小豆島八十八ヶ所遍路 11 (02/05/23) 小豆島町 旧内海町 草加部郷 西村 (1) 水木・日方・清水

小豆島町 旧内海町 草加部郷 西村

西村 竹生村

  • 地蔵尊
  • 一本松神社

西村 水木村

(水木村 西条)

  • オリーブ園 
  • 東宮御乗艦地

(水木村 中条)

  • 渡し船桟橋
  • 水木今宮大明神

(水木村 流条)

  • 地神宮
  • 第26番霊場 阿弥陀寺
  • 第27番霊場 桜ノ庵
  • 山の神社

(日方村)

  • 水神
  • 小豆島マリア観音塔

(清水村)

  • 明治天皇御寄泊記念碑
  • 北向地蔵
  • お染稲荷大明神
  • 福部島遭難供養塔
  • 荒魂神社

ウォーキング距離: 21.8km



池田大池から国道436号を東に進み草壁に入り、今日従兄弟との再開の安田を目指して歩く。今日の午後は西村の海岸の国道沿いにある史跡を見ていく。西村の内陸部の史跡は5月8日に巡っている。

旧内海町 草加部郷

草壁は古くは草加部と書かれ、その地名の由来には諸説ある。通説となっているのは、第40代天武天皇 (673 ~ 686年) の皇子であった草壁皇子の御名代地 (みなしろち) だった事からきているという説がある。この説に対して疑問を呈している。それは、御名代地は仁徳天皇から崇峻天皇の時代に設定されている。つまり421年から588年の間になり、天皇、皇后、皇子が領有する地にその名や官名をつけて、そこに住まう民に貢納させていた。645年の大化の改新により、天皇、皇族が所有した屯倉 (みやけ) や御名代御子代地を廃してすべて公地公民とする政策が実施されている。これ以降に御名代地が設定される事は無かったと考えられ、673年に即位した天武天皇時代に息子の草壁皇子に御名代地が与えられる筈はないというのが通説を否定する根拠になる。第16代仁徳天皇 (313 ~ 399年) の皇子だった大日下王に御名代地の「大日下部」を、皇女の若日下王には「若日下部」を定めたとある。また、若日下王は後に雄略天皇の皇后となり、「草香幡校姫 (くさかはたひ)」と呼ばれた。日本書紀には根使主 (ねのおみ) が天皇に讒言し、大日下王を謀殺したのだが、その讒言が暴露し、根使主は滅ぼされ、その領地を二分し、その一つが大草香部の民として幡姫 (はたひ) 皇后に封じられて草香幡梭姫の御名代地になったとある。このことから草加部の地は、草香幡梭姫の御名代地名からきていると主張している。

江戸時代天領であった草加部郷の領域は非常に広く、福田村、吉田村を除く旧内海町と一致していた。1838年 (天保9年) の村の明細帳によれば、草加部郷の中には19の村 (竹生、水木、原、日方、清水、下村、上村、片城、木庄、安田、苗羽、馬木、坂手、古江、堀越、田浦、橘、岩ヶ谷、当浜) があり、その下には条 (庄、組) と呼ばれた部落が73程存在していた。村や条の数は時代によって、その区分けの仕方により異なって入るが、現在の地名でも当時の条名が残っている地域が多くある。下記の地図は草加部郷の地域の現在の行政区分を表している。江戸時代の区分とは微妙に異なっている。

旧草壁郷 (旧池田町と福田、吉田を除く現在の小豆島町) の人口も減少は深刻な状況で、1972年から2015年の約50年で軒並み30%から60% の減少で増加しているのは僅か二つの村だけだ。
人口減少の大きな原因は色々あるのだが、島には大学画がなく、高校を卒業すると大学進学の為に島を出て、卒業後は島外で就職し島に帰って来ない。これが大きな原因で、これは世帯数の減少、労働人口減少に繋がり、経済も振るわない。就労環境も良くなく、賃金は近郊諸都市に比べ低く、反対に物価は高い。このように経済的な理由で出生率も低い状況。この結果として、高齢化率は非常に高くなっている。

今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場

第26番霊場 阿弥陀寺

  • 本尊: 無量寿如来
  • 真言: オン アミリタ テイセイ カラ ウン
  • 詠歌: 疑わず 誓いの船に 乗りえなば 苦しき海は 波風もなし

第27番霊場 桜ノ庵

  • 本尊: 十一面観世音菩薩
  • 真言: オン マカ キャロニキャ ソワカ
  • 詠歌: 世を救う 誓の海の 水清み 頼む心も 澄みわたりけり

西村訪問ログ



地蔵尊

国道436号線の緩やかな登り坂を進むと、池田町の東端の赤坂地区の道路沿いに地蔵尊が置かれていた。

国道は下り坂に変わる。この辺りが旧池田町から旧内海町の境界線になる。下り坂の向こうに草壁港が見えてきた。


西村

旧内海町に入った所は江戸時代までは西村と呼ばれた地域で、西村には竹生 (たこう)、水木、原、日方、清水の五つの村があり、その管理下にそれぞれの村に2~3、合計13の条 (ジョ) が存在していた。1951年に草壁村、安田村、苗羽村、坂手村、西村が合併し内海町となり、それぞれの村は消滅している。


(竹生村)


一本松神社

国道436号線下り坂の途中、旧竹生村 (たこう) に一本松神社がある。ここには島内随一といわれた樹齢600年を超える巨松「竹生の一本松」が生えていたが、残念ながら、1945年 (昭和20年) の台風で倒れてしまった。壺井栄の「二十四の瞳」では大石先生の家の近くにあったとして度々登場する。
おなご先生の名は大石久子。湖のような入り江のむこうの、大きな一本松のある村の生まれである。岬の村から見る一松は盆栽の木のように小さく見えた。その一本松のそばにある家ではおかあさんがひとり、むすめのつとめぶりを案じてくれている。
大石先生はここから岬の分校へは水木まで行きそこから渡し船に乗って通っていたのだ。現在の松はこの旧竹生村など地区の人々によって植えられたもの。 この巨松の下には一本松神社あっ た。佐々木信胤の家臣岩佐礼蔵信光を祀っているそうだ。現在の社は平成4年に地区の人よって改築されている。

(水木村)

江戸時代は70戸ほどの地域で、西条、中条、流条の三つの部落があった。現在の行政区は西条と流の二つになっている。水木村には荒神を祀る神社が一つなので西条、中条、流条は村内の小部落だった事がわかる。

(水木村 西条)

水木村の西側に位置する西条から巡る。

オリーブ園

一本松から国道に戻り坂道を下った所、旧水木村西条にオリーブ園がある。100年前に日本国内の3カ所でオリーブの試験栽培が始まり、苦労の末、他の2ヶ所は断念したが、小豆島だけが栽培に成功した。このように100年もの長い歴史を持っている。今日は、ここでは休憩をしただけで、見学は次回小豆島に来た際に予定。3ヘクタールの園内には、約2000本のオリーブを栽培する観光農園や、ギャラリー、レストランがある。この近辺には道の駅やオリーブ公園もあり、小豆島町の観光地として賑わっている。

オリーブビーチ

旧水木村の西条から中条にかけての海岸には700m続く白い砂浜のオリーブビーチが整備されている。小豆島には6カ所の海水浴場があるが、最も人気なのがオリーブビーチ。

東宮御乗艦地

西条の海外防波堤脇には東宮御乗艦地と刻まれた石碑が立っている。
東宮とは皇太子のことなのだが、この東宮御乗艦地についてはインターネットでは情報は見つからなかったので、どの皇太子が小豆島にきたのかわからなかった。内海町史に1932年 (昭和7年) に神懸山四望頂上、坂手海岸には上陸地、西村海岸には乗船地として記念碑が建てられたとある。ここに建てられている石碑がこれにあたるのだろう。大正天皇の摂政の地位にあった摂政宮裕仁親王 (東宮、後の昭和天皇) 行啓の翌年の1923年 (大正12年) に東宮妃に決定した久邇宮良子 (後の香淳皇后) は母宮、妹宮とともに西日本を旅行し、その際に小豆島に立ち寄っている。ただ、東宮は皇太子の事である事と「乗艦地」とあるので、これからだと裕仁親王が軍艦に乗った所になる。1922年 (大正11年) に裕仁親王は高松には来ているが、小豆島に立ち寄ったとの記載はなかった。もう少し調べてみよう。


(水木村 中条)

東宮御乗艦地を過ぎると、水木村の三つの条の真ん中にある中条になる。


渡し船桟橋

大石先生が岬の分教場まで通った海の道を渡し舟で再現されている。ここから二十四の瞳映画村 (分校跡) までは、車で行くと約30分かかるのが、渡し舟なら、片道約10分になる。ただ大石先生の家は竹生なので、片道1時間弱ほどで通ったことになる。


水木今宮大明神

中条の海岸、渡し船桟橋の東側に今宮大明神がある。ちょうど、ご婦人が掃除に来ていた。毎月1日と15日に掃除しているのだが、昨日は来れなかったので今日になったという。地元では今宮さんと呼ばれているそうだ。祠の中を見せてもらうと蛇が祀られていた。その由来を聞かせてもらった。資料にもその話が載っていた。地元では今宮さんと呼ばれている。
昔、水木と苗羽の二人が、この浜に長持の流れ寄るのを発見し、中に珍しいものでもあれば分けようと開けてみると幾百尾の蛇がいて鎌首をあげてとびかかろうとした。驚き怖れて榎の大木の下に埋めて祀ったのがこの社だという。
旧六月七日の祭日には苗羽からも参詣者が来ていた。現在ではは7月7日に水木地区の人々が拝んでいる。
小豆島の西部の村では蛇神信仰が盛んで「おしめ講」 の 「おしめ神」が祀られているそうだ。上村や水木では講中が巫女の家に集まって「おし神」を拝んだという。西村原には「おしめ神」をまつる小祠もあるそうだ。


(水木村 流条)

海岸線の遊歩道は国道に合流して、オリーブビーチはここで終わる。ここからは水木村の三つ目の部落の流条になる。

地神宮

流条に入った国道の歩道に井戸がある。元々はこのあたりには集落があったのだろうが、国道拡張工事で立ち退きとなったのだろう。井戸はそのまま歩道となった所に残されている。その脇には地神宮と刻まれた板碑が置かれている。地神宮は土地の神で、小豆島の至る所にある地主神の別称になる。多くはその土地に住んでいた人が自分の土地を守ってくれる神として拝んでいた。その家にあった井戸の水神と一緒に拝んでいることもあり、ここも井戸の脇に地主神を祀っている。

第26番霊場 阿弥陀寺

国道から北への道に入り第26番札所の阿弥陀寺に向かう。影現山西明院阿弥陀寺は縁起によれば、行基によって開かれたと伝えられ、その後、元禄元年 (1688年)に再興されたという。(明治39年) には大正天皇が皇太子の時に竹生に上陸し小豆島に立ち寄った記念の駐蹕碑 (明治43年建立) が残っている。1677年 (延宝5年) 紀銘の大五輪塔 (下中) が立てられている。
鐘楼門をくぐって境内に入ると奥に本堂が建てられ、本尊として阿弥陀如来を祀っている。本堂前の左手には、弘法大師を祀る大師堂が立っている。

第27番霊場 桜ノ庵

阿弥陀寺のすぐ北にも札所がある。第27番で丘の上の桜ノ庵になる。庵の名前は、境内に虎ノ尾と称する桜の老木があったことに由来し、本尊の十一面観世音菩薩は「桜の観音」とも呼ばれていた。参道脇には格安の蜜柑が売られていた。一つ購入して、この後の道沿いで休憩の際に食する。

山の神社

阿弥陀寺の西側道路沿いに山の神を祀った神社が置かれている。山の神は各村に一つあるのが通常で、これは水木村の中にある流条を守る山の神。山の神があるということは、流は水木村の中にあったのだが、独立した集落だった事が推測できる。広場の入り口には地蔵尊も祀られている。歴史的な神仏集合の名残に加え、小豆島では土着信仰や神道に寛大な弘法大師の教えの真言宗が根強く、この様に神社に地蔵尊や仏像が祀られている事は多い。


(西村 日方村)

流条の桜ノ庵から国道436号線に戻り、西に進むと日方村に入る。江戸時代は70戸ほどの地域で、西条、中条、東条の三つの部落があった。

水神

国道沿い、日方村内に井戸があった。蓋で覆われているのだが井戸の前には五輪塔が置かれている。水木神か地主神だろう。

小豆島マリア観音塔

水神から東に進むと日方村の共同墓地があった。その中に小豆島マリア観音塔が建てられている。小豆島は安土桃山時代から江戸時代初期まではキリスト教が広まっていた。キリシタン大名の小西行長の領地だった事から、宣教師も来島し布教活動を行なっていた。高山右近も迫害を受けた際には小西行長を頼ってこの島に滞在していた。徳川幕府になりキリスト教禁令布によってこの地域のキリシタンは仏教徒に改宗させられて、ここのすぐ北にある安養寺 (5月8日訪問) の檀家となっている。その中には隠れキリシタンもおり、その人たちが隠れて拝んでいた中国景徳鎮窯白磁のマリア像が1976年 (昭和51年)に、この日方墓地から発見されている。台座にはイクトス・キリストを表す赤い魚が描かれている。その後、地元の醤油会社タケサン株式会社の創業者である武部吉次氏によって、この観音塔が建てられている。

(西村 清水村)

日方村の東は西村の東の端になる清水村になる。江戸時代は22戸の小さな村で、その村内には西条、中条、東条の三つの部落に分かれていた。

明治天皇御寄泊記念碑

水神 (地主神?) から更に国道を進むと、道沿いに明治天皇御寄泊記念碑がある。1890年、明治天皇は、佐世保鎮守府へ行車の途中、内海湾に寄泊している。1万人を超える島民が集まり、日の丸の小旗をうち振り万歳を唱え、花火を打ち上げて、昼夜を問わず盛大な奉迎をしたという。1905年 (明治38年)、寄泊の記念碑を建立している。大平洋戦争前までは、この地に内海五ヶ村の小学生が集まり、賑やかに運動会年開催していたそうだ。
海岸沿いを走る国道の向こうには草壁港が見えている。

北向地蔵

明治天皇御寄泊記念碑から清水村の内陸部の集落に入ると昔ながらの建物がある。清水の公民館でその前には少し大きめの祠があり地蔵尊が祀られている。北向なので北向地蔵と呼ばれている。

お染稲荷大明神

北向地蔵のすぐ西側の広場の隅に石垣の台座の上に小さな石碑が置かれている。お染稲荷大明神と書かれている。横には解説板がある。
天保年間に摂津の国灘の地から弥惣八という人が清水村の女のお染を妻にしてこの地に移り住んだ。灘から稲 荷さんを勧請し祠を建て尊信した。お染には霊が乗り移り神託予言を行い、よく的中したので里人は「灘の稲荷さん」と呼び信者も多かったという。 祭礼日には内海各地から大勢の人が集まり、幟がたち、余興も催され大賑わいだっ たという。歿後は次第にすたれ今日に至っている。 
とある。昔は祠があり、この前の広場に人々が集まっていたのだ。

福部島遭難供養塔

北向地蔵の東側には清水地区の共同墓地があり、その中に供養塔が置かれ、解説がつけられていた。これは1770年 (明和7年) 3月に清水村の若者18名が舟を仕立てて福部島に行き遊んでいた。 天候が急変し、若者一行は急ぎ舟で村に帰ろうと海を渡っていたが、不幸にも舟が転覆し全員が溺死した。清水の村人は若者達の悲劇をいたみ、 供養のため墓碑を建て祀ったのがこの供養塔になる。花崗岩の宝篋印塔には亡くなった18人の若者の戒名が刻まれ、 今でも清水地区の人々によって祀り続けられている。

清水荒魂神社

清水村の北、集落から外れた山の麓の林の中には清水村の氏神を祀った荒魂神社がある。社殿が建てられ、境内に中には二つの小さな石造りの祠も置かれている。


これで西村の国道沿いの史跡を見終わり、従兄弟が運営しているギャラリー、美術館とカフェのある馬木までは行き、何十年ぶりの再開を果たした。素敵なギャラリーを運営しており、案内してもらったが、5月5日にもう一度会うことがしたので、ギャラリーや美術館についてはその日の訪問記に含めて記す事にする。


参考文献

  • 内海町史 (香川県小豆郡内海町)
  • 小豆島お遍路道案内図
  • 小豆島町文化財保存活用地域計画 (2022 小豆島町)

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