Okinawa 沖縄 #2 Day 276 (19/12/24) 旧中城間切 北中城村 (09) Zukeran Hamlet 瑞慶覧集落

旧中城間切 北中城村 瑞慶覧集落 (ジキラン、ずけらん)

  • 旧瑞慶覧集落跡
  • 大道 (ウフミチ)、並松
  • シリンガーラ
  • 瑞慶覧区公民館
  • カンシャギャー (カンサギャー、ウカミヤー)
  • 賓頭盧 (ビジュル)の神、東世ヌお通し (アガリユーヌウトゥーシ)
  • 井泉の合祀所
  • 慰霊之塔
  • クルトゥ石 (力石)
  • 字瑞慶覧集落略図


北中城村瑞慶覧 (ジキラン、ずけらん)

瑞慶覧は、北中城村の西部に位置し、安谷屋、喜舎場、屋宜原と接し、北西側は北谷町と境をなしている。

口伝によると、部落は最初吉元(御神前)、新垣(後安里)、前ヌ安里、玉元、久保田、間皆、仲門の 7戸から始まったという。吉元を先駆者として、その始祖を祭った「御神前」を根所とする。これら旧家の屋敷は、いずれも部落後方中央部にあった殿 (トゥヌ) の近くにあった。そこにはカンシャギャーと呼ばれる瓦屋根の建物が建てられ、中には火の神が祀られていた。

瑞慶覧には部落 (ブラク)、東前原 (アガリメーバル)、西前原 (イリメーバル)、西原 (イリバル)、大平原 (ウフンダバル)、東後原 (アガリクシバル) の六つの小字で構成されている。東後原は、山ヌ後 (ヤマヌクシー)、山後原 (ヤンシリーバル)、尻川原 (シリンカーラ)、根原 (ニーファル)、後当原 (シリントーバル)、溜池 (ガマグムイ)、東松 )アガリマーチュー)、神峯原 (カンヌミバル) の地域をまとめて小字となっている。戦前は本集落の他に、大平原 (ウフンダバル)に大平屋取・仲山屋取、西前原 (イリメーバル)に前原屋取、西原 (イリバル) には板原 (イチャバル)屋取が点在していた。廃藩置県の前後に首里などからの移住者によって形成された屋取集落で、数軒が点々と丘の傾斜面に建っていた。また、集落の近くには郡道(後の県道)から直接馬車が入る大きな道はなく、農産物の運搬には不便で、移住者は不自由な思いをしながら農耕に従事した。瑞慶覧は戦後に全域が米軍に接収され、現在も大部分がキャンプ瑞慶覧 (Camp Foster) として接収されたままとなっている。現在では住民は返還された小字の西原に住んでいる。

集落は南側に展開し、その背後には祭場である殿 (トゥン) があった。殿を境にして集落を東西に分け、西側を西村渠 (イリンダカリ)、東側を東村渠 (アガリンダカリ) と呼ばれていた。

イリウフミチ (西大道、ウフミチ 大道) と呼ばれた県道から馬場 (ンマイー) には前道 (メーミチ) が通じていた。旧暦六月の綱引きはここで行われていた。戦前、前道 (メーミチ) 沿いには東組、中組、新組の製糖小屋 (サーターヤー) が集中してあり、西組の製糖小屋は西原 (イリバル) の中央部にあった。部落内には前道 (メーミチ) を含め、後道 (クシミチ)、中道 (ナカミチ) の東西に走る主要な道路は三本あった。


字瑞慶覧の現在の人口は253人で北中城村の字では旧字地域ベースでは最も少ない。これは字瑞慶覧の大部分が米軍基地として接収されたままになっていることが大きな要因となっている。1880年 (明治13年) の人口と比較すると現在の人口は30%の減少となっている。

沖縄戦直前 (1945年) には443人だったが、沖縄戦で124人が犠牲となり、集落は米軍基地となり、近隣地域に移住を余儀なくされていた。下の人口グラフでは戦後1969年までの人口は360人~380人となっているが、これは戸籍ベースでの人口データではないかと思われる。1970年に人口データは177人となっている。この時点で住民台帳ベースに変更されたのだろう。この数字が実際に字瑞慶覧に居住していた人口になる。その後、人口は順調に増加し、1995年には373人にまで回復している。しかし、その後は人口減少に転じ、近年はその減少は鈍化しているが、微減傾向にある。その背景はわからなかったが、グラフから推測すると、少子化で世帯当たり人数が減少していることと、北谷や島袋、ライカムが商業施設と住宅地開発で、字瑞慶覧からの転出が起こり、その後の字瑞慶覧への転入が限られていることにあるように思える。

瑞慶覧は、北中城の他の村落と異なって、戦後旧村落地域が米軍用地に接収されているために、ほとんどの祭場は米軍基地の中に所在し、すべての祭場が破壊され、痕跡もなくなっている。琉球国由来記によると瑞慶覧巫大神は、安谷屋にあり瑞慶覧ノロが祭祀を司っていた。所在地が安谷屋になっている理由は不明。この他に東門之殿と御盆営根所の二か所の祭場が記されている。東門之殿は、現在の殿 (トウヌ)に比定されている。瑞慶覧ノロは、喜舎場村の祭祀を司っていた。戦前、旧6月25日のカシチー (ウマチー) では、後安里のヒヌカンとカミダナに後安里が作ったウンサク (御神酒) を供え、次に殿と御願ヌ前 (ウガヌメー) に供えて祈願していた。ミチジュネー (道じゅねー) は後安里から出発し、殿で棒術の奉納が行われ、メーミチまで行列して流れ解散となった。旧7月16日のエイサーは、御願エイサーを殿で行ってから、次に家庭廻りの最初に後安里に入った。

瑞慶覧集落の主要な拝所は以下の通り

  • 御嶽: 御願山
  • 殿: 東門之殿 (殿)
  • 拝所、神屋: 御盆営根所 (消滅)、後安里神屋
  • 拝井泉: 苗代田 、上泉、前ヌ井泉

喜舎場集落から北中城村役場前の県道81号線を西に進み安谷屋を越えて、石平で国道330号線にぶつかり道を北に進む。この国道330号線の両側は米軍のキャンプ瑞慶覧で道沿いはフェンスで仕切られ民家などはない。


旧瑞慶覧集落跡

むと東側の米軍基地の中に陸上競技トラックが見えてくる。このトラックの北側が戦前に瑞慶覧の中心地だった部落があった場所だ。戦後、瑞慶覧は全域が米軍に接収され、集落は完全に破壊、整地されてしまい、拝所も全て消滅してしまった。当時を偲ぶ物は一切無くなっている。


大道 (ウフミチ)、並松

旧瑞慶覧集落の西側には大道 (ウフミチ) と呼ばれた道があった。今通っている国道330号線にあたる。現在では道幅が広くなっているが琉球王国時代から戦前はこれほど広くは無かったが、普天間から越来間切への宿道だった。道の両側には蔡温の時代に植えたと伝えられる琉球松の並木が続いていた。この道は北谷や中城間切番所に通じる道とも交差し、交通の要衝だった。石平から越来村胡屋への郡道は、1918年 (大正7年) に着工され、1920年 (大正9年) に竣工している。この郡道中央線の開通により、この辺りから普天間へ砂糖運搬用のトロッコ軌道も敷設され荷馬車が走り、昭和になってからは乗合自動車も運行され るようになった。


シリンガーラ

国道330号線を更に北に進むと旧瑞慶覧集落の東側を南北に流れていた川のシリンガーラの名残が残っている。米軍基地内を流れており、フェンス越しに見ると工事中だった。新しい学校の建設に伴ってシリンガーラも整備中だった。シリンガーラは、もともと田の近くに作ってあったクムイが、上方にある田から下方にある田へ水が流れるうちに大きくなりカーラと呼ばれるようになったもの。この辺り、この川には大平橋 (ウフンダバシ、瑞慶覧橋 [ジキランバシ] ともいう) と呼ばれた橋が架かっていたそうだ。

この橋の北側には大平屋取 (ウフンダヤードゥイ) 集落があった事からこの様に呼ばれていた。このシリンガーラ沿いには戦前迄はソージガーミチと呼ばれる道があり、瑞慶覧集落から大平屋取集落への道だった。戦前は大平原 (ウフンダバル) にあった大平屋取以外にも、仲山屋取、西前原 (イリメーバル) に前原屋取、西原 (イリバル) には板原 (イチャバル) 屋取が点在していた。1903年 (明治36年) 当時の士族と平民の人口が下のグラフだが、瑞慶覧集落内の士族は13世帯だった。


瑞慶覧区公民館

国道330号線は戦後に造られた県道130号線と交わり、県道130号線を北谷方面に入った所に瑞慶覧区公民館が建っている。


カンシャギャー (カンサギャー、ウカミヤー)

公民館の奥には、現在は基地内となった旧集落にあった拝所が合祀されている。戦前の旧瑞慶覧集落の主要な祭場は、殿 (トゥヌ)、御願 (ウガン、御願ヌ方)、御神前 (ウガヌメー) で、これに加え、旧家の後安里 (クシヌアサトゥ) の神屋、苗代田 (ナーシルダー)、前ヌ井泉 (メーヌカー) だったが、すべての拝所は米軍によって破壊され、土地も軍用地として接収されたままになっている。公民館敷地内にウカミヤーと呼ばれるカンシャギャー (カンサギャー) を造り、もとは殿 (トゥヌ) にあった御神体の火ヌ神 (ヒヌカン) と御嶽神 (ウタキガミ) が祀られている。琉球国由来記に記載されている東門之殿に比定されている殿 (トゥヌ) は部落の中央部後方、その殿の東方に御願ヌ方があり、一般に御願 (ウガン) または御願山と呼ばれていた。最初に瑞慶覧に移住してきた地が御神前 (ウガヌメー) の東後方で、村落は、その一帯を中心に形成され、その後、西へ展開していった。村立ての旧家の屋敷は殿の近隣にあった。瑞慶覧の草分け伝承では、一番の創始家が御神前 (ウガヌメー)、二番が後安里 (クシヌアサトゥ)、三番が玉元 (タムトゥ)、四番が安里 (アサトゥ) で、ウマチーなどのムラウガン(村御願)ではこの順番で御願が行われていた。この四家の他に、五番目来住の間皆 (マミナ)、六番目の久保田 (クブタ)、七番目の上門 (イージョー)もしくは仲門 (ナカジョー) を加え、総称して七様 (ナナサマ) とされている。


賓頭盧 (ビジュル)の神、東世ヌお通し(アガリユーヌウトゥーシ)

カンシャギヤーの東脇には「ビジュルの神」と「東ユーヌウトゥーシ」の二つの香炉がある。戦前のカンシャギヤーの前は広場になっており、そのアシャギに向かって右側は一尺ほど高くなって、そこにアガリューヌウトゥーシの拝所があったそうだ。当時はウマチーなどの行事でノロは白衣装をつけ頭に山カズラで輪を作って被り、殿への礼拝の後、その一段高いところに着座してアガリユーへのウトゥーシ(お通し)をし、拝所全部拝んでから、最後にウトゥーシをした。この高くなったところは、群舞ができるほどの広さがあり、村の行事の時舞台代わりにも使われていた。その一角に松の木があり、根元に拝所があってビジュルといわれていた。村人は旅にでるときはここを拝み、そして殿を拝んでから出かけたという。


井泉の合祀所

カンシャギヤーの西側には苗代田 (ナーシルダー)、上泉 (イーガー)、前ヌ井泉 (メーヌカー、産泉 (ンブガー)) が祀られている。

苗代田 (ナーシルダー) は、稲の始まりの場所で、かつてはンブガー(産井泉)として子供が生まれたときの産水 (ンブミジ) として使われ、普段は生活用水として利用された。

前ヌ井泉 (メーヌカー) は殿の真南にあたる場所にあり、1917年 (大正6年) にイシグーをくり抜いた二つの水壺に整備され、以後は、ここがナーシルダーにかわって産井 (ンブガー) となり、飲料水、洗濯、水浴びなどに利用された。正月のワカミジ(若水)はここから汲まれ、水を汲みに来た子供や若者たちで賑わった。


慰霊之塔

瑞慶覧区民会館敷地内の一画には終戦33年忌の 1977年 (昭和52年) 4月3日に慰霊之塔が建立され、日露戦争、支那事変、第二次世界大戦で犠牲となった瑞慶覧集落住民の170柱が祀られている。この4月3日は部落の御願山の壕で部落民約300人が捕虜になった日であり、名幸のガマの悲劇の日でもあるので、この日を慰霊の日と定め、慰霊祭を行っている。

第二次世界大戦では瑞慶覧集落住民の124人が犠牲となった。1945年当時の人口は443人で全体の28%が犠牲となった勘定だ。その内村内での犠牲者は51人と北中城村では最も多い村内犠牲者数だった。米軍が北谷、読谷に4月1日に上陸し、翌日には瑞慶覧集落に侵攻している。集落住民の殆どは疎開せずに村に残り、近くのガマに避難していた。瑞慶覧集落の北側後方にあった御願山の壕には瑞慶覧集落住民約300人と屋宜原、北谷の玉代勢、伝道からの避難民、合計約600人が隠れていた。4月2日から3日にかけて米軍兵士に降伏を勧告された際に、幸いにも沖縄島尻出身の二世が通訳をし住民を説得してこのガマの人々は捕虜となり生きながらえる事ができた。これとは対照的に、集落の東のはずれにあった名幸のガマの避難民には悲劇が起こった。瑞慶覧集落の38人と瑞慶覧縁故者37人、合計75人がこのガマで亡くなっている。


クルトゥ石 (力石)

慰霊之塔の前にはクルトゥ石が台座の上に置かれ、大事に保存されている。115斤 (68kg) だそうだ。クルトゥ石は道のアジマー(十字路)の広場などに置かれ、青年たちが肩に担ぎ、さらに頭上に差し上げては力自慢をしたそうだ。旧集落にあったもので残っているのはこれぐらいなので、住民の昔を偲ぶ数少ない遺物なのだろう。他の集落でも力石を保存しているが、無造作に地面に置かれているのが殆どで、この様な形で大切に保管されているのはこの瑞慶覧で初めて見る。

字瑞慶覧集落略図

カンシャギヤーの前には戦前の瑞慶覧集落の図が2018年 (平成30年)に字瑞慶覧部落移動50周年事業として造られている。米軍基地に接収され、消滅し、返還に目処がたたない故郷の記憶を残す為に置かれている。

碑には以下の様な文言が書かれている。

瑞慶覧部落民は沖縄戦で米軍の上陸によりシマを追い出されたまま70年も経過した。本集落は平坦で基盤の目のように整い、一方屋取りの大平は傾斜地に居を構えていた。小高い丘を背面に控え、殿 (トゥン) をクサティ (聖域) にして周辺に田畑の広がる緑豊かで水利に恵まれた美しいムラはすべて消えた。特に瑞慶覧馬場の両側に連なる並松の涼風に響む風物などなど昔懐かしい風景の中の家並みもすべて焼き尽くされ米軍基地で跡形もなくなった。部落移動50周年事業を機に在りし日の野良仕事に汗を流し、エイサーや網引きで若者たちの汗が飛び交い、ときには村遊びで生命の輝きに満ち溢れていた先人たちを偲ぶよすがとしてこの集落図を作製した。

とある。「シマを追い出された」 との表現が村民の感情を表している。通常は「接収」 などの表現を使っているのだが、当事者である村民にとっては「略奪」 に近い出来事と感じている。沖縄では集落により、戦後の復興の過程が様々で、住民の感情は異なっている。瑞慶覧の様に村が消滅し、返還されていない住民にとってはまだ戦後は終わっていないという。


瑞慶覧公民館訪問後、北谷経由で帰路に着く。冬は日没も早まり、五時過ぎには暗くなりはじめ、ライトをつけての走行となった。


参考資料

北中城村史 (1970 安里 永太郎)

北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)

北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)

北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)

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