小豆島八十八ヶ所遍路 11 (02/05/23) 小豆島町 旧池田町 (1) 蒲生村 / 池田本村

旧池田町 蒲生村 (かもう) 入部 (にゅうべ) 部落

  • 入部浜、入部遺跡跡 (4月26日 訪問)
  • 祠 (恵比須神社?4月26日 訪問)
  • 三寳大荒神 (4月26日 訪問)
  • 稲荷大明神 (4月26日 訪問)
  • 祠 (塩釜神社?4月26日 訪問)
  • 八坂神社 (4月26日 訪問)
  • 庵 (大師堂?、4月26日 訪問)
  • 入部山ノ神 (4月26日 訪問)

旧池田町 蒲生村 (かもう) 

  • 天理教聖踏分教会 (4月26日 訪問)
  • 祠 (4月26日 訪問)
  • 蒲生共同墓地 (4月26日 訪問)
  • 金比羅神社、恩澤の碑 (未訪問)
  • 小豆島中央高校 (4月26日 訪問)
  • 庚申堂 (4月26日 訪問)
  • 地蔵尊 (4月26日 訪問)
  • 祠(4月26日 訪問)
  • 山上さん(4月26日 訪問)
  • 第40番霊場 保安寺 (4月26日 訪問)
  • 拝所 (4月26日 訪問)
  • 祠 (5月4日 訪問)
  • 拝所 (5月4日 訪問)

旧池田町 池田本村 

(北地)

  • 第35番霊場 林庵
  • 拾頭牛霊 (5月4日 訪問)
  • 地蔵尊 (5月4日 訪問)
  • 地蔵尊
  • 素戔嗚尊 (スサノオノミコト) の社跡
  • 北地荒神社
  • 大地主大神
  • 天満宮
  • 愛宕神社
  • 拝所
  • 第39番霊場 松風庵
  • 第38番霊場 光明寺

(上地 岡条)

  • 岡条荒魂神社

(迎地)

  • 迎地荒神社
  • 地蔵尊
  • 地蔵尊

(上地)

  • 第37番霊場 明王寺
  • 第36番霊場 釈迦堂
  • 池田大池

ウォーキング距離: 21.8km



今日はオリーブバスで南回りで双子浦まで行き、安田に向かってバス道沿いの旧池田町と旧内海町の村を巡る。


今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場

第40番 保安寺

  • 本尊: 十一面観世音菩薩
  • 真言: オン マカキャロニキャ ソワカ
  • 詠歌: み仏の み手にひかれて ゆく人の 保つに安き 心なるらん

第39番霊場 松風庵

  • 本尊: 地蔵菩薩
  • 真言: オン カカカビ サンマエイ ソワカ
  • 詠歌: 塵ほどの 罪も残さず 吹き払へ 年ふる寺の 庭の松風 

第38番霊場 光明寺

  • 本尊: 無量寿如来
  • 真言: オン アミリタ テイセイ カラ ウン
  • 詠歌: 極楽を こことも知らず 後の世に 生るる国と 思いけるかな

第37番霊場 明王寺

  • 本尊: 不動明王
  • 真言: ナウマクサンマンダ バザラダン センダン マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン
  • 詠歌: 動きなき 人の心の うちにこそ このみ仏は いますなりけれ 

第36番霊場 釈迦堂

  • 本尊: 釈迦如来
  • 真言: ナウマクサンマンダ ボダナン バク
  • 詠歌: 今も世を 照らせる法の 灯は このみ仏の 光なりけり 

訪問ログ



池田郷蒲生村

荘園制時代から中世に至るまで、小豆島は肥土庄、池田庄、草加部庄、小海 (尾美) 庄の4庄に区分され、肥土郷、池田郷、または、肥土組、池田組などと呼ばれていた。村数は、土庄組12村、池田組11村、草加部組16村、北浦組12村となっている。池田組 (池田郷) は、池田村 (浜村)、上地村、北地村、向地村、蒲生入部村、中山村、室生村、二面村、吉野村、野村、神浦村の11村で構成されていた。
1614年 (慶長19年) 大坂冬の陣当時は6組 (6郷) の土庄、淵崎、池田、草加部、小海、福田に再編された。
蒲生は池田村の大字の一つで、東蒲生、中蒲生、西蒲生の小字と入部村とから成っていた。江戸時代後期から蒲生は甘蔗の栽培が特に盛んで、もとより素麺製造も行われ、漁業も盛んだった。

蒲生の人口は小豆島の殆どの地域と同じように減少傾向だが、小豆島町の他の地域が軒並み30~60%の減少に比べて比較的減少率は少なく、1983年から2015年の約30年で18.5%に留まっている。


旧池田町 蒲生村 入部 (にゅうべ) 部落

蒲生村 入部 (にゅうべ) 部落には4月26日に訪れているのだが、その時の訪問記を今日訪れた旧池田町の訪問記と一緒に記載している。入部は土庄地区渕崎の小入部の東隣にある。入部 (にゅうべ) という名称は5世紀初めから6世紀末までの間、第16代仁徳天皇から第32代崇峻天皇 (587 - 592年) に行われた皇族の領地であった御名代地 (みなしろち) に由来していると考えられる。皇族はこの領地から作物などを徴収していた。小豆島では草加部 (福田を除く現内海町地区) と、ここの入部が御名代地 (みなしろち) とされている。古事記の仁徳天皇の巻に皇太子伊邪本和気命(いざほわけのみこと、後の履仲天皇) の御名代地として壬生部 (にゅうべ、ふぐとも読む) を定めたとあり、入部、乳部は壬生部と同じ意味である事を根拠としている。また、6世紀末、第33代推古天皇の頃、御名代 (みなしろ) 、御子代 (みこしろ) の民を総称して入部と呼んだことから、その民が住んでいる場所を入部と呼んだ事から地名となったとの説もある。
入部村は蒲生村の一部だったが、蒲生村の中で最も発展したのは入部で、あたかも独立した村の様だったという。 平野屋、山形屋一門の廻船業、素麺問屋業による繁栄は島内でも屈指の富を礎き、その小作地は蒲生から豊島にまで及んでいた。
小豆島の小字までの各地域の人口推移をまとめた資料は見つからず、単年度のデータしか見つからなかった。1983年の蒲生村内の各地域の人口データがあった。各地域とも人口は少ない。1983年以降も人口は減少傾向が続いているので、入部村の人口は300人程になっているのではないだろうか。


入部村の史跡 (太字は訪問済)

  • 寺院/庵等: 庵 (大師堂)
  • 神社: 入部五社 (八坂神社稲荷神社荒神社、恵比須神社、塩釜神社)、山の神
これ以外に入部には八幡神社があると資料にはあったが、所在地などは記載がなく訪問していない。池田の八幡社は亀山八幡なのだが、村で独自に八幡神社を祀っているのはこの入部村のみ。

入部浜、入部遺跡跡

入部浜の砂丘から師楽式土器片と弥生式土器が出土している。その東の小丘上からは石鏃も発見されている。蒲生、入部の海岸からは師楽式土器が多く発見されるところから、弥生式文化時代の後期から、5~6世紀にかけて島内でも有数の製塩地帯ではないかと推量されている。奈良、平安時代に入っても有望な製塩地帯としての価値を維持し、御名代 (みなしろ) としての入部からは塩を貢納させていたと考えられる。

入部浜、現在は入部漁港になっている場所に二つの祠が置かれていた。名称は分からなかったのだが、資料に記載ある拝所で確認でき無かったのが、恵比須神社と塩釜神社なので、そのどちらかも知れない。祠の一つの中には菅原道真らしき像が浮き彫りされている。この祠は天神さんかも知れない。そうであればもう一つの祠が恵比寿神社の様な気がする。

入部三寳大荒神

祠の後方は今はまばらなのだが、集落となっている。この集落の中には入部三寳大荒神を祀った神社が置かれている。村の氏神として各村には必ずある荒神になる。三寳大荒神とは仏・法・僧の三宝を守護する神だが、日本古来の荒魂に、古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられ、神道、密教、山岳信仰などのさまざまな要素が混交して成立した火と竈の神になる。仏教寺院や神社の双方で祀られている。

稲荷大明神

海岸線の広場には稲荷大明神を祀った祠も置かれている。

海岸線はあさぎ岬に伸びており、岬の端にも祠がある。鳥居などは無く、庵なのか神社なのか分からなかったのだが、中を除くと三宝が置かれているので神社だ。恵比須神社か塩釜神社と思えるが、先程の名称不明の祠が恵比須神社なら、塩釜神社だろう、古来、奈良時代から江戸時代にはこの海岸には塩田が広がっていた。

八坂神社

バス道の国道436号線に戻ると道沿いに八坂神社がある。幣殿と本殿一体型の社があり、狭い境内には石臼を積み重ねた灯籠が置かれれいる。

庵 (大師堂?)

八坂神社の前、国道436号線を挟んだ所に庵が見える。蒲生では農耕が発達し、牛馬の飼育が盛んでだった。死んだ牛や馬を供養した碑も多く建てられていたと考えられる。この入部の庵の傍らに馬頭観音が祀られて、地元では「牛んどさん、馬んどさん」と呼ばれている。この近くのお婆さんにこの庵の名を聞いたが、名は分からないが、庵と呼んでいる。馬頭観音があるので馬を供養しているのかと聞くと、馬よりも牛の方が多かったので、牛を主とした供養塔と言っていた。資料には入部には大師堂があるとなっていたので、ここが大師堂の様な気がする。庵の中でには地蔵を始め石に仏像が祀られている。何故か蛸の絵が掲げられている。蛸とこの庵は何か関係がある伝承でもあるのだろうか?
庵の隣は入部自治会館がある。1912年 (明治45年) に入部公会堂として建てられ、入部地区の集いの場として使用されていたが、老朽化のため、2010年 (平成22年) にこの土地の無償提供を受け、宝くじ助成金で建て替えたのが現在の建物になる。

入部山ノ神

入部漁港に流れ込んでいる入部川沿いの緩やかな坂道を登り、集落を抜け、山の麓には入部村の山の神が置かれている。石臼を積み重ねた燈籠の奥にコンクリート造りの祠があり中には三つの祠が安置されている。それぞれが何の神を祀っているのかは分からないが、この中の一つが山の神になる。


入部村から、その本村だった蒲生村に移動する。


旧池田町 蒲生村 (かもう) 

蒲生は東、中、西蒲生の小字と入部村とから成って池田村の大字を形成していた。入部を除いた蒲生村には荒神社が一つしかないので、現在の行政区は東蒲生、中蒲生、西蒲生に分かれてはいるが、これは行政上の区分けで、歴史的には蒲生村として一つの村だったと思われる。

蒲生村の史跡 (太字は訪問済)

  • 寺院/庵等: 保安寺 (40)
  • 神社: 庚申堂、荒神社、淡島神社、塩釜神社、厳島神社、恵比須神社、龍神社、金比羅神社、若宮神社、稲荷神社、和霊神社

上記は池田町史に記載されている拝所なのだが、所在地や各拝所の解説はなく、今日はほとんどの拝所を確認することはできなかった。次回、小豆島訪問時には再訪し、村人に聞きながら探してみたい。


天理教聖踏分教会

八坂神社の背後にある丘の上には天理教の分教会がある。ここは入部から西蒲生との境にあたり、分教会は西蒲生地区内にある。この分教会も立派な拝殿が建てられている。小豆島にある新宗教の中では天理教が最も広く信者を獲得して、各地域に多くの分教会を持っている。1838年 (天保9年) に奈良県で創始された天理教は明治維新後に全国に布教活動が行われ、小豆島内でも比較的早く布教され、明治29年に坂出町に出張所が置かれ、明治40年に聖踏布教所と改称してこの地に移転し、明治44年に聖踏支教会に、大正12年に聖踏分教会に昇格している。昭和6年に神殿が落成。

国道436号線に戻り、中蒲生に向い、川を越えると国道沿いの花壇に「蒲生」との表示板が置かれていた。
蒲生村は海岸に沿って池田に伸びている村で、海岸線には防波堤沿いに遊歩道がある。今日は晴れ渡って気持ちが良いのでこの遊歩道を歩くことにした。

遊歩道沿いに石造りの小さな祠が並んで置かれている。祠を置くための台座も造られ、野花だが花も供えられている。この辺りの住民に大切に祀られている事が分かる。何を祀っているのかは分からないが、水神、地主神などの屋敷神なのだろう。
祠を過ぎた所は平野川と角田川が合流し海に流れ込む河口 (写真上) になり、川を渡ると中蒲生で、そこに共同墓地が整備され、亡くなった人が生まれ変わる六つの六道輪廻の世界 (地獄道・餓鬼道・畜生道 修羅道・人間道・天道) を巡って救済を行うと考えられている六地蔵が置かれている。この墓地は蒲生にある保安寺が面倒を見ているそうだ。
ここからも海の向こうに屋島と五剣山が見える。

金比羅神社、恩澤の碑 (未訪問)

見落としてしまったのだが、共同墓地の向こうの蒲生の海沿いに金比羅神社がある。社殿 は朽ち果てて現存していない。境内に恩澤の碑なるものが建てられている。幕末の1864年 (元治元年) の下関戦争で長州藩の馬関と彦島の砲台を徹底的に砲撃し、四ヶ国連合 (英仏蘭米) の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。その後、英国軍艦が当時津山藩領だった小豆島の池田湾に碇泊して村人の見学を歓待、村民は外国船に乗せてもらって見学していたのだが、説明をしていた英国人のピストルが暴発して蒲生村の青年漁師の幾太郎が即死するという事故が起こった。当時は江戸幕府と外国の国力の差は歴然とし、この事件に対しても日本は強く出ることができない状況だった。津山藩の代表として鞍懸寅二郎が幕府を通してイギリスと交渉し、洋銀200枚(約一千万円)を漁師の家族に補償に成功している。この鞍懸寅二郎の功績を讃え、明治12年に金比羅神社境内に建てられたのがこの恩澤の碑になる。
ここから保安寺に向かうので中蒲生の集落を通り国道436号線に出る。集落は古い街並が残っている。

小豆島中央高校

国道436号線には小豆島中央高等学校の校舎が建てられている。97年の歴史の小豆島高等学校と、88年の歴史の土庄高等学校が統合し、2017年 (平成29年) に開校している。2006年 (平成18年) に池田町と内海町が合併する前までは、池田町は小豆島に三つあった町の中ではあまりパッとしない地区だったが、合併後は比較的開発可能な土地がある池田町が開発されて活気ある地域にはなっている。

庚申堂

小豆島中央高校の側には庚申堂が置かれている。関東では至る所に庚申塔があるのだが、小豆島で庚申塔はあまり見かけない。庚申塔は中国から入った庚申信仰と関西の比叡山麓の日吉大社の山王信仰が結びつき、それが関東に伝わり発展していったとの説がある。何故、発祥地とされる関西では発展しなかったのか? 調べたがその理由が書かれた資料は見つからなかった。堂内には初期庚申塔では掘られる定番の六臂の青面金剛明王像が置かれている。関東の庚申塔で彫られている青面金剛明王像は踏みつけられたシュケラ (悪鬼)、三猿が定番だが、この青面金剛明王像は足元にはニ猿が浮き彫りされている。これは「日光型」と呼ばれる初期の庚申塔になる。堂の脇には石造りの祠があり、その中に木彫りの像が二体納められている。これは珍しい。この木像が何なのかに興味を持ったのだが情報は無かった。

地蔵尊

保安寺への遍路道は消滅しているようなので、中蒲生の集落内を通り進むと道沿いに地蔵尊が置かれている。

更に道を進むと民家の傍に祠が置かれていた。この家の地主神か水神だろう。

山上さん

保安寺が見えて来た。その道沿いには「山上さん」と扁額が掲げられた堂があった。詳細は不明だが、堂内には不動明王像や大師像などの仏像が鎮座している。

第40番霊場 保安寺 (ほうあんじ)

道の奥に山を背にし高い石垣に土塀を引いた城造り形式の保安寺がある。正式には随光山光明院保安寺という。保安寺によれば、弘仁年間 (810年~824年) に開創され、寺の前身が始まり、その後、1300年 (正安2年) に善朝上人が衰えた寺を復興し中興開山したとある。別の資料では1571年 (元亀2年) に法印朝により開基されたと伝わっているとあり、異なっている。1708年 (宝永5年) の小豆島中寺社方由緒帳によれば随光山光明院長福寺とあり、当時は長福寺と称していたのかもしれない。
坂道を登り石段を上ると鐘楼門が置かれている。この鐘楼門の梵鐘にまつわる「鐘の緒の戒め」という逸話がある。
大正6年、岡山県久米郡より11人のお遍路が参詣、本堂で読経の後、その中の19歳の娘が帰り鐘をつこうとした。すると急に髪の毛が鐘の緒に巻きつき、全身が震え、歯をくいしばる。同行のお遍路は驚き、住職はご本尊に祈願した。やがて3時間後に娘は意識を取り戻し、両親にことの次第を打ち明けた。それによれば、娘は巡拝中に盗みの罪を犯したのであった。両親は娘の言葉を聞いて頭を垂れ、実は父親もかつて盗みの罪を犯したと告白する。親子ともども真心こめて御本尊に懺悔し、大師の戒めの厳しさに深く反省し、その髪は当山に奉納された。そして親の因果が報いとなって現われることを知る。
保安寺では「鐘の緒の戒め拝観所」を開き、巡拝者は申し込めば拝観することが出来、巡拝者の言動に警鐘を与える関所寺になっている。
この逸話は四国八十八ケ所の第1番札所の立江寺の逸話と似ている。この立江寺は邪悪な者は弘法大師の審判を受け、懺悔しないと、その先に進めない」という関所寺とされている。
石州浜田城下通りの桜井屋銀兵衛にお京という娘がおりました。
お京は、16歳の時、大阪新町へ芸者に売られ、そこで芸妓として務めるうち、要助という者と契りそめ、22歳の時、大阪を脱走し生国浜田へ立ち帰り、親に頼みて要助と夫婦になりましたが、お京の心様が最も悪しく慣れるにつれ、我儘増長し、鍛冶屋長蔵という密夫をつくってしまいました。これを夫要助に嗅ぎつけられ、二人とも散々に打ち叩かれ、邪見のお京は長蔵を手引きして、夫要助を打ち殺してしまいます。
お京と長蔵の二人は、故郷を逃げ出し、讃岐丸亀へ渡り心中しようとしましたが気後れして心中することができず、後生のため四国巡礼の遍路に出ました。
享保3年 (1718年)、阿波の国にある19番札所立江寺にお参りし、本尊の地蔵尊を伏し拝まんとするや、忽ち、お京の黒髪が逆立ち鐘の緒に巻きついてしまいました。苦痛のお京を見て、長蔵は狼狽し、住職に救いを求めました。住職は罪障の報いであろうと思い、二人に今までの行いを問いただしました。お京は仏罰の恐ろしさに、全てを懺悔しました。すると、不思議にも、お京の黒髪は肉とともにはがれ、辛うじて命は助かりました。
その後、二人は改心し出家して、田中山というところに庵をむすび、一心に地蔵尊を念じ生涯を終えました。お京の黒髪付の鐘の緒を立江寺の堂 (黒髪堂) に納め置いたのは、亨和3年 (1803年) の春だという。
四国八十八ケ所には四つの関所寺があるが、小豆島八十八ケ所ではこの保安寺のみ。
鐘楼門を入ると境内には白梅の奥に唐破風の玄関、入母屋造本瓦ぶきの客殿、寄棟造りの本堂を配置され、客殿裏には枯山水の羅漢造りの築山がある。本尊は行基菩薩の作と伝わる十一面観世音菩薩。釈迦堂には近世後期の作の釈迦涅槃の石像を安置しているそうだ。また、かつて、保安寺境内には産土神の荒神社があったが、神仏分離に際し、山川の山中に社殿を建て他の社と合祀したという。
この保安寺では7月土用丑の日、8月土用丑の日にきうり加持が行われている。弘法大師が木瓜 (きうり=きゅうり) に病魔を憑かせて封じ込め、病気平癒・健康増進を祈念する秘法を修したと伝えられる島唯一の加持祈祷で120百年以上続いているそうだ。


拝所

保安寺を見終わった時点で帰りのバスの時間が迫って来ているので、小豆島中央高校バス停に向かう途中、集落内の道沿いに石垣造りの台座の上に二つに石が置かれて祀られている。何を祀っているのだろう?

これで4月26日の予定を終了。蒲生村にはまだまだ史跡があるのだが、そこには後日の訪問とする。



今日5月2日は4月26日の旧池田町の史跡巡りの続きを行う。福田港でバスを待っていると、いつも同じバスに乗る安藤さんが来た。安藤さんは80才になり、腎臓が悪く人工透析のため池田の病院に通っている。何度もバスで一緒になり、そのうち話すようになった。東北石巻市の出身で長距離トラックの仕事をしていたが、仕事を辞めて奥さんの出身地の福田に移ってきて20年ほどになるそうだ。東北の旅の石巻の話をすると、嬉しそうに、若い頃に石巻にいた頃の話がとまらず随分と親しくなった。今日は双子浦のラーメン屋に誘われて一緒に食べることにした。バス停から双子浦のラーメン屋までの300mぐらいを歩くのがやっとなのに加え、人工透析中なので、ラーメンなどは食べては行けないのだが、ここのラーメンを食べるのが楽しみで日課になっている。人工透析の無い日もここに来ている。このラーメン屋から今日の目的地までは数キロあるのだが、史跡巡りはいつでもできるので、安藤さんに付き合った。ラーメンを食べ終わり、そろりそろりと病院行きのバス停まで行き見送り、先日の終点の小豆島中央高校まで歩き、先日の続きを始める。既に12時になっていた。

祠 (5月4日 訪問)

中蒲生の海岸に流れている川沿いに祠がある。中には少し変わった形の石造物が置かれている。

拝所 (5月4日 訪問)

この川を少し上流に進んだ所にも拝所があった。石臼の上に自然石と供物が置かれている。個人宅の地主神だろう。

蒲生村から池田本村に移動する。


旧池田町 池田本村 

地図にも示しているように現在の旧池田町は蒲生、池田、中山、三都、二生の五つの地区になっている、この地域は古代・中世以来池田郷 (池田庄) で地域内での行政区の変更はあったが、池田郷がほぼそのまま池田町になっている。池田本村が池田郷の中心で、 土豪 (地頭) 平井兵左衛門家が近世以来、庄屋としてこれを統括していた。平井兵左衛門が処刑の後は室生出身の岡田氏が庄屋を引き継いでいる。
昔から池田村の産業は農業中心だった。近代に入っては早林檎、柑橘、甲州葡萄の栽培が始まり、花卉栽培や葉煙草も盛んになっていた。小豆島の特産物の素麺業については、この池田が発祥の地であり、現在でも素麺業は重要産業のひとつ。
池田本村は北地、迎地、上地、浜条が古来から続く村落であったが、平木はもと浜村に属した土地を新たに開発 (時期不明) してできた部落だが、現在の池田本村の中では最も人口の多い地域になっている。江戸時代までは池田本村のうち北地村、迎地村などと半ば独立しており、各村に年寄、組頭があって、これら村役人を中心に団結して いたのであるが、明治維新後は、迎地組、上地組などと称して、各組に惣代が選ばれて自治組織をつくり、それぞれの地区の共有財産の管理、港湾 の改修、墓地の整備等を行っていた。

池田村の史跡

  • 寺院/庵等: 林庵 (35)
  • 神社: 玉比売神社、菅原神社、猿田彦神社、稲荷神社、金比羅神社、浜津神社 (大正ごろに恵比須、伊勢、金比羅神社を合祀)、平称霊神、首神社、平木神社 (平木、大正6年、荒神、塩釜、龍神、山神、恵比須神社を合祀)、岡条荒神 (岡条)、上地荒神 (上地)、迎地荒神 (向地)、北地荒神 (北地)、河原条荒神、瑜加神社、八坂神社、愛宕神社、吉田神社、厳島神社、地神

蒲生村の史跡でも触れたが、池田町史では地域内の拝所名称が列挙されているのみなので、所在地などの詳細の記載はなく。訪問先で確認していった。上記リストの中で多くの拝所は未確認のままになっている。


国道に戻り池田町の旧池田村にある第35番霊場の林庵を目指し、井上誠耕園らしく園前バス停 (旧孔雀園) から農免道路で向かう。道沿いにはオリーブ畑が広がっている。

(北地)

上地は池田本村に中にあった四つの字の内のひとつ。

北地単独の人口データは1983年のものしか見つからなかったのだが、その当時は比較的多い地域で池田本村の20%を占めていた。

北地は素麺、菊の産地で全国に出荷している。特に秋の電照菊の夜景は見応えがあるそうだ。


第35番霊場 林庵

農免道路を山に登ると眼下に集落が見えて来る。農免道路を外れ、集落への下り道の北地に第35番札所の林庵がある。
明治維新の神仏分離まで、第35番札所は亀山八幡宮だったが、こに神仏分離令で長勝寺境内に本地堂第三十五番札所とし、その後、大正10年にこの地に庵を建立し、阿弥陀如来を遷座し長勝寺から札所をここに移して、新しく霊場としている。現在も納経は本地堂のままとなっている。

拾頭牛霊 (5月4日 訪問)

林庵の下、東側の道沿いに拾頭牛霊と書かれた石碑が建っている。拾頭が何を意味しているのかは不明だが、農耕のために飼っていた牛が亡くなり、その霊を祀っているのだろう。

地蔵尊 (5月4日 訪問)

拾頭牛霊から北地荒神社への道沿いに地蔵尊が二つが置かれていた。

地蔵尊

林庵から遍路道が残っている。遍路道沿いに地蔵尊が置かれていた。浮き彫りされた地蔵の横に「五丁」と刻まれている。次の札所迄の距離を表していると思われる。このように道しるべを兼ねた地蔵尊は四国にお遍路道でよく見かけられた。

素戔嗚尊 (スサノオノミコト) の社跡

遍路道を進むと横木のない鳥居があった。かつては神社があったのだろうが、今は祠などは無く、自然石が建てられ「素戔・・」と刻まれている。下の方は蔦で覆われているので読めないのだが、明らかに素戔嗚尊 (スサノオノミコト) を祀っている。

北地荒地蔵

遍路道を進むと荒神社がある。この後にも池田村で荒神社があったので、ここは北地の氏神 (産土神 うぶすなかみ) の大国御魂命 (おおおくにたまのかみ) を祀った荒神社になる。北地の荒神社という事から、池田村の中でも、この北地は小字として独立した部落だった事が分かる。

庄司O次の碑

荒神社の前に石碑があり、どうも功績を記しているのだが判読不明。

大地主大神

遍路道を更に進むと二つの堂が道沿いにある。一つは神社でもう一つは仏教庵になる。旧池田村内にある拝所に関しての情報は見当たらず、この神社の名称や祭神は分からなかった。拝殿横には「金」と刻まれた燈籠があるので金比羅神社かもしれない。拝殿前には大地主大神と刻まれた石が置かれている。Google Map ではこの大地主大神となっている。今まで見た拝所で地主神をこの様な社殿を建てて祀っているところはなかった。地元の住民に聞かないと分からないだろう。

神社の前には庵が置かれている。ここも情報は皆無で何を本尊としているのかは不明。

天満宮

拾頭牛霊の下、南側には天満宮がある。拝殿と本殿が独立しているので、北地村の中でも重要な神社だったのだろう。社殿の隣にも祠があり、中を覗くと、二つの神棚が置かれ、その一つには狐の像が付き添っている。稲荷神社の様だ。

愛宕神社

天満宮の境内の隣にも社殿がある。これが独立した神社か、天満宮の境内末社なのかは分からないが、社殿の中には正面に愛宕神社のお札を祀った神棚が置かれていた。

拝所

天満宮から次の札所の松風庵に向かう遍路道には、石臼の上に自然石を置いた拝所と石垣の台座の上に祠、五輪塔、自然石数個を置いた拝所がある。個人宅の屋敷神を祀っているのだろう。

遍路道を道しるべにしたがって進むと道沿いに祠がありその中は浮き彫りされた仏像がある。詳細は不明。

第39番霊場 松風庵

遍路道を歩き第39番札所の松風庵に到着。庵は小高い墓所の中にある。松風庵の創建年代は不詳だが、光明寺飛地境内地として円明上人の再興といわれ、地蔵菩薩を本尊として祀っている。
松風庵の前は墓地になっている。境内には地蔵尊、石仏、輪塔も置かれている。

第38番霊場 光明寺

松風庵のすぐ南、池田平野の中心部に第38番札所の随雲山来迎院光明寺がある。この寺は1645年 (正保2年) に増湛上人によって中興開山されたと伝わっている。
本尊は無量寿如来 (阿弥陀如来)、脇侍は聖観音、弘法大師、毘沙門天。これらとは別に薬師如来が脇侍十二神将を配して祀られているが、これはかつては薬師堂が建てられていたと考えられる。光明寺は、元々は御室御所仁和寺の末寺だったが、今は讃岐善通寺の末寺となっている。現在の建物は1720年 (享保5年) の建立だそうだ。1961年 (昭和36年) に山津波で建物は崩壊的な打撃を受けたが、幸いにも、本尊、高祖大師、鎮守社 (稲荷大明神) 等は損傷を受けなかった。本堂は昭和39年大改修を行い、昭和46年に鐘堂を、昭和57年に庫裏を再建している。寺では一月七日のお日待ち、4月21日の御影供、毎月15日の十五夜講が年中行事として行われている。
寛政年間 (1789 ~ 1799) に阿波藩士で南蘋派画人の三木文柳 (宋庵斎、1716-1799) がこの光明寺に滞在し、その後、北地に家を持ち永住したと伝わる。その際に描いた極彩色の金剛界、胎蔵界の二つの曼荼羅を合わせた金胎両部曼荼羅 (両界曼荼羅) が現存しているのだが、その曼荼羅は公開されていない。池田町史に白黒写真だが曼荼羅図が掲載されていた。

三木文柳の描いた本堂の天井画 (上の写真右下) もある。三木文柳は幼いころから画を好み、京都に出て修業し、江戸に出て南蘋派の画人である宋紫石の門人となっている。代表的な作品は花鳥図 (写真左) や高松松平家の衆鱗図 (右) がある。



(上地 岡条)

光明寺がある場所は、北地、岡条、迎地が入り組んでいる。因みに、小豆島では小地域集団をジョと呼んでおり、地域によって条、庄、荘の字が当てられている。旧池田町では「条」が使われ、ここは岡条 (おかじょ) になり、昔は上地に属していた。


岡条荒魂神社

光明寺と松風庵の間に岡条村の荒魂神社がある。岡条村内のその他の拝所は別の機会に訪れる予定だが、この荒神社が歩いた道沿いにあったので立ち寄った。広い境内には金比羅のシンボルの「金」と刻まれた燈籠、天照大神始め各神を祀った石柱が建っている。拝殿には三つの神棚が置かれている。真ん中が岡条の氏神の荒神社だろう。向かって左の祠の横には河原条の荒神社の札が置かれている。河原条は浜地の中の条なので距離が離れている。ここに合祀されているのだろうか?浜地を訪れて河原条に荒神社があるか確認予定。


(迎地)

光明寺のすぐ南側は迎地村になる。江戸時代の池田本村にあった主要な四つの村 (迎地、上地、北地、浜地) の一つになる、当時は迎地の中には北条、中条、南条、平木の四つの部落が存在していた。


迎地荒神社

北地の光明寺から池田大川沿いを下流方向に進んだ川沿いには迎地の氏神の荒神を祀った神社がある。境内は比較的広く、奥に本殿と幣殿一体型の社殿がある。殿内には三宝が三つ置かれているので荒神以外に二つの神も祀られている様だが、情報がなく不明。更に境内にはもう一つ鳥居が置かれ、境内末社が祀られているのだが、これも祭神は分からなかった。


地蔵尊

迎地荒神のすぐ側、池田大川が国道436号線と交差する場所には石造りの祠が置かれている。迎地荒神の末社なのかは、個人の地主神か、それ以外なのか?


地蔵尊

国道436号線を東に進む次の目的地の明王寺へのの道に入る手前、国道沿いに地蔵尊が置かれていた。


地蔵尊

明王寺への道に入った所にも地蔵尊がある。



(上地)

上地は池田本村に中にあった四つの字の内のひとつで、先ほど通った小字の岡条も含んでいた。

上地単独の人口データは1983年のものしか見つからなかったのだが、その当時は比較的多い地域で池田本村の20%を占めていた。


第37番霊場 明王寺

上地には第37番札所の明王寺がある。正式には洞雲山福生院明王寺で本尊は弘法大師作と伝えられる不動明王で、小堂には脇侍の毘沙門天、弁財天が安置されている。1301年 (正安3年) に、阿闍梨弘山の開基で、元禄年間に再興された伝えられている。御室派仁和寺の末寺になる。本堂は本瓦葺き寄棟造り、客殿は本瓦葺き入母屋造りで1847年 (弘化4年)の建造、庫裏は1805年 (文化2年)再建、裏の庭園は1861年 (文久元年) 築造されている。明王寺には奥の院が43番札所の浄土寺へ行く道沿いにあり、目の病いによいかくれ薬師や納札にてめずらしい龍の彫刻があると、後で知った。次回の小豆島に来た際に訪れてみよう。


第36番霊場 釈迦堂

明王寺のすぐ南側に第36番札所の釈迦堂がある。小豆島霊場発祥の地と言われている。

明王寺釈迦堂というので、明王寺の一部になっているのだが、この釈迦堂は、元々は湧出山高宝寺の本堂で村内第一の寺院で、1522年 (大永2年) に池田の地頭であった須佐美氏の子孫の源元安入道盛椿によって着工され、11年をかけて完成し雲慶の作と伝わる釈迦如来を本尊として祀っている。その後、いつのころか無住となり、池田郷内11カ寺の涅槃会やその他の諸法事を行う会座堂として使われ、当時は単に本堂と呼ばれていた。1875年 (明治8年) に廃寺となり、明王寺に吸収されている。元々の高宝寺には本堂の他に萱葺きの穀屋と十王堂もあったのだが、現在ではこの本堂であった釈迦堂のみが残っている。

釈迦堂は正面3間、奥行4間、単層入母屋造りの本瓦葺の建物で、内部は前1間が外陣 (げじん)、奥3間が内陣で中央に高欄を巡らした禅宗様の須弥壇 (写真右) があり、その奥に精巧、優雅な彩色を施した彫刻で飾られた厨子が置かれ、室町時代建造物として国の重要文化財に指定されている。厨子の正面の上り下り龍は国宝に指定され、内陣の正面の蛙股は左甚五郎の作と伝わっている。堂内に保管されている23枚の文字瓦 (右) には、建立にあたっての寄進者の名前や願文が残され、中には、人々が小豆島水軍として戦乱に従事していた記事もあり、当時の社会情勢を知る事ができる。


池田大池

釈迦堂の南の国道436号線沿いには池田大池がある。池田本村では最大規模の溜池で江戸時代の元和年間 (1615 ~ 1624年) 頃に開削されたと思われる。水を段山を源流に池田本村を貫流して池田湾にそそぐ池田大川 (総延長 2,513m) から引いている。池田本町にはその他、奥の坊池、北池、新池、奥の池、上地堀池などの大きな溜池があり、いずれも元和 (1615 ~ 1624年)、寛永 (1624 ~ 1644年)、寛文 (1661 ~ 1673年)、延宝 (1673 ~ 1681年) 年間に開削されたと考えられる。江戸時代の溜池には御普請所と百姓自普請の二種類があった。御普請所は百姓が代官に申請許可により開削を行い、その使役には代官所から扶持米が給付された。その後の修理についても同様だった。百姓自普請は代官所の許可は不要だが百姓の責任と自己費用で開削及び修理をおこなったもの。上記の溜池がどちらだったのかは不明だが、大池の規模から見て、御普請所だったと思われる。



池田大池から国道を東に進み、旧内海町に入り、旧草壁村の史跡を巡るのだが、その訪問記は別レポートに記載する。



参考文献

  • 池田町史 (1984 香川県小豆郡池田町)
  • 小豆島お遍路道案内図
  • 小豆島町文化財保存活用地域計画 (2022 小豆島町)

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