小豆島八十八ヶ所遍路 12 (03/05/23) 小豆島町 吉田村 豆坂

小豆島町 福田村

  • ‘91小豆島国際石彫シンポジウム

小豆島町 吉田村

  • 吉田キャンプ場
  • 吉田ダム
  • 豆坂遍路道

土庄町小部村

  • 子安地蔵

訪問ログ



今日は吉田村から小部村への山越えの遍路を歩くことにした。福田からバス道を通り、先日訪れて吉田村まで向かう。


‘91小豆島国際石彫シンポジウム

道沿いには1991年に町政施行40周年を記念して実施されたは、「'91小豆島国際石彫シンポジウム」の石彫作品が置かれている。
バス道の途中、福田村と吉田村の村境になる金ヶ崎に立ち寄った。(金ヶ崎の訪問録は4月25日の訪問記に記載している。) 時間があれば小部村の史跡も巡る予定。


小豆島町 吉田村

札所の福田庵と吉田庵を結ぶ遍路道は初日の4月22日に歩いている。吉田ダム建設で小部への遍路道は分断されている。昔は吉田川に遍路道の橋が架かっていたのだが、ダムができてその橋に場所すらわからなくなったそうだ。吉田ダムの対岸から遍路道が再開していると資料にはあったので、その道を探すことにする。バス道を歩き吉田村に到着。吉田川の上流に吉田ダムが見える。前回この吉田村を訪れた際には吉田川沿いの道しか通らなかったので、今日は集落内の道を通ると古い民家の入り口に石柱が建っており、「佛弥右衛門之●」と読める。後で調べるも分からず。次回、吉田村の高齢者に聞いてみよう。道は吉田川沿いの道には合流。吉田ダムの上の空に虹が出ている。彩雲だ。見ると良い事があると言われている。5月8日に訪れた寺で住職さん夫婦と話した際にこの彩雲の話をしたら、仏教では重要な際によく発生する現象として認識され、西方極楽浄土から阿弥陀如来が菩薩を随えて、五色の雲に載ってやってくる来迎図などにも描かれ、吉兆とされているそうだ。この後も、何枚かの彩雲の写真が撮れて、それをこれ以降に載せている。吉田は小さな村で2015年の人口は43世帯、90人で、小豆島町の中では最も高齢者率が高く65.6%にもなっている。

吉田キャンプ場

吉田川沿いの道をダムに向かってあるくと、川沿いにキャンプ場があり、その中には温泉まである。人気のスポットで多くのキャンパーが訪れていた。
キャンプ場を過ぎると、吉田ダムまでは登り坂になる。この辺りはロッククライミングの場所になっており、これも人気スポットだそうだ。

吉田ダム

遍路道を探しながらあるくと吉田ダムに到着した。遍路道らしきものは見当たらない。道を間違えたかと不安になった。ダムの上に上がる階段があった。矢印で遍路道と書かれている。これが新遍路道になっている。高所恐怖症としては、あまり有り難くない道だが、迂回してこのダムの上に行く道もあるのだが、余りにも遠回りになるので、意を決して、なるべく下を見ないように登る。
ダムの上に着くと、人工池となったダムの上に彩雲が綺麗に見える。彩雲の下の山を越えれば小部になうのだろう。まだまだ小部は遠くにある。
遍路道を探すのだが、表示が見当たらない。ダムの人工池方面の道は金網で柵がされて関係者以外立ち入り禁止となっている。山の上にある展望台から道があるかもしれないので展望台まで登り、道らしき所を強引に登って行く。
登って行くと道はどんどん険しくなり最後は岩をよじ登る様になった。遍路道としてはあまりにも過酷な道だ。こんな道が遍路道である筈は無い。ただ、ここから見る吉田村は絶景だった。
気を取り直し、ダムまで降りる。遍路道の可能性は先程の金網で柵がされた道しか無いと思い、金網の脇を通って道を進むことにした。ダムの管理道路なのだろうか?
まだ遍路道かどうか不安はあるが、先日とは違った方向からダムの貯水池が見れるのは楽しい。

豆坂遍路道

管理道路を進むとスチール製の階段が山の中に伸びている。その登り口に「遍路道」と書かれている。この道であっていたのだ。多分、ダム敷地にはなるべく侵入してほしく無いので、ダムの階段からここまでは遍路道案内がないのだろう。お遍路さんなので関係者と勝手に解釈して、階段を登りかつての遍路道を行く。
この遍路道は大正時代末期までは生活道路だった。今日歩いてきた福田と吉田間の海岸線バス道が開通したのは1923年 (大正12年) で、吉田と小部間のバス道は1929年 (昭和4年) に開通している。それまでは吉田道から豆坂を通る遍路道が唯一の生活道路で、郵便配達員もこの遍路道を毎日通っていたという。福田の義姉の祖母は、戦前には子供が熱を出した時に、福田には診療所は無く、小部の診療所まで子供をおぶり、吉田道、豆坂を通り小部まで行ったと聞かされたと行っていた。4時間はかかっただろう。バスの開通後もバス便は少なく暫くの間、この遍路道は戦前まで車が普及する迄は生活道路として使われていた。昭和30年代にはボンネットバスが走り、個人ではオート三輪が普及し始めていた。昭和40年代でもまだボンネットバスやオート三輪の時代だった記憶がある。
この時代は今では昭和レトロの歴史の一時期となってしまったのだが、昭和40年代までの生活を表すものを集めてみた。寝る時には蚊帳を吊っていた。子供には入ったり出たりで面白く、大人からは蚊が入ると言って良く怒られた。ゼンマイの柱時計 毎朝ゼンマイを巻くのが日課、マグネット電話 ハンドルを回し交換手を呼び出して使う。電話の前にはポスター大の電話帳があった。番号は二桁でまだまだ電話は普及していなかった。1973年 (昭和48年) にようやく自動化され、家の電話もダイヤル式電話に変わった。冷蔵庫はまだ氷式だったが、あまり使っていなかった。風呂は薪で炊く五右衛門風呂で、釜の下に浮き蓋を両足でバランスをとりながら沈めるのだが、これは子供には少し難しかった。水道は比較的早く引かれたのだが、井戸水が中心だった。夏には西瓜を冷やして食べるのが楽しみだった。トイレは御不浄と呼んでいた。汲み取り式でまだ写真の様な木製だった。祖母が新聞紙を切って落とし紙にしていた。村では年寄りが手押し車で買い物をしていた。今から見ると隔世の感があるが、当時は特に不便とは感じてはいなかっただろう。
話が脱線してしまったが、遍路道に戻る。遍路道はそこそこ急な山道になっている。遍路道らしく、道端に地蔵尊が置かれている。
道にところどころに遍路道の表示がぶら下げられ、それぞれにメッセージが書かれている。遍路道の保存会が整備しているのだ。写真でわかる様に道は綺麗に整備されている。歩き遍路でここを通る人は限られているだろう。整備しなければ、草も生え放題で道は消滅してしまう。道を残したいという想いが伝わってくる。
道の先に峠が見えてきた。この先は下りになり、少しは楽になるだろう。この峠で、朝作ったサンドウィッチで昼食で休憩を取る。遍路道では誰ともすれ違わない。今日もこの山は貸切だ。
休憩を終えて、遍路道を下って行く。ここにも、気遣いの道しるべがぶら下がっている。下りなので、気楽に歩ける。
この遍路道は森の中に作られているので海を見渡せる景色を見ることができるポイントは少ない。ようやくそのポイントに出た。眼下に谷間にある小部の村が見え、海の向こうには岡山が臨める。まだ小部の村までは距離がある。
道を下って行くと向こうに柵が見えて来た。集落に猪や鹿が入り農作物を荒らさない為の獣害柵になる。扉は紐で縛っているだけなので紐を解き、外に出て扉を縛る仕組みになっている。ここから先が小部集落になる。

子安地蔵

集落に入ると道は舗装道に変わり、道端に祠があり、その中に地蔵尊が置かれている。安産を願って建てられている。
この後、小部村にある浄宗寺、山の神、金比羅神社、白瀧神社を訪れごうと思っていたのだが、どこかで帽子を落とした事に気づいた。安物の帽子なのだが、頭が小さく、大人用ではブカブカなので、サイズのあう帽子を見つけるのに苦労する。いつもは子供用の帽子でサイズとおとなしいデザインの物を探し、落とした帽子は気に入っているので、探しに戻る事にした。下ってきた山道をもう一度登って行くと、峠付近で見つかった。帽子を回収して降りて行く途中にもう一度小部集落を見下ろせる場所で写真を取る。随分と陽が落ちてきている。
小部村に降りて後を振り返り、今日二度登った山を眺める。
既に5時半になっている約二時間ロスしてしまった。バスの時間もあり、今日は殆どが山登りで脚も疲れているので、小部村にある残りの史跡見学は断念しバスを待つ事にした。バス停にはお気に入りの石の絵手紙が置かれていた。

バスに乗り福田まで戻り、今日は終了となった。

参考資料

  • 土庄町史 (1971 香川県小豆郡土庄町)
  • 小豆島お遍路道案内図

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