東京 (23/04/22) 江戸城番外編 05 鎌倉 材木座

鎌倉

  • 材木座海岸
  • 住吉城跡
  • 逗子マリーナ
  • 小坪の海岸(鷺浦)
  • 披露山庭園住宅地
  • 披露山公園
週末は遠出をする事にしており、今日は鎌倉に住んでいる旧友の高橋氏を訪ねる。ホテルからは60kmで手頃な距離。暢んびりと休憩をとりながら、午後三時に到着。

材木座海岸

高橋さんの住まいは材木座という鎌倉の海岸近くの住宅街の中にある。高橋宅で暫く走行の疲れ癒やし、この近くを案内してもらった。先ずは材木座海岸へ。材木座とは何か由来があるような名だと思い調べると、鎌倉時代の名だそうだ。鎌倉七座 (米座、相物座、博労座、炭座、材木座、絹座、千朶積座) という商工組合の一つがここにあったという。新田義貞の鎌倉攻めによる戦死者と思われる人骨が650も発見されている。新田義貞の物語は小さい時に何度も読んだ。楠木正成とこの新田義貞は子供達の中でも人気があった。足利尊氏については、当時は、あまり評判は良くなかった。これは楠木正成と新田義貞が天皇に忠実で、それに刃向かう足利尊氏は逆賊として描かれていた世相を反映している。海岸には多くのサーファーが楽しんでいる。高橋氏もサーファーで、今の奥さんとはここで知り合ったサーファー仲間。それで、趣味のサーフィンができるこの地に土地を購入し家を建てて住み始めた。17年前の事、彼にとってはライフスタイルを最優先にした選択で、ここから東京まで毎日通勤している。当時としては変わり者だ。
材木座海岸の西側には由比ヶ浜が続き、稲村ヶ崎が見える。新田義貞が鎌倉攻めで切り通し攻防で苦戦した際に、海岸沿いから攻める策に変更、その実行の前に刀を海に投げ込み必勝祈願をした場所と伝えられている。子供の頃はこの場面が好きで何度も絵を描いた事を思い出した。あそこから海沿いにここで戦闘が行われて、鎌倉に攻め登り鎌倉幕府を滅ぼしたのかと、その様子を想像する。
写真右の海の中に陸地が現れそこに漁船が泊まっている。これは和賀江島と呼ばれ、鎌倉幕府の執権 北条泰時の時代、1232年に造られた中世の港の趾で、現存する築港遺跡としては最古のものだそうだ。当時は宋との貿易港として使われたのではとの説もある。江戸時代には近隣の村の漁港として使われたり、鶴岡八幡宮の改修用材木の荷上げ港としての役割もあったそうだ。この海岸は遠浅なので船路も造られたのだろうが、後には船の大型化につれて、貿易港としての魅力は薄くなっていったと思われる。

住吉城跡

材木座海岸の東に山がある。この山の上には住吉城が築かれていた。住吉城は築城者や時期については不明だが、戦国時代の1510年 (永正7年)、北条早雲がここにあった砦を改修し城郭にしたという記録がある。
北条早雲と三浦道寸との攻防が行われた城で、この地で三浦道寸が敗れ逗子まで逃走するが自害し、相模三浦氏が滅びている。

リビエラ逗子マリーナ

住吉城の麓、海岸側に椰子の木並木、洒落たデザインの建物など一見リゾートホテルかと思えるようなマンション群がある。リビエラ逗子マリーナという集合住宅街だ。
1970年代に西武流通グループが小坪地区の岩礁を埋め立て、マリーナ、プール、レストラン、ボウリング場などの施設がある高級集合住宅として建設。名前もバブル期の当時の世相を反映している。一時期は有名芸能人のコンサートやイベントが行われ人気の観光地となったが、2000年に入りオーナーの西武環境開発が倒産し、陰りが始まった。ここを歩いていてもほとんど人を見かけない。どれだけの定住者がいるのだろう? 

小坪の海岸(鷺浦)

リビエラ逗子マリーナを抜けると昔からあった小坪集落に出る。鷺浦 (さぎのうら) という海岸を囲むように集落が裏山中腹に広がっている。鎌倉時代には将軍や家臣の遊覧や静養地としての風光明媚な所だったそうだ。集落内は細い路地が番本も走り、昔からの海辺の村の形がそのまま残っている。下の写真は昭和20年代のもの、今よりもっと広かった様にも見える。
漁港は小規模で小船での漁が中心だ。少し大きな船を停泊させる岸壁はなく、小船を海岸砂浜から電動ワイヤーで引きずりあげるといった昔ながらの方法で行っている。防波堤もあり岸壁も造れる筈だが、多分、そんな大体的な漁ではなく、5トン未満の漁船による覗突 (みづき)、採藻、わかめ養殖、刺網等の沿岸漁業なので、岸壁の必要性がないのだろう。集落内には六角井戸 (写真下) が残っていた。井戸の傍には祠があり、この井戸が村の生活用水として重要な役割を果たしていた事がわかる。
逗子海岸で行われている流鏑馬行事は、鎌倉時代の小坪の浜で笠懸の故事に因んだものと案内板に書かれていた。

披露山庭園住宅団地

小坪集落の裏山を登って行く、かなりの急坂を標高70ぐらいまで登った所に広々とした高級住宅地がある。披露山庭園住宅団地という。わざわざ「庭園」とつけているのは、この住宅地が別格という意識があるのだろう。多分どの家も何億円の物件だろう。麓の小坪集落とあまりにも隔絶した世界だ。金持ちで自分たちだけのコミュニティを形成しているのだろう。先に訪れた逗子マリーナの高級マンション街の住民と元からの地元住民との交流は無いそうだが、ここは逗子マリーナより更に別世界の様だ。殆ど人も歩いておらず、夕暮れになっても明かりがついている家は多くは無かった。大金持ちの別荘地の様だ。日本のビバリーヒルズと呼ばれているのだが、どうもこれ自体がコンプレックスの裏返しの様な気がする。経営者や芸能人が多く住んでいる様だ、つまり金持ちの自然な生活には慣れていない成功者 (悪く言えば成金) 向け住宅地と感じた。

披露山公園

登ってきた山は披露山という。披露山は源頼朝がこの山で御家人たちを集めて、手柄者や、全国から献上された貢ぎ物を披露したことからこの山の名がついたとの一説があるそうだ。 鎌倉時代には幕府の要人がこの披露山周辺を別荘地として用いた。成る程、昔から別荘地には格別な地だったのだ。それが現在では、庭園住宅地となっている。昔から人間の欲望は変わっていないのだ。この公園は小さな公園だが、見晴らしは抜群だ。展望台もある。
公園内には猿が飼われている。昔はちょっとした公園に猿の檻がよくあったが、最近は姿を消している。今でも残っているのは珍しい。子供にはありがたい。逗子市は頑張っている様だ。この猿檻と円形花壇は旧日本軍が太平洋戦争で設置した高射砲の跡だそうだ。
後で調べると、猿の檻の方は高射砲の砲座をそのままを利用して造っている。今まで幾つもの高射砲跡を見てきたのに、気付かなかった。
ここからの見晴らし。写真上は材木座海岸、由比ヶ浜方面、写真左下は逗子海岸、右下は逗子市市街地方面。
そろそろ日没が近づいているので、山を降りる。ここまで来た時は色々と紹介してもらったので、特に気にはならなかったのだが、帰りは途中で日が暮れ、随分と遠くまで歩いて来ていた事に気づく。夕食を材木座海岸沿いの食堂で高橋氏とともにとった。高橋氏は以前在籍した会社に働いていて昨年転職している。一緒に仕事をした事は無いのだが、何故か気が合う様だ。敵わないなと思ったビジネスマンの一人で、優秀な人材。躊躇わず考えを発信でき、そのアイデアもリーダーシップも卓越している。ただ人に媚びる事が出来ず、保守的な年功序列の日本の会社では上手く活用出来なかった。そう感じていたので、何度か転職を進め、やっと新しい会社でのチャレンジが始まった。話を聞くと、小さな会社でまだまだ今からという段階で、課題もあるが、それが楽しい様で安心した。


楽しい時間を過ごして、今夜泊まる予定の大船駅まで、北鎌倉経由で向かう。この道は狭く自転車は自動車族からは邪魔者と思われているだろう。歩道も人が一人通れるくらい狭い。あまり道が無いので北鎌倉、逗子へも車で渋滞していた。帰りは殆ど車も走っておらず、楽に大船までこれた。シャワーを浴びて知らないうちに寝てしまった。今週は連日飲み会で疲れているのだろう。明日は東京に帰る。

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