東京 (14/04/22) 江戸城 (33) 西の丸

西の丸 / 吹上御苑

  • 桔梗門 (三の丸)
  • 旧枢密院庁舎 (三の丸)
  • 寺沢門、寺沢二重櫓 (二の丸)
  • 蓮池巽三重櫓と箪笥多聞 (二の丸)
  • 下埋門 (二の丸)
  • 蓮池門
  • 富士見三重櫓 (本丸)
  • 蓮池濠、富士見多門櫓 (本丸)
  • 坂下門、坂下門橋
  • 坂下門外の変
  • 宮内庁庁舎
  • 宮殿
  • 長和殿、東庭
  • 宮殿南庭
  • 正殿
  • 連翠
  • 中門 (西の丸玄関前門)
  • 西の丸下乗橋 (月見橋、正門鉄橋、二重橋)
  • 正門鉄橋、正門石橋(二重橋、西の丸下乗橋)
  • 伏見櫓
  • 西の丸大手門橋 (正門石橋)
  • 西の丸大手門 (正門)
  • 山下通り、紅葉山、紅葉山御養蚕所
  • 乾通り
  • 乾門 (上覧所跡)

今日は台風の影響で終日雨なので、ホテルから竹橋まで地下鉄で向かい、徒歩にて江戸城の見学をする。メインは明治維新で天皇の住まいとなった西の丸跡にある宮殿を見学する。見学は事前予約をしており、13時半から約1時間半ほど、ガイド付き。午前中は北の丸公園を散策したが集合時間が近くなり途中で切り上げ集合場所の桔梗門前に向かう。




桔梗門 (三の丸)

皇居見学集合場所の桔梗門に着き、手荷物検査をする。この桔梗門は江戸城への登城門の一つで三の丸にある。この桔梗門のレポートは後日、三の丸を見学した際に含める。


旧枢密院庁舎 (三の丸)

桔梗門から休憩所の窓明館に案内されてビデオ鑑賞となった。そのあと窓明館 (休憩所) から見学スタート。休憩所を出て直ぐの道路は三の丸と二の丸の間にあった蛤濠跡になる。その道路沿いに旧枢密院庁舎がある。枢密院は、発足当初、会議は赤坂仮御所別殿 (御会食所) で開かれ、明治宮殿完成とともに宮殿内に移った。別殿は大日本帝国憲法審議の場でもあり、のちに憲法記念館 (現在の明治記念館) として保存された。その後、現在の国会議事堂に庁舎が設けられ、1921年  (大正10年) には宮城内桔梗門近くに鉄筋コンクリート2階建て構造で移転新築された。戦後は最高裁判所庁舎や皇宮警察本部庁舎として使用されたが、1984年 (昭和59年) より使用されなくかった。

2006年 (平成18年) より改修工事が行われ、2012年 (平成24年) に完了、2013年 (平成25年) から再び、皇宮警察本部庁舎 (本部長室、警務課等) として使用されている。

寺沢門、寺沢二重櫓 (二の丸)

蛤濠の内側は二の丸になり、そこには北から百人二重櫓、百人多門櫓、寺沢二重櫓、弓矢多門櫓、玉薬多門櫓、蓮池巽三重櫓と続き、守りを固めていた。古写真が残っている。この濠が埋められている。

見学ルートは埋め立てられたかつての蛤濠跡を渡り二の丸跡に入る。三叉路の手前に寺沢二重櫓 (写真左) があった場所、道の右側には寺沢門 (写真右) があった場所だ。


蓮池巽三重櫓と箪笥多聞 (二の丸)

寺沢門を通ると二の丸の南の端を囲む蛤濠の隅に蓮池巽三重櫓が置かれ、江戸城最長の箪笥多聞が連なり、蓮池ニ重櫓に繋がっている。1870年 (明治3年) の蓮池門爆薬庫火災によりこの一連の櫓も類焼したと思われる。


下埋門 (二の丸)

寺沢門があった場所から西の丸に向かって進むと、高い石垣の間に門跡が見えている。下埋門と呼ばれ、この門を入った先に上埋門があり、本丸への通路だった。江戸時代、普段は使われない虎口だったそうだ。

蓮池門

下埋門がある石垣に沿って道を進んだ石垣の切れ目が二の丸から西の丸に入る門であった蓮池門の跡になる。ガイドさんは特にこの門の説明はなく素通りだった。(今日のガイドさんは、宮内庁の職員でプロのガイドではないようで、史跡の説明はほとんどなく、世間話に終始していた) 

富士見三重櫓 (本丸)

蓮池門を入ると右手石垣の上に江戸城遺構として残る唯一の三重櫓の富士見三重櫓が見えてきた。現存する三重櫓は、1657年 (明暦3年) の明暦の大火 (振袖火事) で焼失後、1659年 (万治2年) に再建されたもの。関東大震災で破損したが修復されている。どの角度から見ても同じような形に見えることから、八方正面の櫓の別名もある。天守焼失後は代用天守の櫓ともいわれていた。この富士見櫓の上からは、その名の通り富士山をはじめ、秩父連山や筑波山、江戸湾が臨め、将軍は両国の花火などを眺望したという。
富士見櫓が建つ場所は江戸城のなかでも一等地で、徳川家康の江戸城築城以前、太田道潅の築城した望楼式の静勝軒があった場所と推定されている。富士見櫓が建つ石垣は野面積で江戸城初期のものだが、関東大震災でも崩れなかった堅牢なもの。加藤清正の普請と推測されている。石垣上には、石落し仕掛けが見える。
江戸時代中期以降は、お茶壺道中 (宇治採茶使=幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運ぶ行事) で運ばれた宇治茶は富士見櫓に収められていたそうだ。

蓮池濠、富士見多門櫓 (本丸)

西の丸と本丸の間には蓮池濠が残っている。
本丸石垣の上には江戸城にあった鉄砲や弓矢が納められてた15の多門櫓のうち唯一残っているのがこの富士見多門櫓で、北に向かって濠沿いに築かれている。本丸では、その西側にある茶畑を上がったところに、御休憩所前多門として内部が公開されている。御休憩所とは、将軍が政務を執ったり、日常生活を過ごした私的な居間のこと。


坂下門、坂下門橋

西の丸へは二の丸から蓮池門を通る以外に、坂下門からも入れる。坂下門は西の丸造営直後に築かれた門で、西ノ丸下から西の丸への直接入れる門になる。坂下門は、一ノ門 (高麗門) と二ノ門 (渡櫓門) から成る桝形門となっていた。江戸時代には西の丸大奥に近く、西の丸の通用門として利用されていた。西の丸の坂下にあったので、この名がついたそうだ。現在は西の丸は皇居となっており、宮内庁正門として使用されている。一般の人は通常は立ち入ることができないが、正月と天皇誕生日の一般参賀の際に開放している。門をくぐって城内に入り、坂を登った所にある西の丸裏御門が西の丸御殿へのルートとなっている。

明治時代、西の丸が皇居となると通用門として使われ、1885年 (明治18年) に資材搬入のために高麗門が撤去され、1887年 (明治20年) に渡櫓門のみが角度を90度変えて直進できる様に建て直された。また、坂下門橋は、木橋から土橋となった。下の写真でその変遷がよくわかる。写真下は木橋の坂下門橋と高麗門が写っている。右上の写真は明治4年のもので渡櫓門がまだ方向が変えられる前のもので、蛤濠の向こうに蓮池巽櫓が見える。右上は改築された後で、土橋になり、高麗門は撤去され、土橋から直接、向きが変わった渡櫓から入る様になっている。
西の丸内部からの坂下門を見ると、枡形の名残はなくなり、単なる通用門になっている。自動車 (明治時代は馬車) の通行を考えると枡形は取り払う必要があったことは判るが、少し味気ない。


坂下門外の変

1862年には、この坂下門の外側すぐの所に屋敷を構えていた老中 安藤対馬守信正が、江戸城へ家臣50名での登城で坂下門に向かう途中、尊攘派 (勤皇派) の水戸浪士6人に襲われ負傷した坂下門外の変が起きている。安藤対馬守は、2年前に起きた大老 井伊直弼が殺害された桜田門外の変以降、京都の朝廷と江戸幕府との公武合体政策をとり、皇女和宮の徳川家茂への降嫁を推進した。これが原因で襲撃を受けた。一命は取り留めたが、老中は罷免されている。襲撃者の水戸浪士は全員その場で刺殺されている。


宮内庁庁舎

西の丸裏門 (紅葉山下門) の手前右側に宮内庁庁舎が建っている。この場所は東照宮があった紅葉山の一部で、歴代将軍の廟や宝蔵、文庫、具足蔵、鉄砲蔵が置かれていた。江戸城屏風図では廟 (左)、1639年(寛永16年 三代家光) に造られた文庫/具足蔵/鉄砲蔵 (右) に描かれ、その間に紅葉山の東照宮 (1618年 元和4年 創建 二代秀忠) への参道が見られる。

歴代将軍を祀っていた廟は全部で6つ存在していた。7代将軍家継からは新しい廟は造らずに14代将軍家茂まではそれまであった廟に合祀している。1868年 (明治元年) に、御神体と御尊牌を寛永寺に遷座、御尊像と御位牌を田安元屋敷に遷座。後に、東京から遠州に移り、1920年 (大正9年)、千駄ケ谷の徳川公爵邸に遷座した。御神体、御尊牌、御尊像、御位牌がない廟社殿は、1868年 (明治元年) 末には、朝廷から静岡藩に撤去が命じられ、翌年3月から8月にかけて撤去された。徳川家歴代将軍の廟は上の寛永寺、日光東照宮、芝の増上寺の墓地にもあり、現存しているものもある。

空き地となった廟跡には、1888年 (明治21年)、明治宮殿が竣工した際に、ジョサイア・コンドルの設計により宮内省庁舎が建てられた。庁舎は関東大震災で被災するも修復された。
現在の庁舎は1935年 (昭和10年) に建て替えられたもの。

西の丸裏門 (紅葉山下門)

江戸時代には坂下門や蓮池門から中に入ったところには西の丸裏門 (紅葉山下門) があったのだが、明治21年に皇居の北側出入口に移築されて今では全く面影が無い。裏門となっているので、この門は西の丸に登城する際の正式門ではない。
以前の二の丸裏門 (紅葉山下門) が乾門の案内板に紹介されていた。


宮殿

江戸城西の丸御殿は、元々は、将軍の跡継ぎや、将軍を退いた人の住居だったが、本丸が1863年 (文久3年) に火災で主な建物が焼失したが、再建されなかったため、それ以降は、この西の丸が本丸に代わり、江戸城の中心的な場所になっていた。江戸幕府が滅び、1868年 (明治元年)、京都から行幸した明治天皇がここに入っている。
1888年 (明治21年)、この場所に木造の宮殿が造られて、今日では明治宮殿と呼ばれている。
明治宮殿には、明治天皇以降歴代天皇の住まいとなっていた。また、天皇臨席の国家の重要な会議や、様々な行事、儀式が行われている。
明治宮殿は、第二次大戦中の1945年 (昭和20年) 空襲により全焼し、1968年 (昭和43年) に、鉄骨鉄筋コンクリート造りで再建されて、現在に至っている。
宮殿は正殿、豊明殿、連翠、長和殿、千草・千鳥の間など7つの棟から構成されている。
  • ❶❷ 千草の間,千鳥の間: 参殿者の休所
  • ➌ 正殿竹の間 (正殿棟) : 会見、引見、その他の儀式・行事
  • ➍ 正殿松の間 (正殿棟) : 新年祝賀の儀、信任状捧呈式、親任式、認証官任命式、勲章親授式、講書始の儀、歌会始の儀等
  • ❺ 正殿梅の間 (正殿棟) : 皇后誕生日祝賀、皇后引見、その他の儀式・行事に使用
  • ❻ 連翠: 午餐晩餐等小人数の宴会の場
  • ❼ 泉の間 (豊明殿棟) : 小人数の休所
  • ❽ 豊明殿 (豊明殿棟) : 宮中晩餐、天皇誕生日の宴会の儀、その他多人数の宴会の場
  • ❾⓯ 南溜・北溜 (長和殿): 車寄に続くホール
  • ➓ 北の間 (長和殿): 参殿者の休所
  • ⓫ 石橋の間 (長和殿): 参殿者の休所
  • ⓬ 春秋の間 (長和殿): レセプション、拝謁等多目的
  • ⓭ 松風の間 (長和殿): 参殿者の休所
  • ⓮ 波の間 (長和殿): 参殿者の休所
  • 表御座所棟: 天皇が公的な事務を行う場で、附属して侍従等の控室がある。
  • 庭園 (中庭、東庭、南庭): 東庭は新年、天皇誕生日の一般参賀の場。

長和殿、宮殿東庭

かつての二の丸裏門 (紅葉山下門) の場所から中に入った所は江戸時代には二の丸大奥があった場所になる。大奥跡地には宮殿で160mに及ぶ一番長い建物である長和殿が建てられている。この場所では、新年1月2日と天皇誕生日の年ニ回、天皇皇后と皇族で祝賀を受ける行事が行われる。その際には、長和殿の前の宮殿東庭に一般参賀で人が集まり、天皇の言葉が聞ける数少ない機会の場所となる。長和殿の前の右側には松の塔 (写真左上) と言われる照明塔があり、先端の輪は、ふしろという古代婦人の腕輪を形とったデザインで、葉と葉の間から光が灯すように作られている。宮殿の造営時に国民からの寄付によって造られたそうだ。
長和殿には三つの車寄せがある。中車寄せは地下にあり見ることはないが、長和殿に向かって右端に北車寄せ (写真下)、左端近くにある表玄関に天皇皇后両陛下が国賓など国家元首の到着を迎える南車寄 (写真上) がある。南車寄がある区域は豊明殿になる。

南庭

長和殿の左奥は宮殿の南庭になっている。庭の中には小山のように見える二つの刈り込みがあり、いろいろな樹木を組み合わせて、南庭の大刈り込みと言われている。

正殿

長和殿の奥は正殿になっているが、塀越しにしか見えない。外国の国家元首などとの御会見 御引見に使われる竹の間や、内閣総理大臣や最高裁判所長官の親任式、外国の大使の信任状捧呈式、歌会始などが行われる松の間などがある。正殿のさらに奥に連なる表御座所には天皇が、法律・条約の公布への署名など、憲法に定められた御公務を行う部屋などがある。


連翠

南車寄、豊明殿を北に進むと、豊明殿と宮内庁庁舎を結ぶ渡廊下がある。

渡廊下を潜った所に石垣で囲まれた建物がある。ここが連翠と呼ばれている棟になる。連翠とは「緑に連なる」という意味で、紅葉山と道灌濠の縁に連なるところからつけられた名前。各種の茶会、外国賓客を迎えて催される宮中午餐などに使われる部屋が用意されている。


中門 (西の丸玄関前門)

長和殿の前の東庭を南側にある吹上地区に向かうと大きな門がある。中門とは呼ばれているが、江戸時代の地図では西の丸玄関前門とある。

現在の門は江戸時代の門では無く、比較的新しい門の様だ。門を通った所に左右に石垣がある。この場所が西の丸玄関前門があった所だろう。


西の丸下乗橋 (月見橋、正門鉄橋、二重橋)

中門 (西の丸玄関前門) を抜けると橋が架かり、吹上御所への入り口となっている。この橋は西の丸下乗橋で、月見橋とも呼ばれていた。後に明治17年から22年にかけての皇居御造営 (明治宮殿) に際して鉄橋に架け替えられて、正門鉄橋とよばれていた。現在では、一般的には二重橋として知られている橋で、皇居見学では必ず出てくる有名な橋になっている。

西の丸下の皇居前広場からは、二重橋濠に架かる正門鉄橋が見える。

二重橋と呼ばれていたのは、橋桁を支えるため、中途に台があって二重構造となっていたことによる。かつての下乗橋は、青銅製の擬宝珠が欄干に付いた木造橋で、壕が深かったことから途中に橋脚を立て橋桁を支える構造にするのが困難だったため、橋桁を上下2重にして強度を上げ長いスパンを実現していた。


伏見櫓

西の丸下乗橋 (正門鉄橋、二重橋) から、西の丸の西南隅に建てられた伏見櫓が見える。伏見櫓は二重櫓で、両横には大規模な多聞が連なっていた。ここから見える多聞は十四間多聞櫓で奥には十六間多聞櫓がある。

1628年 (寛永5年)、三代将軍家光の時代の江戸城修築に際して、京の伏見城から移築したものと伝えられている。(これは伝承で、色々な城の伏見櫓は同じような言い伝えがある。)石垣は、関東大震災でも崩れなかったが、櫓は倒壊し、解体して復元されたもの。


西の丸大手門橋 (正門石橋)

西の丸下乗橋 (正門鉄橋、二重橋) から、伏見櫓とは反対側には、眼下にもう一つ橋がある。これが西の丸への正式な登城ルートの西の丸大手門橋になる。

この西の丸大手門橋は、先日に皇居前公園から見ている。桜田門を入ると、堀を隔てて西の丸がある。堀に沿って進むと皇居前広場に出て、二重橋が見えてくる。もの皇居前広場から正門を経て宮殿へ至る濠に二つの橋が架かっており、手前の橋が正門石橋、奥の橋が正門鉄橋という。

手前の石橋は、江戸時代にあった橋では無く、元々は西丸大手橋と呼ばれた木橋があった。
1887年 (明治20年) に西丸大手橋があった位置に建造されたもの。二連アーチ構造なの俗称眼鏡橋とも呼ばれている。この石橋が二重橋と誤認されることが多いのだが、正確には、奥にある正門鉄門を指している。もっとも二重橋を紹介している書籍では、二つの橋の写真が使われて、この眼鏡橋が前にあり目立つのでこの誤解は仕方ないとも思える。現在の橋は、昭和39年6月に架け替えられたもの。
警察官のボックスがあり警備はしているが、正門への入り口になる正門石橋の手前まで行くことが出来る。

西の丸大手門 (正門)

江戸時代には西の丸大手門へは、まだ木橋がかかっていた。木橋を渡ると高麗門があった。古写真には高麗門が写っている。高麗門を入るとここは枡形の正面に櫓門がある。特異な造りになっている。通常は高麗門と櫓門は防備上、枡形内で方向を変えるようになっているが、この西丸大手門は直線となっている。
現在の西の丸大手門には高麗門は無くなっている。正門鉄橋の手前で立ち入り禁止になっていた。ちょうど衛兵の交代式が行われていた。ここは通常は使用されず、新年の一般参賀や外国賓客の皇居訪問等宮中の公式行事の際にのみ利用されている。


山下通り、紅葉山、紅葉山御養蚕所

皇居見学コースに戻る。二の丸下乗橋から吹上御所への道になるのだが、吹上御所には入れず、ここでもと来た道を戻ることになる。先に見学した長和殿、正殿、連翠を通過し、山下通りという道を通って出口に向かう。山下通りは江戸時代にあったものではなく宮殿を造るさいに造られた道で、紅葉山の麓にあるのでこう呼ばれている。蓮池濠に向かって下り坂になっている。ここからは紅葉山ははっきりとは見えないのだが、江戸城時代には、紅葉山の上には、徳川家康を祀る東照宮が建っていた。

現在は、山上に紅葉山御養蚕所があり、皇后が、蚕を育て、絹糸の原料となる繭を出荷し、蚕の卵を採っているそうだ。これは、明治時代に、昭憲皇太后が始められた養蚕を、歴代の皇后が引き継いでいる。

山下通を下っていくと右手に宮内庁庁舎 (写真右上)、左側には皇居に皇居内の清掃奉仕のため全国各地から来た人たちの休息所となる蓮池参集所 (写真左下)があった。


乾通り

山下通りを下り、突き当たった道路が乾通りで、蓮池濠沿いに、宮内庁庁舎前から北に乾門まで延びている。この道は2014年 (平成26年) に、上皇の傘寿を記念して、初めて一般公開が行われた後、春の桜と秋の紅葉の時期の公開が定例化されているが、今は新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため中止となっている。再開すれば、ぜひ歩いてみたい。下の写真は、後日、乾門を訪れた際に撮った三日月濠沿いの乾通りの様子で、散歩にはよさそうだ。

乾通りを蓮池門方面に戻り、桔梗門で見学は終了となり解散。今日は雨だったので写真写りがもう一つだった。それと終始警備員が羊の群れを追いかけるシープドックの様についてくるので、列から離れて写真を撮ると、列に戻るようにと促されたことが何度もあった。吹上御所は見学コースには入っていないので、今回の東京滞在で江戸城巡りが終わるが、この吹上御所が見れなかった。(これからも見れないのだが..)




乾門 (上覧所跡)

後日、西の丸裏門を移設した乾門を訪れた。明治21年に皇宮建設の際に造られた明治の門になる。

皇居がある西の丸の乾通りを北に進んだ出口にかつては乾門があったが、乾門は将軍が物事を見物する上覧所があった場所に移設されている。江戸城の北西に位置し、乾の方角にあたることからこう名付けられている。上覧所は旗本たちが日ごろの武芸鍛錬の成果を将軍に披露したり、天下祭と呼ばれる山王社 (現在の日枝神社) と神田明神の祭礼行列もここに立ち寄っていた。1888年 (明治21年)、旧西の丸裏門にあたる 紅葉山下門がここに移築され、皇族などの皇居への出入口となり、乾門と呼ばれるようになった。


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