Okinawa 沖縄 #2 Day 278 (09/01/25) 旧中城間切 北中城村 (12) Higa Hamlet 比嘉集落
北中城村 比嘉集落 (ヒジャ、ひが)
- 県道85号沖縄環状線
- 泡瀬メドウズゴルフ場跡、アワセ土地区画整理事業
- 比嘉集落跡地の碑
- アワセ土地区画整事業の竣工記念碑
- 複合型商業交流施設 - イオンモールライカム
- 医療福祉施設 - 中部徳洲会病院
- 健康・スポーツ交流施設 - 北中城 村民体育館
- 住宅施設
- 比嘉集落拝所、殿山 (トゥヌヤマ)
- 比嘉之殿 (ヒジャヌトゥン)
- 根神 (二ッチガミ) タ
- トゥイガー遙拝所
- ヨーチガー遙拝所
- カニマン御嶽
- 戦没者慰霊碑
屋宜原集落から旧郡道 (国道320号線) を登り旧比嘉集落跡に向かう。
北中城村 比嘉集落 (ヒジャ、ひが)
字比嘉は、北中城村の北部に位置し、北側は島袋と沖縄市山里に接し、東側は島袋と渡口に、南側は小高い丘陵地を隔てて喜舎場・仲順に、西側は屋宜原に接している。
比嘉村の始まりについては、尚貞王の治政下で部落の改廃策がとられ、1671年に熱田村と比嘉村が新しく生まれた。当時は比賀村、または、琉球国由来記 (1713年) では比嘉村と表記されている。
口伝によると、比嘉の発祥の地は、島袋の東側に当たる真川原だといわれている。暮らしの糧となる農耕地は、同じく島袋の野比灘原、友武謝原、上原のほか、遠く越来間切のインヌミ屋取 (現コザ高校南側) などに散在していた。字比嘉は東原 (アガリバル)、内原 (ウチバル)、前原 (メーバル)、西原 (イリバル) の四つの小字から構成されている。
比嘉村は東原の山林地を除いて全体的に約標高100mの平坦地でジャーガル土質の肥沃な土地に恵まれ、生産性も高く、自作農として安定し豊かな村落だった。全耕地の60%がサトウキビ農業に当てられ、生活を支える現金収入のほとんどが黒砂糖の売り上げで占められていた。その他の農作物として芋、大豆、葉野菜、牛蒡、人参、冬瓜などの自給作物を栽培していた。戦前の比嘉村は、大半が内原と西原にあり、東原は村落内では最も起伏の激しい山林や原野が大部分を占め、西原は屋宜原、東前原に続く農耕地だった。集落のたたずまいも、戸数が少ないこともあって道路、排水、敷地の区画など整然として緑に包まれた静かな田園風景を形づくっていた。平坦地 (トーウチャカイ) であることは、畑への往来から耕作、馬を使った砂糖きびの運搬、水害の防止など、すべて能率的に進められていた。
戦前の比嘉の戸数は60戸余りで、その内、古い旧家は、前門 (与儀家) と津覇ヌ屋 (比嘉家) の両家といわれる。比嘉村の主要な門中は比嘉門門中と徳村門中になり、両門中で比嘉村全戸数の三分の二ぐらいを占めていた。比嘉門門中は、島袋の屋号東道の腹 (分家) で、その上の元祖は、具志川喜屋武村、さらにさかのほると、首里摩文仁殿内、鬼大城の子孫だという。徳村門中は、与那城村西原に元祖があるという。比嘉村では比嘉姓が二番目に多く、比嘉という村落の名を簡単に自分の姓につけたのではないかとの説もある。
比嘉集落の南西には十数戸程度のウンジャン屋取と称される小集落が明治初期に生まれている。集落の名称は、その南側にあるウンジャンモーの地名に由来する。下の士族割合を表すグラフでは比嘉集落には士族はいなかったとされている。このウンジャン屋取は明治になり職を失った士族が移住してできたものではなく、比嘉集落の二、三男が分家して屋敷を構えた集落だった。旧士族の屋取集落戸は異なる。昭和初期には15戸ぐらいに増えていたそうだ。
明治時代の比嘉の人口は北中城村の中では最も少なく、161人 (50戸) だったが、軍用地だった泡瀬ゴルフ場跡地の開発で住宅地が新たに生まれ字ライカム (2019年に分離独立) では人口が激増し、旧比嘉とライカム合計では、2023年末では 1,114人となっている。
沖縄戦後、字比嘉全土は米軍に接収され、大部分が軍のレクレーション施設として泡瀬ゴルフ場となっていた。このことで、旧比嘉住民はほとんどが島袋と沖縄市久保田に住むことになり、行政上村落として存続できなくなり、隣の字島袋に編入された。久保田原の旧比嘉村住民は1957年 (昭和32年) の地方自治法施行で、久保田原はコザ市に吸収合併されるまでは北中城村民 (字島袋) として登録されていた。2010年 (平成22年) に泡瀬ゴルフ場が返還され、旧比嘉にも民家が建てられ、同時に泡瀬ゴルフ場跡地が商業施設、住宅地が開発されている。2023年末現在で、字ライカムには392世帯960人が住んでいる。2038年までに約2700人の人口集積を目指しているそうだ。字比嘉として残った地域には2023年末では214人が住んでいるが、旧比嘉住民は島袋、久保田原で65年もの間生活しており、世代も後退しており、2010年の土地返還後に旧集落に帰還する人は無く、そのほとんどは旧比嘉の住民ではなく、新しく転入してきた人たちになる。
比嘉村で行われていた年中行事には正月祝い、旧暦2月にはニンガチウマチー、腰憩い、彼岸祭、3月には祖先供養の清明祭 (シーミー)、四月にはアブシバレー、5月にはグングヮチウマチー、6月のウマチーでは14日にワラビジナ(童綱)、15日にウフッチュジナ(大人綱)を催した。7月には七夕の墓掃除に始まり13日の祖先を迎えるウンケー、16日に送り出すウークイが行われ、ウークイを済ますと、村中の人がメーヌムイの広場に集まり、エイサー踊りが催されていた。 8月は十五夜遊び。9月9日には普天満権現詣でが行われ、旧11月にはタントゥイ (種取祭) とトゥンジー (冬至)、12月には鬼退治の伝説に由来するムーチー (七日) があり、各家庭で サンニン葉に包んだ砂糖餅を作って仏前に供えた。比嘉は戦後の米軍用地接収のために、多くの祭場が破壊されたり、あるいは移動を余儀なくされ、現在では伝統的な形での祭場はみられない。
琉球国由来記等に記載されている拝所は以下の通り。
- 御嶽: 比嘉ノ様 (カニマン御嶽 神名: カネ森ノセジ御イベ)
- 殿: 比嘉嵩之殿 (比嘉之殿)
- 拝所: 比嘉里主根所 (根神)
- 井泉: リングムイ、タトゥイガー、ヨーチガー
県道85号沖縄環状線
国道320号線を登り切った所で県道85号沖縄環状線と交差している。県道85号沖縄環状線は戦後、米軍により整備された軍道22号線、琉球政府道33号線、政府道27号線をベースに1982年に開通した路線で、このライカム地区は2015年 (平成27年) に拡幅整備されて全線が開通している。イオンモールライカム前の道路は片道三車線と広い道路になっている
泡瀬メドウズゴルフ場跡、アワセ土地区画整理事業
沖縄が占領された後、この地には琉球米軍司令部 (Ryukyu Command Headquarters ライカム RYCOM) が置かれていた。後に石平交差点の場所のキャンプ瑞慶覧内に移転している。
1948年には米軍基地の中で沖縄本島のゴルフ場第1号が誕生する。9ホールのショートコースで泡瀬メドウズゴルフ場だった。この頃はまだ軍人専用で、民間人への門戸は閉ざされたままだった。5年後の1953年に5,680ヤード・パー70 のコースレイアウトに整備され、民間人もプレーできるようになった。このゴルフ場では当時米海兵隊の伍長で駐在し、後にメジャーチャンピオンとなったリー・トレビノが駐在期間三年間をこのゴルフ場でプレーし腕を磨いたという。1960年にトレビノは海兵隊を除隊しプロゴルファーへの道を歩むことになる。
2006年4月に移設条件付きで泡瀬メドウズゴルフ場を返還することで日米が合意し、移設先のTAIYOゴルフクラブが旧東恩納弾薬庫地区に建設され、泡瀬は2010年7月30日に閉鎖され返還となっている。2010年の返還後、沖縄防衛局の管理を経て13年にが300人余の地権者に引き渡された。同年、地権者らは早期の土地活用を目標に北中城村アワセ土地区画整理組合を立ち上げた。組合は「医療福祉施設」「複合型商業施設」など四つの土地計画を策定し、地区全域を申し出方式で土地の交換(申出換地)を行い、2019年に区画整理登記を完了、同年にはそれまで北中城村アワセ土地区画整理事業地内4街区などと記されていたが、新たな字名をアワセ土地区画整理組合が公募し、最も多くの応募があった「字ライカム」を村議会が全会一致で可決し、新たな行政区が誕生する。琉球米軍司令部の略称のライカム RYCOMから名付けられた。(この名は興味深い、米軍とは様々な軋轢もあったのだがこのRYCOMの名を付けたのは、この地域では米軍に対して好意的な感情に変わっていたのだろうか?)
この事業は6年8カ月という異例の速さで事業を完成させたことから軍用地跡地利用のモデルケースともなっているそうだが、確かに成功例ではあるが、これを単純に"モデルケース" とすることには個人的には違和感を感じる。色々な資料を見たが、返還合意されてから、その過程をモデルケースとしているのか、この地域の都市計画構想がモデルケースなのかが明確でないように思える。多くの記事はこの開発のスピードを称賛している。これまでの軍用地跡地利用計画実施で、最も時間がかかっているのが、様々な思惑を持った地権者の合意形成で、これが決まらないと詳細計画立案実施ができない。比嘉のケースではこの合意形成が早期に達成できたことが最も大きな要因と思える。土地返還に対しての、当時の状況と地権者の意向が影響しているだろう。当時の状況についていかに触れる。
泡瀬ゴルフ場は賃貸料年額約6億円が382名の地主に払われていた。1996年に2003年を目処に返還が合意されて以降、地主が参加していた郷友会で新ゴルフ場建設案、沖縄新大学院大学や沖縄県立芸術大学誘致案などさまざまな構想が練られてきたが、返還となると、それまでの賃貸料がなくなるという経済的な課題があった。60年にもわたり別の土地で生活を確立し、世代も交代し、元の土地に戻り住みたいという地権者家族はほとんどなく、できるだけ早く、軍用地料に見合う土地賃貸収入を以降も確保したいという意向が大半だった。そこで、郷友会に蓄えた拝所の共有地からの軍用地料を郷友会員を中心に組織された土地区画整理事業組合へ無利子貸付を行い、この組合を中心に郷友会の意向に沿った企業誘致などを行った。この事により異例の速さで地権者合意、仮換地合意が行われ、詳細設計などが平衡して進められ、工事開始が早期に行われている。
- 1996年 (平成8年) 3月:泡瀬ゴルフ場土地返還を合意
- 2010年 (平成22年) 7月: 泡瀬ゴルフ場土地返還、沖縄防衛局が土地原状復帰工事開始
- 2013年 (平成25年)
- 3月:地原状復帰工事完了、沖縄防衛局から地権者へ土地の引渡し
- 6月:土地区画整理組合を設立
- 8月:事業工事開始
- 9月:仮換地指定 (2年に事前着手している)
- 2015年 (平成27年)
- 4月:街びらきとイオンモール沖縄ライカムオープン
- 2020年 (令和2年)
- 3月:土地区画整理組合解散
他のケースでは土地返還されてから工事着工まで10年∼20年かかっている。工事開始以降はどのケースでも同じなので、異なるのはそれまでの過程だが、この過程短縮の要因はこの比嘉集落の特殊環境にありと思える。この泡瀬ゴルフ場跡地利用がその開発スピードをモデルケースとしているならば、比嘉集落と同じような環境が必然と思えるので、単純にこれをモデルケースとすることに疑問がある。
とはいえ、ここには大型ショッピングモールのイオンモール沖縄ライカムなどの商業施設や住宅地に変貌を遂げ、2023年末現在で、ライカム地区には392世帯960人が住んでいる。2038年までに約2700人の人口集積を目指しているそうだ。この一帯を自転車で回ると、確かに立派な都市になっている。これはモデルケースと言って過言ではないだろうが、残念なのは公園がないことだ。これは失われる地代の収益を最優先にする組合の考え方が反映されているようだ。本来ならば、収益を生まない公益性の公園などは北中城村が土地を取得するか、地代を払い整備するべきものだが、当時どのような話し合いが行われたのかは不明だが、実現できていないことは残念だ。公園もあれば、マスコミのいうモデルケースにはなるだろう。同じ様に米軍基地跡地開発が行われているのが西普天間住宅地域跡地で2015年 (平成27年) に返還され、その後都市計画立案、工事開始され、完成予定は2027年とされている。 (地元の人の話ではまだずれ込むようだが) ライカムと比較すると、住宅地と医療施設はあるが、商業地は計画にない、基地内に喜友名集落の拝所が残されているの出それを保存し広い公園と先祖を葬った墓地を残す墓地地区が計画されている。まだ開発計画は集落跡の発掘調査状況や地主会との話し合いで、変わる可能性があるそうだ。この二つの跡地開発を見ても、返還時の状態や地主会の意思の違いがあり、何が最適とはいいがたい。
比嘉集落跡地の碑
比嘉集落では、泡瀬ゴルフ場となった事で、集落や拝所などはことごとく消滅している。その状況でも、故郷への思慕は強く、旧集落があった場所に建設されたイオンモール沖縄ライカムの入り口には比嘉集落跡地の碑が置かれている。説明文には
ゴルフ場の返還による跡地利用計画として郷友会でゴルフ場として利用するとか、又、大学院大学を誘致すること等が検討されたが、最終的には北中城村を中心とした周辺地域の活性化に最大限寄与すると考えられるショッピングモール、総合病院、北中城村営のアリーナ及び住宅を区画整理事業として整備することとなった。郷友会としては、字比嘉集落の復活も模索したが、残用地では集落を形成するには狭隘で、さらに諸般の事情もあって断念せざるを得なかった。よって、ここに旧字比嘉区民の総意で石碑を建立することとした。なお、建立に当ってはイオンモール株式会社の全面的な支援に感薬の煮を表して付記する。
とある。
アワセ土地区画整事業の竣工記念碑
道を挟んだところには2020年 (令和2年) アワセ土地区画整事業の竣工記念碑が建てられている。碑には次のようにその経緯が記されている。
本地区には、かつて比嘉集落があった。太平洋戦争中には、米軍に占領され、収容所等が設置された。戦後も駐留軍用地 (米軍アワセゴルフ場) に接収され続け、 住民は長くふるさとに戻ることが叶わなかった。この地区は、平成22年 (2010年) 7月31日に米軍から国に返還され、 平成25年3月19日に地権者に引き渡された。地権者は、早期に土地活用する事を目標 に、平成25年6月10日に北中城村アワセ土地区画整理組合の設立認可を得て、同年7月から事業に着手した。組合は、「医療福祉施設」「複合型商業交流施設」「健康・スポーツ交流施設」「住宅施設」という四つのゾーンから成る土地利用計画を策定し、地区全域を申出方式に より換地を定め、6年8カ月で事業を完成 させた。計画通りの工程で事業を進め「街づく り」ができたのは、地権者の合意形成と 北中城村を始めとする関係機関の支援の賜物と感謝申し上げる。軍用地跡地利用の土地区画整理事業の成果として、また、 このライカムの街の、より一層の発展を願って、この碑を建立する。北中城村アワセ土地区画整理組合 令和2年3月吉日 建立
この開発された地域は旧字比嘉から字ライカムとして新しい行政区が誕生している。その経緯についても記されている。
本地区は、比嘉、島袋、屋宜原、仲順の4つの地域に跨っており、長年、 米軍に占領・接収されてきたが、この度の返還と土地区画整理事業の完成 によって新たな街が誕生した。北中城村アワセ土地区画整理組合は、新たな街の字名を公募により名付ける こととし、「字ライカム」を選定した。そして、字界の変更及び新字名について、 平成30年3月8日の北中城村議会において全会一致で可決され、「字ライカム」 が令和元年9月7日に誕生した。ライカムとは、戦後この地に設置された琉球米軍司令部 (Ryukyu Command headquarters) の略称であった。米軍司令部が去った後も、ライカム坂やライカム交差点のように名称が残り、今日でも地元住民に広く周知されている名称である。
開発された新しいライカムには「医療福祉施設」「複合型商業交流施設」「健康・スポーツ交流施設」「住宅施設」の4つのゾーン構想で事業費:約84.6億円をかけて開発がされた。
複合型商業交流施設 - イオンモールライカム
県道85号沖縄環状線に面して広大な敷地に2015年4月25日グランドオープンしたイオンモールライカムが建っている。沖縄県内最大の規模のショッピングモールで訪れると平日にも拘わらず多くの人で賑わっている。特に外国人が多くみられた。内装や設備も素晴らしい。地元客のみならず県外から訪れる観光客もターゲットとしたリゾートモールの戦略をとっている。2020年 (令和2年) に出された北中城村アワセ土地区画整理組合の経済効果予測では、ライカム地区の主要施設想定年間売上額約437億円、県全体では約574億円、雇用効果約6,331人となっている。その後の経済効果結果については見あたらず、北中城村アワセ土地区画整理組合も解散しており、どうも結果をトレースする機関もなさそうだが、水際っていることは確かなようで、結果については少し気になる。
医療福祉施設 - 中部徳洲会病院
県道85号沖縄環状線の北側には総合医療センターの中部徳洲会病院が建てられている。
健康・スポーツ交流施設 - 北中城 村民体育館
イオンモールライカム之東側には北中城村民体育館が建てられその隣にはスポーツクラブ ルネサンス・ライカム24もあり、フィットネスクラブ、スイミングスクールを提供している。
住宅施設
住宅施設は中高層住宅ゾーンと戸建て中心の低層住宅ゾーンがある。どちらのゾーンでも建設中の物件が見られ、今後も更に発展していくように思える。
字ライカムには32023年末現在では92世帯960人が住んでいる。2038年までに約2700人の人口集積を目指しているそうだ。
比嘉集落拝所、殿山 (トゥヌヤマ)
戦前、村落の後方には、字島袋との境に小高くなった森があり、比嘉集落のクサティ (聖域) とされた殿山 (トゥヌヤマ) があった。一帯は約500坪丼の広さがあり、松や赤木、ガジマル、アコウなどの大街がそびえたって昼間でも薄暗いほどで、ふだんは足を踏みいれるものはなかったという。この森の中に村人の守り神のカニマン御嶽、比嘉之殿 (ヒジャヌトゥン) の二つの拝所が存在していた。米軍のレクレーション施設のアワセゴルフ場の建設に伴い、比嘉の聖地の殿山 (トゥヌヤマ) は、比嘉の殿、カニマン御嶽のあるわずかな面積を残し、そのほとんどが、ゴルフ場の駐車場に変ってしまった。1952年に村民により、残されたゴルフ場駐車場の片隅に祭場の場所が設けられ、その中にカニマン御嶽、比嘉之殿 (ヒジャヌトゥン)、根神 (二ッチガミ) の祠が設置された。この拝所は泡瀬ゴルフ場の賃貸料で維持されていた。土地が返還された後、跡地開発で現在は中部徳洲会病院となり、その駐車場の片隅にかつての殿山 (トゥヌヤマ) の一部が残されている。この拝所の共有地にも軍用地料が支払われていた。その収入で拝所の維持やウマチー祭祀行事、郷友会運営の費用にあてていた。土地返還により、この部分の収入がなくなり、以降の拝所維持が懸案だったが、北中城村と交渉を重ねて2017年に北中城村が管理を引き続く事になっている。
比嘉之殿 (ヒジャヌトゥン)
入口を入り階段を上った所には比嘉之殿 (ヒジャヌトゥン) が置かれている。琉球国由来記にある比嘉嵩之殿に比定されている。言い伝えでは比嘉之殿 (ヒジャヌトゥン) が男神、近くにあった島袋ヌトゥヌが女神だそうだ。麦穂祭と稲二祭では比嘉巫 (ノロ) が祭祀を司っていた。島袋ノロの管轄地域だが、島袋ノロではなく、その配下の比嘉巫 (ノロ) が行い、比嘉巫は更に島袋村の大中之殿の麦穂祭と稲二祭、島袋里主根所の6月の米粟の初穂儀礼を司っていた。
根神 (二ッチガミ)
殿山 (トゥヌヤマ) の東には島袋ノロの屋号ヌン殿内 (ヌンドウンチ) が屋敷を構えており、そこには神屋 (カミヤー) が建てられていた。比嘉、島袋の祭祀を司る比嘉ノロ殿内として正月の年頭拝みをはじめ、ウマチー、清明祭など供え物を持って御願に行ったという。比嘉の殿が男神、近くにあった島袋の殿が女神と伝えられている。この場所も泡瀬ゴルフ場内となり消滅、戦前比嘉門の屋敷内にあった根神 (二ッチガミ) も1952年に殿山 (トゥヌヤマ) に移設し、拝んでいたと資料にはあるのだが、祠の前の紙には1971年建立とある。
タトゥイガー遙拝所
比嘉之殿の隣には1967年に設けられたンブガー (産井) の拝所がある。出産時の産湯の水を汲む比嘉村の産井はタトゥイガーなのだが、戦前には村落の東側に現在は体育館になっている場所の近くにあったが。現在は埋められてしまっている。
ヨーチガー遙拝所
比嘉集落の拝泉としては、タトゥイガーの他に、ムラの西方のメンターモーの北側にヨーチガーと呼ばれる井泉もあった。戦後は米軍用地の泡瀬ゴルフ場内になったので、1952年に井泉への遙拝所を比嘉之殿の敷地内に設けてある。下の写真がその遥拝所なのだが、以前は標識に「タトゥイガー、ヨーチガー 遙拝所」と書かれていたのだが、その上に紙を貼って根神 (二ッチガミ) と書いている。根神 (二ッチガミ) は先ほど見た所にもあるので、どのような経緯でこうなっているのかは分からなかった。
元々ヨ―チガ-があった場所は大きな立体駐車場になっており、戦前にはヨ―チガ-の隣には王府時代にレンコンを栽培し献上したリングムイがあったという。
カニマン御嶽
拝所敷地の丘の上にもう一つ拝所が置かれている。カニマン御嶽と呼ばれている。ムラの祭場だった殿山 (トゥヌヤマ) は、戦後、1948年に米軍のレクレーション施設の泡瀬ゴルフ場が建設された際に、その駐車場と事務所となってしまった。琉球国由来記に島袋ノロが祭祀を管轄していた比嘉集落の祭場として記載されている比嘉ノ様 (神名 カネ森ノセジ御イベ) がカニマン御嶽と比定されている。
戦没者慰霊碑
泡瀬集落拝所の奥に比嘉集落住民の戦没者慰霊碑がある。この慰霊碑は2010年に土地が返還された後ようやく2016年に建立されている。この慰霊碑には比嘉村戦没者49柱 (グラフ資料では47柱) が祀られている。このうち、38人の名前の刻銘がるが、残りの11人は身元が分からず、刻銘できなかったそうだ。
戦前、比嘉集落には68世帯315人が住んでいたので、当時住民の14.9%が亡くなっている。この戦没者割合は北中城村では最も低い
戦後、比嘉の住民は、その居住地をまず島袋の難民収容所、次に金武村福山(現宜野座村)、最後に越来村字諸見里(現沖縄市)の久保田原一帯と移動させられた。
部落の殆どが米軍用地 (アワセゴルフ場) として接収され、行政上村落として存続できなくなり、隣の島袋に編入されるようになった。旧比嘉の住民は、そのほとんどが島袋と沖縄市久保田に住むことになった。は、久保田原での旧比嘉村住民は北中城村民として登録されて生活していたが、1957年 (昭和32年) の地方自治法施行で、市町村の境界を戦前に戻すことになり、久保田原はコザ市に吸収合併された。旧比嘉住民はその後も比嘉自治会としてその名称を残していたが、平成2年に沖縄市の新住居表示導入に伴い久保田自治会に改定されている。
比嘉集落見学を終えて次に、北側に隣接している島袋集落に移動する。
参考資料
- 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)
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