東京 (21-22/04/22) 江戸城 (38) 本丸 (1)

本丸

  • 中雀門、本丸御殿御玄関
  • 書院出櫓、書院二重櫓
  • 上埋門
  • 富士見三重櫓
  • 富士見宝蔵櫓
  • 数寄屋二重櫓
  • 数寄屋多聞櫓
  • 富士見多聞櫓 (休憩所前多聞櫓)
  • 石室
  • 竹林
  • 柚木門
  • 西詰橋、西詰橋門 (にしはねばしもん)
  • 三日月濠、柚木多聞、栗木多聞
  • 北詰橋、北詰橋門 (きたはねばしもん)
  • 乾櫓
  • 五十三間多聞、五十三間櫓
  • 上梅林門
  • 梅林櫓
  • 汐見太鼓櫓、汐見多聞
  • 汐見坂、汐見坂門
  • 銅多聞 (あかがねたもん)、汐見二重櫓
  • 台所前三重櫓
  • 御細工所多聞、御納戸多聞

今日はいよいよ江戸城の本丸を見学する。江戸城巡りを開始して38日目でようやく本丸まで辿り着いた。本丸御殿 (表御殿・中奥・大奥) も含め江戸城は、何度も火災に遭っており、明暦の大火以降でも2度焼失し、その都度再建された。

幕末の1863年 (文久3年) の焼失時には、本丸の機能を西ノ丸御殿に移したため、本丸は再建されず、明治維新を迎えた。このことで、本丸には殆ど江戸時代の遺構は残っていないのだが、江戸時代の江戸城地図に照らし合わせながら見ていく。

まずは本丸の防備の要だった周囲に張り巡らされた隅櫓と多聞櫓、他の曲輪への連絡路を辿ってみる。江戸城本丸への正式な登城経路は大手門で三の丸に入り、下乗門で二の丸へ、中之門を登り中雀門を経て本丸に至るので、中雀門からのスタート。



中雀門、本丸御殿御玄関

本丸への入り口になる中雀門については二の丸を訪問した際に見学をし、そのレポートを二の丸訪問記で残している。
当時をイメージするのに非常に役に立つ想像図がインターネットで出ていたので載せておく。(サイトは非常に興味深い: http://nakamuranobuo.com/edo-4.html)
中雀門の枡形には二つも櫓が置かれている。

書院出櫓、書院二重櫓

中雀門は本丸の入り口なので守りを強化している。新門と冠木門の石垣上には書院出櫓、中雀門枡形には書院二重櫓で守られている。

中雀門から、本丸を囲む濠沿いに時計廻りに巡る。


上埋門

中雀門を入り富士見三重櫓との間に二の丸への門がある。本丸から西の丸へは一番近いルートだが、江戸時代には普段使われていなかったとされる。西の丸へは中雀門を出た所にある新門を使っていたのだろう。

富士見三重櫓

富士見三重櫓は江戸城に存在した19の櫓の中で遺構として残る三つの櫓の一つ。(残りは伏見櫓と桜田巽櫓)。現存する三重櫓では唯一のもので、1657年 (明暦3年) の明暦の大火 (振袖火事) で焼失後、1659年 (万治2年) に再建されたもの。
関東大震災で破損したが修復されている。どの角度から見ても同じような形に見えることから、八方正面の櫓の別名もある。天守焼失後は代用天守の櫓ともいわれていた。この富士見櫓の上からは、その名の通り富士山をはじめ、秩父連山や筑波山、江戸湾が臨め、将軍は両国の花火などを眺望したという。
富士見櫓が建つ場所は江戸城のなかでも一等地で、徳川家康の江戸城築城以前、太田道潅の築城した望楼式の静勝軒があった場所と推定されている。富士見櫓が建つ石垣は野面積で江戸城初期のものだが、関東大震災でも崩れなかった堅牢なもの。加藤清正の普請と推測されている。石垣上には、石落し仕掛けが見える。

富士見宝蔵櫓

富士見三重櫓と数寄屋櫓との間には富士見宝蔵櫓がある。現在は石垣のみ残っている。多聞櫓は通常は武具や武器を保管し、有事には砦の役割を果たしていたのだが、この宝蔵櫓の名前からは、ここには調度品や文書類が保管されていたと思われる。宝とあるのだが、宝物が保管されていたのではない様だ。江戸城は何度の火災に遭っているので、この後に見学する石室を造り、焼失を避けるために、そこが宝蔵の役割を果たしていた。
明治四年に撮られた富士見宝蔵櫓と数寄屋櫓の写真が残っている。写真左は富士見宝蔵櫓の奥に数寄屋二重櫓が見える。写真右は本丸御殿跡から見た数寄屋二重櫓。

数寄屋二重櫓

富士見宝蔵櫓の石垣が続き数寄屋二重櫓が置かれていた石垣も残っている。


数寄屋多聞櫓

数寄屋二重櫓からは数寄屋多聞櫓が富士見多聞櫓との間に存在していた。石垣は殆ど残っておらず、土塁の様になっている。この多聞櫓の前の本丸御殿表には松の廊下があったとの説明板が建っていた。

富士見多聞櫓 (休憩所前多聞櫓)

数寄屋多聞櫓の次には富士見多聞櫓が現存している。先日西の丸を訪れた際に、蓮池濠から見えた多聞櫓で、江戸城で15棟あった多聞櫓の内、唯一現在しているものだ。
この場所は中奥の西側にあり、江戸時代には庭園となって池や茶畑などがあった。茶畑はバラ園になっており、そこを上った所に富士見多聞櫓がある。入り口のところに「御休憩所前多聞」と刻まれた石標がある。下の庭園や茶畑がある中奥には御座之間と呼ばれた将軍が日常生活を送っていた私的な居間がありった。それで、御休憩所前多聞とも呼ばれた。富士見多聞櫓は防御と装飾とを兼ねた長屋作りの武器庫で、鉄砲や弓矢が納められていた。有事には格子窓を開けて敵兵を狙い撃つことができるようになっていた。江戸時代も平和が続くと、内装が変更され、鴨居、天井や襖、畳を施し住居空間に変わっていった。富士見多聞は1640年 (寛永17年) に造られ、1657年 (明暦3年) の明暦の大火で焼失したが、その後再建されている。現在の建物は、1859年 (安政6年) の火災の後に再建され、それを1888年 (明治21年) に修繕したもの。富士見多聞櫓内部は2016年から一般公開されており、見学をした。

石室

富士見多聞櫓から天守台に向かって道を進んだ途中に石室があった。大奥の調度品などを火事などの緊急時に保管する施設として造られた。


竹林

石室から更に道を進むと竹林がある。1996年に吹上御所から移された竹林だそうだ。

柚木門

天守台のすぐ手前の西側に西の丸に通じる道がある。石垣にゲートが置かれて、ここも立ち入り禁止地区で、中には入れない。この石垣の所が、かつて柚木門があった場所だ。この道を進むと柚木多聞櫓と栗木多聞櫓があり西詰橋を通り西詰橋門を渡ると西の丸になる。

西詰橋、西詰橋門 (にしはねばしもん)

西詰橋に行くには、平成26年に始まった春季の桜の時期と秋季の紅葉の時期に二回実施している皇居乾通り一般公開の機会にしかないのだが、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため実施されない。乾門近くから三日月濠越しに、僅かだが、西詰橋を見ることができる。西詰橋は名の如く、跳ね橋だったがが、現在は普通の橋に架け替えられ、自動車道になり、皇居への通用口として使われている。写真に下の二枚は一般公開に参加した人がアップロードした物を借用した。

今はなくなってしまったが西詰橋には枡形の西詰橋門が存在していた。明治4年に撮られた写真がある。このシリーズの写真の多くは当時江戸城がかなり荒廃しているのが見て取れる。江戸時代幕末も既に荒れ果てていたのか、明治になり主人だった将軍がいなくなり4年間放置され、この様に荒廃したのだろうか?


三日月濠、柚木多聞、栗木多聞

北詰門の西側に北詰橋から西詰橋まで、本丸を守る内濠があり、それが三日月濠になる。1888年 (明治21年)、江戸城西の丸の吹上に明治宮殿で建設され、乾門が新造されたことで、乾濠と呼ばれるようにもなった。三日月濠は、その名の通り、三日月の形になっている。
三日月濠には柚木多聞、栗木多聞の石垣が残っている。左が乾櫓に繋がる栗木多聞櫓、右が柚木多聞櫓があった石垣。

北詰橋、北詰橋門 (きたはねばしもん)

北詰橋は三日月濠と平川濠の間に架けられた橋で、本丸の天守や本丸御殿大奥のすぐ後側にあり、直接、本丸と北の丸に通じていた門。北詰橋門はその名の通り、江戸時代は平川堀に跳ね橋がかけられていた門だった。北桔橋門はかつては他の門と同じように枡形門だったが、渡櫓門と岩岐多聞、乾二重櫓に囲まれた防備が重視された内枡形だった。現在では枡形石垣と渡櫓門、岩岐多聞、乾二重櫓は撤去され、高麗門だけが残っている。

堀からの石垣はかなりの高さで、北側は北の丸があり、天守に近いのだが、防御力は十分だった。

現地に立っていた案内板に昔の北詰橋門の写真があった。写真右は桝形内、岩岐多聞から二本の上水管が写っている。

これは玉川上水四谷大木戸から1655年 (明暦元年) に江戸城に水を引いた施設で、当時使われていた江戸城の井戸33ヶ所 (内 本丸には11ヶ所) のうち6つに供給していた。それまでは、江戸城本丸には24もの井戸があり、水の便は良かったようだ。


乾櫓

北詰門にあった乾櫓は消滅してしまったが、その櫓が建っていたと思われる石垣が本丸内からかすかに見えていた。

三日月濠の外側から乾櫓が建っていた石垣を眺める。こちら側から見たほうがイメージが湧く。

当時の乾二重櫓はこの様だった。


五十三間多聞、五十三間櫓

北詰門の東側、平川濠側には五十三間多聞という長大な多聞を配し、深い濠で本丸の背後からの攻撃を守る役割を担っていた。写真で石垣が出っ張っているところが多聞櫓があった場所で、その隅に五十三間櫓が建っていた。今は五十三間多聞櫓、五十三間櫓は残っておらず、その北詰橋門側の石垣に築地塀が残っている。

本丸内部から見ると、五十三間多聞櫓へ至る石垣の上の築地塀が見える。濠近くまではいけないのだが、多聞櫓があった石垣の端だけを見ることができた。多聞櫓があった場所には皇居警備の事務所が建っている。

北詰門付近の様子を再現したモデルがあった。当時の様子をイメージするには参考になる。


上梅林門

先日訪れているのだが、三の丸から天神濠に架かっていた下梅林冠木門外橋を渡り下梅林門をくぐると二の丸に入り、上梅林坂を登った所に本丸への上梅林門がある。本丸内部からは五十三間多聞がある平川濠沿いに進んだ所になる。

明治時代に撮られた写真がある。左は下梅林門、右は渡櫓が見えるのが上梅林門で手前には二の丸食違門。汐見太鼓櫓は既に消滅しており、その櫓があった石垣の上には人が立っている。



梅林櫓

上梅林門の桝形には梅林櫓が建てられていた。現在は石垣だけが残っている。平川濠から見るとその石垣の様子がよくわかる。

城内からはこの梅林櫓が見れるところはあまりなく、下梅林門付近からその石垣の一部が見える。


汐見太鼓櫓、汐見多聞

上梅林門から南へ石垣沿いに進む。二の丸の喰い違い門の上にそびえる石垣の上に汐見太鼓櫓があった。この汐見太鼓櫓は上梅林門の桝形の防備を担っていた。汐見太鼓櫓から汐見門まで石垣の上には汐見多聞櫓があった。



汐見坂、汐見坂門

二の丸から本丸への門はいくかあるが、汐見坂門はその一つ。二の丸から白鳥濠の側の汐見坂を上がった所に置かれている。汐見坂はかなりの急坂だ。

江戸城築城の際には、江戸湾の日比谷入江が目の前まで迫り、汐見坂の途中から海が見えたのが、この名の由来だそうだ。この門の石垣の積み方が場所によって異なっていることに気が付く。写真左上を見ると左側白鳥濠側は築城当時の打ち込み接ぎ (表面に出る石の角や表面をたたき平面にする) で方法で積まれ、梅林坂側の右側は元禄大地震の後の1704年 (宝永元年) 修理された部分で、切込み接ぎ (積む前に方形に加工したものを積む) という方法でなされている。


銅多聞 (あかがねたもん)、汐見二重櫓

汐見坂門から台所前櫓に至る白鳥濠の石垣の上にも多聞櫓が築かれていた。銅多聞 (あかがねたもん) と呼ばれている。この下、二の丸に門扉が銅張りになっていた銅門 (あかがねもん) があったことからそう呼ばれたのだろう。 

銅多聞があった石垣の上を歩いてみると、石垣が残り、多門櫓への階段も残っていた。


台所前三重櫓

銅多聞の先、白鳥濠の石垣の上には櫓があった。

三重櫓で、このすぐそばに御台所があったことから、台所前櫓と呼ばれていた。櫓の本丸側には石垣は残っておらず、高台に上る道が整備されている。

道を登った石垣の上は今では展望台として整備されて、ここからは東京丸の内の高層ビル街が一望できた。


御細工所多聞、御納戸多聞

台所前三重櫓から、本丸一周を始めた中雀門までは二つの多門櫓が置かれていた。御細工所多聞 (写真上)、御納戸多聞 (写真下) でそれぞれに多門櫓への入口跡と思える石垣もあった。


これで、本丸の外周の石垣に沿っての一周が終了。次は本丸御殿の表御殿、中奥、大奥、天守閣を見学する。その訪問記を含めると長くなりすぎるので、別レポートにする。



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