ。バスも運行しているが、便数は少なく車は必要だ。

字新垣は、上原 (いーばる)、前原 (めーばる)、 若南原 (わかなんばる)、佐阿志原 (さーしばる)、井原 (いーばる)、後原 (くしばる)、弁川原 (びんがーる)、稲乾原 (いにふすばる)、知真謝原 (ちまさーばる)、杭地原 (くぃーじばる)、福川原 (ふくがーばる)、真木原 (まぎばる)、佐波地原 (さふぁじばる)、岡武座原 (うかんざばる)、島原 (しまぼる)、下川原 (しむがーばる)、前川原 (めーがーばる)、渡地原 (わたんじばる)、東古桐原 (あがりふるちりばる)、西古桐原 (いりふるちりばる) の20の小字 (原名・ハルナー) から成り立っている。

 戦前、戦後まもなく迄は、民家は上原、前原、若南原に集中していたが、現在は井原や後原、下川原、岡武座原まで集落が広がっている。新垣グスクは福川原にあり、そこには祭祀を行う拝所が集中している。

字新垣の人口は1880年 (明治13年) では624人、1919年 (大正8年) では714人で現在の人口 (サンヒルズタウンの除く) よりも多く、中城村では人口の多いグループだった。沖縄戦で人口が激減して以降、他の地域に比べ人口は伸び悩んでいたが、1993年に中城サンヒルズタウンの住宅地建設で字新垣の人口は増加し戦前の人口を上回っている。

沖縄戦で人口は激減している。1945年4月1日に読谷に上陸した米軍は翌日の2日には中城グスクに侵入、4月4日には新垣グスク周辺の高射砲陣地が猛攻撃を受け、多くの戦死者を出している。新垣集落住民の戦死者は325人で、当時の村の人口は約600人で、村民の54%が犠牲になっており、戦没者率ではかなり高かった。

戦後、1946年に村民は帰還が始まり当時の人口は270人程での再出発だった。その後人口は増加し、本土復帰の前の1970年には472人まで増えたが戦前の人口レベルにははるかに及ばない。新垣は他の中城村の集落に比べ、利便性に劣った事もあるのか、その後は人口は減少している。1993年 (平成5年) に字新垣の下川原と岡武座原と字登又にまたがって中城サンヒルズタウンの住宅地が開発され、新垣の人口は増加に転じている。2009年 (平成21年) の中城サンヒルズタウンの人口 (字新垣と字登又) は 536人 (208戸) とサンヒルズタウンを除く字新垣の人口を上回っている。[中城サンヒルズタウン人口の字新垣と字登又の内訳は不明。地図を見ると7割程度が字新垣に属しているようだ]

中城サンヒルズタウンにも立ち寄った。新垣山に向かって緩やかな坂道が伸びて、その両側に戸建て住宅が広がっている。


琉球国由来記等に記載されている拝所

  • 御嶽: 新垣ヌ嶽 (御嶽 神名: 天次アマタカヌ御イベ)
  • 殿: ウチバラヌ殿 (殿)
  • 拝井: 西ヌ井戸 (イリヌカー)、東ヌ井戸 (アガリヌカー)、ミージャーガー (上ヌ井戸 ウィーヌカー)、ワーランガー
  • その他: 七門御墓 (ナナジョーウハカ)、金満御墓 (カニマンウハカ)、根所 (ニードゥクル)、新屋 (ミーヤ)、ディーグニー、綱引きの祈願所

新垣集落では昔からの祭祀は段々と減っていっているようだ。ここで野祭祀はウマチーなど農耕に係わる祭祀以外は新暦で行っている。明日は正月で初水の行事があるのだが、昔はミージャーガ-から汲んでいたが、今では適当にやっているようだ。


新垣集落訪問ログ




小字若南原 (ワカナンバル)

今年の三月には字新垣の南側の字北上原を訪れている。その際には新垣の小字にあたる若南原 (ワカナンバル) も訪れ、そこに残っている史跡は北上原の訪問記で紹介している。重複するが、ここでも記載しておく。

新垣川 (アラカチガーラ)、若南原 (ワカナンバル) の石橋

若南原 (ワカナンバル) には若南川 (ワカナンガーラ) が流れている。この川で新垣集落と耕作地帯が分断され不便だったので、新垣住民が若南川に橋を3基造っていた。ここに架けられているアーチ式石橋は歴史の道の整備に伴い新しく造った橋で、下流の新垣の石橋を参考に造られたもの。以前は、この地点には橋はなく、川の中に大きな石を置いて川を渡っていたそうだ。
ここから新垣川 (アラカチガーラ) の下流にもアーチ型石橋が架かっていたが、現在ではコンクリート橋に掛け替えられている。

新垣 (アラカチ) の石橋

更に新垣川を下って行くと、三基の内唯一残っている新垣 (アラカチ) の石橋がある。以前はトゥムルバシと呼ばれていた。トゥムルの由来については不明。新垣集落は昔から石工が多く、石造技術の高い地域と伝えられている。 新垣の石橋は1942年 (昭和17年) 頃に、働き手の男達は徴兵され、若い女性も県外の軍需工場へ働きに出ていて村にはおらず、石工の棟梁の元、村に残った老人婦人で造ったと伝えられている。石橋の大きさは橋脚高約2.1m橋幅約2.8mで、上部は亀甲墓のアーチ式の技法を駆使し、橋脚は布積みで石を積み上げて造られている。

若南川 (ワカナンガーラ) 

新垣川 (アラカチガーラ) の若南原 (ワカナンバル) の石橋の場所には新垣集落から流れている若南川 (ワカナンガーラ) が流れ込み合流している。以前は水が綺麗で、川の水を利用したターブックワー (田圃) が広がっていたが、現在はターブックワーをつぶしサトウキビ畑になっている。また、当時はこの川で子供たちが水遊びをしていた。この川沿いにハンタ道が通っている。川の両側は石垣で固められている。

若南坂 (ワカナンビラ) 石畳

ハンタ道を新垣集落に向けて進むと若南川 (ワカナンガーラ) に石橋が架かっている。これは新しく造られた物のようで、以前はその隣付近に石板が2枚置かれていたが、川幅が広がり石板が川の中に落ちてしまった。この橋から新垣集落へは登り坂になっている。以前は石畳道で、ハルミチ (畑道) として利用されていた。若南坂は戦後まで石畳が残っていたが、崩れてしまい、現在は一部だけが残っている。琉球石灰岩の石畳の道幅は崩れてしまい不明確だが、概ね80cmだったと考えられる。現在は階段が整備されてい る。
この坂の途中には、沖縄戦中に日本軍が造った壕がある。

一時収容所、配給所

若南坂を登り県道35号線に出る。県道沿い新垣区民館の向かいには戦後、住民が運営した配給所が置かれていた。ここでは月2回ほどにこの直ぐ下に収容されていた登又、新垣、北上原の住民に米や小麦粉、缶詰のほか、衣類など生活に必要な物資が配られていた。
新垣には終戦直後、村民の帰村のため建設された一時収容所が置かれていた。1946年 (昭和21年) 1月に、村民の多くは県内各地の収容 所に収容されていた。まず、当間又下 (トーマヌシチャ) の高江洲屋取に一時収容所として仮設住宅が建設された。その後、津覇、新垣、伊舎堂/添石、奥間の順に一時収容所が建設されていった。帰村許可が降りた村民は当間又下の一時収容所にしばらく滞在し、もとの居住地近くの一時収容所へ移動させられた。新垣でも当間又下の一時収容所から新垣の一時収容所への受け入れが始まり、新垣と北上原の住民が若南坂の西側 (写真上)、登又の住民は東側 (写真下) に収容されていた。 新垣には数軒の瓦葺き民家が残っていたので、そこに数世帯が入居し、焼失した民家跡にはテントや標準屋 (ヤー) が建てられ住民を収容していた。


前原 (メーバル) 

戦前には下村渠 (シチャンダカリ) と呼ばれた新垣集落の中心地のひとつ


県道開削記念碑 (ヒモン)

今年の三月に訪れた北上原の若南屋取集落 (瑞慶覧屋取 ジキランヤードゥイ) から若南原 (ワカナンバル) を通るハンタ道の若南坂 (ワカナンビラ) の石畳を登った所に県道35号線が通っている。この辺りは前原 (メーバル) になり、この道沿いに記念碑が置かれていた。県道開削記念碑で、伊佐善俊親子の努力によって県道普天間与那原線 (県道35号線) が開通したことを讃え、1934年 (昭和9 年) 10月に新垣青年団により建立されたもので新垣集落ではヒモンと呼んでいる。当時、新垣集落は交通が不便で車道が無く、物資の運搬は馬の背と人の肩に頼る外なかった。その状況から伊佐善則が車で通れるような道を計画し、当時伊波小学校 (うるま市石川) の校長をしていた息子の善俊氏と東奔西走しながら計画実施に向け一生懸命努力した。父親の善則氏は道の実現を見る事なく1924年 (大正13年) に他界したが、息子の善俊はその運動を続け、校長を辞め県議会議員となり実現に努力した。いざぜんしゅん ちちいさぜんそく 新垣出身の県会議員だった伊佐善俊氏とその父伊佐善則氏の働きかけに より、開通を果たした県道。県議会にはたらきかけ、多くの困難を乗り越え実現を果たした。この道を造る際は新垣の住民も動員され殆どの過程は人力で行われた。現在は拡張工事で道幅も以前より広くなっている。記念碑は以前は屋号三良伊保の屋敷近くに建てられていたが、県道の拡幅にともない、現在地に移設されている。以前の記念碑の写真が残っており記念碑の左側、椅子に座っている伊佐善俊が写っている。

新垣公民館、砂糖小屋跡 (サーターヤー)

県道開削記念碑 (ヒモン) の奥に新垣公民館 (倶楽部と呼ばれていた) が置かれている。戦後、村屋は現在の公民館の駐車場 (写真下) に移転し、その後、現在の位置に移動している。戦前にはこの公民館の場所に2軒、その北側に2軒のカーラヤー (瓦屋) の砂糖小屋跡 (サーターヤー) が置かれていた。戦前の新垣には門中所有、個人所有、模合仲間の共同所有のサーターヤーが16棟あり、1軒あたり5~6名で使用していたという。これらサーターヤーで製造された黒砂糖はタルガーと呼ばれる砂糖専用の樽に詰め、当間のトルー (馬車軌道) や那覇の通堂へ運んでいた。県道普天間与那原線が開通する前は、2人1組で担いで急斜面を下りて行ったが、開通後はその道を馬車で運んでいた。沖縄戦当時は、この場所に日本軍の物資が野積みされていたそうだ。
公民館北側の2軒の砂糖小屋跡 (サーターヤー) 跡は植樹されて大切にされている。
北側サーターヤーの西側にはサーターヤーで道具を洗ったり、馬を洗ったりして使用していたクムイ (溜池) があったそうだが、現在では埋め立てられている。

中城ハンタ道

若南坂 (ワカナンビラ) から新垣山 (アラカチヤマ) へハンタ道が続いている。琉球王国時代、王府からの情報を各間切へ伝達する宿道 (シュクミチ) と呼ばれる主要道路があり、本島の東側を北上する道と西側を北上する道の2つのルートがあっ た。首里城を起点に東側を首里石嶺、西原町幸地グスクを経由し北上する道の内、中城村内の区間は南上原、北上原、新垣グスク、中城グスクへ至る約12kmの道で、台地部の東端の崖沿いを利用した道になっていることからハンタ道と呼ばれていた。当初、このハンタ道も国の主要道路の宿道 (シュクミチ) として利用されていたが、1671年に宜野湾間切が新設され、宿道の整備によるルート変更が行われ、ハンタ道は宿道からは外れてしまった。その後も集落間を結ぶ周辺住民の生活道路として利用されていた。
ハンタ道は新しく石畳道が整備されており、この石畳道を辿っていけば中城グスクまで行ける。

日本軍陣地跡

新垣の集落内には陣地が構築されていた。沖縄戦当時、倶楽部 (旧村屋) で寝泊まりして いた部隊が現在の県道35号線の近くの山をトンネル状に掘りぬいた壕を構築していた。この壕は戦後もしばらくは残っていたが 、崩れてしまい現在では消滅している。

倶楽部 (村屋) 跡、クムイ (溜池) 跡

ハンタ道を登っていくと、戦前、現在の場所に移る前の村屋 (ムラヤー) が置かれていた場所がある。この場所は屋号吉伊佐 (ユイシサ) の民家で、ムラ内の大きな家が村屋の役割をしており、書類の申請等が処理されていた。戦前、沖縄戦が始まる前には、ここにあった倶楽部 (村屋) やアシビナー (遊び庭) に日本兵が宿泊していた。倶楽部の空き地では、兵士たちが銃剣術の訓練をしたり、軍歌を歌ったり、体操をしていた様子が目撃されたという。旧村屋のすぐ北側には屋号伊波 (イファ) 所有のサーターヤーが置かれ、現在では消滅してしまったがクムイ (溜池) が造られていた。このクムイで道具を洗っ たり、馬に水浴びをさせていた。日照り続きで各家庭の井戸が枯れてしまった際には近隣の住民も利用したそうだ。

中道 (ナカミチ)

ハンタ道は旧村屋のすぐ北で中道 (ナカミチ) に交わる。中道というので新垣集落の中心を東西に走る道だった。集落の中央を東西に横断する道で、戦前、北側の小字上原の上村渠 (イーンダカリ) と南側の小字前原を中心とする下村渠 (シチャンダカリ) の境界になり、この道で両渠対抗の綱引きが行われている。


上原 (イーバル)

中道 (ナカミチ) から上は上村渠 (イーンダカリ) と呼ばれた上原 (イーバル) で下村渠 (シチャンダカリ) の前原と共に新垣集落の中心地だった。


新垣綱曳き発祥地、サーターヤー跡

中道を東に進むと新垣綱曳き発祥地がある。この場所では綱引きが無事に行われるようにと、綱引きの前に祈願が行われていた。ここには祠や霊石などは無く、この辺りで拝んでいる。拝所前は広場があったようで、ムラの青年達の憩いの場となっており、夏の夜は青年達が涼みに集まり、拝所の前に置かれていたクルト石を持ち上げ、力勝負をしていたという。この前の民家のおじいに教えてもらったのだが、綱曳き発祥地の奥の空き地はかつてはサーターヤーだった。サーターヤー跡の奥には村人の憩いの場だったアシビナー (遊び庭 ウドゥイナー) が置かれ、そこには観覧席のように段々になっており、様々な舞踊が演じられていた。現在は民家が建っている。


クムイ跡、中城初等学校の分校跡

サーターヤー跡地の隣は広場になっている。その中にクムイ (溜池) も造られ、ちょうど白い建物があった場所にあったとおじいに教えてもらった。この広場の場所には、戦後、1946年 (昭和21年) から1950年 (昭和25年) 12月末まで、当間に置かれた中城初等学校の分校が設置されてた。この分校には登又、新垣、北上原の小学1~ 2年生が通っていた。茅葺き屋根の校舎は地域住民が資材を持ちより建設された。床は土間、教室の壁はススキで造られており、窓にガラスは無く、雨が降れば教室に水たまりができたそうだ。分校が廃校になった後は生徒は先に訪れた当間道を通って通学していたと公民館で話をした殿根屋門中の男性が教えてくれた。


フーリ毛 (モー)、冬至坊主小 (トゥンジーボージャーグワー)、坊主小 (ボージャーグゥー)

サーターヤーとアシビナーの東側はフーリ毛 (モー) と呼ばれ、中城湾を眼下に見下ろす見晴らしの良い広場だった。 このフーリモーの西側にアシビナーがあり、そこにかけて約100mのンマイー (馬場) が横断していた。以前はこの広場にクムイ (溜池) やその東側には小山があったが、1971年 (昭和46年) に整備されて新垣区民運動場となり、以前の面影はみられない。フーリモーの東側は冬至坊主小 (トゥンジーボージャーグワー) と呼ばれ、現在では東屋 (写真左下) が置かれている。そこの高台からは中城湾が眼下に見下ろす事ができる。戦前はここでモーアシビー (毛遊び) が行われていたそうだ。沖縄戦当時には日本軍がこの斜面に横穴壕を構築し、機関銃が置かれ、東側斜面に造られた銃眼から中城湾方面の平野部を攻撃できるようになっていた。兵隊はこの近くでがテントを張って野営していた。フーリー毛の南側の広場 (写真右下) は坊主小 (ボージャーグゥー) と呼ばれ、ここも中城湾を眼下に見下ろす見晴らしの良い場所だった。 かつては綱引きの翌日の朝に下村渠 (シチャンダカリ) のカヌチヂナを燃やしたり、モーアシビー (毛遊び) が行われた場所だった。この場所は坊主小道 (ボージャーグワーミチ) の入口になっていた。戦前には当間や屋宜へ下る道で主に屋宜にある国民学校への通学路で小中学生に利用されていたので学校道 (ガッコウミチ) と呼ばれていた。急斜面のため雨が降ると何度も転び、泥だらけになりながら登校したという。もともとは石畳だったが、 流されて現在は残っていない。小学校が屋宜から当間に移転してからは先に訪れた当間道が通学路となっていた。県道が造られ、その後バスが通ってからは坊主小道 (ボージャーグワーミチ) は使われなくなった。


栄元坂 (ユムトゥビラ 与元坂)

中道から中城ハンタ道は新垣山 (アラカチヤマ) に向かって石畳道の登り坂になり、中道からから屋号栄元の屋敷付近までのびる坂道だったので栄元坂 (ユムトゥビラ) と呼ばれている。戦前は水樽 (水桶) を頭に乗せた女性が行き来していたという。

馬場跡 (ンマイー)

栄元坂 (ユムトゥビラ) を登ると坂の途中に坂と交わる東西の道がある。西側の直線の道はかつては馬場 (ンマイー) だった。


マージグヮー、マージグヮー石 (イシ)

馬場跡 (ンマイー) の道の北側にはポンプ場付近まで丘陵の傾斜地になっており、マージグヮーまたはレーシヌメーと呼ばれている。このマージグヮーの上部に大岩が聳え、マージグヮーイシまたはレーシと呼んでいる。両名称とも由来については不明。




種取毛 (タントゥイモー、ヒーウチャゲーモー)

中城ハンタ道をチンマーサーへ登って行くと、道の左側一帯は種取毛 (タントゥイモー、ヒーウチャゲーモー) と呼ばれていた。以前はここで種取り (タントゥイ) 行事が行われ、小中学生のテービ (松明) やスモー (角力) も行われていたという。


福川原 (フクガーバル)

上原からハンタ道を登ると福川原 (フクガーバル) に入る。ここには新垣集落のクサティ (腰当) で御願所や拝所が集まっている。


チンマーサー

中城ハンタ道を進むと根所 (ニードゥクル) 方面に進むハンタ道とミージャーガーへ向かう道に分かれる。この分岐点には以前大きな松
が生えており、その松の周囲を円形に石積みで囲いロータリーの様になっておりチンマーサーと呼ばれている。戦後、松は台風によって倒れてしまったが、その後、平成14~20年度にかけて、この付近は整備が行われ、新たに石積みと松が設けられたのが、松は根付かず撤去されていた。

龕屋跡 (ガンヤー)

チンマーサーの場所で道は二つに分かれる。ミージャガーに通じる東側の道に入った所には龕屋跡が置かれていた。ここには龕を納めた瓦屋の龕屋が置かれていた。新垣はもともとは龕を持っておらず、近くの集落から借りていたが、見栄えが悪いということで龕を造り、ここにあった龕屋で保管していた。ここの龕は新垣の人々だけでなく、龕を持っていない周辺の集落からも借りに来ていたといわれている。沖縄戦によって、龕屋と龕は破壊されてしまった。

鍛冶屋 (カンジャー) ガマ

チンマーサーから右側のハンタ道は根所 (ニードゥクル) に通じ、その道沿いの左側の林の中にガマがある。カンジャー (鍛冶屋) ガマと呼ばれてはいるが、鍛冶との関連性は不明。カンジャーガマの前は芝生が広がる場所で、戦前はモーアシビードゥクル (毛遊び所) だったそうだ。数年前までは村で草刈りなどの整備がされていたのだが、少子化高齢化で現在では手入れもままならず、樹々が生い茂っている。

新垣上原集落遺 (古島)

カンジャーガマから中城ハンタ道を少し進むと広場に出る。この場所一帯で1200年代 (グスク時代) ~ 1900年代頃の住居跡の新垣上原集落遺が見つかっている。新垣の古島と考えられており、戦後、県道35号線が拡張整備される頃までは新垣集落の人遺跡が生活を送ってきた場所になるが、現在では殿根 (トゥニ) 以外の民家は移動している。この場所はグスク時代に新垣グスクや新垣集落を守護する聖域の腰当て (クサティ) のあった新垣山 (アラカチヤマ) の南側崖下になり、新垣集落の村立てを行った旧家が屋敷を構えていた。この旧家を起点にして南側へ向かって各旧家の分家が 広がっている。新しい分家ほど集落の南側に立地している。新垣上原遺跡には七門と呼ばれる立地する旧家は、根所 (ニードゥクル)、殿根 (トゥニ)、新屋敷 (ミーヤシチ)、仲嶺 (ナカミ)、新地 (ミージ)、前吉門 (メーユシジョー)、新屋 (ミーヤ) の屋敷が構えられていた。

根所 (ニードゥクル)

古島跡の広場にはムラの創始者の根所 (ニードゥクル) の屋敷跡になる。建物跡やゥワーフール (豚小便所) 跡、井戸跡などが残っている。旧暦10月1日にはここでムラウバギーが行われ、ニードゥクルにウバギーメー  (おにぎり) を供え、この1年間に生まれた子供の名前を報告することになっている。戦前まで行われていた十五夜のムラアシビー (村遊び) の際には、ここで様々な舞踊が演じられたといわれている。

ディーグニー

根所の西側にはディーグニーと呼ばれる森がある。中城ハンタ道を挟んで右側にマーニ (クロツグ) の木の根元に香炉 (ウコール)、霊石が祀られている。左側はデイゴの木が生えた広場になっており、戦前までウマチーの際はこちらでウナサクを飲み、旧暦12月7日のムーチーでは、シマクサラシー (魔除け) の祈願が行われ、ここで牛を殺し、デイゴの木に牛肉をぶら下げて厄払いを行い、その肉をシンメーナービ (大鍋) で炊いて、ここには集まる集落の人々に振る舞われていた。


新屋 (ミーヤ) 門中の神アサギ

根所 (ニードゥクル) の南側は畑となっている。この畑の所が前吉門 (メーユシジョー) の屋敷跡で、その奥に建物が見える。この建物は新屋 (ミーヤ) 門中の神アサギになる。新屋 (ミーヤ) も旧家 (七門) のひとつで、新垣の拝所となっている根所 (ニードlゥクル ) の分家で新垣の祭祀に関わる神役を出していた門中だった。多くの集落で古島の屋敷は上の方から身分の高い家が置かれ、分家などは本家の下に置かれる。新屋 (ミーヤ)  屋敷が新垣上原遺跡の中でも下方に位置しているのだが、これは新屋の当主が一度新垣を出されたが、神役を出している家であることから、3、4代 目の頃に呼び戻されて現在地に屋敷が準備されたからと伝わっている。


殿根 (トゥニ) 門中の神アサギ

前吉門 (メーユシジョー) の畑に沿った道が中城ハンタ道なのだが、現在は石畳は消滅しているのだが、その道筋は草もそれ程生えてなく確認ができる。この旧ハンタ道を進むと、民家の裏にでた。この民家は旧家七門のひとつので、新垣において一番大きな殿根 (トゥニ) 門中で代々、新垣の祭祀に関わる神役を出していた。公民案で話をした男性はこの殿根 (トゥニ) 門中の人だった。元々のハンタ道はこの殿根の屋敷沿いを通り、屋敷から急な坂 (写真上) を下り、崖沿いのハンタ道になる。殿根は初代は新垣子 (アラガチシー) で三山時代の中山王だった大成の子孫にあたる。初代から数えて9代目の時、伊波世主の二男と三男が戦乱を逃れるために美里間切から中城間切の新垣ムラに逃げ隠れたと伝わっている。その後、二男は殿根、三男は新屋敷の婿養子となったという。 殿根門中には腹 (ハラ、分家) として新屋敷、金武、東道、伊保、伊佐小の5つの門中がある。そのうち、金武、東道、伊保は中元 (ナカムトゥ) にあたる。

神道 (カミミチ)

中城ハンタ道から根所 (ニードゥクル) 屋敷跡と新屋敷 (ミーヤシチ) 屋敷跡の間を通りワーランガーを経由し、御嶽 (ウタキ)、殿 (トゥン) へ至る参道が石畳の神道 (カミミチ) だった。神道はムラの祭祀を行う際のきめられた神の通る神聖な道なので塞いではならず不浄な行いも禁じられていた。一部消滅したハンタ道の代替として迂回路として利用されている。

ワーランガー

神道 (カミミチ) の階段を上ると正面は高い崖が聳え、道は右に殿 (トゥン) に向かって曲がっている。その道の途中、新屋敷屋敷跡の北側、神道沿い左側の崖の麓にワーランガーがある。名の由来は不明。大岩の根元に石積みがみられ、以前は水が湧き出ていたが、現在は水が枯れている。以前は八月カシチーとウガンプトゥチの際に拝まれていた。

ワーランガ-は崖岩の根元にあるのだが、この崖岩の背後には皿に高い崖が聳えている。この崖の上が新垣グスクの三の曲輪があった場所でグスクを敵から守る要所に当たる。崖は三の曲輪から二の曲輪、殿曲輪の入り口まで続き、新垣グスクの防御壁となっていた。


七門御墓 (ナナジョウウハカ)

ワーランが-から神道 (カミミチ) をそのまま進むと新垣グスクの殿 (トゥン) がある殿曲輪に入るのだが、その前に神道を階段を登ったところまで戻る。階段を登り切ったの左側に山道があり、御嶽森に入る。御嶽森の道を進むと右側に七門御墓 (ナナジョウオハカ) がある。新垣集落の村立ての各門中の祖霊神を祀った場所だと伝わっている。岩盤の割れ目に香炉 (ウコール) が置かれている。この奥に立ち入ると祟りが起きると恐れられているそうだ。かつては「村清明祭 (ムラシーミー) や旧暦8月10日のカシチーを行っていたが、現在は門中行事の際に拝まれるだけになっている。その御願の時には草刈りをして切れにするのだがそれ以外は草が伸び放題となっている。草刈りをした時の写真 (右上) があったので一緒に載せておく。

金満御墓 (カニマンウハカ)

七門御墓 (ナナジョウウハカ) から山道を進むと根所からディーグニー経由の山道に突き当たる。この山道を北に向かうと金満御墓 (カニマンウハカ) の大岩があり、その根本にはガマに造られた掘り込み式の墓になっていると資料にあった。この辺りを探したのだが、資料の写真も草で覆われており、それといった特徴がなく、大岩・ガマ・石積みがそれっているところがこれだが、確証はない。戦前は新垣山 (アラカチヤマ) の西側の崖近くにあったが、戦後、崩落し、現在地に移されている。墓は大岩の根本にあり、石積みで覆われていたが、現在はその石積みは崩れてしまっている。金満御墓 (カニマンウハカ) と呼ばれているので鍛冶屋 (カンジャーヤー) と関連があるとの説や、ムラの裕福な人物の墓ではないかとの説もある。この古墓は新垣集落の重要な祖先の墓として現在も住民に拝まれている。
この辺りは集落門中の墓地として利用されていたようで、墓だっただろういくつものガマや古墓が点在していた。


牛の鼻モーモー (ウシヌハナモーモー)

山道を進むと整備された道に出る。これはチンマーサーで分岐していた道で今でも村で御願されているミージャーガ-に通じている。この道をチンマーサー方面に行くと牛の鼻モーモー (ウシヌハナモーモー) と呼ばれる岩がある。牛の頭の様な形をした鍾乳石で、宜野湾市の野嵩集落の野嵩崖 (ノダケバンタ) と喧嘩をし、両方が吠えて共鳴したとの伝説が残り、野嵩集落方面からやって来る悪霊から新垣集落を守る守護神とされている。現在でも集落の住民から拝まれているそうだ。確かに見る角度では牛の頭の様に見える。


カーブヤーガマ

牛の鼻モーモー (ウシヌハナモーモー) の奥にもガマがあり、このガマ内にはたくさんコウモリ (カーブヤー) が生息していたのでカーブヤーガマと呼ばれていた。また伝承では首里の人と今帰仁の人がこのガマの前で戦ったとあり、今帰仁 (ナチジン) ガマとも呼ばれた。沖縄戦中は屋宜の国民学校にあった御真影 (天皇陛下、皇后陛下の写真) をここに避難させ、また、日本兵や新垣の人々もこのガマに避難していた。このガマも木々で覆われて全容がわかる写真が撮れない。資料には木々が伐採され、草が刈られた写真 (右上) があったので、それもあわせて載せておく。


新屋井戸 (ミージャーガー、上ヌ井戸 イーヌカー)

ウシノハナモーモーから今度は森道を北に進むと道は二股に分かれ、右側の道の先にガマがある。ガマの中に昔から水量が豊富で良質の湧水のコンクリート製の新屋井戸 (ミージャーガー) がある。上ヌ井戸 (イーヌカー) とも呼ばれていた。傍らには「昭和二年十月改築」「字新垣青年團創立十年記念」と刻まれたコンクリート製の碑が置かれ、新垣集落の人々の生活に欠かせない村井戸 (ムラガー) だった。正月の若水、産水、豆腐作り等に利用されていた。ナージキの儀式の際には、年輩者が「セーファ (健康に育ちなさい)」と言いながら、生まれた赤ちゃんに名前をつけ水撫でをしたという。現在はムラや門中の祭祀で拝まれているそうだ。この井戸は屋号新屋の犬が発見したため、新屋井戸 (ミーヤーガー) と呼ばれていたが、訛ってミージャーガーになったといわれている。また、新屋井戸の水で顔を洗うと若返るとも伝わっている。沖縄戦ではこのミージャーガー周辺には中城国民学校の生徒を動員して1944年 (昭和19年)  の夏から冬にかけ日本軍の陣地構築が行われた。米軍上陸が迫る頃にはミージャーガー付近の墓に弾薬を運び込んでいたという。

下ヌ井 (シチャヌカー)

先程の左の分岐道を下に降りていくとコ ンクリート造りの下ヌ井 (シチャヌカー) があると資料にはあったが、写真もなく見つかるかが不安だった。公民館で聞いてみたのだが、現在では使われてもいないので、草に覆われているのではないかと言っていた。とにかく道を下に降りていくがコンクリート造りの井戸らしきものは見当たらなかった。見つかったのは岩の前を四角く囲った場所があり岩場に穴が開いている。これがそうなのか、この周辺に多くある墓なのかは分からなかった。この井戸はムラの青年団が掘り当てて造ったが水の持ち運びに不便な場所だったため、あまり利用されなかったという。沖縄戦ではこの下ヌ井戸付近には、日本軍が大きなテントを張って野営していたそうだ。

道をもう一度チンマーサーまで戻り、神道をワーランガーを通り、殿 (内原ヌ殿) に向かう。この殿 (内原ヌ殿) からが新垣グスクになる。

新垣グスク

古島の北側の新垣山 (アラカチヤマ) には中城グスク築城と同年代かそれ以前の1300年 ~ 1400年頃に新垣グスクが築城されたと伝わる。築城主などは不明だが、中城グスクの出城として機能していたのではと推測されている。沖縄戦当時、新垣グスクには日本軍の陣地が構築され、新垣北側高地と呼ばれていた。日本軍の陣地だけでなく、自然洞窟や岩陰、墓が多くあり、近隣住民たちはそれらをそのままや拡張したりして避難壕としていた。1945年 (昭和20年) 4月3日夜、中城城跡にいた独立歩兵第12大隊第3中隊がここへ撤退してきている。4日には、米軍の激しい攻撃を受け、多くの死傷者を出している。日本軍が壊滅した7月頃には、米軍による掃討戦を逃れ島尻から北部へ向かう敗残兵が新垣の山 に多く潜伏していたそうだ。
古島は新垣グスクの城下町的意味合いがあり、新垣グスクは領主の居城、そして村の聖域のクサティー (腰当) でもあった。城跡には城壁を支える根石がみられ、1500年代にかけて殿 (トゥン) 周辺まで城壁が築かれ、その一部に野面積みの石積みが残っている。この新垣グスクを唄った「おもろ」が幾つか残っている。このおもろでは根高森グスクとして詠われている。1613年に首里王府によって数々のおもろが収録されたおもろ草子以前のグスク時代の作と考えられている。おもろの内容から当時には新垣グスクには周辺地域を支配する城主 (按司) が存在していたと考えられ、城主の威厳と繁栄を窺わせる内容が謡われている。
うらおそいおもろのふし

  一 あらかきの、ねたか、

   もりくすく、てたか、

   ふさよわか、くすく

   又 てにつきの、ねたか、もり

新垣の根高杜城 (新垣グスク) は

 城主の居城にふさわしいグスクである。



  一 あらかきの、くにの、ねにけよ、

   しよる、つかい、

   もゝとの、つかい

   又 天つぎの、しまのねに

 新垣の天頂の国の根(中心)に

  今日している神迎えは、

  いく度もくり返したお招きなのだ

グスクでは良質の輸入陶磁器も多く出土していることも含めて考えると、当時の新垣グスクとその周辺の地域が繁栄していたことが想像できる。新垣グスクは一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪、殿曲輪の五つの曲輪からなっていた。


まずは殿曲輪から新垣グスク内を見ていく。グスクの北側と西側は急峻な崖になっている。南側は自然の岩場を利用した城壁で守られていたように思える。東側はなだらかな地形で、堀切や土塁が構築されていたようだ。


殿曲輪、殿 (トゥン 内原 [ウチバラ] ヌ殿)

神道の階段を上がった所が広場にんっており、その中心に祠が置かれている。これが殿 (トゥン) と呼ばれる拝所で、琉球国由来記には内原ヌ殿 (ウチバラノトゥン) 記載されている。ヨキヤ巫と呼ばれるノロの管轄する祭場で、祠内には御神体として幾つかの自然石 (霊石) と香炉 (ウコール) が置かれて祀られている。新垣集落の人々はこの近くにある新垣ノ嶽と共に御嶽 (ウタキ) と呼んでおり、周辺の植物の伐採は控えられている。 戦前までは旧暦5月と6月に行われるウマチー (稲ニ祭) の際にはこの平場に新垣集落の住民が総出で集まりウンサク (神酒) をお供えて拝んでいたが、現在では自治会を中心に祈願が行われている。また、グスク時代にはここにはヨキヤ巫が常駐し祭祀を行っていたと伝わり、ノロ殿内の役割を果たしていたと考えられる。


西ヌ井戸 (イリヌカー)

殿 (トゥン) の左側の木の根元には西ヌ井戸 (イリヌカー) がある。石積みが施され、以前は水量が豊富だったが、現在は水は枯れてしまっている。戦前までは新垣集落住民に旧暦5月と6月に行われるウマチー (稲ニ祭) の豊作祈願に拝まれていたが、現在では自治会を中心に五月・六月ウマチーの際に祈願が行われている。


東ヌ井戸 (アガリヌカー)

殿 (トゥン) の広場から一段下がった場所に東ヌ井戸 (アガリヌカー) がある。草で覆われて井戸の形が見えないので、持参している鎌で草を刈って撮影した。それでも井戸の形が分かるようには写っていなかった。この井戸も石積みが施され、以前は水量が豊富だったが、現在は水は枯れてしまっている。戦前までは新垣集落住民に旧暦5月と6月に行われるウマチー (稲ニ祭) の豊作祈願に拝まれていたが、現在では自治会を中心に五月・六月ウマチーの際に祈願が行われている。


蛸壺 (タコツボ)

東ヌ井戸 (アガリヌカー) 付近に、深さ数十センチ程の溝が南北に数メートル程掘られた跡が残っている。これは日本軍が沖縄戦時に掘った蛸壺 (タコツボ)で、新垣グスク周辺が日本軍の陣地になっていたことをうかが わせる。


四の曲輪

東ヌ井戸 (アガリヌカー) のある広場の奥の崖上が四の曲輪になる。四の曲輪には道がなく入れなかった。


二の曲輪、御嶽 (ウタキ 新垣ヌ嶽)

殿曲輪にある殿の説明板の奥に上に登る道がある。この坂道は殿曲輪から二の曲輪への道になる。二の曲輪はそれ程広くなく、一の曲輪 (本丸) の下に長く伸び、本土の城でいうと犬走りのような形になっている。この二の曲輪の先端付近に、上の御嶽 (ウィーヌウタキ) または新垣ヌ嶽 (アラカチヌタキ) と呼ばれている拝所が残っている。香炉が三つ置かれている。琉球国由来記には新垣ノ嶽 (神名天次アマタカノ御イベ) と記されている。五月・六月ウマチー等、ムラの祭祀の際に祈願が行われる場所で、新垣の人々はこの場所から伝 (トゥン) までの鬱蒼とした丘陵地を御嶽 (ウタキ) と呼び、植物の伐採を控えているそうだ。


三の曲輪

二の曲輪の奥が三の曲輪と考えられている。それほど大きな曲輪ではない。ちょうど先ほど通ったワーランガ-の崖の上に当たる。三の曲輪は樹々の覆われて中に入ることは断念。


一の曲輪

二の曲輪の上には石垣で囲まれた一の曲輪があるのだが、そこへの道は見つからない。そこで強引に林の中を木々をかき分けて一の曲輪に向かう。石垣の囲い (写真右上) を越え一の曲輪に入ったがそこも木々で覆われている。村の人たちもめったにここには来ないのだろう、最近では手入れなどはされていないようだ。一の曲輪の中には所々に大岩 (写真下) があった。

一の曲輪の中に二の曲輪の上に当たるところに天継 (アマチジ) と書かれた拝所があった。石碑には神が降臨した場所と書かれていた。

 一の曲輪の西の端には大岩があり、岩の窪みの中に霊石のようなものが置かれている。多分ここも拝所なのだろう。この大岩の先は絶壁となっており、すぐ下が三の曲輪が位置している。

一の曲輪内を東に進むと北側も急峻な崖の上には拝所が置かれていた。金満ウタキと刻まれている。仲加門中の屋号新仲加小が造立している。(新仲加小は多分新垣集落内にある新名加小野事ではないかと思う)

この東の大岩野上からは宜野湾、普天間方面が一望できる。


新垣グスク見学を終えて、殿まで戻り、神道を降りると中城ハンタ道に合流する。階段下からハンタ道を示す石畳が整備されている。


佐波地原 (サファジバル)

福川原 (フクガーバル) の北側は佐波地原 (サファジバル) になる。この地域にはほとんど民家は見られない。


ターチャーイシ (二つ石 ペリーの旗立岩)

神道から中城ハンタ道に合流し、道を北に進むと標高160m程の台地にターチャーイシ (二つ石) と呼ばれる奇妙な形の琉球石灰岩の大岩がある。

1853年にぺリーー行が琉球国の沖縄本島の周辺や内陸部を調査を行い、その際に調査隊が首里、西原を経て中城グスクへ向かっていた。その途中にここに立ち寄った際の様子が随行した画家ウィリアム・ハイネが版画 (左の版画) として残している。それによると、その岩の頂上に旗を立て、麓では岩山征服を記念し祝砲を撃ち鳴らしたという。一行はこの岩にバナー・ロック (Banner Rock) と名付けている。ここから中城グスク二向かう様子も版画 (右) として残っている。


里主バンタ

ウィリアム・ハイネが描いた旗立岩 (ターチャーイシ) の版画の中で、岩の手前でペリー一行がくつろ いでいる広場が里主バンタになる。ターチャーイシから宜野湾市方面にかけの急傾斜の崖沿いにある。この広場は添石村からヨキヤノロが来るのを迎えた場所、新垣の女性が里主 (役人) と待ち合わせをしていた場所等の様々な伝承が残っており、里待バンタ、御待森などとも呼ばれていた。


中城ハンタ道、代替道

ペリーの旗立岩までは自動車出行くことができるのだが、この先のハンタ道は細くなり、自動車は通行不可。中城グスク二自動車で行くには新垣集落まで戻り県道35号線から県道29号線を経ていくことになる。中城グスクへのハンタ道はゴルフ場建設でこの一定区間は消滅しており、歴史の道として代替道が整備されている。元々の中城道はゴルフ場受付建物の横からゴルフ場を突っ切るルートだった。


まだまだ予定していた新垣のスポットは残っているのだが、今日で全部は訪問できないので、明日、もう一度訪れて残りを見学することにして帰路に着く。これで今年の集落巡りは終了。今年は夏以降、軽い熱中症や足の痛み (まだ少し痛みは残っている)、娘二人の結婚、母親の葬式などで帰郷など、今年後半は沖縄の集落巡りは思うように進まなかったが、今年最後は沖縄の集落巡りで終えることができた。 



参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 7 新垣 (2016 中城村教育委員会)
  • ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)
  • 青い目が見た「大琉球」 (1987 ラブ オーシュリ)

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