Okinawa 沖縄 #2 Day 278 (09/01/25) 旧中城間切 北中城村 (11) Yagibaru Hamlet 屋宜原集落
北中城村 屋宜原(ヤジバル、やぎばる)
- 旧県道 (国道320号)
- 下屋取集落跡 (シチャヤードゥイ)
- 屋宜原公民館
- ホテルライカム
- 倶楽部跡
- 東屋取集落跡 (アガリヤードゥイ)
- 共同井戸跡
- 徳永井
- フカサク井
- 浦崎井
年末年始はゆっくりと自宅で過ごし、つぎに訪問する集落の情報に目を通し、ようやく事前準備を終えた。今日から2025年の沖縄集落巡りを再開する。今日は北中城村の続きで、最後になる三つの集落を巡る。まずは屋宜原集落に向かう。
北中城村 屋宜原(ヤジバル、やぎばる)
字屋宜原は、北中城村の北西部に位置し、南は喜舎場、東は比嘉、北は沖縄市、西は北谷町と瑞慶覧に接し、屋宜原 (ヤジバル)、新川原 (アラカーバル)、西原 (イリバル)、西前原 (イリメーバル)、東前原 (アガリメーバル) の五つの小字で構成されている。屋宜原の村落としての成立は比較的新しく、尚温玉の時代1800年 (寛政12年) 頃に、農地政策に基づいて首里から移住した人々により屋取集落が形成されたといわれている。屋宜原で発見された印部石には「きしやはこしはる」と記され、屋宜原を「喜舎場後原」と表していた様だ。屋取集落ができた当初は屋宜屋取と呼ばれ、喜合場の行政区に属していた。屋宜原には丘陵の尾根の部分にあった上屋取、後屋取と傾斜地にあった下屋取、東屋取の四つの屋取集落があり、家屋が散在していた。上屋取は道を隔てて字北谷の北谷屋宜と接し、そこには上屋取には縁古関係者が多く、生活共同体として密接な関係にあった。
明治時代、屋宜原は喜舎場に属していた屋取集落で、下のグラフにある喜舎場の士族の34戸のうち33戸が屋宜原にあった屋取に当たり、200人程が住んでいたと思われる。戦前の生業は、砂糖きび生産が中心で、米はわずかの家しか作っていなかった。
1917年 (大正6年) に行政字として喜舎場から独立した。屋宜屋取集落は土族が移住し出来た村だったので、平民との交流を避ける閉鎖的な風土で、戦前迄は行事や風習など村内の他の村落と異なっていた。結婚も土族同志しか認めなかったという。屋宜原は、部落発祥の歴史が比較的新しいせいか、村落としての聖地や拝所などは存在していなかった。年中行事は村としてのエイサーを除いては、家族・親族を中心に行われていた。
戦前の集落の大部分は屋宜原の国道330号 (旧郡道) の西側の高台を中心にあり、新川原や西原にもまたがっていたが、戦後は旧部落の中心地域が軍用地に接収されたため、その東側の西前原の傾斜地と窪地に移動し居住することになった。
屋宜原は起伏の大きい地形のため、不便な小さい道が多かったが、部落の西から東へ、下屋取から東屋取にかけて1920年 (大正9年) に郡道 (昭和2年に県道として格上げ) が開通し、これまでの人肩馬背の運搬手段から荷馬車で運搬出来るようになった。その時期は、屋宜原が一行政区として独立したばかりだったので、男子は無報酬で労力を提供して完成させた。
下屋取集落の近くに俗称、ズリガマと呼ぶ洞窟がある。ここは第二次世界大戦中、石部隊の野戦病院に利用され、屋宜原の主婦達が傷病兵の看護をしていた。第二次世界大戦では屋宜原住民の28.6%に当たる117人が犠牲になっている。117人のうち出征などで海外で亡くなったのは34人で、沖縄戦での戦没者は83人 (県外、戦没地不明含む) になる。村内での戦没者は3人と北中城村では最も少ないのだが、村から逃げた住民のうち56人が沖縄戦終盤の島尻で亡くなっている。
戦後、旧部落一帯は、軍用地に接収され、住民は安谷屋その他の地域に離散したが、1947年 (昭和22年) に軍用地が一部、郡道 (現在の国道33号線) の南東地域が解放されたので、旧部落の畑だった現在地に移り住むようになった。その後、1974年 (昭和49年) にキャンプ瑞慶覧となっていた旧集落があった地域も一部返還されたが、接収されてから既に30年も経過しており、元の集落は整地され跡形もなくなっており、戦後の住居地域で生活が安定化したこともあり、元の集落へは戻っていない。返還された軍用地跡地には沖縄ろう学校、屋宜原保育所などが建てられた。この返還された地域は住宅地にもなっているのだが、当時はほとんど民家は建てられず、ようやく2010年過ぎてから民家が見られるようになった。現在でも字屋宜原の北部はキャンプ瑞慶覧戸して接収されたままとなっている。
戦前の屋宜原の世帯数と人口については、資料が戦争で喪失しているため正確なことは不明だが、1903年 (明治36年) の喜舎場の土族の世帯数と人口は、世帯数33、人口204人とある。当時、喜舎場に土族は、一軒しかなかったといわれるので、残りは屋宜原の世帯および人口と考えられる。その後、1944年 (昭和19年) 頃の世帯数は、60戸に増えている。
字屋宜原として喜舎場から分離独立した1917年 (大正6年) 当時の人口は200人程で、北中城村の中では人口の少ない地域だった。戦後土地が接収され、新たな土地に集落を建設してからは人口は元のレベルに戻り、その後、増減はあるものの、2000年には967人にまで達している。その後は減少し、800人前後出推移している。近年は世帯数、人口ともに微減傾向にある。
旧県道 (国道320号)
北谷まで行きそこからキャンプ瑞慶覧の間を走る1953年 (昭和28年) には軍道130号線だった県道130号線 (1972年/昭和47年) を屋宜原を目指して東に進み、国道330号線と合流し、国道を北上して屋宜原に到着。この国道330号線は、1920年 (大正9年) に造られた郡道で、1927生 (昭和2年) に県道となり、戦後1953年 (昭和28年) には軍道5号線に指定されていた。 1972年 (昭和47年) の本土復帰で軍道5号線は那覇とコザ十字路を結ぶ国道330号線の一部となっている。
下屋取集落跡 (シチャヤードゥイ)
国道330号線が高速道路の沖縄自動車と交差する手前の丘陵地の上にあったのは下屋取集落で、戦後は米軍に接収され立ち入りができなかった。その後、かつての下屋取があった場所は返還されず、その下側斜面が解放され、そこに民家が建てられている。この下屋取集落がある丘陵地を南に降りた所 (国道32号線) が砂糖小屋 (サーターヤー) があった場所になる。南に広がる畑で収穫したサトウキビを製糖していた。
屋宜原公民館
国道330号線から高速道路の沖縄自動車をくぐり南に道を降りていくと、道は登坂に代わる。この坂道に道は戦前にはガクドウミチと呼ばれ、戦前は喜舎場の国民学校 (喜舎場小学校) への通学路だった。昔からあった道で(昭和9年) ごろに荷馬車も通れる農道となっている。この道を登るとあやかりの杜にでてそこから後原道 (クシバルミチ) を下って喜舎場に至る。
この ガクドウミチを少し上ると屋宜原公民館がある。戦後、元々住んでいた地域は米軍に接収されてしまったために、この辺りに住まいを移し生活をしていた。その際に建てられたのがこの公民館になる。
ホテルライカム
屋宜原公民館と道を挟んだところにレトロ調のホテルが建っている。アメリカ統治下の1967 年に建てられ営業していたホテルライカムで、雑誌や写真集のロケ地としてよく使われていた。現在では営業しておらず、幾つかの部屋が貸事務所となっているようだ。入り口にホテルとして営業していた時の料金表があった。どうもラブホテルだったようで、泊りは3500円 35ドルとある。キャンプ瑞慶覧がすぐそこなので米軍兵も利用していたのだろう。レートが1ドル100円なので、10年程前の料金表なのだろう。
倶楽部跡
国道32号線を北に進むと、かつての下屋取集落と東屋取集落の中間地点の丘陵の上には、戦前まで倶楽部 (公民館) があり、その隣には砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた。戦後、1974年 (昭和49年) に返還されるまでは、この倶楽部跡も含め国道33号線の北西はキャンプ瑞慶覧の軍用地だった。土地が返還された後も土地は利用されることは無く、林となったままで旧倶楽部への道はない。
この丘陵の北側は今でも軍用地のキャンプ瑞慶覧となっている。
東屋取集落跡 (アガリヤードゥイ)
更に国道32号線を北に進み、字比嘉との境界の手前、国道の東側が東屋取集落があった場所になる。今では多くの民家が密集しているが、戦前は小さな集落だった。
共同井戸跡
屋宜原にあった屋取集落には共同井戸が10ヶ所ほどあり、飲料や生活に供する水は、ほとんど共同井戸を利用していた。この共同井戸のほとんどは埋められて残っていないのだが、東屋取集落跡を散策すると幾つかの井戸跡を見つけることができた。
徳永井
10ヶ所の共同井戸のひとつと思われる井戸跡を見つけた。資料に掲載されている民俗地図では徳永井戸となっている。1904∼5年 (明治37~38年) 頃に7ヶ月にわたる早魃があり、大飢鐘に見舞われ、ほとんどの井戸の水が枯れたが、東屋取の徳永井戸だけは涸れず、屋宜原、比嘉、島袋三部落の人々の命をつなぎ止めることが出来た。この井戸は屋宜原にあったが、島袋から水が湧き出ていたので、島袋と水の所有権争いが起きていた。
その他、東屋取集落にあったフカサク井と浦崎井の場所にも行ってみたが井戸らしきものは見あたらなかった。
フカサク井
フカサク井はフカサクと呼ばれた地域にあった井戸だが、見つからず。
浦崎井
浦崎井は民俗地図では郡道近くにあったと記されているが、見当たらず。
少し集落に入った所には浦崎家の墓があり、日露戦争で戦死した家族の忠魂碑が建てられている。墓の脇に井戸跡があった。これが浦崎井なのだろうか?
この後は旧郡道 (国道330号線) に戻り、道を登り次の訪問地の比嘉集落に向かう。
参考資料
- 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)
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