杉並区 03 (08/12/23) 旧井荻町 (井荻村) 旧下井草村 (3) 沓掛

旧下井草村 小名 沓掛 (くつかけ、小字 沓掛、沓掛町 [現 清水三丁目、清水二丁目、今川一丁目の一部、桃井一丁目の一部]

  • 妙正寺
    • 山門
    • 西門
    • 本堂
    • 鐘楼
    • 三十番神堂
    • 墓地
    • 豊川稲荷 (正一位稲荷神社)
    • 瘡守稲荷 (稲荷大明神)
  • 寺前、寺前橋
  • くつかけ公園
  • 井口長左衛門宅 (?)
  • 井口家長屋門
  • 沓掛庚申塔 (83番)、百観音巡拝供養塔 (84番)

清水町 [現 清水一丁目、清水二丁目、桃井一丁目の一部]

  • 清水森公園
  • 清水の井戸
  • 六叉路
  • 桃井公園
  • お古里塚 (おこりづか) 


八成に引き続いて、沓掛を巡って行く。

旧下井草村 小名 沓掛 (くつかけ、小字 沓掛、沓掛町 [現 清水三丁目、清水二丁目、今川一丁目の一部、桃井一丁目の一部]

小名沓掛の地名の由来については、昔、青梅街道がまだ開設されない時代には、江戸と青梅方面を結ぶ道を、馬場下道 (江戸一高田の馬場井草—青梅方面) といって、今日訪れる井草の長左衛門家の前を通っていた。1477年 (文明9年) に太田道灌が豊島氏の石神井城を攻略した際にこの道を通り、この地で軍を休め、攻撃に先立ち全軍に沓 (わらじ) の履き替えを命じ、道灌自らも沓を履き替えて古い沓を傍らのさいかちの木にかけた事から、この地は沓掛と呼ばれるようになったという。また別の言い伝えでは現在のさいかち公園側の旧道の川越街道 (馬場下道の後の名と思われる) を歩いて来た旅人や馬方達が一休みして馬の沓を取り替え、古い沓を傍らの木に掛けていた。昔から旅人はここでわらじを履き替える習わしがあったので沓掛の地名が生まれたという。江戸時代の小名の沓掛は1889年 (明治22年) に井荻村が誕生した際には大字下井草小字沓掛となった。1932年 (昭和7年) に杉並区となった際には、小字沓掛はその南地域を清水町、北部を沓掛町に分割している。下の表の様に沓掛の行政区が変遷している。

上の表は大雑把なもので、正確には沓掛町は現在の清水三丁目の南半分、清水二丁目の北半分、今川一丁目の一部、桃井一丁目の一部、清水町は清水一丁目、清水二丁目の南半分、桃井一丁目の一部に相当する。明治時代から大正時代末期までは集落の拡張はほとんど見られず、江戸時代とそれほど変わっていない。それが戦前の1944年 (昭和19年) の地図では清水町の地域はほぼ全土、沓掛町の南部に民家が広がっている。これは1923年 (大正12年) の関東大震災によって、東京中心の被災住民が移住してきたことによるものと思われる。その後は住宅地は沓掛町にも拡大し、現在はほぼ全域が住宅地となっている。


小名 沓掛に残っている史跡等は下図の通りで、これらを巡って行く。


沓掛町 [現 清水三丁目、清水二丁目、今川一丁目の一部、桃井一丁目の一部]

沓掛は妙正寺の脇の旧川越街道 (馬場下道) を通る人達が馬の馬沓 (まぐつ) を取替えた事からと言われている。
沓掛町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。
  • 仏教寺院: 妙正寺
  • 神社: 豊川稲荷 (正一位稲荷神社)、瘡守稲荷 (稲荷大明神)
  • 庚申塔: 83番
  • 馬頭観音: なし
  • 地蔵菩薩: なし
  • その他: 百観音巡拝供養塔 (84番)


妙正寺

妙正寺公園の南にはその名の由来となった妙正寺がある。法光山妙正寺は、日蓮宗の寺で十界諸尊を本尊とし、他に大黒天、鬼子母神、三十番神、弁財天などが祀られている。
1352年 (文和元年) に下総国の中山法華経寺の三世日祐上人が、妙正寺池の畔に堂を建て、法華経守護の三十番神を勧請し三十番神堂として始まり、1646年 (正保3年) に社殿を再建してから広く信仰されようになった。1649年 (慶安2年) に三代将軍徳川家光が鷹狩りの折に神前に武運長久を祈願し葵の紋幕と朱印地五石を寄進し御朱印寺となっている。

山門

妙正寺の玄関口となる山門は境内の南側にある。参道には供養塔の十三重石層塔が置かれている。

西門

境内への入り口には西門もある。裏参道には日蓮宗の特徴の一つの題目塔 (写真左中) が置かれていた。

本堂

山門を入った正面奥に本堂が配置されている。本堂は1830年 (天保元年) に焼失したが、その後、1832年 (天保3年) に再建され、1931年 (昭和6年) に改築されたものが現在に残っている。本堂には本尊の久遠実成本師釈迦牟尼仏、日蓮聖人、十界曼荼羅が祀られている。十界曼荼羅の十界諸尊の他に、安産に霊験ありとされ、江戸城大奥にあった生毛鬼子母神 (髪が伸び続ける守護神で大奥の女性の毛髪の提供を受けた) と称される鬼子母神像を12代将軍家慶の治世の1841年に老中水野忠邦の行った天保改革で大奥が粛清された際に、この寺に移され祀られている。また、かつて妙正寺池の弁天島にあった弁財天も移されて祀られている。かつて寺の北側に地元の人々に安産の神・子育ての神として信仰されていた十羅刹女堂 (現在の天祖神社) の十羅刹女像もこの寺で祀られている。

鐘楼

境内には鐘楼も置かれている。この鐘楼は1856年 (安政3年) の大暴風で倒壊し、1859年 (安政6年) に再建された。その後、1963年 (昭和38年) に新しく建て替えられたものが現在に残っている。鐘楼への石畳道脇には奉納された手水鉢が置かれている。

三十番神堂

鐘楼の奥には三十番神堂が建っている。この妙正寺は三十番神堂として創建され、明治の神仏分離令により、妙正寺となっている。この三十番神堂は1856年 (安政3年) の大暴風で倒壊したが、1859年 (安政6年) に再建され現在に至っている。堂の前には大きな石碑が置かれて、三十の神の名が列記されている。
練馬区や杉並区をめぐると日蓮宗の寺院が多くあり、三十番神堂が置かれている寺も数ある。神仏習合時代に何を日替わりで祀っていたかを抑えていた方が良いので下記の表をまとめてみた。
境内の庭にはまだ紅葉が残っている。その他に書院が置かれているが、日蓮宗寺院の特徴なのだが、石仏などは見られない。唯一、西門と墓地内に題目塔のみがみられる。

墓地

本堂の傍から墓地への道がある。墓地内には数え切れないほどの井口家の墓があった。井口家は井草村の草分けの家で、その一族が長い期間で増えていったので杉並区から練馬区にかけては多くに井口家が住んでいる。

寺前、寺前橋

妙正寺の東南の地域一帯は昭和初期までは寺前と呼ばれていた。文字通り、妙正寺の前の地という意味。この近くにはその名残りだろうか、妙正寺川に寺前橋が架かっている。昔からあった橋の様で、妙正寺への参詣道だったのだろうか?


豊川稲荷 (正一位稲荷神社)

墓地を隔てた境内北端に神社が置かれている。五穀豊穣の正一位稲荷神社になる。豊川稲荷と記した資料もあった。古くから近在の人々の信仰を集めていたという。資料によれば、江戸時代の小名 沓掛には鎮守の神社があり、大きな祭礼は井草八幡神社で行い、その他の祭礼は村の鎮守神社で行っていたと記載されている。江戸時代の小名 沓掛で現在も残っている神社はここにある豊川稲荷と瘡守稲荷なので、この豊川稲荷が沓掛村の鎮守だったのかもしれない。

瘡守稲荷 (稲荷大明神)

豊川稲荷の奥に、もう一つ神社の祠が建っている。病気平癒の稲荷神社で瘡守稲荷とも呼ばれている。瘡とは皮膚にできるできものだが、ここでいう瘡は梅毒の事。この地域周辺の習慣なのだろうか、この瘡守稲荷では、お参りの願掛けの時には、土団子を供えて病気平癒を祈り、効あって治癒した時には米粉の本物の団子を供えてお礼参りしたと言う。ただ、本当に治癒した訳ではなく、梅毒の症状特徴で皮膚の腫れものや発疹が、症状が各段階に進むす際に、その都度、消滅して治癒した状態になってから、次の段階に進むので、この時に病気が治ったと勘違いして米粉の本物の団子を供えていたと思われる。
この団子については明治、大正期の逸話がある。
瘡守稲荷に供えられた団子が、一晩たって翌日になると必ず無くなっているという話

が、誰云うとなく伝わり、お稲荷様が食べたとか、妙正寺池の付近の狐の仕業とか不審に思っていた。うわさが広がり、 誰かが張り込みでもして見届けたのであろう。団子を失敬していたのは、ここから東方200米ほど離れ
たところに住んでいた乞食であることが判った。妙正寺川の北の高台崖下の土取り場に何人かの乞食が小屋掛けして住んでいたという。この事から高台は小屋上、崖下は小屋下と呼ばれていた。この近く妙正寺川には丸太の一本橋があったそうだ。乞食が毎朝仕事 (おもらい) に行く際に、迂回しない様にと妙正寺の僧侶が乞食に為に架けた橋で、村人でこの橋を渡る者は殆どなく、乞食専用の橋であったので「こじき橋」と呼ばれていた。

くつかけ公園

妙正寺の西にはくつかけ公園が造られている。江戸時代にはこの付近は沓掛と称されていた。沓掛の由来は妙正寺の脇の旧川越街道 (馬場下道の後の名と思われる。沓掛村内のルートは記載がなかった) を通る人達がここで馬沓 (まぐつ) と呼ばれた馬の草鞋 (わらじ) を取替え、三十番神堂で一服し、「米のなる木 (?) で作ったものだからもったいない」と、古い草鞋を傍らの木にぶらさげていた。これを妙正寺の住職が燃やし供養したと伝えられている。公園には馬沓 (まぐつ) のモニュメントが置かれている。
蹄鉄が明治以降に導入される前の江戸時代には馬は爪の保護の為に草鞋を履いていたそうだ。浮絵などの馬は確かに草鞋を履いている。

井口長左衛門宅 (?)

くつかけ公園の南側、妙正寺の山門の前の道(馬場下道?) を西に進むと、道沿いにに広大な敷地の旧家がある。ある資料では井草村の草分けと言われる井口長左門の屋敷跡とあったが確信は無い。

井口長左衛門宅の北の道を挟んだ所に祠が置かれていた。多分この家の屋敷神と思われる。祠には大きな石が置かれている。神体なのだろうか?

井口家長屋門

沓掛公園の東の道を南に進むと道沿い東に妙正寺、更に道を進むと道沿い東に井口喜容家の長屋門がある。どうも、この南北の道が旧川越街道 (下馬場道) の様な感じがする。とすると、ここが井草村の草分けと言われる井口長左門の屋敷だったことになる。この井口家では江戸初期の1635年 (寛永12年) から1902年 (明治35年) にかけての旧下井草村の地方文書が約500点も保管されていた。近世後期の村政関係のものが豊富で、旧下井草村の村落概況や今川氏支配の実態などを知るうえで貴重な資料だそうだ。
この井口家tl妙正寺の間は昭和初期までは寺前と呼ばれた地でだった。

沓掛庚申塔 (83番)、百観音巡拝供養塔 (84番)

井口家長屋門の南には祠があり石塔が二基安置されている。かつてはここより北西約100mの現NTT井草ビル北西角 (旧称馬場下道の路地角) に造立されていたが、大正から昭和初めに行われた土地区画整理の際に当地に移されている。
  • 向かって右は1708年 (宝永5年)に造立された笠付角柱で少し珍しい庚申塔 (83番 写真左上) になっている。邪鬼を踏みつけた青面金剛像が浮き彫りされているが、一般的には六臂だがこの像は八臂になっている。青面金剛像の下には三猿も浮き彫りされている。塔には「奉造立帝釈天王講中」と刻まれており、帝釈天を祀っている事が分かる。庚申信仰では一般的には青面金剛が主尊だが、日蓮宗では帝釈天を庚申信仰の対象となっており、この地域では日蓮宗の影響が大きく、日蓮宗の帝釈天信仰と庚申信仰の結びつきが見られる。
  • 左の石塔は1781年 (安永10年) 造立の角柱型廻国供養塔になる。廻国供養塔は、西国三十三観音などの霊場巡拝を遂げたことを記念して建てられたもので、江戸時代には坂東三十三観音巡拝、秩父三十四観音巡拝、百観音巡拝の供養塔も造られており、観音信仰が盛んだった。 ここの塔は百ヶ所を巡拝したことを記念して建てられた百観音巡拝供養塔 (84番) で、石塔上部には曼荼羅の中に聖観音真言を表す梵字「स サ」が刻まれている。

この沓掛庚申塔がある場所は、沓掛町の南橋で、清水町との境界線になる。次は清水町に移動する。



清水町 [現 清水一丁目、清水二丁目、桃井一丁目の一部]

この地域には多くの湧き水があったところから、江戸中期のころから「しみず」と呼ばれ ていたようで、この付近にあった数軒の農家を指して、「清水側三軒」とか「清水側五軒」と呼んでいたそうだ。1932年 (昭和7年)  に杉並区が誕生し東京市に編入された際に大字沓掛は二つの地域に分けられ、南側が清水町となっている。1943年 (昭和18年) には、 東京府と東京市が合併して東京都が誕生。その後、清水町は、1965年 (昭和40年) 頃に行政区変更がなされて清水一丁目、清水二丁目、桃井一丁目の一部になっている。

清水町内では寺社仏閣や民間信仰の石塔は見当たらない。
  • 仏教寺院: なし
  • 神社: なし
  • 庚申塔: なし
  • 馬頭観音: なし
  • 地蔵菩薩: なし

清水森公園

清水町に入った所に清水森公園がある。1980年 (昭和55年) に開園した公園で、木々の中に人工川が造られ、アスレチックの施設も設けられている。

清水の井戸

この辺りはもともとは低湿地で、その中には幾つもの湧水池があり、大正時代までは清水頭 (しみずがしら) と呼ばれていた。1935年 (昭和10年) 頃までは常時清冽な水がこんこんと湧いていたが、湧水は水温が低く清すぎる事から、稲の育ちが悪く良水田とはならず使えないので、持ち主が盛土をして畑に作り替えた。その時に、池に大きな土管を埋め込んで、湧水を小川に流したそうだ。1948年 (昭和23年) に通りがかりの祈祷師に湧水池を埋めてしまったのは水の神に対する冒瀆と咎められて湧泉を復元し漬物石を円形に積み上げたすり鉢状の形の井戸とし、その井戸が現在でも残っている。この井戸があった所は「水の出る所」と呼ばれていた。現在でも水が湧いている。

六叉路

清水1丁目と本天沼3丁目の境の落ち着いた住宅地にある六叉路が資料で紹介されていた。昔からあったのか、住宅地建設で造られたのかは分からないが、戦前の地図ではこの六叉路は見当たらず、戦後に中宅地となった際に道路が造られたと思われる。この六叉路の南の二本の道は昔からあり、別の道路と交差して三角形の地形を造っていたそうだ。ここは昭和初めまでは三角山と呼ばれた山林となっていた。


桃井公園

旧清水町は現在の桃井一丁目の南地域も含んでおり、清水町の西の端にあたる。そこに桃井公園がある。それ程大きな公園ではないのだが、綺麗に整備されており、ケヤキやヒマラヤスギがある。この公園から青梅街道迄一帯は長左衛門原と呼ばれ、訛って「チョウセンパラ」とも呼ばれていた。井草村の草分けと言われる井口長左衛門の所有していた土地で約7ヘクタールもあった。


お古里塚 (おこりづか) 

長左衛門原の北寄り (桃井1-23-12) にはお古里塚 (おこりづか) があったそうだ。現在は整地され残っておらず、住宅街となっている。

この塚は1477年 (文明9年) の豊島泰経と太田道灌との間で行われた江古田・沼袋原の合戦での戦死者を集めて葬ったところと伝わり、鎧や兜、刀、槍などが埋められ、これを掘り返すと「おこり (熱病)」になるという言い伝えがあった。

これで沓掛の史跡巡りを終えた。今回に滞在は娘の婚約者の両親との顔合わせで、短期間だった。明日、成田から沖縄に帰る。


参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 井草のむかし (2019 井口昭英)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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