Ride in Setouchi & San-in Day 86 (9/6/19) Aga Castle Ruins 英賀城跡

Koukufuyama Castle Ruins 国府山城跡
Grave of Kuroda 黒田職隆廟所
Moro Tahei Birth Place 母里太兵衛生誕之地
Aga Castle Ruins 英賀城跡
Matsubara Hachiman Shrine 松原八幡神社
兵庫県でのメインテーマは黒田官兵衛と羽柴秀吉の播州/中国攻めだ。昨日は姫路城の半分を見たが、姫路城もこのテーマの一部。今日は宿から近いところから訪ねてみる。
秀吉の中国征伐についてだが、歴史上は1577年に織田信長が秀吉を中国征伐の責任者に任命してから、本能寺で明智光秀の謀反で倒れ、毛利と和睦がなるまでの6年間である。主要な戦いは

1577年
  • 11月上旬 但馬 岩洲城の戦い(朝来市)
  • 11月上旬 但馬 竹田城の戦い(朝来市)7/5 訪問
  • 11月28日-12月1日 播磨 福原城の戦い(佐用町)6/17 訪問
  • 11月29日-翌年7月5日 播磨 上月城の戦い 6/17 訪問
1578年
  • 3月29日- 1980年 1月27日 播磨 三木城の戦い(三木市) 6/23 訪問
  • 4月3日-6日 播磨 野口城の戦い(加古川市)6/22 訪問
  • 6月27日-7月16日 播磨 神吉城の戦い(加古川市)6/22 訪問
  • 8月初旬-8月10日 播磨 志方城の戦い(加古川市)6/22 訪問
  • 10月18日 播磨 高砂城の戦い(高砂市)6/22 訪問
1579年
6月 丹波 八上城の戦い(篠山市)
10月19日 摂津 有岡城 落城
12月 御着城 落城 6/11 訪問

1580年
  • 1月27日 播磨 三木城の戦い(三木市)終わる。6/23〜6/30 訪問
  • 閏3月29日-4月24日 播磨 英賀城の戦い(姫路市)6/9 訪問
  • 4月24日-5月10日 播磨 長水山城の戦い(宍粟市)播磨平定。6/18 訪問
  • 5月16日 但馬 有子山城(豊岡市)落城
  • 5月21日 但馬 出石城(豊岡市)落城。但馬平定。
  • 6月5日 美作 祝山城の戦い(津山市)
1581年
  • 6月25日-10月25日 因幡 鳥取城の戦い(鳥取市)5/12 訪問済み
  • 9月16日-10月24日 因幡 湊川口の戦い(鳥取市)
  • 10月25日-28日 伯耆 馬山の戦い(湯梨浜町)
  • 11月中旬 淡路 由良城の戦い(洲本市)
  • 11月15日 淡路 岩屋城の戦い(淡路市)。淡路平定
1582年
  • 3月17日 備前 常山城の戦い(岡山市)
  • 4月中旬 備中 日畑城の戦い(倉敷市)
  • 4月14日 備前 冠山城の戦い(岡山市)
  • 4月中旬 備前 庭瀬城の戦い(岡山市)
  • 4月中旬 備前 加茂城の戦い(岡山市)
  • 5月8日-6月4日 備中 備中高松城の戦い(岡山市)5/21訪問済み
  • 6月2日 京都 本能寺の変
  • 6月4日 備中 秀吉と毛利氏が講和。毛利氏に備中・美作・伯耆の割譲を受け入れさせる。
  • 6月13日 摂津・山城 山崎の戦い
この内のいくつかを追っていくが、自転車の旅は西からなので時系列的には逆になる。今日は、1580年1月に三木城攻略が終了した時点からのことになる。

Kouyama Castle Ruins 国府山城跡

ここに関しては秀吉の中国征伐開始前からになる。
左の山が城跡
市川河口左岸の国府山 (甲山) に黒田官兵衛の父 職隆 (もとたか) が、元々あった城を改築した城。時代によって功山城、妻鹿城とも言われる。天正八年(1580年)、三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城として使用したが、官兵衛は三木城が戦略的に不備であることを進言し、秀吉に姫路城を譲り渡し、職隆が隠居していたこの地に移った。(この秀吉に姫路城を譲った年については諸説あり、1573年とするものもある。これだと秀吉の中国征伐の4年前となり、そんな前から中国征伐を準備していたとは考えられない。私見)天正13年 (1885年) に職隆が没し、廃城となる。
城への登り口は甲山の南側麓にある荒神社の境内にある。
この後も何度も目にするのだが、目薬の木と言うものがある。官兵衛の祖父 重隆が備前福岡よりこの地に移って来た時にに浪人暮らしのなかこの木から作った目薬を売って財を成したと言われている。ちなみに重隆の妻は妻鹿氏から来ている。妻鹿はこの城がある地域だ。
大河ドラマでは重隆役は竜雷太だった。
では城に登って行こう。
登山口は綺麗に整備されていた。下山して地元の人と話す機会があったのだが、まさに話をしたその人が草を刈ってくれたそうだ。大河ドラマ「軍師官兵衛」が放映された時は多くの人が押しかけたが、今は殆ど人は来ない。観光ブームが終わるのと時を同じくして、地元の人の熱も冷めてきた。草刈りも誰がするのか決まっておらず、草が伸び放題になった時、見るに見かねて自発的に草刈りをやっている。色々なマイナーな史跡で、似たような状況を見てきた。有名な史跡は市や県が援助しているのだろうが、このようなあまり知られていない場所は、地元住民の好意の上で成り立っている。実に感謝すべきことだ。行政の対応がもう少し変わる必要があるだろう。
山道を登ると、所々に当時の遺構の案内板が立っている。
曲輪が何段にも続く。
主郭とその近辺
揖保川沿に市街地。それと姫路市内も見える。
帰りは別の道、登り道よりかなり急な岩場だった。
なぜかアライグマに遭遇。しばらくこちらを見ていて去っていった。ペットだったのだろう。逃げ出したのか、捨てられたのか?

Grave of Kuroda 黒田職隆廟所

黒田職隆の略歴を書いておこう。1524年備前国福岡でうまれ、父重隆に従い姫路に移住したのち小寺氏の家老となった。重隆の跡を継ぎ小寺氏家老となった重隆は姫路城の城代となる。職隆は思慮深い性格で、人徳もあり小寺家の中でも一目おかれる存在であった。主君小寺政職(こでらまさもと)より「職」の字を職隆に与え、小寺姓を名乗ること許されるほど信頼されていた。政職は、明石城主 明石正風の娘を自分の養女とし、職隆に嫁がせる。この娘との間にできた子が官兵衛。備前国の豪族浦上政宗(うらがみまさむね)の子 浦上清宗(きよむね)に娘を嫁がせるが、婚礼中に政宗と敵対していた赤松政秀の奇襲で浦上親子と職隆の娘が殺害される。(赤松政秀の居城の置塩城訪問予定) 1567年、官兵衛に家督を譲り国府山城で隠居生活を送る。1578年には官兵衛が有岡城に幽閉され生死不明の時、一時的に当主に復帰、黒田家中をまとめ官兵衛の行方を捜索させる。この妻鹿では、民からも慕われたそうで、今でも職隆はちくぜんさんと親しみを込めて呼ばれている。この廟は痛みがひどくなり、地元の人たちが、お金を出し合い修復したもの。大河ドラマでは柴田恭兵が職隆役をしていたが、職隆の人柄がうまく出せていた様に思う。

Moro Tahei Birth Place 母里太兵衛生誕之地

黒田節に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でよく知られた母里太兵衛はここで生まれた。国府山城のすぐ麓だ。大河ドラマ軍師官兵衛では速水もこみちが演じていた。少し思っていたイメージとは違ったが演技は良かった。黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人。
官兵衛が隠居した後は長政に仕え、筑前鷹取城1万8,000石の城主、また後に後藤又兵衛基次(長政と不仲であった)が出奔した後、その領地に移されて益富城主となる。

Aga Castle Ruins 英賀城跡

永享年間初期、赤松祐尚によって築城された。戦国時代後半、置塩城の赤松宗家の勢力が衰えると、播磨は三木城の別所氏、御着城の小寺氏、そして英賀城には英賀御坊が建立され真宗勢力が拡大し、真宗に帰依した三木氏に支配が移る。
1577年(天正5年)、織田信長の中国攻めの司令で、羽柴秀吉が播磨国へ侵攻、1578年(天正6年)、別所長治の三木城落城に続き、次のターゲットが三木通秋が籠もる英賀城となった。官兵衛の元主君の小寺政職も御着城落城後、この城に逃げてきていた。
秀吉の西国遠征は状況に応じて、ターゲットが変わっている。上月城、福原城、竹田城など播磨東北部から攻撃するのだが、三木城の別所長治が毛利に寝返った事で、毛利勢は攻撃を美作に置き、秀吉勢もそれに対抗していた。ところが、宇喜多直家が毛利から織田に鞍替えをした事で、毛利勢は苦境に陥って、一度撤退。美作の緊急性がなくなり、秀吉は再度播磨に目標を変えた。その時のターゲットがこの英賀城だった。
この城は三木城、御着城と共に播磨三大城に数えられ、城は広大な敷地であった。南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、攻めるに難しい城であった。遺構などはほとんどなく住宅街になっているが、史跡を巡ると確かに大きい。
本丸跡
井ノ上口跡 ⑥⑦
土塁跡と城主の三木氏の墓がある。
英賀城にはこの様な外部への口が10あったという。見つけたのはその内、5つだけだった。
野中口跡 ①②
英賀城公園になっており、模擬櫓台跡がある。隣には三木氏の総社であった英賀神社があり、土塁跡が残っている。
岡芝口跡④
山科口跡 ③
河下口跡/大木之濠跡 ⑤
田井ノ浜跡
三木氏はこの港で交易によって潤ったという。1576年、毛利水軍が五千人で上陸し、御着城主の黒田官兵衛との「町の坪合戦」の舞台となった。この合戦の詳細はインターネットで調べても見つからなかったのだが、大河ドラマではこの合戦の様子が取り上げられていた。黒田官兵衛の説得で小寺政職が織田に味方をしたことにより、毛利がこの地に上陸をした。黒田軍は500の兵で毛利軍を撤退させたとなっている。毛利軍は本格的な戦争を目的としていたよりは、織田になびいていた東播磨の小寺、別所、赤松への毛利の警告が目的であったとされている。
英賀本徳寺 (御堂) 跡 (7月2日に訪問)
この町の坪合戦には石山本願寺の門徒達が毛利軍に協力をした。その時の門徒達の拠点が英賀本徳寺であった。天正8年 (1580年) に羽柴秀吉の命で姫路亀山に移された。その跡地碑が本徳寺と同時期に建立された明蓮寺の境内にある。(本徳寺跡は別の場所にあったが、改修工事なので、ここに移された)
広芝口⑧は訪問せず。
付城公園
ここは案内板には史跡として載っていないのだが、名前からして、英賀城攻めの時に秀吉軍が築いた付城跡であろう。

英賀城の戦い

天正八年(1580年) 4月1日、秀吉は三木城攻略を終え、英賀城の支城を落とし、2万余兵で北の山崎山に陣を構え英賀城を包囲し攻撃を開始する。この時期に、織田信長と石山本願寺との間で和睦交渉が行われており、その交渉結果を待つまで攻撃は中止されていた。この英賀には英賀御坊があり、本願寺の播磨布教の拠点でもあった。和睦の結果が戦争の行方に大きく影響を及ぼすので、暫く待っていた。この和睦交渉の間は休戦状態であったが、秀吉と官兵衛は戦線を秀吉の弟の秀長に任せ、長水城攻めに向かった。
山崎山
地図で山崎山城というところが英賀城跡の近くにあった。調べてみると、秀吉の弟の秀長がここに陣を構えたと書かれてあった。知ってしまうと、秀吉軍がどの様に英賀城攻略をしたのか想像が湧き、登りたくなった。
城の台
英賀城が全て見渡せただろう。
本願寺との和睦は成立するのだが、本願寺内でも、和睦派の顕如と息子で抗戦派の教如で対立が起こり、抗戦派は本願寺に立てこもる。これが後に西本願寺と東本願寺に分かれることにつながって行く。英賀城内も同じように二派に分かれ、城主の三木通秋と小寺政職は抗戦派、家臣の一部は和睦派であった。秀吉はこの和睦派を調略し、船で南の海上から奇襲をかける。この時に城内の内通者により秀吉軍を城内に引き入れ、英賀城内は大混乱に陥る。城はいとも簡単に落城。三木通秋と小寺政職は城から九州に逃れた。(4月26日)
ここに来る時には、本丸跡一ヶ所だけの見学と思っていたが、本丸跡は住宅街に石碑だけだった。これで終わりかなと思って、説明板を読むと色々な所に城跡が分散されていた。訪問癖が刺激され、やはり行く事にした。調べながら行くと、更に色々な所が出てきて、結局半日を英賀保で過ごした。

Matsubara Hachiman Shrine 松原八幡神社

帰り道に松原神社に立ち寄る。ここも秀吉/官兵衛所縁の場所。当時は寺や神社はその地域の有力勢力だった。三木城の別所長治と秀吉軍からも応援要請があったが、どちらにも組みしなかった。そのために別所勢に火を放たれ、神社は灰燼と化した。その後、松原八幡神社は秀吉から移転を命じられたのだが、その話を聞いた官兵衛は秀吉に懇願し、この地での存続が許されたと言う。ここの拝殿は1584年に官兵衛が寄進したもの。
神社の前に、大きな客席が設置されていた。何かと思い地元の人に聞いてみると、祭りの観覧席だそうだ。よく見ると放送席もある。調べると、播磨を代表する祭り「灘のけんか祭り」と言うものだった。これは知らなかった。年に一度の祭りの為の設備。地元の男衆はこの祭りが生きがいなのだろう。
灘のけんか祭り (インターネットから)
今日はこれで終わりにして宿に帰る。また夕方になってしまった。日が長いので7時過ぎまでは明るいので、冬に比べると随分と楽だ。


1コメント

  • 1000 / 1000

  • sumito dohi

    2019.06.15 13:51

    訪問癖前回の行程だったようですね~(笑)。佐伯さんらしいです。今回佐伯さんが訪れた場所は、街(市)のサイズの割には観光地化(手入れ)がされていない、文字通り“地元”向けの史跡といった趣でした。色々な情報がそこそこで整備されているようですが、観光といったサイズにはなり得てないんですね。(日本のほとんどがそうか。。。。) 歴史的なストーリー性はとても玄人好みの感があり、なんか小説でも書けそうな史実ですよね~。