小豆島八十八ヶ所遍路 04/07 (25・28/04/23) 小豆島町 福田村 (2) - 福田・平間
- 葺田八幡神社
- 参道、馬場
- 随身門
- 拝殿
- 幣殿
- 本殿
- 祓戸神社 (はらえどじんじゃ)
- 稲荷神社
- 磐座 (子授け岩)
- 水神之神、地主大神、地主之神、地神之神、海上霊神
- 豊受大神、祭神不明自然石、多賀神社、伊勢大神宮
- 荒魂神社、春日神社、天満神社、祭神不明自然石、荒神さん
- 毘沙門殿
- 神輿殿
- 護国神社
- 金刀比羅神社
- 箸藏宮(はしぐらのみや、金比羅大権現)
- 社務所
- 旧バス道路 (第一期)
- 大地主神
- 中宮 (なかみや)
- 恵美須神社
- 遠出浜、田中河内之介漂着地 (4月28日 訪問)
- 小島、厳島神社 (4月28日 訪問)
- 日金神 (4月28日 訪問)
- 福地蔵 (4月28日 訪問)
- 金神神社 (4月28日 訪問)
- 地蔵尊 (4月28日 訪問)
- 第84番霊場 雲海寺 (5月5日訪問)
- 第85番霊場 本地堂 (5月5日訪問)
- 玉姫神社 (4月25日 訪問)
- 筆者の生家 (4月25日 訪問)
- 阿多羅志さん (4月25日 訪問)
- 森庄川、森庄ダム、分水堤
- 平間集落
- 平間神社
- 瀬戸芸sd55 「そこにいた」
- 道徳霊神
- 金ヶ崎
- 金ヶ崎観音堂
- 御崎神社
今日は朝から雨が降っている。これでは遠出は出来ないので、今滞在している福田村を見て回る事にした。雨合羽を羽織って出発した。ここではこの日に訪れた史跡だけでなく、滞在中に巡った福田村の他の史跡も合わせて記載する。
旧福田村
福田は小豆島の北に位置し、戦前までは小豆島の北の果てと呼ばれ、賑わっていた南側の村に比べ発展が遅れていた。戦後人口も増えて、1959年 (昭和34年) に家島汽船が、福田-家島-姫路間に客船を就航、1967年 (昭和42年) に小豆島フェリーが就航し、北の玄関口にはなったが、相変わらず北の果てで近年は人口減少が著しい寒村となっている。小豆島巡りにはオリーブバスを使い、朝に目的地に向かい、夕方帰ってくるのだが、福田は南回り、北回りバスの終点になる。バスの乗客は朝は病院通いの老人数名、帰りは福田まで乗っているのは一人だけで、バスによる住民の移動はほとんどないようだった。下に福田に係わる行政区之変遷をまとめている。江戸時代は江戸幕府の直轄地の天領だった。何故、小豆島が天領であったのかは書かれていないが、幕府として重要と思われる地域は幕府直轄地となっていたことから、小豆島は石材業が盛んで大阪城の石垣はここで調達されていた。この石材の産地ゆえの天領だったのかも知れない。明治以降は政府を安定させる時期で、小豆島はたびたびその帰属が変わっている。
- 南北朝時代 小豆島は佐々木信胤の私領
- 1347年 (正平2年): 佐々木信胤が細川氏に降る。細川領となる
- 1585年 (天正13年): 秀吉が小西行長に小豆島を与える1605 慶長10年 小豆島を土庄組、池田組、草加部組、北浦組の4組に分け、福田郷は北浦組小海郷に属す
- 1615年 (元和元年): 長谷川佐兵衛藤公の支配下で天領となる。福田郷として独立
- 1626年 (寛永3年: 小堀遠州代官時代、9郷 (福田、大部、小海、肥土山、上庄、渕崎、土庄、池田、草加部) 58村に編成。その一郷となる
- 1644年 (正保元年): 北浦組小海郷から福田村として独立。吉田村は枝村、福田村 (庄屋1名) は上庄 (岡)、尾崎、浜で構成され、年寄各1名、組頭各2名が置かれた
- 1830年 (天保元年): 小豆島49村を、美作国津山藩領 (小海、肥土山、上庄、渕崎、土庄、池田)、と天領松平壱岐守御預所 (福田、大部、草加部) に分割
- 1869年 (明治2年): 備前藩領 (1月)、土佐藩領 (1月) を経て、草加部村、大部村と共に倉敷県の一部となる。(5月)
- 1873年 (明治6年): 香川県を廃し、名東県に合併、草加部村は23区、大部村・福田村は24区となる。
- 1874年 (明治7年): 福田村は名東県第17大区第1小区福田村となる
- 1875年 (明治8年): 香川県が復活し、小豆島は香川県に属する
- 1876年 (明治9年): 香川県を廃し、愛媛県に合併され、福田と吉田は愛媛県第3大区小豆島第1小区福田村となる。
- 1880年 (明治13年): 吉田村が福田村から独立
- 1885年 (明治18年): 吉田村を再度、福田村に合併
- 1888年 (明治21年): 再度、香川県が復活、小豆島は香川県に属する
- 1890年 (明治23年): 吉田村を廃し、福田村大字福田、福田村大字吉田となる。
- 1957年 (昭和32年): 内海町に合併し、内海町福田、内海町吉田となる。
- 2006年 (平成18年): 内海町と池田町が合併し小豆島町となり、福田、吉田は小豆島町に属す
小豆島の過去の人口データはほとんど見当たらない。多くの市町村はホームページでここ10年ぐらいのデータは公開しているのだが、小豆島町のホームページには人口データは全く掲載されていなかった。福田村史にその人口があったので、それを編集したのが下のグラフになる。1952年をピークに人口は減少の一途をたどり、2000年には江戸時代の人口レベルまで落ち込み、それ以降も減少は止まらず2015年では757人でピークの1952年の30% (7割減) にまで減少、この傾向は今後も続くと予想されている。3区分別人口割合では65才以上の人口は51.4%の限界集落になっている。小豆島町全体ではこの比率は41.3%なので、町内でも高齢化が高い地域になる。15才以下の人口は僅か47人で、年に3人しか子供が生まれない状況で、さらなる高齢化が加速していくことは確実。
小豆島町内の他の行政区と比較すると、福田は北の玄関口としながらもそれに見合った人口レベルにはなく、人口減少率も他に比べ高い。
小豆島町は人口ビジョンを発行している。一回目は2017年、その修正版を2020年に策定している。それを見ると、高齢化は避けれないと認識し、衣食住に渡り高齢者の住みやすい町を目指した取り組みを重視し実施している。この点は評価できる。人口減少を抑えるための施策はITによるサテライトオフィスにより雇用機会を増やすとし、Iターンによる島編移住、子育て環境の充実で転出に歯止めをかけるといった内容で、悪くはないのだが、そのアクションはまだ見えない。産業育成については、伸びているオリーブを活用するとあるのだが、具体性はなく期待はできない。観光については瀬戸芸頼みが継続しており、真新しい方向は出されていないように思える。下のグラフは高齢化予測を表したものだが、2017年に作成したものは、ほとんど根拠がなく希望的な数字のみで造られていたように思え、それを2020年に修正しているのだが、この修正案も希望的な予測になっている。実効性のあるアクションプランはまだまだ柔らかいものにも拘わらず、高齢化がストップするとしたこの予測は疑問に思える。作成者はもっと厳しいと認識はしているのではと思う、役所幹部が喜ぶグラフにさせられたように思える。敢えて、小豆島町予測と大きくかけ離れている社会研の予測を併記しているのは、せめてもの抵抗と邪推したくなる。この邪推が正しければ、まずは役所の体制を変えるリーダが出現しないなら人口ビジョンは絵に描いた餅で終わる可能性が高い。
この期間に訪れた小豆島八十八ケ所霊場
- 本尊: 如意輪観世音菩薩
- 真言: オン ハンドメイ シンダマニ ジンバラ ウン
- 本尊: 弁財天
- 真言: オン ソラソバ テイエイ ソワカ
旧福田村 訪問ログ
葺田八幡神社
- 第15代応神天皇 (4世紀後半から5世紀初頭) が阿豆枳島 (あずきじま=小豆島) 巡幸の際 (日本書紀に記載) に、小豆島の橘より船で吉備に還幸の途中、風波のため福田の里に寄港した。福田の里人が急遽、丸木で仮行宮を建て、秋の刈穂で屋根を葺き、応神天皇に休息所を提供した。その後、この行宮の跡地に小祠を建て祀ったのが、神社の縁起としている。この事からこの地を葺田と呼ぶようになったという。
- 村本家口伝では、福田村の四の坪の田の畦に金色の玉の八幡神が出現したのを、孫太夫が三の坪の受田に奉祀し、その後、現在の地に奉移されたとしている。 これがいつの時代であったかははっきりしないが、17世紀半ばと推測されている。
- 小豆郡誌では、小豆島全土が敦実親王 (宇多天皇の第八王子) の領地だった時代、926年 (延長4年) に富丘別宮八幡宮と同時期に創立されたとしている。
- 内海町誌では富丘八幡宮以外の八幡宮は、12世紀に源頼朝が鶴岡八幡宮を信仰してから武家よりさらに庶民一般にも信仰され、全国に広く勧請された鎌倉時代以降に創建されたとなっている。
参道、馬場
随身門
拝殿
幣殿
本殿
祓戸神社 (はらえどじんじゃ)
- 瀬織津比売神(せおりつひめ): もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
- 速開都比売神(はやあきつひめ): 河口や海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
- 気吹戸主神(いぶきどぬし): 速開都比売神がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
- 速佐須良比売神(はやさすらひめ): 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う
稲荷神社
磐座 (子授け岩)
水神之神、地主大神、地主之神、地神之神、海上霊神
豊受大神、祭神不明自然石、多賀神社、伊勢大神宮
荒魂神社、春日神社、天満神社、祭神不明自然石、荒神さん
- 1820年 (文政3年) 庚辰歳八月吉日 當村平木 塩屋利平治
- 1832年 (天保3年) 大阪天満吉田の女
- 1855年 (安政2年) 三木弥治左門
- 1820年 (文政3年) 庚辰歳八月吉日、當村前濱 塩屋又兵衛
毘沙門殿
神輿殿
護国神社
金刀比羅神社
箸藏宮(はしぐらのみや、金比羅大権現)
社務所
旧バス道路
大地主神
中宮 (なかみや)
八幡神社の大鳥居の前には境外末社として中宮大権現を祀る中宮がある。廃仏毀釈で消滅した神宮寺時代からの名残ではと思われる。
この中宮は辻に置かれ悪霊を退け災厄を防ぐと云われる八衢比古命 (やちまたひこのかみ) で塞の神 (さいのかみ) を祀っていると思われる。塞の神 (さいのかみ) と言う事で南北朝時代に小豆島にいた佐々木信胤の妻のお才の局を祭神とする文献もあるがこれは塞の神 (さいのかみ) との混同したことによる。現社殿は1928年 (昭和3年) に再建されたもの。大鳥居の外に鎮座されているが、境内の中程にあるので中宮と呼ばれていたと推測される。
恵美須神社
伊豆川河口の北側の港の中に恵美須神社がある。これも葺田八幡神社の場外末社に位置付けられている。1931年 (昭和6年) までは八幡神社の馬場脇、前公民館東側に鎮座されていたものを戎橋北側に移し、1980年 (昭和55年) に埋め立てられた現在地に新殿が造営されている。
福田港
遠出浜、田中河内之介漂着地 (4月28日 訪問)
小島、厳島神社 (4月28日 訪問)
日金神 (4月28日 訪問)
福地蔵 (4月28日 訪問)
金神神社 (4月28日 訪問)
地蔵尊 (4月28日 訪問)
第85番霊場 本地堂 (5月5日訪問)
第84番霊場 雲海寺 (5月5日訪問)
- 秦広王 (しんこうおう) 不動明王 初七日
- 初江王 (しょこうおう) 釈迦如来 二七日
- 宋帝王 (そうていおう) 文殊菩薩 三七日
- 五官王 (ごかんおう) 普賢菩薩 四七日
- 閻魔王 (えんまおう) 地蔵菩薩 五七日
- 変成王 (へんじょうおう) 弥勒菩薩 六七日
- 泰山王 (たいざんおう) 薬師如来 七七日
- 平等王 (びょうどうおう) 観音菩薩 百か日
- 都市王 (としおう) 勢至菩薩 一周忌
- 五道転輪王 (ごどうてんりんおう) 阿弥陀如来 三回忌
玉姫神社 (4月25日 訪問)
筆者の生家 (4月25日 訪問)
阿多羅志さん (4月25日 訪問)
森庄川、森庄ダム、分水堤
そこで見つけたのは、猪捕獲のための罠が仕掛けてあるので注意とあった。後で聞くと時々足を挟まれる事故があったそうだ。以後、注意する事にしよう。
平間部落
平間神社
吉田川
瀬戸芸sd55 「そこにいた」
石は宇宙の誕生の神秘と歴史の証
古来より大きな石は神聖なものの象徴で、それにまつわる儀式も多く伝えられてきた。しかし現代では開発工事などにおいて石は逆に障害物として見られ、取り除くべきものとなっている。作家は、韓国で仏像を作る材料のひとつである金箔を石に貼り、仏陀が悟りを開き体が光っている様子を作品に落とし込む。
道徳霊神
金ヶ崎
金ヶ崎観音堂
御崎神社
参考文献
- 福田村誌 葺田の里 (2005 福田地区自治連合会)
- 小豆島お遍路道案内図
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