Okinawa 沖縄 #2 Day 278 (09/01/25) 旧中城間切 北中城村 (13) Shimabuku Hamlet 島袋集落
北中城村 島袋集落 (シマブク、しまぶく)
- ハンタウフミチ
- 真川ヌ御嶽 (マーカーヌウタキ)
- 真川井 (マーカーガー)
- 真川原 (マーカーバル)
- 九年堂ヌ御嶽 (クニンドゥヌウタキ)
- 馬場小 (ンマナーグゥー)
- 上原山 (イーバルザン)
- 田ン原 (タンパラガ)、田ン原井 (タンパラガー)
- 下ヌ田 (シチャヌタ)、下ヌ田井 (シチャヌタカー)
- 西の前組の砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
- 上ヌ毛 (イーヌモー)
- ヤードゥヌメーモー
- 西の中組の砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
- 上ヌ溜池 (イーグムイ) 跡
- 島袋公民館、西の後組のサーターヤー (砂糖小屋)、島袋改良共同製糖場跡
- 赤木名節の石碑
- 湛水流先達 喜納宗昌 中村孟順 顯彰碑慰霊塔
- シルモーガー
- 坂倍道 (サカベーミチ)
- トゥムンジャーガー
- イリマタ道
- 倶楽部跡、アシビナー跡
- 井戸跡
- 祝女殿内 (ヌンドゥンチ) 神屋
- 殿 (トゥン)
- 殿ヌ井 (トゥヌガー)
- 東世お通し (アガリユーウトゥシ) 跡
- 東の前組の砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
- 新島 (三―ジマ)
- 東の中組と後組の砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
- 龕屋 (ガンヤー) 跡
- 梵字 (ボロン) 碑
比嘉集落、字ライカムを見学し、比嘉に北側に隣接している島袋集落を散策する。
北中城村 島袋集落 (シマブク、しまぶく)
島袋(シマブク、しまぶく)は、北中城村の北部に位置し、東、北、西は、沖縄市に接している。島袋は琉球国高究帳、琉球国由来記(1713年)などに記載があり、比較的古い村落だった。島袋は、元々は越来間切に面し、上原山 (イーバルザン) の東側の真川原が島袋の発祥の地とされている。上原山 (イーバルザン) をクシャティ(腰当て)にして現在の部落のある地を背にして北向に構えていたという。この地は冬期は北風にさらされ生活が厳しかったことから、辞意は不明だが上原山の西側の島袋原の平地の田ン原 (タンパラ) に移動し、そこを中心にして現在の部落が発展したと伝わっている。
上原山の東と西は田地が開け、シマブクターブックヮ(島袋田圃)と呼ばれた肥沃な地域だった。県道22号線から公民館を経て、こどもの国公園に至る坂倍道の西側部分が島袋集落が古くから発展してきた地域で、東側部分は比較的新しくひらけたところで、新島 (ミージマ) と呼ばれていた。
島袋は、島袋原 (シマブクバル)、西原 (イリバル)、坂倍原 (サカベーバル)、友武謝原 (トゥムンジャバル)、上原 (イーバル)、鎌下原 (カマサバル)、九年堂原 (クニンドウバル)、野比灘原 (ヤヒナーダバル)、真川原 (マーカーバル)、東新真川原 (アガリミーマガーバル)、西新真川原 (イリミーマガーバル)、洗良原 (アレーラバル) の12の小字で形成されている。
戦前までの住居は島袋原に全て集中し、その他の小字は、田畑、原野、山林を形成していた。現在では農村の面影は無くなったのだが、琉球王国時代は昔からの純農業地帯で、士族の伊集での屋取集落は存在していない。
戦前ではその生業は主として農業で砂糖きびが基幹作物で、甘藷、米も多く栽培された。その他、副食として豆類、野菜類も栽培された。島袋集落は東と西に大別し、各々を前組、中組、後組の3組に分け、合計6組に区分され、各組のきび作農家が共同でサーターヤー (砂糖小屋) を所有しており、東の前組、中組、後組が各2か所、西の前組、中組が各2か所、西の後組が1か所と合計11か所の製糖小屋があった。製造された砂糖は、すべて馬車やトラックで那覇に搬出された。
戦後の復興が進むにつれて、人口の流入が著しく、民家も山地を除いて各地域に広がっている。現在では12の小字のほとんどが居住地域になり、北中城村内で最も人口の多い行政区となっている。住民の三分の二以上は、戦後、移り住んだ人々で、戦前からの島袋の住民は三分の一に満たないそうだ。
島袋は明治時代の人口は熱田、安谷屋、喜舎場に次いで4番目に人口の多い字で699人だった。現在では北中城村では最も人口の多い字となり、明治時代から7.2倍まで増加して、2023年末では 5,055人 (2,239戸) にまでなっている。
戦前には熱田に次いで二番目に人口の多い字になり、沖縄戦での犠牲者の影響で一時人口は減少するも、戦後、人口は年5%程で順調に増加して1972年には熱田を抜いて、最も人口の多い字になっている。その後も人口は順調に増加を続け、2015年には5000人を超えている。その後は、字ライカムに大規模住宅地が誕生したこともあり、人口増加は止まり、人口は横ばい状態となっている。
琉球国由来記等に記載されている拝所は以下の通り。
- 御嶽: 真川ヌ御嶽 (神名 マカアノ嶽神名マネツカサノ御イベ)、九年堂ヌ御嶽
- 殿: 殿 (大中之殿 ?)
- 拝所: 田ン原の火ヌ神、祝女殿内神屋 (島袋巫火神)、島袋里主根所
- 井泉: 真川ヌ井、田ン原井、殿ヌ井、下ヌ田井
祭祀行事は、村内に住居を構えていた島袋ノロによって執り行われていた。
島袋集落はその時期は不明だがその場所を移動している。このレポートでは集落の発祥地、次に移動した集落地域、更に集落が拡張していった地域の順番で紹介する。
ハンタウフミチ
先の訪れた比嘉集落の殿山 (トゥヌヤマ) の道を登った所が島袋集落になる。島袋集落は標高100m程の高台に位置している。集落の南を東西に走っているのがハンタウフミチになり、この道を東に進むと道幅が広くなり、その区間あhヒナグ―ウフミチと呼んでいた。
「ハンタ」は沖縄方言では崖を意味しており、道の南側は急峻な崖で小字洗良原 (アレーラバル) になる。洗良原は全体が森になっており、道も無く民家なども見当たらない。戦前の集落を表した民俗地図では、この洗良原にはスクヌ井、洗良井が記されているので、畑だったのではないかと思う。
洗良原の東側は小字の東新真川原 (アガリミーマガーバル) と西新真川原 (イリミーマガーバル) なのだが、この小字は急峻な崖下で、東新真川原の崖上に民家が建てられている以外はほとんどが深い森で人は住んでいない。
真川ヌ御嶽 (マーカーヌウタキ)
戦前までの集落から東に外れた小字真川原 (マーカーバル) が島袋集落の発祥地とされている。西側は上原山 (イーバルザン) の崖が聳え、山の付け根の平地に人が住みはじめ集落を形成したと伝わっている。集落の上の上原山が聖域 (クサティ) で その斜面に村落第一の拝所だった真川ヌ御嶽 (マーカーヌウタキ) の祠が東向きに設置されている。琉球国由来記の「マカアノ嶽神名マネツカサノ御イベ」になる。石の祠の前には真川井 (マーカーガー) を拝するお通し (遙拝所) も設けられていた。
真川井 (マーカーガー)
真川井は真川原に住んでいた当時の人々が使用した井戸で、現在では消滅している。住民により、井戸拝所を作り拝んでいるのだが、真川井がどこにあったのかは分からなくなっており、何度か場所を変えて井戸の拝所を造っている。訪問した際には民俗地図に示された場所 (下の写真) には拝所は無くなっていた。
近くの畑で農作業をしている男性に尋ねると、新しい拝所が完成したばかりだと教えられ、その場所を案内してもらった。新しい拝所は真川ヌ御嶽がある崖の真下に造られていた。この様に忘れ去られることもなく、祈りの対象として大切にされていることが判る。
真川原 (マーカーバル)
この集落発祥地の真川原 (マーカーバル) は集落が田ン原 (タンパラ) へ移住した後は人は住んでおらず、2000年頃にようやく民家が建ち始めている。現在では土地の一部は住宅地として開発され、モダンな住宅が立ち並んでいる。
九年堂ヌ御嶽 (クニンドゥヌウタキ)
島袋集落にはもう一つ御嶽がある。集落の東側、上原山のの北外れにある。真川原の真川ヌ御嶽の北側の九年堂原へ進み、九年堂坂 (写真左上) を登ると旧外人住宅が現れる。平屋の米軍標準の家が幾つか残っている。その中に広場があり、何本も石の柱があり、それにはRoosevelt BLVD, Mississippi St., 7th Div. St., 96th Div Rd などと刻まれている。戦後米軍がこの地を接収し兵士の家族住宅を開発し、道も整備した際の名残を集めているようだ。BLVDの様は広い道から, Street, Road とあるのでかなり整備された地域だったのだろう。
その一角の崖上に、昔からの石灰岩の祠の九年堂ヌ御嶽 (クニンドゥヌウタキ) が東向きに原形を保って建っている。琉球国由来記には記載はない。御嶽一帯を整備するのに九年の歳月を要したので、この名がついたともいわれる。祠の中には二個のサンゴ石灰岩があり、これを神体のビジュルと称している。集落は真川ヌ御嶽とこの九年堂ヌ御嶽二つの御嶽を背に東側にあったが、時代が下るにつれて上原山の丘陵を越えて西側に広がっていった。
馬場小 (ンマナーグゥー)
真川ヌ御嶽の西側の住宅地に一直線の道がある。かつての馬場跡になる。1909年 (明治42年) 頃までこの馬場小 (ンマナーグゥー)で馬勝負 (ンマハラシー) が行われていたという。馬場小は真川ヌ御嶽、九年堂ヌ御嶽の西側に位置していたが、当時、疫病により多くの若者が死亡したことから、御嶽との位置関係が取りざたされ、馬勝負は、以後廃止されたそうだ。
上原山 (イーバルザン)
馬場小 (ンマナーグゥー) から北に進むと、上原山 (イーバルザン) の頂上が見えてきた。上原山は戦前までは島袋集落の聖域 (クサティ) と考えられており、その西斜面には墓が立ち並んでいる。
上原山の頂上まで登るとここにも旧米軍兵家族向けの平屋建て外人住宅が立ち並んでいる。今は民間に払い下げられて一般人が住んでいる。北中城村の他の集落を巡ると、多くの旧外人住宅地が残っている。いずれも高台に位置している。本土復帰前までは米人は高台で優雅な生活をし、地元民はその高台の下で生活をしており、二つの異なる生活圏が混在していた。
田ン原 (タンパラ)、田ン原井 (タンパラガー)
集落発祥地の真川原 (マーカーバル) は冬期は北風にさらされ生活が厳しかったことから、上原山の西側の島袋原 (シマブクバル) とその東に隣接する西原 (イリバル) にまたがる平地の田ン原 (タンパラ) という地域に移動し、そこを中心にして現在の部落が発展したと伝わっている。
この田ン原の地域には屋号田ン原 (タンパラ) の屋敷があった。屋号田ン原 (タンパラ) は七煙 (ヒチブイ) の一つで島袋の世建て (ユーダティ)、世元 (ユームトゥ)といわれ、島袋集落はこの田ン原を中心としてここから拡大発展して行った。現在では小嶺 (クンミ) 門中の蒲小嶺 (カマークンミ) が継承している。島袋集落の主要な旧家は七煙 (ヒチブイ) と称されている。チブイ (キブイ) と煙の意味で、竈から上がる煙を表し、七チネー (七家) と同意になる。七煙 (ヒチブイ) には島袋最古の門中の田ン原 (タンパラ) の他に仲門門中 (ナカジョー)、上門門中 (イージョー)、神谷門中 (カミヤ)、東安里門中 (アガリアサトゥ)、後安里門中 (クシアサトゥ)、前安里 (メーアサトゥ) がある。
屋号田ン原屋敷内には火の神と屋敷西側には田ン原井 (タンパラガー) という井戸が残っており、旧正月ではここから若水を汲んでいる。また、旧暦6月25日と9月1日には小嶺 (クンミ) 門中が拝んでいる。
下ヌ田 (シチャヌタ)、下ヌ田井 (シチャヌタカー)
田ン原の南側には下ヌ田 (シチャヌタ) と呼ばれていた場所がある。稲作が行われていた頃には水田、その後はキビ畑となっていたのだろう。
下ヌ田の南側には下ヌ田井 (シチャヌタカー) があったのだが現在では埋められ消滅しているが、その場所に形式保存した井戸の拝所がつくられている。
西の前組の砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
下ヌ田ノ南側、戦前の集落の南西部の端に戦前にあった西ヌ前組の砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた場所があり、現在は空き地になっている。戦前まではこの北、南、西は一面畑でそこで収穫したサトウキビを搾って製糖作業が行われていた。
上ヌ毛 (イーヌモー)
大正の頃までは種子取 (タントゥイ) の日には苗代に籾を蒔いた後、下ヌ田の東側の上ヌ毛 (イーヌモー) や北西のヤードゥヌメーモーなどで酒をくみかわしながら沖縄角力に興じたという。また、旧暦6月14日に綱引きが行われ、綱引き終了後、上ヌ毛ではで東西対決の沖縄角力大会が開かれていた。現在でも広場として残っており、村の行事で使われているようだ。
ヤードゥヌメーモー
稲作が行われていた時代には種子取 (タントゥイ) で苗代に籾を蒔いた後、上ヌ毛 (イーヌモー) と同じようにこのヤードゥヌメーモーでも酒をくみかわしながら沖縄角力に興じていた。
西の中組の砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
ヤードゥヌメーモーの北側に広い空き地がある、この場所には、戦前、西の中組の砂糖小屋 (サーターヤー) が二基置かれていた場所。
上ヌ溜池 (イーグムイ) 跡
ヤードゥヌメーモーの東には川が流れており、そのほとりには上ヌ溜池 (イーグムイ) があったそうだ。現在は埋められているが、当時は農作業の道具や農耕馬を洗ったりしていたのだろう。戦前、島袋には5つ以上のクムイがあり、そのほとんどがンマアミシグムイ (馬を水浴びさせる溜池) として利用されていた。イーグムイは、深いところは2メートルぐらいあり、子どもたちが橋から飛び込んで泳いだり、ナガー(テナガエビ)や魚を捕まえたり、絶好の遊び場だった。
田ン原 (タンパラ) に移ってきた後に集落は、その地から東に拡大していった。次は拡大していった地域を散策する。
島袋公民館、西の後組のサーターヤー (砂糖小屋)、島袋改良共同製糖場跡
田ン原 (タンパラ) から拡張していったかつての島袋集落の北の端辺りに、公民館が建てられている。現在の島袋公民館が建っている場所は、戦前、西の後組のサーターヤー (砂糖小屋) だった場所で、1939年 (昭和14年) には、中城村字島袋改良共同製糖場の近代的な製糖工場が建設され、島袋と比嘉の農家が使用していた。広報北中城 (No 566) に当時の写真が掲載されており、トロッコ軌道も写っている。製糖場にサトウキビを運ぶトロッコ軌道と思われると説明があった。別の資料では公民館から北に伸びる坂倍道 (サカベーミチ) にトロッコ軌道が敷かれ、胡屋を経て、嘉手納の製糖工場にサトウキビを運んでいたとも書かれていた。
戦後、島袋改良共同製糖場跡地には島袋公民館が建てられ、その隣には島袋中央公園が整備されている。戦前の公民館は倶楽部と呼ばれ、別の場所にあった。字島袋と字比嘉の自治会が運営している。(そういえば、比嘉には公民館がなかった。)
赤木名節の石碑
公民館の庭には赤木名節の石碑 (2003年 [平成15年] ) が置かれている。奄美大島の赤木名という村の鳥小 (トゥイグワー) と呼ばれる歌の上手な遊女と首里王府から派遣されてきた役人の交情を題材に、恋人と過ごす束の間の逢瀬を名残惜んで詠まれた歌曲の赤木名節が刻まれている。戦後、しばらく途絶えていたが、1978年に、北中城まつりへの出演をきっかけに復活し、2002年 (平成14年) には北中城村の無形文化財に指定されている。はっきりとはしないのだが、元々は奄美大島の笠利町赤木名で生まれた恋歌が、琉球王朝時代に島袋に伝わってきたとも、首里の踊奉行から各地のシティ (上手な人) たちが習ってきたともいわれている。現在では赤木名節が残っているのは島袋と伊江島くらいで、島袋の赤木名節の特徴としては、空手の型が入った勇壮、活発な振付の二才 (ニーセ― = 青年) 踊りで、支度は琉髪のカタカシラ、頭に請け鉢巻き、黒の着流しの衣装、帯は前結びをし、脚は白黒の縦縞の脚絆に白足袋を履いて演じられる。歌碑には
赤木名よ 鳥小が
はやてはよ 歌てとう
イースリ サースリ
はやて歌えばとう
我無蔵とう いちからいちまで
イースリ サースリ
沈や伽羅とぼす
御座敷に出ちてイースリ サースリ
踊る我が袖の
匂いしゆらしや
イースリ サースリ
と刻まれている。
湛水流先達 喜納宗昌 中村孟順 顯彰碑
島袋公民館に隣接して、島袋中央公園が整備されており、その片隅に、湛水流先達 喜納宗昌 中村孟順 顯彰碑が建てられている。島袋出身で、三大流派 (野村流、安冨祖流) の一つである湛水流の継承者だった喜納宗昌 中村孟順の湛水流の保存発展への功績を讃えたもの。碑文によれば、湛水流は、沖縄三線の基礎を築き球古典音楽の祖といわれる湛水親方 (幸地賢忠 1623〜1683) の歌法を玉城朝薫の門下が受け継ぎ首里儀係邑の芸能として演じられていた。湛水親方は首里の名家に生まれ、時の大政治家・羽地朝秀の従弟でもあった彼は、才を見込まれて若いうちから薩摩に渡り見聞を広めていた。 当時琉球では大和芸能が奨励され、琉球音楽は低俗なものと見なされていたが、彼は国が誇れる独自の芸能の創作こそ肝要であると思い至り三線音楽の探求に一身を投じた。 時には作曲に没頭するため仲島という遊廓にとじ籠ったり、音楽のよき理解者であった遊女を後妻に迎えたことで名門士族にあるまじき放蕩者と非難もされたが、彼は世評に動じず信念をもってついに己の音楽を大成させたのであった。 一時は首里を追放もされ毀誉褒貶の激しい生涯を送ったが、格調高い古典三線音楽 湛水流を完成させた彼は いつしか国王からも尊敬される存在となり、茶道頭として再び首里に迎えられてからは 剃髪して自ら湛水の号を名乗った。明治五年に尚泰王命で尚泰の御近習役だった山内盛熹他四名の古典音楽の大家達が湛水流唯一の伝承者と言われた名護良保から受け継ぎエエ四を作成して伝承され、魔藩置県の後、山内盛熹が越来間切に21年間生活している内に喜納宗昌が継承、子息の中村孟順へ伝えた。この港水流は昭和47年に沖続県の無形文化財に指定されている。
慰霊塔
中央公園には慰霊塔も建てられている。1952年 (昭和27年) に戦没者の御霊供養のため上原山のンマナーグワーに建立したが、米軍の住宅地造成で、1958年 (昭和33年) に公民館の敷地内に移築された。その後、老化した公民館を建て替える際に2001年 (平成13年) に慰霊塔も再建されたもので、比嘉の戦没者も含め244柱が祀られ、沖縄戦が事実上終結した6月23日の慰霊の日に慰霊祭が行われている。
慰霊塔には恒久平和と戦没者の冥福を祈り、詩が刻まれている。
村人の真心こめて
建てし塔
御霊安かれ
永久に祈らん
沖縄戦では島袋は米軍が1945年 (昭和20年) 4月1日に読谷、北谷海岸に上陸し、4月2日には米軍第7師団が中城湾を目指し、島袋を突破している。島袋では戦闘などは無く、民家は破壊されることもなく、そのまま残されていた。そのことで、島袋集落全体が4月4日に民間収容所と指定され、中城村や宜野湾村を中心とした住民が次々に収容され、開設日の翌日には島袋集落住民はじめ6,000人、13日には20ヶ村からの10,000人を突破した。その後、28の市町村民およそ12,000人が収容されていた。金網に囲まれ、10の区域に分けられた収容所内の旧島袋集落の民家で数所帯数十人の雑居生活、配給生活を送っていた。収容所内では比較的行動の自由は認められていた。配給生活だったが、それでは足りず食糧確保は厳しく、MPに同行されて集団での芋掘り、日本軍の食糧探し、伊佐浜での稲穂刈り、さらに山羊や豚などの家畜を殺して食べたりしていたという。収容されていた人の中で可動者は米軍に作業に駆り出され、米軍野戦病院で、負傷兵の切断された足や手をドラム缶で焼いたり、敗残兵狩り、嘉手納飛行場や砂辺飛行場の作業、米兵の死体処理作業をなどをさせられ、の見返りにCレーション (缶詰にされた調理済みの料理) が配給された。島袋は日本軍を長距離砲で攻撃する米軍の基地となり、島袋は、日本軍を長距離砲で攻撃する基地となり、島袋収容所の住民は、発射される長距離砲の砲撃音に悩まされたという。その後、米軍作戦の都合により、島袋収容所は閉鎖され、7月11日に米軍のトラックで宜野座村福山に強制移動させられている。
1946年 (昭和21年) 3月に島袋住民へは福山収容所から島袋集落への帰還は許可が降りたが、島袋は軍用地に指定され民家はほとんどが破壊されており、旧部落への立ち入りは許されず、島袋と比嘉の住民は越来村諸見里に移動している。1952年 (昭和27年) に軍用地だった旧部落が指定解除され、元の部落への帰還が始まった。
シルモーガー
公民館の裏側にシルモーガーという井戸跡があった。図書館の資料には情報がなく、インターネットでも見当たらず。
坂倍道 (サカベーミチ)
公民館正門前の道は坂倍道 (サカベーミチ) と呼ばれ、この道を北に進んだ坂倍 (サカベー) という場所を通っていた。戦前まではこの道は胡屋を経て、嘉手納の製糖工場にサトウキビを運んでいたトロッコ軌道が敷設されていた。
トゥムンジャーガー
坂倍道 (サカベーミチ) 脇に井戸跡があった。資料では トゥムンジャーガーと記載されているが、詳細についてはなかったが、井戸には香炉が置かれ平御香 (ヒラウコウ) が供えられていた。地元では拝まれているようだ。。
イリマタ道
坂倍道 (サカベーミチ) を北に進むと沖縄市との境界線となっているイリマタ道に突き当たる。戦前のトロッコ軌道は坂倍道から、このイリマタ道を通り、胡屋を経て嘉手納の製糖工場打で敷設されていた。
倶楽部跡、アシビナー跡
島袋集落の南端、字比嘉との境界辺り (現在は中部徳洲病院駐車場) には戦前までは倶楽部 (公民館にあたる) が置かれていた。1938年 (昭和13年) に寄付金を募り、アシビナー (遊び庭) だった場所に35坪の倶楽部を建設している。それまでは、集落内の大きな屋敷を集会場として使っていた。
井戸跡
倶楽部があった場所には井戸跡があり、形式保存され、香炉が置かれている。資料には記載がないのだが、井戸の前には香炉が置かれているので、村では御願しているようだ。
祝女殿内 (ヌンドゥンチ) 神屋
倶楽部のすぐ近くに祝女殿内 (ヌンドゥンチ) の屋敷がある。祝女殿内は神役の島袋ヌルを出した家で、屋敷内には神屋 (カミヤー) がある。神屋の祭壇には、向かって左からヒヌカン(火の神)、ヌルのカミを祀る香炉二個、名称と由来伝承が不詳の香炉一個が安置されている。祭祀では最初にヒヌカンを拝し、次にヌルのカミの香炉、そして名称不詳の香炉を拝していた。琉球国由来記には島袋巫火神という拝所が記載されているが、この神屋の火ヌ神がこれにあたるのだろう。島袋ヌルは島袋・比嘉・渡口の三村落を祭祀の管轄としていた。旧5月14日のウマチーには隣の比嘉部落へも祭祀に出かけた。このように、島袋と比嘉は「ヒジャ・シマブク」(比嘉・ 島袋)と二村落が連称され、同じノロの祭祀管轄区域の関わりで、ムラ人の祭祀上の結びつきは強かった。比嘉部落の人々も正月の年頭拝みをはじめ、ウマチーや清明祭などに供え物を持ってこの祝女殿内に御願に来たという。
ヌルは祭祀の時に馬に乗って拝所に出向いていた。祝女殿内の西側には、その馬に水を浴びせたと伝えられるクムイ (池) があったそうだ。現在は駐車場になっている。
殿 (トゥン)
祝女殿内屋敷内の北側にはトゥン (殿)と呼ばれている拝所がある。ここは旧暦6月25日のルクグァチカシチー (六月強飯 米の祈願祭) で拝している。旧家のカマークンミでは3月と8月のカーウガミの年二回拝んでいる。琉球国由来記では「大中之殿」が記載されている。この殿がそれにあたるのだろうか? ただ大中之殿ではカシチーではなく麦穂祭、稲二祭 (ウマチー) の祭祀が、比嘉ノロによって行われていたとなっているので違うかも知れない。琉球国由来記にはもう一つ祭場が記載されている。島袋里主根所でこちらは6月のカシチーに比嘉ノロによって祭祀が行われていたとなっているのでこちらが殿なのかも知れない。
殿ヌ井 (トゥヌガー)
祝女殿内 (ヌンドゥンチ) 敷地内東側にある井泉は子供が生まれたと きの湯灌の水を汲むンブガー(産井泉)で、殿ヌ井 (トゥヌガー) と呼ばれている。
東世お通し (アガリユーウトゥシ) 跡
祝女殿内 (ヌンドゥンチ) 神屋の北東の道沿いに踊り場がある。その中に石があり、その上に賽銭が供えられている。ここはニライカナイの創造神アマミキヨへの遙拝所になる。
東の前組の砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
祝女殿内 (ヌンドゥンチ) 神屋の北には戦前まではの前組の砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた。現在は空き地になっている。
新島 (三―ジマ)
このあたりから公民科を結ぶ道の西側が今まで見てきた地域で、島袋集落が田ン原に移動した後に発展拡張した場所になる。この地域には旧家が屋敷を構え、各屋敷は比較的広い敷地だった。この道の東側が旧家の三男、四男が分家して家を立て住み始めた場所で新島 (三―ジマ) と呼ばれている。こちらの地域の屋敷は旧家に比べ比較的小さく、本家に遠慮して小さくしたという。村が拡張していった地域なので、御願所や拝井など史跡は存在しない。
東の中組と後組の砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
新島 (三―ジマ) の戦前の集落が終わる東の端には、東の中組と後組の砂糖小屋 (サーターヤー) が、それぞれ二基あった場所になる。
龕屋 (ガンヤー) 跡
戦前の島袋集落から北に外れた所、トゥムンジャーガーの東側には龕屋 (ガンヤー) が建てられていた場所がある。既に龕屋は取り壊されてその面影はなく住宅地の中で空き地となっている。
梵字 (ボロン) 碑
島袋集落内には4基の梵字 (ボロン) 碑が残っている。梵字 (ボロン) は一字金輪の種子で、仏菩薩の功徳は全てこの一字一尊に帰すると伝わる。梵字碑は村では拝まれることは無く、石敢當と同じように魔よけの石碑として扱われている。その他にも1807年 (嘉慶12年) 建立の諸尊諸経供養碑と年不明の文字不明碑 (裏は泰山石敢当口) もあるそうだ。この内、3基の梵字碑は見つけたが、それ以外は見つけられなかった。
不動明王を表すカンと文殊菩薩を表すマンを組み合わせた「カンマン」の梵字碑は二基あり、その一つは集落の南側にある。
島袋公民館隣の西側、道路を隔てた屋敷沿いにもう一つカンマン碑がある。
公民館の東の住宅の敷地内にも梵字 (ボロン) 碑があった。
今日目に留まった花の写真。本土でも見る花もあるが、沖縄では1月、2月でもきれいな花が咲いている。
これで、今日は屋宜原、比嘉、島袋の三集落を巡り、既に5時を過ぎていった。帰路は25km程あるので、二時間はかかるだろう。帰りは今まで通った事のない道を選んだ。ライカム地区から中城湾へ一気に下るサングリーン道路で仲順、熱田に降りて、中城村、西原町、与那原町、南風原町で7時半ごろにようやく帰り着いた。
今日は行きも帰りも25km程の距離で、行は疲れることもなく走れるのだが、帰りは体力も消耗しているのか辛い。そろそろ日帰りの集落巡りは距離的に限界が来ているだろう。
参考資料
- 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)
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