東京 (19/04/22) 江戸城 (36) 三の丸
三の丸
- 平川橋
- 平川門
- 平川濠、帯曲輪
- 天神濠
- 三の丸御殿 (御鷹御殿、御鳥屋)
- 天神橋
- 三の丸 喰違門
- 大手門
- 三の丸尚蔵館
- 桔梗濠、桔梗門 (内桜田門)
- 桜田二重櫓 巽櫓
- 蛤濠
- 旧枢密院庁舎
三の丸
三の丸へは、桔梗門、大手門、平川門の三ヶ所から入ることになる。江戸時代は桔梗門と大手門の二つの門が大名の登城門だった。
先日は西の丸の皇居の見学で桔梗門から入ったので、今日は北側にある平川門から入り、皇居東御苑となっている三の丸、二の丸を見学し大手門までのルートを散策する。江戸時代三の丸には何があったのかは色々調べたが、情報はかなり少なかった。江戸城の地図にも三の丸についてはあまり詳しくは出ていない。
平川橋
大手町から竹橋を通り江戸城三の丸に向かうと、大手濠に平川橋が架かっている。平川橋は江戸城で今での当時の姿が残っている二つの橋の一つで、木橋になっている。欄干には慶長期・寛永期の擬宝珠が残っている。もともとは二重橋に備え付けられていた擬宝珠で、明治20年に橋が架け替えられた際に、平川橋に転用された。
江戸城築城550年記念碑
平川門
平川橋を渡ると平川門となる。この平川門周辺は、上平川村、下平川村という村があったのでこの名前が付いている。この門の歴史は古く、太田道灌の時代から門が築かれていたそうだ。江戸時代には、1620年 (元和6年) に仙台藩主伊達政宗ほか六名の大名によってつくられ、更に、三代将軍の徳川家光の時代、1635年 (寛永12年) に、高麗門 (第一門)、渡櫓門 (第二門) で構成された枡形門となり、三の丸の正門だった。本丸大奥に通じる奥女中や旗本、商人らの通用門だったため別名「お局門」と呼ばれ、また御三卿 (田安、一橋、清水) の登城口でもあった。明暦3年 (1657年) の大火で焼失したが、二年後の万治2年 (1659年) に再建され、高麗門はそのときのものが現存している。櫓門と塀は太平洋戦争の空襲で焼失し、昭和41年 (1966年) に復元されたもの。
平川門にはもう一つ門がある。帯曲輪への門で帯曲輪門と呼ばれていた。この門は、場内の死者や罪人などを帯曲輪に搬出する出口とされていたことから「不浄門」ともいわれていた。
平川濠、帯曲輪
天神濠
江戸城の三の丸と二の丸を隔てる濠。平川門から三の丸に入った南側にある。二の丸の下梅林門への橋があった。大正時代に堀を埋め、現在は土橋になっているが、江戸城築城当初は木の跳ね橋で、有事の際には橋を落として防衛力を強化することができた。天神濠という名は、太田道灌の菅原道真を尊敬していた事に由来しているそうだ。天神濠は二の丸の東側に位置した南半分は埋め立てられてる。本来は三の丸と二の丸を隔てる濠のため大手三の門まで、江戸城の玄関部分である大手門まで伸びていた。
三の丸御殿、御鷹御殿 (御鳥屋)
平河門を入った所には大番所の警備所がありその先には三の丸御殿が存在していたという。1657年 (明暦3年) の明暦の大火で、本丸、二の丸とともに焼失している。どうも、その後は再建されなかったようだ。(再建されたという資料がなかった) 明暦の大火以前の時代、徳川家光 (1604-1651) の功績を描いた江戸図屏風では御鷹御殿と三の丸御殿らしきものが描かれている。御鷹御殿が何なのかを説明する資料は見つからなかったのだが、その後、鳥御殿となっているので、鷹狩用の鷹を飼育してした場所なのだろう。
ある資料では三の丸内には、御鷹御殿の場所が「御鳥屋」となっているが、それ以外の建物は描かれていない。多分、明暦の大火の後は、御鳥屋だけが造られていたのかもしれない。
現在は宮内庁覆馬場、厩舎などの建物が建っているのだが、平川門からも大手門側からも三の丸は立ち入り禁止になっている。
天神橋
三の丸 喰違門
大手門
平河門と桔梗門の間に、江戸城の正門となる大手門がある。別名を追手門という。1606年 (慶長11年) に江戸城の縄張りされ、翌年藤堂高虎設計により完成した江戸城の玄関にあたる。1620年 (元和6年) には江戸城修復が行われ、伊達正宗、蒲生忠郷、相馬利胤らにより現在のような桝形形式の城門となっている。1629年 (寛永6年) にも、改修工事が行われており、酒井忠世が分担し、左右の石垣は伊達政宗が築造している。
多くの大名が登城する毎月1日、15日、28日には臨時の下馬所として和田倉門前も使用されていた。この橋は江戸時には木橋が架けられていたが、安全な維持管理と水位調節のため土橋となっている。
大手門は先ほど訪れた平川門と同様に、高麗門 (一ノ門)、桝形広場、渡櫓門 (二ノ門、関東大震災後に再建) の形態のまま残っている。旧江戸城の大手門だった高麗門は、徳川家康のはからいで増上寺表門として移設されている。現在の門は、1967年 (昭和42年) に復元されたもの。
三の丸尚蔵館
桔梗濠、桔梗門 (内桜田門)
もう一つの登城門が桔梗門になる。江戸城の内濠の桔梗濠と蛤濠に面しており、内桜田門とも呼ばれている。
高麗門を入ると枡形で、右に折れて櫓門から三の丸に入る。この桔梗門は1614年 (慶長19年) に造られ、江戸城を築いた太田道灌の時代には、この近くに泊船亭があったと伝えられ、道灌の家紋の桔梗紋から、この名が付けられたという。江戸時代には大名が三の丸への登城門と定められていた。もう一つの登城門は大手門だった。
桔梗門に連なる、 石垣には刻印のある石がある。徳川将軍は、全国の大名を動員して、 江戸城の整備・修築を行い、どの大名がその箇所の工事を分担したかを示している。ただ、すべての費用は分担した大名が負担していた。これは徳川家の政策で、各大名の経済状況をコントロールする意図があり、各大名にとっては大きな負担となった。
桜田二重櫓 巽櫓
桔梗濠の向かいにそびえる二重櫓が桜田巽櫓で江戸城本丸の東南(辰巳=巽)の方向にあることが名の由来している。富士見櫓、伏見櫓と並んで江戸城に残る江戸時代の櫓のひとつで、三の丸に位置している。
桔梗門と大手門の間の桔梗堀に面した三の丸の石垣の上には名不詳の隅櫓が一つあり、その両側には多聞櫓が伸びていた。
蛤濠
桔梗門と坂下門の間には蛤濠がある。この蛤濠の内側が、江戸城の二の丸と本丸になる。本丸防衛のため、やや水深の深い水濠になっているそうだ。現在は残っていないが、二の丸の石垣上には、隅櫓として蓮池巽三重櫓、箪笥多門櫓、蓮池二重櫓が存在していた。この蛤濠は、江戸時代には、北側の天神濠まで繋がっていた。大正時代に蛤濠は一部を残して埋め立てられ、三の丸と二の丸が陸続きとなっている。
旧枢密院庁舎 (4月14日訪問)
ここにも4月14日の皇居内一般見学の際に訪れた。現在は埋められてしまった蛤濠の北側に旧枢密院庁舎がある。この枢密院は発足当初には会議は赤坂仮御所別殿 (御会食所) で開かれていたが、その後、明治宮殿完成とともに宮殿内に移った。別殿は大日本帝国憲法審議の場でもあり、のちに憲法記念館 (現在の明治記念館) として保存された。その後、現在の国会議事堂に庁舎が設けられ、1921年 (大正10年) には宮城内桔梗門近くに移転し、後に建築される議事堂の小規模版として建設された。
戦後は最高裁判所庁舎や皇宮警察本部庁舎として使用されたが、1984年 (昭和59年) より使用されなくなり、2006年 (平成18年) より改修工事が行われ、2012年 (平成24年) に完了し、翌年から再び、皇宮警察本部庁舎 (本部長室・警務課等) として使用されている。
内部の様子がインターネットに出ていた。
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