東京 (19/04/22) 江戸城 (37) 二の丸

二の丸

  • 下乗橋、大手三の門 (下乗御門)
  • 済寧館
  • 同心番所
  • 百人番所
  • 百人二重櫓、百人多聞櫓
  • 中之門
  • 大番所
  • 新門
  • 冠木門、中雀門
  • 書院出櫓、書院二重櫓
  • 寺沢門、寺沢櫓
  • 下埋門
  • 上埋門
  • 蓮池門
  • 蓮池三重巽櫓、箪笥多聞、蓮池二重櫓
  • 玉薬多聞、弓矢多聞
  • 下梅林門
  • 梅林櫓
  • 梅林坂
  • 上梅林門
  • 二ノ丸喰違門
  • 汐見坂
  • 汐見門
  • 汐見櫓
  • 白鳥堀
  • 銅門 (あかがねもん)
  • 二の丸御殿
  • 二の丸庭園
  • 雑木林
  • 諏訪の茶屋
  • 北多聞、北櫓東櫓、東多聞、巽奥櫓
  • 天神橋


三の丸に続き、大手門から二の丸の見学をする。



下乗橋、大手三の門 (下乗御門)

江戸時代には三の丸大手門からは現在は埋められてしまった天神濠に架かった下乗橋を渡り、入口になる大手三の門から二の丸に入る。

大手門から駕籠で入城した大名は、この大手三ノ門橋前で降りたので下乗橋とも呼ばれている。

この下乗門を駕籠に乗ったまま通れるのは、勅使、院使と尾張、紀伊、水戸の御三家に限られていた。(田安、清水、一橋の御三卿は、実質の大名ではなく、将軍家の身内という事で大奥の通用門の平川御門から登城する決まりだった。) 大名の登城順路が記された資料があった。大名達はこの大手三ノ門を抜け中之門から本丸に入った。
この門も枡形の造りで、下乗門の一の門を抜けると枡形に入り二の門から二の丸に入るようになっていた。この枡形の三方は多聞櫓となっており、防御は強固になっていた。現在は大手三の門の枡形の櫓門石垣だけが残っている。

済寧館

下乗橋が架かっていた天神濠は半分が埋められてしまったが、そこには済寧館が建っている。済寧館は1883年 (明治16年) に、華族、宮内官、皇宮警察官の武道稽古の為に建てられ、天覧試合や台覧試合の舞台となった。現在の建物は1933年 (昭和8年) に竣工したもの。高い塀で囲まれた近くで見ることはできず、垣根越しに垣間見るだけだった。

同心番所

大手三の門 (下乗御門) を入ると同心番所がある。元々は下乗橋の手前の広場にあった。ここにある案内板に江戸時代の様子が描かれたものが紹介されていた。赤で囲んだ所がこの場所だが、その前の下乗橋の渡口に同心番所が見える。
幕府の諸奉行、所司代、城代、番頭などの配下に属し、与力の下にあって、庶務、警備の勤務をおこなう下級役人の同心が詰めて、登城してきた大名の帰りを待つお供の者の監視をしていた。大名一行は、この大手三の門で駕籠を降り、同時に家臣の人数も絞られたので、残された家臣たちは、ここで主人の下城を待つことになっていた。この大手三ノ門の警備は、鉄砲25、弓25で鉄砲百人組の与力、同心があたり、甲賀組、根来組、伊賀組が受け持っていた。


百人番所

大手三の門 (下乗御門) を抜けると相当に広い広場になる。
左側に百人番所がある。大手三の門の外側で守衛した同心達は鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていた。各組とも与力20人、同心100人が配置、詰めており、昼夜を問わず警護に当たっていた。そこから、百人番所と呼ばれるようになったといわれている。
  • 伊賀組: 伊賀上野の服部半蔵が率いた伊賀武士集団。家康により召抱えられ、諸大名の内情の探索、江戸城下の治安の警護をしていた。
  • 甲賀組: 滋賀県の甲賀にあった甲賀武士の集団。伊賀組同様、江戸城の警護にあたっていた。
  • 根来衆: 紀州根来の根来寺の僧兵を中心とした紀州の鉄炮軍団で、秀吉の根来攻めで敗れた後、家康により召抱えられた。
  • 二十五騎組: 黒田家家臣によって構成された集団。黒田二十五騎は後藤又兵衛や母里太兵衛など、黒田官兵衛の家臣の中から選んだ精鋭軍団。嫡男の長政を含めて「二十五騎」とも呼ばれていた。


百人二重櫓、百人多聞櫓

百人番所の裏側、つまり、蛤濠沿には百人多聞と百人櫓があった。下の古写真で写っている櫓が百人二重櫓で、右の写真には櫓につながる百人多聞櫓も見える。
今は濠も埋められてその名残りも無くなっている。写真の手前が百人櫓、その奥に寺沢櫓、更に奥に蓮池三重櫓が写っている。

中之門

百人番所の前が中之門になり、ここから本丸へ登城していた。中之門は1638年 (寛永15年) に門と石垣が普請され、1657年 (明暦3年) の明暦の大火で、江戸城内の大部分の建物を失った翌年に熊本藩主細川綱利によって再建された。1703年 (元禄16年) の元禄大地震で倒壊した石垣を鳥取藩主池田吉明が修復している。
中之門石垣には、本丸御殿への登城口として門の上には渡櫓が配置され、左手には屏風多聞櫓、中雀門横には書院出櫓 (重箱櫓) が置かれて防御を重視していた。
インターネットでこの中ノ門を入った所の想像図があった。向こう側に新門があり、書院出櫓 (重箱櫓) が見えるが、そこへの道は実際には坂道になっており、もう少し見上げるような感じだった。

平成17年から平成19年に石垣の解体修復工事が行なわれている。

石垣創建当時の形を推定や修復工事の概要がパネルに掲示されていた。

大番所

中之門を入った右手に大番所が復元されている。ここは書院番頭の詰所で中之門の警備にあたっていた御弓持御持筒頭与力同心が詰めていた。
中之門を過ぎるとなだらかな坂道となる。


新門

江戸時代の城縄張りを見ると坂を上がった正面に新門があり上埋門に通じているとなっているが、現在はその痕跡もない。

中雀門 (書院門)

坂を右に曲がると本丸表書院の玄関口となる中雀門となる。坂のこの場所は雁木石段だった。ここも枡口になっており、先ずは冠木門 (写真左上) があり、枡口に入り右に曲がり渡櫓門の中雀門となる。両門は現存しておらず石垣と門の礎石 (写真下) だけが残っていた。
ここが本丸・表御殿の玄関門にあたり、徳川御三家も、この門では駕籠を下りて、本丸に入るきまりだった。この門は渡櫓門を入って右手に御書院番与力番所があり、御書院番の与力10騎、同心20名が鉄砲25、弓25を備えて守備していたので、御書院門とも呼ばれていた。また、玄関前門とも呼ばれていた。中雀門 (御書院門) は、1607年 (慶長12年)、藤堂高虎によって築かれたが、明暦の大火で焼失し、1658年 (万次元年) に二本松城主 丹羽重之が再建されている。
明治時代に撮られた古写真が残っている。左下写真の右が本丸入口の書院門 (冠木門)、左が新門、左の櫓が書院出櫓 (重箱櫓)、右が書院二重櫓。

書院出櫓、書院二重櫓

枡口の冠木門がある石垣の上には書院出櫓 (重箱櫓 写真上) と桝形奥の石垣の上に書院二重櫓 (写真下) が建っており、中雀門を守っていた。


本丸の見学は次回に取っておき、もう一度中之門まで戻り、二の丸散策を続ける。中之門の前の大広場を南に進むと西の丸に通じるのだが、ここも立ち入り禁止となっていた。

寺沢門、寺沢櫓

大手三の門から西の丸へは立ち入り禁止の道の先にある寺沢門を通る必要があった。寺沢門の側には寺沢櫓 (上の写真) があった。下の左古写真は中之門の内側からのもので右の二重櫓が寺沢櫓になる。右の古写真は下埋門から写したもので、寺沢二重櫓の左の多聞は百人櫓の繋がる。右側の多聞は右側は弓矢多聞櫓でその前方の建物は御金蔵のようだ。
現在、蛤濠は埋められ、二の丸の石垣も取り払われて昔の姿は全く残っていない。先日 (4月14日) に皇居見学の際にこの場所を通った。写真左が寺沢門、右が寺沢櫓のあった場所になる。

下埋門

寺沢門を過ぎると、本丸への入り口の一つであった下埋門があった場所になる。下埋門を入ると枡形になっており、その上には上埋門があり、そこも枡形になっていた。普段は使われない虎口だったそうだ。下埋門から中へは立ち入り禁止になっている。

上埋門

下埋門の先は上埋門になり、先程の新門に繋がっている。中雀門と本丸の富士見櫓の間にあるのだが、ここも立ち入り禁止となっていた。写真は本丸を巡った際に、本丸から見たもの。


蓮池門

下埋門を通り過ぎると西の丸裏門へと続く蓮池門があった場所になる。ここが二の丸と西の丸の境。江戸屏風図ではこの門は描かれていないようだ。家光時代にはこの門はなかったのだろうか?
1910年 (明治43年) に名古屋城に移築して正門と改称したが、焼夷弾で焼失し、戦後再建 (写真右) されている。

蓮池三重巽櫓、箪笥多聞、蓮池二重櫓

江戸時代には、蛤濠に面した石垣の上には蓮池三重巽櫓、箪笥多聞、蓮池二重櫓があった。
1873年 (明治6年) に蓮池巽三重櫓と左に連なる箪笥多聞に貯蔵した陸軍の砲弾火薬が爆発炎上し、三重櫓と箪笥多聞は焼失、石垣のみが残された。

玉薬多聞、弓矢多聞

内桜田門に面している二の丸石垣の上には玉薬多聞と弓矢多聞が存在していた。


次は三の丸へのもう一つの入り口である平川門から二の丸を見ていく。

下梅林門

三の丸と二の丸を隔てていた天神濠が平川壕との間に橋がかかっていた。この橋は下梅林冠木門外橋と呼ばれ、桔橋であったと伝わっている。本丸への門でもあるので、有事の際には、橋は跳ね上げられる様になっていたのだろう。現在は土橋となっている。
橋を渡たると下梅林門になる。門扉の礎石が残っている。上梅林門を経て本丸、二の丸へと続いている。

梅林櫓

門の向こうには梅林櫓の石垣が見える。
平川濠から見た梅林櫓。

梅林坂

下梅林門から、本丸へは梅林坂を登り上梅林門をくぐり、入る。この場所は梅の名所だそうだが、もう時期は過ぎている。もともと、太田道灌が江戸平河城を築城した際に、領地である川越の三芳野神社から祭神である菅原道真の分霊を勧請して天満社を創建して数百株を植えたのが始まりという梅林。江戸時代の地図を見るとこの坂は階段になっている。防備を考慮するとよっぽどの急坂でなければ、上がりにくい階段にしていただろう。

上梅林門

本丸へは梅林坂を登った所にあった上梅林門を通る。下梅林門は1627年 (寛永4年) に建築されたが、今は石垣だけが残っている。今回は本丸には進まず、ここから二の丸方面に進む。
明治時代に撮られたの写真がある。左は下梅林門、右は渡櫓が見えるのが上梅林門で手前には二の丸食違門。

二ノ丸喰違門

梅林坂をおり、上の古写真に写っている喰違門から二の丸中心部に入る。
喰違門を入った広い道路は一直線に中之門の前の広場まで続いている。汐見坂と梅林坂に挟まれた写真の石垣は明暦の大火後に本丸拡張のために築かれたもので、比較的新しい石垣。

汐見坂

この広い道路は本丸の高い石垣に沿って走っており、そのちょうど中間地点に汐見坂があり、この坂を登った所が汐見門で、江戸城本丸に通じている。江戸城築城の際には、江戸湾の日比谷入江がここまできており、坂の途中から海が見えたので、こう呼ばれていた。

汐見坂門

坂の上は、汐見坂門があり、この門から本丸に入る。

白鳥濠

また坂の横には本丸の防備の為の白鳥濠がある。この濠はどこの濠とも繋がっておらず独立したもので、湧水と雨水で水が湛えられている。濠の本丸側石垣は家康時代に積まれたものだそうだ。

銅門 (あかがねもん)

白鳥濠を中之門の方向に進むと銅門 (あかがねもん) がある。ここが大手門から二の丸への正門になる。

この銅門は1614年 (慶長19年) に寺沢広高により建造されたのので、門扉が銅張りになっていたので、このように呼ばれた。この門の警備は大番組の与力同心が受け持っていた。


二の丸御殿

  • 二の丸は、初期には藤堂高虎による縄張りで、本丸の東側に沿って細長い帯曲輪だった。
  • その後、1630年 (寛永7年、三代家光) には三の丸へ拡張し、三代将軍家光の命で小堀遠州の手により遊行のための庭園を造成している。この二の丸庭園は白鳥濠と繋がり、池の中には能舞台を配するなど遊興性の強い造りで、将軍の別荘のように使用されたが、創建5年後には取り壊されている。
  • 1636年 (寛永13年、三代家光) に、現在の雑木林あたりに二の丸御殿が建てられている。玄関や書院は、汐見坂の方 (西) を表にしており、黒書院、御座之間、小座敷、学問所を長い廊下で連結し、東側に庭園を配置していた。銅御門の方 (南) は、庭園と数奇屋風建築となっており、水舞台、御茶屋を点在させるなど、将軍の別荘のように使用されたが、僅か7年後に解体されている。この時に建てられ二の丸御殿の縄張り図 (図右) が残っている。それ以前の縄張り (図左) と比べて、御殿も庭園も変わっている。
  • 1643年 (寛永20年、三代家光) に家光は嫡子の竹千代 (後の四代家綱) のための御殿に作り変えている。南の銅御門の方を正面に据え、表・奥の御殿を設え、本丸に準じる御殿の構成となっていた。これ以降、二の丸御殿は、将軍の隠居場所や、将軍生母の居場所として機能することになった。
  • 1657年(明暦3年、四代家綱) の明暦の大火などで焼失し、1660年 (万治3年、四代家綱) には、防火のため屋根が瓦葺きで再建されている。
  • その後、何度も焼失と再建を繰り返すが、同じ形体で再建され、江戸時代を通して大きく変化はない。記録では1863年 (文久3年) に焼失、1704年 (元禄17年、六代家宣)、1759年 (宝暦9年、九代家重)、1833年 (天保4年、11代家斉) にに造営、1863年 (文久3年、14代家茂) には焼失している。
  • 1867年 (慶応3年、15代慶喜) に焼失したのを最後に二の丸御殿は江戸城から姿を消している。幕末で、同じ年には幕府は滅び、明治が始まる。再建どころではなかった。その4年後の1871 (明治4年) に撮られた写真では二の丸には建物は全く見当たらず、これ以降、荒廃が進むことになる。


二の丸庭園

二の丸御殿の庭園も明治以降は荒廃していた。第二次世界大戦の敗戦後、戦災復興計画より皇居移転や皇居開放論が高まり、宮内庁により宮殿再建と皇居公開の検討が行われ、最終的に皇居東側地区は皇居附属庭園「皇居東御苑」として公開の開始され、合わせて、九代将軍徳川家重時代の庭絵図面をもとに昭和43年に池泉回遊式庭園を復元し公開された。上に掲載した縄張り図の池とは少し形が変わっているのだが、明治時代の地図とは池の形が一致している。幕末には既にこの形になっていたのか、明治時代に変更されたのか?ただ、当時の池泉回遊式庭園が再現されているのは判る。

庭園池には、明治神宮から株分けされた菖蒲田 (写真左上)、東多聞があった所は小高い丘 (左下) になり、そこには滝 (右上) が設けられている。また、銅門近くには皇居正門にかかる二重橋の石橋の両脇に置かれた6基の旧飾電灯の一つ (右下) が展示されていた。

二の丸庭園のかつての大奥があった場所の近くには色とりどりのクルメツツジの花が咲いた花壇がある。桜の季節は終わり、見れなかったのだが、このつつじ花壇はみごとだった。


雑木林

二の丸御殿があった場所は雑木林になっている。雑木林とは言え、綺麗に手入れがされている。この雑木林は昭和天皇の発意により、都市近郊で失われていく雑木林を復元しようと昭和58年から3か年かけて造成されたもの。

また、平成天皇のアイデアで、平成14年に拡張され、小川もある新雑木林が造られている。


諏訪の茶屋

二の丸御殿の大奥の場所にかつては西の丸の吹上地区 (現在御所等のある一帯) に置かれていた諏訪の茶屋が移設されている。茶屋は1867年 (慶応3年) に、二の丸が火災などで焼失後、11代将軍徳川家斉の時に創建された。現在の建物は、明治45年に再建されたもので、皇居東御苑の整備の際にここに移されている。


北多聞、北櫓、東櫓、東多聞、巽奥櫓

三の丸との間にある天神濠を守る石垣の上には三つの隅櫓とそれをつなぐ多門櫓が存在していた。下梅林門から北多門、北櫓、東櫓、東多聞、巽奥櫓と下乗門に向かって並んでいる。

明治4年に撮られた古写真にはこれらの櫓が写っている。写真右は三の丸下乗門辺りから撮られたもので手前から巽奥櫓、東多聞、東櫓が見える。現在は天神壕のこの部分は埋め立てられ、石垣も撤去され完全に様変わりしている。写真左は三の丸下梅林橋の手前ぐらいから撮られたもので北多門と北櫓が見える。ここは天神壕、石垣も残っている。

二の丸から北多聞櫓があった所は二の丸庭園として整備され、小径に沿って各都道府県から寄せられた木が植えられている。濠沿いには石垣と多門櫓への階段が残っていた。

北多聞を進むと北櫓があった場所になる。櫓が建てられていただろう所には石垣が多聞部分より高く積まれている。


天神橋

更に進むと三の丸への道がある。ここも立ち入り禁止となっている。この道は天神濠に架けられていた天神橋へ通じる。

この天神橋は江戸時代の地図には見られない。明治時代に陸軍が三の丸と二の丸に軍施設を置いていたので、その行き来の為にこの橋が架けられたのだろう。


これで二の丸散策は終了。残りはいよいよ本丸を残すのみとなった。


今晩は5年前に働いていた会社の部下たちが集まって夕食を一緒にする。翌日 (4月20日) は休息日にして、疲れを癒す。この日の晩も別の会社で働いていた部下たちが集まってくれた。10年ぶりの部下も来てくれていた。連日の飲み会で、少々疲れ気味だが、何年も経っても、集まってくれるのはありがたい。

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