小豆島八十八ヶ所遍路 11 (02/05/23) 小豆島町 旧池田町 (1) 蒲生村 / 池田本村
旧池田町 蒲生村 (かもう) 入部 (にゅうべ) 部落
- 入部浜、入部遺跡跡 (4月26日 訪問)
- 祠 (恵比須神社?4月26日 訪問)
- 三寳大荒神 (4月26日 訪問)
- 稲荷大明神 (4月26日 訪問)
- 祠 (塩釜神社?4月26日 訪問)
- 八坂神社 (4月26日 訪問)
- 庵 (大師堂?、4月26日 訪問)
- 入部山ノ神 (4月26日 訪問)
旧池田町 蒲生村 (かもう)
- 天理教聖踏分教会 (4月26日 訪問)
- 祠 (4月26日 訪問)
- 蒲生共同墓地 (4月26日 訪問)
- 金比羅神社、恩澤の碑 (未訪問)
- 小豆島中央高校 (4月26日 訪問)
- 庚申堂 (4月26日 訪問)
- 地蔵尊 (4月26日 訪問)
- 祠(4月26日 訪問)
- 山上さん(4月26日 訪問)
- 第40番霊場 保安寺 (4月26日 訪問)
- 拝所 (4月26日 訪問)
- 祠 (5月4日 訪問)
- 拝所 (5月4日 訪問)
旧池田町 池田本村
(北地)
- 第35番霊場 林庵
- 拾頭牛霊 (5月4日 訪問)
- 地蔵尊 (5月4日 訪問)
- 地蔵尊
- 素戔嗚尊 (スサノオノミコト) の社跡
- 北地荒神社
- 大地主大神
- 庵
- 天満宮
- 愛宕神社
- 拝所
- 第39番霊場 松風庵
- 第38番霊場 光明寺
(上地 岡条)
- 岡条荒魂神社
(迎地)
- 迎地荒神社
- 祠
- 地蔵尊
- 地蔵尊
(上地)
- 第37番霊場 明王寺
- 第36番霊場 釈迦堂
- 池田大池
ウォーキング距離: 21.8km
今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場
第40番 保安寺
- 本尊: 十一面観世音菩薩
- 真言: オン マカキャロニキャ ソワカ
- 詠歌: み仏の み手にひかれて ゆく人の 保つに安き 心なるらん
第39番霊場 松風庵
- 本尊: 地蔵菩薩
- 真言: オン カカカビ サンマエイ ソワカ
- 詠歌: 塵ほどの 罪も残さず 吹き払へ 年ふる寺の 庭の松風
第38番霊場 光明寺
- 本尊: 無量寿如来
- 真言: オン アミリタ テイセイ カラ ウン
- 詠歌: 極楽を こことも知らず 後の世に 生るる国と 思いけるかな
第37番霊場 明王寺
- 本尊: 不動明王
- 真言: ナウマクサンマンダ バザラダン センダン マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン
- 詠歌: 動きなき 人の心の うちにこそ このみ仏は いますなりけれ
第36番霊場 釈迦堂
- 本尊: 釈迦如来
- 真言: ナウマクサンマンダ ボダナン バク
- 詠歌: 今も世を 照らせる法の 灯は このみ仏の 光なりけり
訪問ログ
池田郷蒲生村
旧池田町 蒲生村 入部 (にゅうべ) 部落
入部村の史跡 (太字は訪問済)
- 寺院/庵等: 庵 (大師堂)
- 神社: 入部五社 (八坂神社、稲荷神社、荒神社、恵比須神社、塩釜神社)、山の神
入部浜、入部遺跡跡
祠
入部三寳大荒神
稲荷大明神
祠
八坂神社
庵 (大師堂?)
入部山ノ神
入部村から、その本村だった蒲生村に移動する。
旧池田町 蒲生村 (かもう)
蒲生村の史跡 (太字は訪問済)
- 寺院/庵等: 保安寺 (40)
- 神社: 庚申堂、荒神社、淡島神社、塩釜神社、厳島神社、恵比須神社、龍神社、金比羅神社、若宮神社、稲荷神社、和霊神社
上記は池田町史に記載されている拝所なのだが、所在地や各拝所の解説はなく、今日はほとんどの拝所を確認することはできなかった。次回、小豆島訪問時には再訪し、村人に聞きながら探してみたい。
天理教聖踏分教会
八坂神社の背後にある丘の上には天理教の分教会がある。ここは入部から西蒲生との境にあたり、分教会は西蒲生地区内にある。この分教会も立派な拝殿が建てられている。小豆島にある新宗教の中では天理教が最も広く信者を獲得して、各地域に多くの分教会を持っている。1838年 (天保9年) に奈良県で創始された天理教は明治維新後に全国に布教活動が行われ、小豆島内でも比較的早く布教され、明治29年に坂出町に出張所が置かれ、明治40年に聖踏布教所と改称してこの地に移転し、明治44年に聖踏支教会に、大正12年に聖踏分教会に昇格している。昭和6年に神殿が落成。
祠
金比羅神社、恩澤の碑 (未訪問)
小豆島中央高校
庚申堂
地蔵尊
祠
山上さん
第40番霊場 保安寺 (ほうあんじ)
大正6年、岡山県久米郡より11人のお遍路が参詣、本堂で読経の後、その中の19歳の娘が帰り鐘をつこうとした。すると急に髪の毛が鐘の緒に巻きつき、全身が震え、歯をくいしばる。同行のお遍路は驚き、住職はご本尊に祈願した。やがて3時間後に娘は意識を取り戻し、両親にことの次第を打ち明けた。それによれば、娘は巡拝中に盗みの罪を犯したのであった。両親は娘の言葉を聞いて頭を垂れ、実は父親もかつて盗みの罪を犯したと告白する。親子ともども真心こめて御本尊に懺悔し、大師の戒めの厳しさに深く反省し、その髪は当山に奉納された。そして親の因果が報いとなって現われることを知る。
保安寺では「鐘の緒の戒め拝観所」を開き、巡拝者は申し込めば拝観することが出来、巡拝者の言動に警鐘を与える関所寺になっている。
石州浜田城下通りの桜井屋銀兵衛にお京という娘がおりました。
お京は、16歳の時、大阪新町へ芸者に売られ、そこで芸妓として務めるうち、要助という者と契りそめ、22歳の時、大阪を脱走し生国浜田へ立ち帰り、親に頼みて要助と夫婦になりましたが、お京の心様が最も悪しく慣れるにつれ、我儘増長し、鍛冶屋長蔵という密夫をつくってしまいました。これを夫要助に嗅ぎつけられ、二人とも散々に打ち叩かれ、邪見のお京は長蔵を手引きして、夫要助を打ち殺してしまいます。
お京と長蔵の二人は、故郷を逃げ出し、讃岐丸亀へ渡り心中しようとしましたが気後れして心中することができず、後生のため四国巡礼の遍路に出ました。
享保3年 (1718年)、阿波の国にある19番札所立江寺にお参りし、本尊の地蔵尊を伏し拝まんとするや、忽ち、お京の黒髪が逆立ち鐘の緒に巻きついてしまいました。苦痛のお京を見て、長蔵は狼狽し、住職に救いを求めました。住職は罪障の報いであろうと思い、二人に今までの行いを問いただしました。お京は仏罰の恐ろしさに、全てを懺悔しました。すると、不思議にも、お京の黒髪は肉とともにはがれ、辛うじて命は助かりました。
その後、二人は改心し出家して、田中山というところに庵をむすび、一心に地蔵尊を念じ生涯を終えました。お京の黒髪付の鐘の緒を立江寺の堂 (黒髪堂) に納め置いたのは、亨和3年 (1803年) の春だという。
拝所
祠 (5月4日 訪問)
拝所 (5月4日 訪問)
旧池田町 池田本村
池田村の史跡
- 寺院/庵等: 林庵 (35)
- 神社: 玉比売神社、菅原神社、猿田彦神社、稲荷神社、金比羅神社、浜津神社 (大正ごろに恵比須、伊勢、金比羅神社を合祀)、平称霊神、首神社、平木神社 (平木、大正6年、荒神、塩釜、龍神、山神、恵比須神社を合祀)、岡条荒神 (岡条)、上地荒神 (上地)、迎地荒神 (向地)、北地荒神 (北地)、河原条荒神、瑜加神社、八坂神社、愛宕神社、吉田神社、厳島神社、地神
蒲生村の史跡でも触れたが、池田町史では地域内の拝所名称が列挙されているのみなので、所在地などの詳細の記載はなく。訪問先で確認していった。上記リストの中で多くの拝所は未確認のままになっている。
(北地)
上地は池田本村に中にあった四つの字の内のひとつ。
北地は素麺、菊の産地で全国に出荷している。特に秋の電照菊の夜景は見応えがあるそうだ。
第35番霊場 林庵
拾頭牛霊 (5月4日 訪問)
地蔵尊 (5月4日 訪問)
地蔵尊
素戔嗚尊 (スサノオノミコト) の社跡
北地荒地蔵
庄司O次の碑
大地主大神
庵
天満宮
愛宕神社
拝所
祠
第39番霊場 松風庵
第38番霊場 光明寺
三木文柳の描いた本堂の天井画 (上の写真右下) もある。三木文柳は幼いころから画を好み、京都に出て修業し、江戸に出て南蘋派の画人である宋紫石の門人となっている。代表的な作品は花鳥図 (写真左) や高松松平家の衆鱗図 (右) がある。
(上地 岡条)
光明寺がある場所は、北地、岡条、迎地が入り組んでいる。因みに、小豆島では小地域集団をジョと呼んでおり、地域によって条、庄、荘の字が当てられている。旧池田町では「条」が使われ、ここは岡条 (おかじょ) になり、昔は上地に属していた。
岡条荒魂神社
(迎地)
光明寺のすぐ南側は迎地村になる。江戸時代の池田本村にあった主要な四つの村 (迎地、上地、北地、浜地) の一つになる、当時は迎地の中には北条、中条、南条、平木の四つの部落が存在していた。
迎地荒神社
地蔵尊
地蔵尊
地蔵尊
明王寺への道に入った所にも地蔵尊がある。
(上地)
上地は池田本村に中にあった四つの字の内のひとつで、先ほど通った小字の岡条も含んでいた。
上地単独の人口データは1983年のものしか見つからなかったのだが、その当時は比較的多い地域で池田本村の20%を占めていた。
第37番霊場 明王寺
上地には第37番札所の明王寺がある。正式には洞雲山福生院明王寺で本尊は弘法大師作と伝えられる不動明王で、小堂には脇侍の毘沙門天、弁財天が安置されている。1301年 (正安3年) に、阿闍梨弘山の開基で、元禄年間に再興された伝えられている。御室派仁和寺の末寺になる。本堂は本瓦葺き寄棟造り、客殿は本瓦葺き入母屋造りで1847年 (弘化4年)の建造、庫裏は1805年 (文化2年)再建、裏の庭園は1861年 (文久元年) 築造されている。明王寺には奥の院が43番札所の浄土寺へ行く道沿いにあり、目の病いによいかくれ薬師や納札にてめずらしい龍の彫刻があると、後で知った。次回の小豆島に来た際に訪れてみよう。
第36番霊場 釈迦堂
明王寺のすぐ南側に第36番札所の釈迦堂がある。小豆島霊場発祥の地と言われている。
明王寺釈迦堂というので、明王寺の一部になっているのだが、この釈迦堂は、元々は湧出山高宝寺の本堂で村内第一の寺院で、1522年 (大永2年) に池田の地頭であった須佐美氏の子孫の源元安入道盛椿によって着工され、11年をかけて完成し雲慶の作と伝わる釈迦如来を本尊として祀っている。その後、いつのころか無住となり、池田郷内11カ寺の涅槃会やその他の諸法事を行う会座堂として使われ、当時は単に本堂と呼ばれていた。1875年 (明治8年) に廃寺となり、明王寺に吸収されている。元々の高宝寺には本堂の他に萱葺きの穀屋と十王堂もあったのだが、現在ではこの本堂であった釈迦堂のみが残っている。
釈迦堂は正面3間、奥行4間、単層入母屋造りの本瓦葺の建物で、内部は前1間が外陣 (げじん)、奥3間が内陣で中央に高欄を巡らした禅宗様の須弥壇 (写真右) があり、その奥に精巧、優雅な彩色を施した彫刻で飾られた厨子が置かれ、室町時代建造物として国の重要文化財に指定されている。厨子の正面の上り下り龍は国宝に指定され、内陣の正面の蛙股は左甚五郎の作と伝わっている。堂内に保管されている23枚の文字瓦 (右) には、建立にあたっての寄進者の名前や願文が残され、中には、人々が小豆島水軍として戦乱に従事していた記事もあり、当時の社会情勢を知る事ができる。
池田大池
釈迦堂の南の国道436号線沿いには池田大池がある。池田本村では最大規模の溜池で江戸時代の元和年間 (1615 ~ 1624年) 頃に開削されたと思われる。水を段山を源流に池田本村を貫流して池田湾にそそぐ池田大川 (総延長 2,513m) から引いている。池田本町にはその他、奥の坊池、北池、新池、奥の池、上地堀池などの大きな溜池があり、いずれも元和 (1615 ~ 1624年)、寛永 (1624 ~ 1644年)、寛文 (1661 ~ 1673年)、延宝 (1673 ~ 1681年) 年間に開削されたと考えられる。江戸時代の溜池には御普請所と百姓自普請の二種類があった。御普請所は百姓が代官に申請許可により開削を行い、その使役には代官所から扶持米が給付された。その後の修理についても同様だった。百姓自普請は代官所の許可は不要だが百姓の責任と自己費用で開削及び修理をおこなったもの。上記の溜池がどちらだったのかは不明だが、大池の規模から見て、御普請所だったと思われる。
池田大池から国道を東に進み、旧内海町に入り、旧草壁村の史跡を巡るのだが、その訪問記は別レポートに記載する。
参考文献
- 池田町史 (1984 香川県小豆郡池田町)
- 小豆島お遍路道案内図
- 小豆島町文化財保存活用地域計画 (2022 小豆島町)
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