Okinawa 沖縄 #2 Day 277 (28/12/24) 旧中城間切 北中城村 (10) Chunjun Hamlet 仲順集落

旧中城間切 北中城村 仲順集落 (ちゅんじゅん、チュンジュン)

  • 前ヌ井 (メーヌカー) 跡
  • 前ヌ溜池 (メーヌクムイ) 跡、新溜池 (ミーグムイ) 跡
  • 仲順公民館、倶楽部跡
  • 大井 (ウフカー、井小 カーグヮー)
  • 井泉小 (カーグヮー)
  • 大井溜池 (ウフカーグムイ)
  • 仲順公園、仲順流りの碑
  • サトー泉水
  • 根殿の社 (お宮)
  • 仲順原貝塚、仲順原遺跡、仲順原遺物散布地
  • 大東亜戦々死者之碑
  • 大順堂医院跡、村役場跡
  • メーシジ
  • 殿 (トゥン) 跡
  • 上門井 (イージョーガー)
  • 上門溜池 (イージョークムイ)
  • 仲順大王 (チュンジュンウフシュー) 之墓
  • ナスの御嶽、舜天王朝三代王の墓
  • 仲順 (チュンジュン) ビジュル
  • 義本王王妃御墓 (ウナジャラウハカ)
  • 花崎家中古之墓
  • 中央公民館


今日は今年最後の沖縄集落巡りとなり、北中城村の仲順集落を訪れる。



旧中城間切 北中城村 仲順集落 (ちゅんじゅん、チュンジュン)

仲順 (チュンジュン) は、北中城村の中央部に位置し、起伏の多い地形で丘陵の南斜面からその南側の平坦地に集落が形成されている。東は和仁屋、渡口、北は比嘉、屋宜原、西は喜舎場、南は熱田、荻道と接している。

仲順の地名由来については不明だが琉球国高究帳 (1635年) にはで 「ちよみちよん」 と記されている。仲順集落の発祥は、先に訪れた喜舍場のイラブーガーがある一帯だった。当時は仲順七キブイといって、 仲順大主、上門 (イージョー)、大屋 (ウフヤ)、知花 (チバナ)、上ヌ安里 (イーヌアサトゥ)、津波 (チハー)、与儀 (ユージ) の七軒があったという。「きぶい」 とは煙のことで、昔は各家には必ず竈があり、その竈の煙を戸を数える単位として使っていた。この七世帯が一つの部落を形成し、仲順大主が統治者になったという。その後、集落はナスの御嶽付近に移動し、更に、集落は現在地に移ったという歴史がある。

仲順は仲順原 (チュンジュンバル)、西原 (イリバル)、前原 (メーバル)、東原 (アガリバル)、後原 (クシバル)、西瀬川原 (イリシーガーバル)、南瀬川原 (ミナミシーガーバル)、北瀬川原 (キタシーガーバル)、上原 (イーバル) の小字で構成されていた。上原 (イーバル) は現在の行政区では字ライカムに属している。
戦前まではほとんどの家が農家で、17世紀中頃は農地の7割が水田で、西原の県道から南側の低地一帯に水田が広がっていた。1988年 (明治21年) に甘蔗の作付面積制限が撤廃され、田から甘蔗畑への転換がはかられた事や1904 - 1905年 (明治37 - 38年) ごろの大早魃により水田が埋め立てられた事から、明治時代後期には農地はほとんどが畑となっている。

戦前までは仲順原と西原の県道81号線 (宜野湾北中城線) から北側が住宅地であったが、本土復帰 (1972年) 頃には県道の南側と前原の北側での宅地が拡大している。上原は米軍用地 (アワセゴルフ場) として接収、北瀬川原、南瀬川原、西瀬川原は、森林と墓地、後原と前原が畑地となっている。

明治時代までの字仲順は北中城村では比嘉に次いで人口の少ない地域だったが、現在では当時に比べ、人口は7.9倍の1,492人で5番目に人口の多い地域になっている。

明治時代には188人と小さな字だったが沖縄戦直前には402人と大きく増加している。沖縄戦の1945年には99人の犠牲を出したが、1960年には元の水準に人口は戻り、それ以降、順調に人口が増え、2017年には1,525人まで増加している。明治時代に比べると8倍になっている。この増加率は北中城村では最も大きい。その背景についてはよくわからなかった。機会があれば地元の人に聞いてみよう。ここをピークとして近年は世帯数は横ばいとなり、人口は微減傾向にある。

仲順集落の明治時代の士族は11世帯で集落の18%に当たる。決してスクナ数字ではないので字内に屋取集落があったと思えるのだが、資料には仲順集落の屋取は見あたらなかった。仲順は字誌などは作成していないようで詳しくはわからずじまい。

琉球国由来記等に記載されている拝所は以下の通り。

  • 御嶽: ナスヌ嶽 (神名 ナスツカサ御イベ)
  • 殿: 上中之殿 (上門之殿の五機と思われる 所在地不明)
  • 拝所: 上中根所 (所在地不明)、根殿
  • 井泉: 上門井、前ヌ井 (消滅)、大井、井泉小
琉球王国時代から明治時代半ばまでは、仲順集落の主要な村祭祀はナスの御嶽、上中之殿、上中根所で安谷屋ノロによって執り行われていた。仲順の村落祭祀としては、旧暦の2月15日 (麦穂祭)、5月15日 (稲穂祭)、6月15日 (稲の大祭)、6月25日 (カシチー) の年四回のウマチー、清明祭、9月13日 (オミヤの例祭、慰霊祭) の計六回の祭祀があった。

先日訪れた喜舎場から北中城村郵便局の前の県道81号線 (旧郡道) を仲順集落に向かい進む。


前ヌ井 (メーヌカー) 跡

仲順集落内に三つあった共同井戸の村井 (ムラガー) の一つが前ヌ井 (メーヌカー) が、県道81号線 (宜野湾北中城線) 沿いにあったのだが、現在は消滅している。県道の整備の影響だろうか? かつて、この前ヌ井 (メーヌカー) は、サカミジ (逆水 故人の体を洗う湯灌を先に水を入れてから湯を注ぐ) を汲んだ井戸でもあった。また、その西側に隣接して共同風呂があったそうだ。 


前ヌ溜池 (メーヌクムイ) 跡、新溜池 (ミーグムイ) 跡

前ヌ井 (メーヌカー) 跡の東のブロック内には前ヌ溜池 (メーヌクムイ 写真左) と新溜池 (ミーグムイ 写真右) が置かれていた。戦前まで集落内には五つの溜池の二つにあたる。この他には大井溜池 (ウフカーグムイ)、中ヌ溜池 (ナーカヌクムイ)、上門溜池 (イージョークムイ) があり、これらのクムイは、農業用水、防火用水に利用され、また、牛馬も浴びせたりもした。いずれも埋められて現存しない。


仲順公民館、倶楽部跡

前道から坂道を登った所に仲順公民館がある。この場所は戦前には砂糖小屋 (サーターヤー) だった場所になる。公民館の側の道を中心に東組、西組に分け、それぞれのサーター車が二基置かれ黒糖を製造していた。

1936年 (昭和11年) 頃に喜舎場と仲順のきび生産者の合同で喜舎場にある現在の北中城郵便局の南に喜順製糖組合が結成され発動機を利用した共同製糖場が造られ、製糖業はそちらに移って行った。

当時の公民館は倶楽部と呼ばれ、公民館の少し東にあったそうだ。かつての倶楽部が置かれていた場所の端は現在では広場になっており木の下に酸素ボンベが置かれていた。戦後はこの木にこのボンベを吊るして村内の連絡用の鐘として使っていたのだろうか?


大井 (ウフカー)

旧倶楽部跡の東側の道を仲順公園に向かって登って行くと、公園のすぐ手前右側に大井 (ウフカー) がある。ここには井戸が二つあり、奥にあるのが大井 (ウフカー) で仲順集落が現在地に移ってからは産井 (ンブガー) となっていた。それまでは、仲順の村立ての地だった喜舎場の北側斜面にあるイラブーガーが最初の産井 (ンブガー) だった。喜舎場集落がこの地に移って来て大井 (ウフカー) が産井となり、旧9月18日に花崎門中が拝んでいる。 戦前までお宮の例祭 (旧9月13日) に拝まれており、戦後の一時期まで正月の若水 (ワカミジ) としても使われていた。


井泉小 (カーグヮー)

大井 (ウフカー) の手前にも井戸がある。4段の石積みの下が水場になっている。大井 (ウフカー) より少し小さいので井泉小 (カーグヮー) と呼ばれていたのだろう。


大井溜池 (ウフカーグムイ)

戦前までは大井 (ウフカー) のすぐ南には村に五つあった共同溜池の一つの大井溜池 (ウフカーグムイ) があった。戦後、米軍によって作られた地図にはまだこの溜池が見えるのだが、その後、埋め立てられてしまった。


仲順公園、仲順流りの碑

仲順集落の北側は小高い山になっており、その麓は1979年 (昭和54年) に仲順公園として整備されている。かつては根殿が置かれていた場所という。

戦前まではこの場所では旧暦9月13日 ~ 15日に村遊び (ムラアシビ) が行われていた。公園には子供達の遊具が置かれており、上の方にはゲートボール場らしきにもある。

入口付近には舞台と観客席が設けられているので、今でも催しが行われているのだろう。

公園内に 「仲順流りの碑 (1998年)」 が置かれ、エイサーで最も有名な歌の歌詞が彫られている。「仲順流り (ちゅんじゅんながり)」 は仲順大主にまつわる話を題材に、祖霊供養の歌として作られ、仲順流りといえばエイサー、エイサーといえばこの曲というほど定番の曲だそうだ。これが各地のエイサーに取り入れられたという。この仲順流りは仲順大主が詠われていると言われているが、元は 「長者流れ 」 と称し、発音が似ているので、仲順大主を詠ったと言われる様になったという説もある。

ここでは毎年10月に仲順流り大会が開催されている。

七月(しちぐわち)七タ(たなばた)
中ぬ十日 (とぅーか)
エイサー エイサー
ヒヤルガエイサー
スリサーサー スリ

仲順(ちゅんじゅん)流り(ながり)や

七(なな)流り

黄金(くがに)の

はやしん

七はやし

仲順大主(ちゅんじゅんうふしゅ)や

果報(かふ)な者(むん)

産(な)し子(ぐわ)や三人

産(な)し生(ん)じゃち

国々(くにぐに)様々(さまざま)

巡(みぐ)るとうん

我親(わんうや)に似る(にちゅる)

人無(ひとうん)らん


サトー泉水

仲順公園の入り口の西に貯水タンクが残っている。「サトー泉水、昭和十年竣工」 と記されている。1935年 (昭和10年) と言えば、荻道後原のタチガーから仲順まで水道管を敷設して簡易水道の施設が完成した年になる。このタンクが当時の貯水タンクだろう。他の地域に比べて、かなり早くに簡易水道が敷設されている。数軒がグループをつくって資金を出し合って造った貯水タンクが数箇所あったと思えるが、見かけたのはこのサトー泉水だけだった。この時はまだ、各家庭まで水道管は伸びておらず。貯水タンクに水を汲みに来ていた。家庭にまで水道管が伸びるのは1964年 (昭和39年) まで待つことになる。(喜舎場集落訪問記にもう少し詳しく記載している)


根殿の社 (お宮)

仲順公園内東端の奥の階段を登ると高台に 「お宮」  と呼ばれる根殿の社がある。1927年 (昭和2年) に建立され、祠内には仲順大主、舜天王、義本王が合祀されている。祠の前の広場の隅には、沖縄では殆ど見かけない石の手水鉢が置かれている。明治から戦前までは国策として国家神道が沖縄でも押し付けられて、従来の御嶽や拝所に鳥居が造られている。この過程で、お宮と呼ばれる様になった拝所が多くある。ここの根殿の社もその影響で、お宮と呼ばれるようになり、手水鉢が寄進されたのだろう。現存の拝所は、1969年 (昭和44年) に改築されたもので、旧暦9月13日に例祭が行われている。


仲順原貝塚、仲順原遺跡、仲順原遺物散布地

根殿の社の右側に北の森に入っていく遊歩道があり、その道を進む。

根殿の杜の北西端一帯は仲順原貝塚が発見されており、そこからは約3500年前の土器、石器、貝殻などが出土している。この辺りには琉球石灰岩の大岩が点々とあり、その合間を縫う様に遊歩道が整備されている。遊歩道の北の端には香炉 (ウコール) が置かれた拝所がある。この辺りは仲順原遺跡が発見されている。

拝所を越えると遊歩道は大きく曲がり南に向かう。この辺りは仲順原遺物散布地で琉球グスク時代 (約500〜800年前) の土器や白磁が発掘されている。ここにも拝所が置かれていた。ここは仲順公園の東端にあたり、かつては比屋根クワーシーという獅子の面をした自然の奇岩があったそうで、この岩は、比屋根 (沖縄市) に向かって口を開き、比屋根村を喰う獅子と言われていた。多分、比屋根村へのヒケーシ (火返し) だったのだろう。比屋根の人々が獅子の下顎を割りに来たという伝説も残っている。


大東亜戦々死者之碑

拝所を越え、遊歩道を進むと、公園広場に戻ってきた。広場の東には大東亜戦々死者之碑と記された慰霊碑が建立されている。碑の左側には大東亜戦没者芳名が記された石碑が建っている。この慰霊碑は1953年 (昭和28年) 旧9月13日に建立され、その後50年経た2004年 (平成16年) に再建されている。現在では74柱を弔っている。ここでは毎年村民により、建立日の旧9月13日に近い日曜日に慰霊祭を行っている。

下の表は北中城村の戦没者を表しているが、慰霊碑の戦没者数とは異なっている。これは作成日時点で判明した戦没者数で、資料でも数字にばらつきがある。まだまだ、戦没者や戦没地など不明点が多いそうだ。仲順村での戦没者は村民4人に1人の戦没者を出している、北中城村戦没率を下回っているが、それでも悲劇的な数字だ。村での戦没者は少ないのだが、島尻に避難し行く当ても無く彷徨った挙句に亡くなった人は戦没者の45%にも及んでいる。


大順堂医院跡、村役場跡

集落の西側に移動する。戦後、北中城村の住民が村に帰還し、1946年 (昭和21年) 5月20日に北中城村が中城村から独立した際に初代村役場が仲順の大順堂医院 (大田病院) に置かれた。その後、1948年 (昭和23年) 5月1日喜舍場に移るまで約2年間使用された。現在は大田家の邸宅となっている。


メーシジ (メーシジモー)

大順堂医院跡の斜向かいにはメーシジ (メーシジモー)と呼ばれた場所がある。この場所ではかつて行われていた6月14日の綱引き(大人綱 ウフッチュジナ) が終わった後に西組が綱のカニチ (頭) を焼いた所だった。


前原毛 (メーバルモー)

東組が綱のカニチ (頭) を焼いた場所は仲順集落から南に外れた高台の前原毛 (メーバルモー)だった。登ってみると平屋の米軍の定型住宅が幾つか残っている。この場所も戦後は米軍兵士の住宅地だった様だ。この高台からは渡口集落方面が見渡せる。


殿 (トゥン)

仲順集落からナスの御嶽に向かい坂道を登って行く。その道の途中にかつて殿 (トゥン) があった場所がある。上中之殿 (上門之殿の誤記ともされる) と上中根所については現在のどの拝所に比定できるのか詳細は不明だが、ここにあった殿 (トゥン) が、上中之殿 (上門之殿) に相当するという説がある。現在は殿は残って住宅となっている。旧暦5月と6月の13日のウマチーには、ここからナスの御嶽に遙拝したという。


上門井 (イージョーガー)

仲順大王之墓から来た道を少し戻り、次の道を南に曲がり進むと、仲順集落が喜舎場のイラブガー付近からナスの御嶽付近の上門原 (イージョーバル) に7世帯 (仲順七煙 チュンジュンヒチキブイ) が移動してきて住み始めた際に共同井戸として掘られたのが上門井 (イージョーガー) で産井でもあった。共同井戸として、この他に大井 (ウフカー)、前ヌ井 (メーヌカー) があった。戦前まで、集落住民が個々に上門井を清明祭に拝していた。井戸の中央にクルトゥ石 (ニービヌフニ) を置き、左右に区分されているので夫婦井 (ミートゥーガー) とも呼ばれていた。


上門溜池 (イージョークムイ)

上門井 (イージョーガー) の下側には仲順集落の五つの溜池 (クムイ) の一つの上門溜池 (イージョークムイ) があったが、現在では埋め立てられて消滅している。


仲順大王 (チュンジュンウフシュー) 之墓

上門井 (イージョーガー)から坂道を登って行く交差点に出る。ここにナスの御嶽と仲順大王之墓への案内板があった。先ずは仲順大王之墓を見る事にしてその方向の道を行く。道を登った所は、日本ではない様な住宅街になっている。各邸宅は広い敷地に大きな平屋建てで広い前庭や大きなガレージがある。米国の住宅形式になっている。かつては米軍の将校クラスの住居だったのだろうか?不動産サイトでは外人住宅として取り扱っている。

この住宅街の中に岩山があり、その北側の岩根を掘り込んでつくられた仲順大主の墓と伝わっている古墓がある。仲順大主は13世紀の琉球豪族で仲順集落の創建者とされ、隣接する喜舎場集落の開祖、喜舎場公と同年代に生きた人物で、互いに協力し合って村を創建したとされる。1259年に英祖に王位を譲り放浪していた義本王を匿ったとされる。仲順大主の位牌は直系の子孫と云われる花崎家に祀られていたが、明治末期に中之安里家に移り、更に、中之安里家から一時は普天間満山神宮寺に移遷し、1952年頃に根殿の宮に舜天王・義本王と一緒に合祀されている。

仲順大主に纏わる伝承はいくつかある。その一つが 「仲順大主の財宝譲り」 というか言い伝えが以下の通り

仲順大主には三人の息子がおり、家督を継がせるか決めるために仲順大主は病気を装い三人を試すことにした。「私は食べ物が喉を通らなくなってしまった。赤ん坊に与える乳なら飲むことができる。赤ん坊はあきらめて乳を全ても貰えないか?」長男と次男は親より自分の子を優先してこれを断ったが、三男は親の命を救うべく自分の赤ん坊の為の乳をすべて差し出した。仲順大主は三男の赤ん坊を東の森の三本松の木の下に三尺の穴を掘って埋めるよう伝え、三男がそこで穴を掘ると黄金の財宝が見つかった。財宝と家督は三男が継ぎ幸せに暮らしたという。

仲順大主之墓の左奥にも古墓がある。誰を葬っているのかは不明だが、義本王の墓とかノロ墓とかの説がある。


ナスの御嶽、舜天王朝三代王の墓

案内板があった交差点まで戻り、次はナスの御嶽への坂道を登る。道沿いにナスの御嶽が整備されている。琉球国由来記では神名ナスツカサ御イベと呼ばれる神が祀られ、安谷屋ノロが祭祀を司っていたとある。石積みと屋根付きの立派な門があり、御嶽の中には昭和10年に積まれた石垣があり、その奥にある琉球石灰岩が御嶽の本体 (威部 イベ) と考えられている。仲順の集落は喜舎場のイラブガー付近から、この御嶽一帯に移住してきた。この御嶽が仲順集落の聖域のクサティ (腰当て) で、その後、南側に集落が発展していった。ナスの御嶽では、かつては旧暦5月15日、6月15日に拝していたが、現在は清明祭の時に拝まれている。

御嶽とされる岩の上には、舜天王朝 (1187 ~ 1259年) の舜天 (源為朝の子との伝説、在位 1187 - 1237年)、舜馬順煕 (在位 1238年-1248年)、義本 (在位 1249 - 1259年) の三王を葬ったとされる墓がある。墓の下には「舜天王 舜馬順煕王 之墓」 と刻まれた石碑があり、義本王は王妃御墓に葬られたという言い伝えもある。この舜天王朝が存在したのかははっきりしない。以前訪れた南城市大里村南風原集落の食栄森御嶽も舜天王の墓との言い伝えがある。義本王の墓も国頭村の辺戸集落にある。この様に複数の墓があるのはよくある事で、それが本当の墓かは疑問なのだが、何らかの言い伝えや由縁で墓が造られているのだろう。


仲順 (チュンジュン) ビジュル

ナスの御嶽から坂道を登る小字の西瀬川原 (イリシーガーバル) になり、林の中に仲順ビジュル (賓頭盧) がある。ビジュルは霊石信仰として、豊作、豊漁、子授けなどを祈願して拝まれている。仲順ビジュルはかつて花崎門中のノロにより旧暦9月9日に例祭が行われていた。

元々は喜舍場の御願毛 (ウガンモー) に字有地に琉球石灰岩を積んだ祠を造り、中に霊石を安置してあったのだが、区画整理 (外人住宅建設?) の際の土地造成で消失し、この場所に新しく造設されている。


義本王王妃御墓 (ウナジャラウハカ) 

ナスの御嶽から少し離れた元々ビジュルがあった喜舍場の御願毛 (ウガンモー) の高台に義本王の王妃御墓 (ウナジャラウハカ) といわれる古墓がある。王妃御墓へは元々ビジュルがあった現在の外人住宅街からの道がある。そこを入ると墓地になっている。そこから森の中の道を下って行く。

もう一つはEMウェルネス/暮らしの発酵ライフスタイルリゾートの南側駐車場からの道になる。

道の半ばに王妃御墓 (ウナジャラウハカ) があり、墓内には、天次王 (義本王)、真鍋樽按司、西之按司加那志、桜尚の厨子が安置されているという。義本王は舜天王統第ニ代王の舜馬順煕の第一王子で、舜馬順煕の死後、1249年に44歳で第三代王に即位したが、その翌年に飢餓が起き、更に次の年には疫病が流行り琉球国民の半数が死亡した。これは義本王の不徳の結果とされ、王位を家臣の英祖に譲った後に放浪し、この仲順の地で仲順大主に匿われたという伝承がこの地に残っている。

歴史家の間では禅譲ではなく、英祖のクーデターで王位を奪われ、追放されたという説が有力)。

また、南城市の玉城集落にある玉城グスクでは義本王が自分の不徳を天に詫びるため焼身自殺を図ったとされる焚刑伝説が残っている。


花崎家中古之墓

王妃御墓 (ウナジャラウハカ) から道を降りると岩場を掘り込んだ花崎家中古之墓が造られている。花崎家は義本王の直系の子孫と伝わっている。花崎門中では、名前の上に「為」または「義」の字を用いる者が多く、舜天王の父親の為朝と義本王の子孫であることを表表している。また、森の中にはいくつかの古墓 (写真下) も残っていた。


中央公民館

後原と東原の一部は、沖縄戦では米軍上陸後数日間で占領され、米陸軍が野戦用兵舎として使用していた。戦後、米軍施設の泡瀬弾薬庫地区 (Awase Ammunition Storage Annex) として接収されていた。東側の泡瀬飛行場に付随する弾薬庫だった。1972年の沖縄返還協定で名称が泡瀬倉庫地区 (Awase Storage Area) に変更された。

1973年 (昭和48年) 6月に泡瀬倉庫地区が返還され、跡地に村立中央公民館、商工会館、村総合社会福祉センターなどの公共施設が作られている。この中央公民館には9月22日に渡口集落を訪れ、宮城ヌ嶽を探す途中に訪れている。下の写真はその時のもの。

ちなみに北中城村で接収された米軍基地施設の返還は以下の様に行われている。

ここからは中城湾戸その向こうの勝連半島まで見渡せる。


今日は義本王王妃御墓を訪れた際に、EMウェルネス/暮らしの発酵ライフスタイルリゾート駐車場で猫が寄ってきた。人懐っこい猫で、桜耳になっている。多分このホテルの従業員が世話をしているのだろう。

沖縄は12月とは言っても、気温は18度から20度ぐらいあり、晴れて風のない日は少し暑いぐらい。この様な気候なので、訪問先では色々な花が楽しめる。中には初めて見る珍しい花もある。下の写真は今日散策途中に目に留まった花。


参考資料

  • 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)

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