東京 (18/04/22) 江戸城 (35) 北の丸
北の丸
- 北の丸 (北の丸公園)
- 清水徳川家上屋敷跡
- 田安徳川家上屋敷跡
- 日本武道館
- 吉田茂像
- 雁木坂
- 旧近衛師団司令部(東京国立近代美術館・工芸館)
- 北白川宮能久親王の馬上銅像
- 植溜御用地跡
- 近衛歩兵第一連隊跡記念碑
- 近衛歩兵第二連隊跡記念碑
- B29迎撃用の高射砲台座 (未訪問)
- 科学技術館
- 東京国立近代美術館
- 国立公文書館
北の丸 (北の丸公園)
江戸城北の丸は、明治維新以降は近衛師団の兵営地等として利用され、多くの建物が建てられていたが、戦後、森林公園として改修が進められた。旧皇室園地に由来する国民公園皇居外苑の一部に編入され、1969年 (昭和44年) に昭和天皇の還暦を記念して開園し、一般に公開された。東御苑をはさんで、皇居外苑地区と一体的な公園利用が可能となっている。園内の一部は、武道館、科学技術館、国立近代美術館等の施設に利用されている。
清水家、田安家の上屋敷が置かれたのは江戸時代中期で、それ以前の縄張り図があった。三代将軍家光時代には、三男長松や春日局、千姫(天樹院)、弟の駿河大納言忠長の屋敷が見受けられる。1657年の明暦の大火で江戸の大半を焼失した後、北の丸は火事対策として割り替えが行われ明地 (空き地) が増えている。
ただ、この御三卿は、単に将軍家の親族という位置づけで、独立した藩とはみなされず、支配拠点もなく、それぞれ賄領10万石と江戸城における屋敷を与えられただけだった。家臣は、御付人、御付切、御抱人から構成されていたが、御付人と御付切は幕府の役人で、御付人においては幕府の職制に組み込まれていることが多く、職制でも独立した存在ではなかった。徳川吉宗の意向は将軍家の後継ぎ候補の家だけでなく、将軍家の次男以下を仮に置くだけの家の創出という事でもあった。そのため、当主が不在の明屋形となることもしばしばあった。ただ、御三卿は血筋が絶えても改易にはならないという特徴があった。インターネット上にこの御三卿や御三家と将軍家の関係を表すわかりやすい図が掲載されていた。この図を見ると御三卿が将軍家の嫡男以外の居所を確保する目的であったことがよくわかる。
清水徳川家上屋敷跡
江戸時代には田安門を入った東側には清水徳川家の屋敷があった。清水徳川家は、1758年 (宝暦8年) に九代将軍家重の次男重好が、江戸城清水門内に屋敷を拝領したことにはじまる。清水徳川家は当主不在の明屋形という状態が続いた点に特徴があり、将軍家の庶子も、全員がすぐに養子となって大名家を相続できるわけではないため、御三卿の家は養子縁組待ちの控えの場所としての役割を果たすようになっていた。
大河ドラマの「青天を衝け」で登場する徳川昭武は清水徳川家の最後に当主だった。徳川昭武は将軍徳川慶喜の弟で水戸徳川家の出身。パリ万国博覧会へはの使節の派遣に当たって昭武が慶喜の名代となり、その便宜として1866年 (慶応2年) に清水家を継がせた。昭武は当時実子のなかった慶喜から、自身の後継者候補と考えていたことも御三卿の清水家を継がせた理由だろう。昭武は万博閉幕後もフランスに滞在して勉学にも励んだが、その間に大政奉還と明治政府の樹立、さらに長兄の水戸藩主徳川慶篤の死が続いた。昭武は明治元年に帰国すると、水戸家の家督を継ぎ、そのため清水家はまたも当主不在の明屋形となった。そうした事情もあって、御三卿の他の2家が維新後に一時とはいえ田安藩、一橋藩を立藩したのと異なり、清水藩は立藩していない。
日本武道館
吉田茂像
雁木坂
旧近衛師団司令部(東京国立近代美術館・工芸館)
江戸幕府が倒れ、1871年 (明治4年) に、薩摩、長州、土佐の3藩より兵を徴収し、御親衛として皇居の警護にあたったのが近衛兵で、この北の丸の清水徳川家と田安徳川家屋敷跡も含めてに近衛歩兵営が置かれていた。近衛兵は、第一から第五連隊まで2万人の兵力、軍の中でも特に格上とされていた。創設された御親兵を翌年近衛兵と改称、同21年に近衛師団となった。北の丸の竹橋に近い国立近代美術館のあたりは、近衛砲兵の兵舎となった。皇居と皇族の護衛、帝都の防衛が主な任務で、毎日二百名の近衛兵が乾門から皇居へ入り、24時間交代で二重橋などの歩哨についていた。本師団には、毎年行われる兵役検査で全国各地の一般部隊に入営した若者のうち、眉目秀麗・姿勢良好な者が選抜の上配属された。このことから、本師団に配属されることは「一族・郷土の誇り」とされ、本師団で兵役を務めた若者は、満期除隊して予備役になった後も縁談が多く舞い込んだり、地元の名士から一席設けられたりと、地域のコミュニティでもてはやされたという。また、少尉以上の士官についても、昭和の初期までは皇族、華族及び士族階級の出身者しか配属されず、帝国陸軍における「エリート部隊」とされていた。
この様に帝国陸軍の最精鋭かつ最古参の部隊として知られていたが、その一方で「竹橋事件」や「二・二六事件」、「宮城事件」といった反乱事件の中心ともなった。
- 竹橋事件: 1878年 (明治11年) 8月23日に、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が西南戦争における財政の削減、行賞についての不平を背景に起こした武装反乱事件。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたため。加えて兵役制度による壮兵制時代の兵卒への退職金の廃止、家督相続者の徴兵の免除なども不満として挙げられていた。
- 二・二六事件: 1936年2月26日、陸軍の青年将校等が兵約1,500名を率い大規模なクーデターの二・二六事件を断行。このとき高橋是清、斎藤実など首相経験者を含む重臣4名、警察官5名が犠牲になった。当時、金輸出解禁と世界恐慌により、日本は深刻な不景気 (昭和恐慌) に見舞われ、企業は次々と倒産し、町は失業者であふれていた。さらに農村でも農作物価格が下落し、都市の失業者が農山村に戻ったこともあり、農民の生活は大変苦しく (農村恐慌)、自分の娘を女郎屋に身売りする家もたくさん出ていた。こうしたなか、当時の政党内閣は適切な対応をとらず、また汚職事件が続発。また不景気のなか、巨大な資本を用いて財閥だけが肥え太る状況で、人びとは政党に失望し、財閥を憎み、満州事変などによって大陸に勢力を広げる軍部に期待するようになった。こうした国民の支持を背景に、軍部や軍に所属する青年将校たちが力をもち、右翼と協力して国家の革新を目指し、行動に移したという背景がある。
- 宮城事件: 1945年8月14日の深夜から15日にかけて、日本の無条件降伏を勧告する連合国のポツダム宣言受諾に反対する陸軍省の一部若手将校らが起こしたクーデター未遂事件。日本の降伏を阻止しようと、宮城 (皇居) の警備を担う近衛師団長を殺害し宮城内に乱入、封鎖。天皇が終戦の詔書を朗読して録音した玉音盤 (レコード原盤) を探し回ったが見つからず、軍首脳らの説得に失敗し15日未明、鎮圧された。阿南惟幾陸相が自決し、降伏表明は予定通り行われた。この事件は映画『日本のいちばん長い日』で描かれている。
近衛師団司令部は、1910年 (明治43年) に設計建築された。ゴシック風レンガ造りの司令部は、昭和20年まで置かれていた。
北白川宮能久親王の馬上銅像
東京国立近代美術館の工芸館の入口には、移設された北白川宮能久親王の馬上銅像がある。
沖縄の佐敷に東郷平八郎による揮毫の能久親王御寄港之碑がひっそりと建っていたのを思い出した。日清戦争が終結で、台湾が清から日本へ割譲され、激しい抵抗運動平定の為に近衛師団を率いていた陸軍中将近衛師団長の能久親王がここで初代総督 樺山資紀と合流し、台湾へ出港した。
近衛歩兵第一連隊跡記念碑
北の丸は1874年 (明治7年) に、田安、清水両屋敷が壊され、近衛第一、二連隊の兵舎敷地となり、竹橋陣営と呼ばれた。
近衛歩兵第二連隊跡記念碑
近衛歩兵第一連隊跡記念碑から100メートルほど南には近衛歩兵第二連隊跡記念碑が置かれている。
田安徳川家上屋敷跡
怡和園
B29迎撃用の高射砲台座 (御訪問)
この千鳥ヶ淵南堤の遊歩道にはB29迎撃用の高射砲台座が残っているそうだ。 (探したが見つからず。写真はインターネット上に出ていたもの)
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