小豆島八十八ヶ所遍路 13 (04/05/23) 小豆島町 旧池田町 池田本村 北条・浜条

小豆島町 旧池田町 池田本村

(北条)

  • 北条教育集会場、稲荷宮

(浜条)

  • 池田の桟敷
  • 玉比売神社、若宮神社、稲荷神社、猿田彦神社、事代主神社、平称霊神社
  • 亀山八幡宮秋の大祭
  • 波摩津神社 (浜津神社)
  • 城山城跡
  • 城山神社
  • 名称不明神社 (八栗聖天)
  • 第33番霊場 長勝寺
  • 亀山八幡宮
    • 護国神社
    • 随身門
    • 拝殿、幣殿
    • 本殿
    • 境内末社 (金比羅神社、高良神社、住吉神社、八坂神社)
    • 裏参道

(迎地)

  • 小豆島中央病院、池田中学校跡

今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場

第33番霊場 長勝寺

  • 本尊: 大日如来
  • 真言:オン アビラウンケン バザラ ダトバン
  • 詠歌: 悟りなば 法のみ声と 聞こゆなり 松吹く風も 水の流れも

訪問ログ



池田本村

旧池田町の中心が池田本村で、現在の行政地域 は浜条、北条、上地、迎地、平木、北地の六っつになっている。その中でも、浜条、北条、迎地が昔から本村の中心地で、池田大川の両岸から城山までに集落が広がっていた。
今回は本村の中心の北条、浜条、迎地の史跡を巡った。
旧池田町と旧内海町が合併してできた小豆島町の中でも、浜条、北条、上地、迎地、平木、北地で構成される池田地区 (池田本村) は最も人口の多い地域で、人口は減少傾向にはあるが、他の地区に比べて低くく抑えられている。


北条

平木村から北条に入る。北条の人口はグラフ上では少なく見えるのだが、面積が狭い事によるもので、池田大川の南側は民家が比較的密集している。


北条教育集会場、稲荷宮

池田大川橋を渡り、県道250号線 (三都港平木線) を進むと北条教育集会場がある。建物正面の隅には大阪の信徒寄進の祠が置かれている。詳細は不明。建物の横には赤鳥居の稲荷宮がある。


浜条

小さな村の北条は直ぐに通り過ぎてしまい、池田本村で江戸時代からの中心地だった村の浜条になる。地域内では山間部が多く占めており、北条に隣接する平野部に民家が集中している。


少し道を進んだ所、浜条に入った所にも祠がある。この祠で何が祀られているのかは不明。

池田の桟敷

城山麓には池田の桟敷が残っている。本桟敷は、馬場で行われる秋祭の見物野天桟敷で、急傾斜に高さは18m、長さは80mにわたり野面積の石垣を築いた数段構成になっている。各桟敷には亀山八幡宮が管理する使用権が割り当てられ、大庄屋や年寄など氏子の村の有力者が占有し、祭礼時に親類を招待し楽しむのがステータスシンボルになっていた。この使用権は売買もされていた。1970年 (昭和45年) の大阪万博のお祭り広場のモチーフにもなったそうだ。
桟敷はダンダンと呼ばれ、馬場はバンバと呼ばれていた。桟敷は9段あり、下段のほうが構築年代は古く、太鼓祭りを見物するために上段に桟敷席を増やしていった。
築造時期は不明だが、1812年 (文化9年) に奉納された三木算柳作の亀山八幡宮の絵額「奉懸當社御祭禮之圖」には、当時の祭の様子が描かれているのでそれ以前、江戸時代後期から存在していた。絵額には神輿の渡御、大練り、太鼓台や現在失われた蒲生の船競漕の「早渡り (ハリバタ)」、奉納相撲、流鏑馬等を桟敷に小屋を建て見物している人々などが見られ当時の大盛況ぶりが描かれている。
拡大してみると、左上から神輿が3基あった (現在は1基のみ)、早渡 (ハリバタ)、流鏑馬、鳥居をくぐる太鼓台 (現在は赤だが当時は青や緑など色々な色があった事がわかる)、芝居が行われている舞台、出店など活気に溢れた祭りの様子が見えて来る。
かつて、馬場には大きな舞台があり歌舞伎が上演されていた。
現在では建物は無くなってしまったのだが、その場所には舞台が置かれている。

玉比売神社、若宮神社、稲荷神社、猿田彦神社、事代主神社、平称霊神社

浜条馬場の隅には幾つもの社と祠が置かれている。玉比売神社、若宮神社、稲荷神社、猿田彦神社、事代主神社 (えびす神) と平称霊神社の六社が置かれ、亀山八幡神社が管理している。どの祠がどの神社に相当するのかは、分から無かったが、この一つの平称霊神社は小豆島の義人である平井兵左衛門が平称霊神として祀っている。平井兵左衛門の命日3月11日に近い休日に追善供養が行われている。供養祭は写真左下の小さい方に祠前で行われているので、それが平称霊神社だろう。ここにくる前には平井兵左衛門が処刑された場所に置かれた平井兵左衛門氏政終焉地供養塔を訪れている。事件の詳細は今日前半の訪問記に記している。玉比売神社は豊玉比売命 (玉依比売とも) 考えられ、1611年 (慶長16年) に平称霊神社に祀られている兵左衛門氏政の先代のが願主となり、再建されたとある。道の神、境の神、道祖神として塞の神と習合した猿田彦神社は浜条部落の氏神として祀られている。

亀山八幡宮秋の大祭

10月16日には亀山八幡宮の秋の大祭 (太鼓台奉納) が行われている。太鼓祭りの前に押し込み (オシコミ) または踊り込みという行事で始まる。明治時代初期までは陸からの輸送が不便な三都半島の吉野、蒲野、神浦から船を使ってここの宮の浜まで各部落の太鼓を運んでいた。その後、行われていなかったが、1979年から神浦部落のみが三都半島の神浦地区から祭りの前夜に皇子丸で太鼓台を宮の浜まで運び、「宮の浜入り」で迎え入れ、一気に野天桟敷まで運びこむ「押し込み」の伝統行事が復活している。
旧池田町の各地区 (西蒲生 [1]、平木 [2]、蒲野 [2]、二面 [2]、神浦 [2]、中蒲生 [1]、東蒲生 [1]、室生 [2]、入部 [1]、中山 [2]、北地 [2]、迎地 [2]、上地 [2]、浜条 [2]、吉野 [2]) から以前は25台だったが、中蒲生と東蒲生は中東蒲生として一台になり、現在では15台の太鼓台が集結し、亀山八幡宮に奉納のため坂道を競うように舁きあいながら登って行く。「宮登り」と言われている。
亀山八幡宮の境内では太鼓台奉納の他にも大練り、奴行列、稚児舞 (馬場にて) なども披露される。
お旅所のある桟敷前では氏神や見物の村人へのお辞儀をして、豊作家内安全の感謝と祈願を表す「返し(カエシ)」、「舁き上げ (カキアゲ)」、「放り上げ (ホリアゲ)」 などの妙技が行われ、その様子は圧巻。
馬場では太鼓台が総揃いし、桟敷の観衆の前でもう一度奉納が行われる。

波摩津神社 (浜津神社)

桟敷の鳥居の前も広場になっており、奥住教の分教会の隣に波摩津神社 (浜津神社) が置かれている。大正時代に、この地区にあった恵比須神社、伊勢神社、金比羅神社を合祀して波摩津神社となった。祠の中には恵比寿像が置かれているので、これが主祭神で海神としてこの地域の漁師や廻船業者により、大漁、航海安全を祈願されている。桟敷鳥居の近くには「金」と刻まれた燈籠がある。これはかつての金比羅神社の名残だろう。また防波堤脇には地蔵尊も置かれていた。7月15日に浜津神社夏祭りが行われているそうだ。

池田港

波摩津神社の海岸は池田港の東端になり、神浦部落の太鼓台が着く宮の浜になる。

城山 (鉢伏山)

桟敷のある山は鉢伏山で、地元では城山と呼ばれている。池田郷を治めた須佐美氏の居城がこの鉢伏山にあった事から、そう呼ばれている。現在は城山公園として整備されている。
鎌倉時代の1221年 (承久3年) 、後鳥羽上皇が鎌倉幕府北条義時執権追討を企て失敗に終わ り隠岐に移された「承久の変」で、後鳥羽上皇が管領した八条院領は北条氏に没収され後高倉院領となっている。当時小豆島も石清水八幡宮領肥土荘を除く小豆島荘が八条院領で、ここも高倉院領となり、北条氏は没収した後鳥羽院領荘園へ新たに地頭 (源頼朝設置の本補地頭に対して新補地頭という) を配備した際に、池田庄には須佐美氏、伊喜末には高橋氏を新補地頭として関東から派遣したと考えられている。初代は須佐美紀伊守基世で、居城はを池田と須佐美室生両村にまたがる鉢伏山に置いたと文献に残っている。現在でも須佐美氏の子孫は室生村に住んでおり、平常生活は室生村に屋敷を構えていたと思われる。須佐美本家といわれる屋敷もあり、その附近には「いば (射場)」、「みなみじろ(南城)」、「ふるじろ (古城)」等の地名が残っている。城への登城口になる大手門は室生からの登り口にあり、池田側は搦め手と推測されている。写真は城山から室生村を見下ろした風景。
小豆島でに須佐美氏の歴史は鎌倉幕府派遣の新補地頭として始まったのだが、鎌倉時代末期には、幕府の影響は薄まり、実力をもって荘園を円的に半独立的に池田地域の領主となったと考えられる。南北朝時代の1339年 (暦応2年) に備前児島の飽浦城主佐々木三郎信胤が小豆島へ侵入して南朝に呼応してからは、須佐美氏もまた信胤の傘下に入っている。1347年 (貞和3年) に信胤が北朝の細川師氏の軍に敗れて以降は歴代細川氏が小豆島円を支配し、須佐美氏もその傘下に入っている。城山の頂上は本丸跡と考えられている。
須佐美氏に関しては言い伝えが1739年 (元文4年) に口筆されたものがある。
伊喜末浦の地頭だった高橋氏の筋の高橋右衛門大夫を須佐美太郎左衛門が襲撃した梨木峠の事変だ。高橋右衛門大夫は伊喜末浦地頭の高橋氏数世、高橋入道存孝、高橋右衛門大夫と続いていた名家で、右衛門大夫は住まいを土庄に移し、氏神社も大木戸浦に移し、草加部村より妻を娶っていた。ある日、妻子と共に草加部村の舅の家に行き、その帰り、梨木峠 (所在地不詳) で須佐美太郎左衛門の伏兵に襲撃され、家人、妻子は殺害された。右衛門大夫は馬で大深山に逃れ、その後、見目村歓喜寺に移っていた。須佐美太郎左衛門は直ちに兵をひきいて土庄村の高橋氏の館を焼き討ちし、その居城も屠むった。 高橋右衛門大夫はこの知らせを聞き、肥後国へ逃走した。
この梨木峠の事変がいつの事だったのかは不明で、諸説ある。
  1. 一つは1347年 (貞和3年) に佐々木信胤が細川師氏に責められ降参した年のもの。色々な資料はこの説でを紹介している。渕崎の富丘八幡神社がある富丘の麓には焼き討ちされた屋敷、鹿島村に高見山城が焼き討ちされた居城があったとされている。この説を元に勝手に想像したことを高見山城の項で記してみた。ただ、この説には根拠がないそうだ。
  2. 二つ目は1854年 (嘉永7年) に宝生院恵観による「伊喜末大木戸両宮縁起」には、高橋右衛門大夫の父親の高橋伊豆守入道孝が願主となり1577年 (天正5年) に寺院を再建し遷宮したとの記述がある。梨木峠の事変は高橋伊豆守入道孝死後の出来事で、前述の説の可能性は低い。予想できる時代は織田信長が天下人となった時から豊臣秀吉の全国統一までの期間と思われ、群雄割拠の時代で地方豪族が互い に敵対し抗争していたので、この説の時期が信憑性が高い。また、高橋氏を襲った須佐美太郎左衛門が天正年間末に豊臣秀吉に殺されたという伝承もある。この話が真実であれば、梨木峠事変は1577年 (天正5年) から1593年 (天正20年) の間という事になる。
もう一つ興味深い事が資料に記載されていた。明王寺釈迦堂には室生須佐美家の本家筋にあった位牌が安置されているそうで、「花林常心禅定門霊位于時慶長十七壬子未年二月廿七日 先須佐美紀伊守九州肥前長崎死去」
と記されており、1612年 (慶長17年) に須佐美家当主が長崎で死去したとなっている。この人物が梨木峠の太郎左衛門かその息子かも知れない。 なぜ長崎で死亡したかの疑問がある。想像できるのは、この人物はキリシタンだったのかもと思える。小豆島とキリシタンの関係を追っていくと
  • 1585年 (天正13年)キリシタン大名小西行長が小豆島を秀吉から拝領
  • 1587年 (天正15年)小西行長はバテレン追放令の際に改易となったキリシタン大名の高山右近を島に匿う
  • 1586年 (天正14年) 小西行長の懇願によりイエズス会 グレゴリス・デ・セス ペデス神父と同会修道士ジアン森が宣教のために来島し、1ヶ月で1400名が信者となり洗礼を受けたという。
  • 1588年 (天正16年) 小西行長は肥後国の南半国宇土、益城、八代の三郡20万石を拝領、小豆島から国替えとなる。
この期間に多く島民がキリスト教に改宗したとされ、その中には村の指導者の庄屋なども含まれている。小豆島の大名だった小西行長が池田庄の地頭の須佐美氏に影響を与えた事は確かだろう。須佐美氏が小西行長の影響でキリシタンに改宗していたと仮定すると
1587年のバテレン追放令は個人の信仰については自由で、関ヶ原の戦いまでは信徒は増加している。関ヶ原の戦いにあと、キリシタンの扱い方に変化が生じ、個人に対しても迫害が始まっていた。キリシタン保護の立場の小西行長が国替え、小豆島は天領となった状況で、島のキリシタンは肩身が狭くなっていたと思われる。当時まだ九州では肥後には大村晴信、肥前には有馬晴信のキリシタン大名だが存在し、キリシタンはその領地に移っていった者も多い。長崎は有馬晴信の支配下にあったので須佐美氏も移ったのかもしれない。その有馬晴信は岡本大八事件で岡本大八は1612年 (慶長17年) に火刑、晴信は5月7日に自害させられている。キリスト禁教令が3月21日に出ている。須佐美氏は2月27日に亡くなっているのは偶然かも、それとも有馬晴信との関係があったのか、キリシタン迫害の結果なのか、自然死なのかは不明のまま。

城山神社

城山公園の中に祠が建てられている。城山神社と呼ばれているが、情報は無く、祭神などはわからないのだが、祠の中には飽浦城主佐々木三郎信胤之霊と書かれた位牌が置かれている。佐々木信胤を祀っているのだろうか?
城山神社の近くにコンクリート製の台座の上に小さな祠が置かれている。台座に比べ非常にアンバランスな大きさだ。時々見かけるのだが、大体は戦前に軍国主義の国家高揚の為に建てられた銅像や板碑を戦後撤去して、台座のみ利用している。ここにあるものがそうなのかは分からないが、何か事情があったのだろう。
公園の広場には「二十四の瞳」映画ロケ地の記念碑が置かれている。木下恵介監督、高峰秀子主演で、1954年 (昭和29年) 公開されている。この映画がきっかけとなり、小豆島へは多くの観光客が来島し始めた。
鉢伏山 (城山) の頂上付近は螺旋状に道があり、そこに神社があった。名称は不明だが、祠内には八栗聖天と書かれた幕が張られている。八栗聖天は海の向こうの五剣山の八栗寺の歓喜天の事で、その寺と関係があるのだろう。ただここは寺では無く神社になる。
この鉢伏山から見える五剣山。

鉢伏山 (城山) を降りて長勝寺に向かう途中に庵があった。名称は不明だが、中には弘法大師と思われる立像と座像が二体と仏像が一体置かれている。

第33番霊場 長勝寺

道を進み山側に第33番札所の長勝寺への道が分かれ、そこを通り訪れた。正式には金陵山阿吽院長勝寺といい、金剛界大日如来を本尊として祀っている。元々は池田本村林にあったが、1676年 (延宝4年) に恵吽上人によって現在地に移し再興されたと伝わっている。境内に入ると子安地蔵と十三重石塔 (写真左下) が置かれ、左手には不動堂が置かれている。
不動堂を抜けると中庭の様な場所になり、そこには比較的新しい建物の無量寿殿がある。ここには亀山八幡の檜の一本造りの本地仏阿弥陀如来、薬師如来、 地蔵菩薩の三体が祀られている。平安時代の中期後期の藤原時代 (894 ~ 1185年) の作とされ、国の重要文化財に指定されている。これは明治維新の神仏分離令により、亀山八幡神社の神宮寺から神体とされていた仏像を別当であったこの寺に移された。移したもので、首から上は仏様、下は神様の姿をしており、平安時代から広がった、仏が人々を救うために神の姿で現れるという「本地垂迹説」を表している。また、ここには今日訪れた西の滝にあった宝篋印塔と梵鐘も保管されている。この二つも国の重要文化財に指定されている。
無量寿殿から階段を登った所が本堂が建てられた場所になる。本瓦葺き入母屋造りの本堂と庫裏は文化年間 (1804~6年) に道暉上人に再建され、文化年間(1804~18年) には道暉上人が大師堂・不動堂を建立している。本堂には本尊の大日如来、その両脇には愛染明王と不動明王が置かれている。1996年 (平成8年)に本堂、書院、庫裡が建立されている。
長勝寺裏の山の斜面には墓地がある。

亀山八幡神社

道に戻り東に進んだ所に亀山八幡神社がある。大鳥居を入った左側に社務所がある。建物脇には大黒天像が置かれている。観光促進の為、七福神巡りを旅行会社が企画した際に造られ、小豆島にある八幡神社にそれぞれの福神が割り振られたもので、古来からここで大黒天が信仰されていたわけではない。

護国神社

参道を少し進むと左側奥まった所に護国神社がある。元々は池田忠魂社と称し、日清・日露の両役の戦死者を祀って昭和3年に亀山八幡宮境内に建てられた。その後、太洋戦争で戦死した英霊も合祀され、護国神社と改称された。入口付近には慰霊の塔も置かれていた。

随身門

坂になっている参道を進むと随身門があり、この門を潜ると境内になる。門の入口両脇には大正11年(1922年)に寄進された阿吽の狛犬が置かれ、門の左右には右大臣、左大臣が守っている。

拝殿、幣殿

随身門を入ると境内は何も置かれていない広場になっている。神社としては少し変わっている。この広場では、夏の祭りでは、池田郷の15の村から25台もの太鼓台が集まり奉納行事を行っていた。どちらかと言うと馬場として使用されていた様だ。今日は西の滝で目洗いの井戸は古く からの池田の七不思議のひとつだと知ったのだが、この境内ももう一つの七不思議だそうだ。この境内には雑草が生えないという伝説があるそうだ。今も生えないのだろうか?それは書かれていなかった。また残りの五つの七不思議についても分からなかった。地元の人に聞くしかないだろう。

拝殿の前には寛政年間 (1789 〜1800年) に造られた狛犬が守っている。拝殿も少し変わった形で、拝殿の中に賽銭箱があり、その右と左に板間が別々に作られている。賽銭箱の後ろに扉があり、その奥が幣殿となっている。拝殿には幾つもの絵馬や写真が掲げられている。

現在の本殿は幣殿、拝殿などと共に1852年 (嘉永5年) に再建されたものだが、南北朝時代1371年 (応安4年)、1611年 (慶長16年)、1670年 (寛文10年)、1830 年 (文政13年)、1840年 (天保11年) の棟札が残り、何度も改築が行われた事がわかる。
亀山神社は宝亀山八幡神社ともいわれ、古来は池田郷の郷社で、祭神は品陀別命 (品陀和気命、応神天皇)、息長帯姫命 (息長帯比売命、神功皇后)、比売神 (中津比売命、応神皇后中津姫命) の三神を祀っている。
亀山八幡神社の縁起は926年 (延長4年) に京都の石清水八幡宮の荘園から勧請されたとされているが、この縁起は小豆島の五社八幡 (富丘 、伊喜末、池田、福田、苗羽) とも同じ縁起となっており、甚だ疑わしい。恐らくは八幡信仰が盛んになった鎌倉時代に創建されたと思われる。亀山八幡神についても、北条執権時代に新補地頭として派遣され定住した須佐美紀伊守がこの神社を尊崇して本殿を造営したとも伝わっている。この神社には南北朝時代の1371年 (足利三代将軍義満時代) の棟札が残っている。

本殿

幣殿から渡り廊下で本殿に繋がっている。亀山八幡神社は明治の神仏分離令が発布されるまでは、八十八ケ所霊場の第35番札所だった。八幡神社の神宮寺だった延命院八幡寺がそれにあたる。延命院は豊臣秀吉の重臣仙石権兵衛秀久が、九州の島津征伐に出発するとき一時身を寄せた所ともいわれ、江戸時代には吉祥院保寿寺と改称して明治に至り、明治年の廃仏毀釈により、本尊はすぐ近くにある長勝寺に移されて廃寺になっている。更に長勝寺に置かれた神宮寺35番札所は、大正10年に林庵に移されている。

境内末社 (金比羅神社、高良神社、住吉神社、八坂神社)

拝殿と本殿の裏に境内末社として、金比羅神社 (写真 左上)、武内宿禰を祀る高良神社 (右上)、住吉神社 (左下)、八坂神社 (右下) の祠が置かれている。四つとも全く同じ形の祠なので、近年に同じ時期に改築されたのだろう。本殿北側には神社の神木として崇められてきた樹齢は400年以上と推定される胸高幹周4.8m・樹高19mの真柏 (シンパク) が残っている。昔はもっと巨木だったのだが、落雷のため主幹の上部は、数メートルなくなっている。

裏参道

亀山八幡神社を見終わり、裏参道の階段を降りて帰りのバス停に向かう。


迎地

迎地も面積は狭いのだが、バス道路が走っている事で比較的人口の多い地域になる。この村の一部の史跡は5月2日に訪れている。



小豆島中央病院、池田中学校跡

帰りのバス停は小豆島中央病院にある。以前は小豆島の総合病院は内海病院と土庄中央病院があったが、人口減少が激しく総合病院としての経営は苦しくなり、2016年にこの二つが合併し開院している。内海町と池田町が合併後は小豆島中央高校やこの小豆島中央病院などの広い敷地が必要な公共施設はこの旧池田町に置かれている。旧池田町もこの事で、以前より活気が出ている様に思える。この病院は旧池田中学校跡地に建てられている。病院の合併と同じく、小豆島の中学校も合併で閉校となっている。
  • 昭和22年: 平木に池田中学校、 二面に二生中学校、 蒲野に三都中学校が開校
  • 昭和27年: 池田中学校が二生中学校を吸収し、翌年にこの迎地に移転
  • 昭和38年: 三都中学校を吸収し、町内で唯一の中学校となる。
  • 平成26年: 池田町と内海町との合併により、片城の小豆島中学校に吸収され、池田中学校閉校は閉校
小豆島町ではこの小豆島中学校が唯一の中学校で、人口減少、少子化を反映している。

今日は長い1日でバスに乗ったのは6時を過ぎており、帰宅は7時になった。



参考文献

  • 池田町史 (1984 香川県小豆郡池田町)
  • 小豆島お遍路道案内図
  • 小豆島町文化財保存活用地域計画 (2022 小豆島町)

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