東京 (13/04/22) 江戸城 (32) 西の丸下 / 皇居外苑

西の丸下 (皇居外苑)

  • 会津藩松平家大上屋敷、中屋敷
  • 武蔵忍藩奥平家馬場先門内上屋敷、越後村上藩内藤家上屋敷、下総佐倉藩堀田家上屋敷
  • 馬場跡
  • 泉藩本多家上屋敷、福井鞠山藩上屋敷
  • 長岡藩牧野家上屋敷、美濃高富藩本庄家上屋敷

(4月12日) 三か月ぶりの東京訪問。今回も定期健診のための上京。前回一月は滞在が8日ほどで、少し短く感じたので今回は2週間の滞在を予定している。前回までに江戸城外濠、内堀周囲にある大名屋敷跡や史跡、文化財を巡り終え、今回は江戸城内部の見学を予定している。
那覇飛行場は今年一月に比べて、少しだけ人が増えている。海外向けカウンターはやはり閉鎖したまま。今回のフライトの搭乗客も少なく、6列座席の窓際だけに客がいるぐらい。まだまだ、沖縄観光業界は試練が続きそうだ。
今日は快晴。飛行機は那覇空港を飛び立ち南の糸満まで行き、そこから奄美大島まで島づたいに飛んで行く。座席がちょうど島が眺められる側だったので、遊覧飛行となった。
沖縄本島の東西に一番狭い恩納村から山原が眺められる。
沖縄本島の最北端から海上を飛ぶと、直ぐに与論島を通過。珊瑚礁がエメラルドブルーで綺麗だ。そしてすぐに、沖永良部島。
次は徳之島を通過して奄美大島。奄美大島は流石に長い。奄美大島の北には喜界島が眺められた。ここから鹿児島との間には屋久島と種子島があるのだが、飛行機は喜界島を過ぎて東側に進路を変えてしまったので、この二つの島は見れなかった。よく言われるのが、平家の落人は島づたいに琉球に逃げて来たというが、多くの島が連なっているのがよくわかり、伝説では無く、実際に起こっていただろう。琉球と大和は昔からこの島々を通して繋がりがあった事に納得。
東京では土肥さんが自転車を自動車に積んで、東京駅で出迎えてくれた。今回の宿は南千住の安宿。周りは安宿だらけだ。どこも1700-2500円ぐらいの値段を張り出している。
どこの宿も「個室、テレビ、冷暖房完備」とある。多分、何十年前に作ったカンバンがそのまま置かれているのだろう。笑ったのはカラーテレビとある。当時は差別化に功を奏していたかも知れない。この地区は昔の吉原遊郭の近く、あちらは高級だがこちらの地区は労働者向けの安ホテル街だったのかも。
泊まったのはそのような安宿を建て直したモダンなゲストハウス。ここも周りの宿と値段は合わしているのだろう、一泊2000円也。


(4月13日) 初日の今日の午前中は定期健診になるので、午後のみ使える。今日は軽くスタートする。最初に訪れるのは江戸城西の丸下、現在の皇居外苑に当たる場所。



西の丸下

江戸時代には江戸城の一部で西の丸下と呼ばれ、幕閣に連なる8つの譜代大名の屋敷 (会津藩は親藩) が置かれ、江戸城を守っていた。江戸城に近くなればなるほど、徳川家直系の親藩や三河時代から徳川家臣だった譜代大名の屋敷で固められていた。明治維新後、大名屋敷などは取り壊され、一時は明治政府機関や軍施設として利用されていたが、伊藤博文の指示で建物はすべてが撤去され、多くの樹木が植栽され大広場として整備されている。皇紀2600年記念宮城外苑整備事業 (昭和14年~18年) 等により現況の姿に整備された。皇居外苑は、昭和24年に旧皇室苑地の一部が、国民公園として、開放され皇居外苑となった。

この西の丸下には馬場や厩舎が置かれていたが大名屋敷と共に明治時代に撤去された。その後、皇室苑地を経て戦後、国民公園として開放することが閣議決定され、1949年(昭和24年)に開園した。


西の丸下訪問ログ



会津藩松平家大上屋敷、中屋敷

親藩の会津藩の江戸上屋敷は、二代将軍徳川秀忠の四男で会津藩開祖の保科正之の時代は、鍜治橋内にあり、後に桜田門内に移り、その後、貞享元(1684)年、松平正容時代に、大手前竜ノ口に屋敷を拝領、そして、宝永6(1709)年に、この場所、和田倉門内を拝領し、本邸として幕末まで使用していた。江戸幕末の地図では松平容保の名が見える。会津藩ではこの保科正之と松平正容が有名。

和田倉門を入ったすぐの所が中屋敷で、その南側が上屋敷になっていた。明治時代には内務省図書館、東京衛成守衛、陸軍調馬局が置かれていた。現在、中屋敷跡は和田倉噴水公園になっている。この公園は、民間協力も得て、今上天皇の成婚を機に平成7年に完成したもので、上皇のご成婚を記念して昭和36年に完成した大噴水を再整備し、新しく造られた落水施設やモ二ュメン卜がある。

和田倉噴水公園 (中屋敷跡) から御幸通りを渡った公園が上屋敷があった場所。まだ桜が咲いていた。

[会津藩松平家江戸屋敷: 大上屋敷 (皇居外苑 和田倉門)芝新銭座中屋敷、下屋敷 (慶応義塾女子高)、深川抱屋敷、大川端抱屋敷]



武蔵忍藩奥平家馬場先門内上屋敷、越後村上藩内藤家上屋敷、下総佐倉藩堀田家上屋敷

皇居外苑の中心部には東京駅側には武蔵忍藩奥平家上屋敷があった。その西側に越後村上藩内藤家上屋敷、西の丸側には下総佐倉藩堀田家上屋敷となっていた。これらの藩からは歴史上有名な人物が出ている。

馬場先門内に上屋敷があった忍藩は「のぼうの城」で有名となった忍城が藩庁。徳川家康が北条家を攻め落とした後は、家康四男の松平忠吉が入封し、忍藩が開藩。その後、大河内松平家の松平信綱が入り、徳川家光時代には老中の阿部忠秋、後に奥平松平家が入封し幕末まで続いている。明治二年の版籍奉還後は、一時大蔵省の庁舎として使われたが、ほどなく取り壊されて、その後は岩倉邸として使用されていた。現在は、皇居前広場の一画(皇居前警備派出所付近)となっている。

越後村上藩は新潟県村上市にある村上城を居城とする藩で、1598年、豊臣政権下の村上家がこの地に入り村上藩が始まった。江戸時代には外様大名の堀家三代を経て、譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わり、1720年に内藤家が入り、以後廃藩置県まで九代150年にわたって内藩を統治した。明治以降は東京会館として使用されていた。

下総佐倉藩は江戸東方の要衝として重視され、江戸時代初期には徳川氏一門も配置されたが、1607年以後譜代大名の藩となった。1610年に徳川秀忠付の老中土井利勝が入封し、佐倉城と城下町を建設した。江戸時代前期には幕閣の要職者が配置され、頻繁に交替した。後に、堀田氏が入り、廃藩置県まで続いた。幕末には第五代藩主の堀田正睦が有名。1855年 (安政2年) にはハリスとの日米修好通商条約締結を行ったが、将軍継嗣問題などで井伊直弼と対立し、1858年 (安政5年) に老中を罷免され蟄居している。


馬場跡

忍藩上屋敷の前には馬場があった。現在でも公園内の広い通路になっている。当時もこれぐらいの広さの馬場だったのだろう。


泉藩本多家上屋敷、福井鞠山藩上屋敷

皇居外苑の南側にあった大名屋敷は徳川四天王の本多忠勝が先祖になる泉藩本多家上屋敷があり、明治時代には元老院が置かれていた。

現在屋敷跡には楠正成像が建っている。楠正成像は愛媛県の別子銅山200年記念事業として、銅山を開山した住友家から宮内庁へ献納されたもので、1891年に東京美術学校 (現 東京藝術大学) が製作依頼を受け、別子銅山の銅を使い、頭部を高村光雲、身体と甲冑部を山田鬼斎と石川光明、馬を後藤貞行が担当し、10年の歳月をかけて制作されている。
泉藩上屋敷跡の東端には楠木正成像に因んで楠公レストハウスがあるのだが、気の毒な事に客は誰もいなかった。
このレストハウスの前は大型観光バスの駐車場になっているのだが、ここも駐車している車はゼロ。以前は連日大型観光バスでいっぱいだったのだが… 新型コロナで大打撃だろう。
楠公レストハウスの隣の管理事務所近くに松地蔵尊と書かれた古そうな地蔵尊があった。誰かが花を供えている。作られた時代やどこから持ち込まれたかについては不明で、掘り出された当時、地蔵には頭がなかった事からなんらかの事情により自分の身を投げ出して人々を守った身代わり地蔵ではないかといわれている。
泉藩本多家上屋敷の隣には福井鞠山藩 (敦賀藩) 上屋敷があった。屋敷跡の真ん中には馬場先門通りが、皇居二重橋に向かって走っている。


長岡藩牧野家上屋敷、美濃高富藩本庄家上屋敷

西の丸皇居側には長岡藩牧野家上屋敷と美濃高富藩本庄家上屋敷があった。長岡藩は堀家から牧野家となり、幕末に河合継之助を輩出している。隣には第五代将軍徳川綱吉の生母の桂昌院の異母兄 本庄道芳の孫の本庄道章が、その関係から、1705年 (宝永2年) に1万石の大名として高富に入って以来、幕末まで本庄家が治めていた。明治時代、この場所は近衛騎兵営となっていた。現在は大名屋敷だったと思わせるものは何も無いが、跡地全体が芝生で覆われ、松が何本も植っている。


今日は気温が25度と沖縄より高く夏日だ。暑さで汗が吹き出てくる。初日なので、あまり気張らず、公園で何度も休憩をしながらの見学だった。

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