埼玉県 (14/04/23) 蓮田市 (14) 平野地域 高虫

平野地域 高虫 (たかむし)

  • 馬頭観音 (5番)
  • 庚申塔 (34番)
  • 馬頭観音 (8番)
  • 歓喜寺跡
  • 庚申社 (35番)
  • 高虫氷川神社
    • 天朝神社
    • 三峰神社
    • 琴平神社
    • 雷電社
    • 門客神社 (かどまろうどじんじゃ)、高虫自治会館
  • 庚申塔 (37番)
  • 馬頭観音 (7番)
  • 妙楽寺
    • 馬頭観音 (4番)、馬頭観音 (6番)
  • 馬頭観音 (10番)
  • 備前堤
  • 庚申塔❓ (36番)
  • 馬頭観音 (9番)
  • 馬頭観音 (11番)
  • 天照寺
  • 庚申塔 (33番)
  • 芝山伏越


平野地域 高虫 (たかむし)

高虫は、蓮田台地の北西端に位置する農業地域になる。高虫村は室町時代には太田庄に属し、岩槻城つきの村だった。1590年 (天正18年) に天領となるが、1640年 (寛永17年) に小室藩伊奈氏の知行にされ、後40年ほどして再度天領となり、1703年 (元禄16年) に久喜藩米津氏に与えられている。 1763年 (宝暦13年) に佐倉藩堀田氏へ、1848年 (嘉永元年) の頃に再び天領となり明治維新を迎えている。明治以降は武蔵知県事に属し、明治2年大宮県、そして浦和県を経て明治4年に埼玉県の管轄となっている。明治22年4月に、高虫村、上平野村、駒崎村、井沼村、根金村の五村を合併して平野村が誕生し、高虫村はその中の大字となっている。高虫の地名については、はっきりとした説はないのだが、ある学者の説は高虫のムシはアイヌ語の (ムヌシ) 草原の意と推測し、タカムシは丈の高いカヤ等の野草の群生しているところとなる。 高虫の小名には小平野、野窪がある。地元の言い伝えでは高虫は昔、荒川や綾瀬川が氾濫を起こしたときや水が出たときなど川の湿地にいる蛇が台地であるこの地に集まってきたために高虫の名がおこったと言う。虫を蛇を表しているとしている。


大字高虫の人口推移は下のとおり。1992年には人口が大きく増加しているのだが、この背景はわからなかった。


資料に記載されている高虫の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
  • 仏教寺院: 歓喜寺跡、妙楽寺、天照寺
  • 神社: 高虫氷川神社
  • 庚申塔: 5基  馬頭観音: 8基

庚申塔 (36番) は地元住民から庚申塔ではないとの情報があった


高虫 訪問ログ



旧上平野村から旧高虫村の史跡に移る。高虫は上平野八幡神社上寺跡 (宝蔵寺跡) の西側の道を越えた所からになる。


馬頭観音 (5番)

上平野と高虫の境界線の道沿い、上寺跡 (宝蔵寺跡) の北側に馬頭観音が置かれている。1850年 (嘉永3年) に亡くなった馬のために建立した駒角柱だが、下半分が欠損している。馬頭観音を表す梵字「カン」の下に馬頭観の文字が刻まれている。地元では安産の神様ともいわれ、また、すぐ側に植わっている木の枝を折ると、足の骨を折るといわれているそうだ。

庚申塔 (34番)

道を上寺跡 (宝蔵寺跡) に戻り、その前の県道77号線 (行田蓮田線) を西に進む。道沿いに1754年 (宝暦4年) に造立された櫛角柱形庚申塔 (34番) があ、塔正面上部に青面金剛を表す梵字「ウーン」が記され、その下に「庚申供養塔」の文字が刻まれまれている。正月に注連縄を奉納し拝まれている。

馬頭観音 (8番)

庚申塔 (34番) の道の反対側の畑の隅に1924年 (大正13年) に火事で焼死した馬の供養のため建立したと伝わっている隅丸角柱形馬頭観音が埋まっており、刻まれた文字の「馬頭観」までが表面に出ている。

歓喜寺跡

県道77号線 (行田蓮田線) を更に西に進む道沿いに墓地がある。ここは江戸時代までは真言宗智山派寺院歓喜寺大悲山文殊院があった場所になる。歓喜寺の創建年代等は不詳。明治元年の神仏分離をきっかけに廃仏殷釈運動で廃寺となっている。寺の墓地は残っており、その中には幾つかの古い石仏や石塔がある。
墓地の入り口に地蔵菩薩と変わった六地蔵が置かれている。一般的な独立した六つに地蔵尊ではなく一つの石柱に六つの地蔵尊が浮き彫りされている。この六地蔵は無縁供養、萬霊供養の為、1775年 (安永4年) に造立された六地蔵萬霊塔 (写真左) で、上段右には右手に錫杖、左手に宝珠を持つ鶏亀地蔵、上段左には合掌する宝性地蔵、中段右には両手で幡を持つ法印地蔵、中段左には両手で天蓋を持つ陀羅尼地蔵、下段右には両手で香炉を持つ法性地蔵、下段左には両手で宝珠を持つ地持地蔵と蓮華座が浮き彫りされている。
六地蔵の隣には1731年 (享保16年) に経典読誦記念、功徳回向祈願の為に造立された右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像 (右) も置かれている。
入り口の反対側にも地蔵尊と石塔が並べられている。
  • 地蔵菩薩百箇所巡礼塔 (右下) - 1774年 (安永3年) に廻国巡礼記念・延命長寿祈願の為に高虫村念仏講中20人により造立された地蔵菩薩で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ立像になっており、台石正面に延命地蔵経の偈、左側面には「西国 坂東 秩父供養塔」と刻まれている。
  • 金剛界大日如来 (右上) - 1781年 (天明元年) に救済祈願で造立された舟形石塔上部に金剛界大日如来を表す梵字「バン」が刻まれ、その下に智拳印を結び、結跏趺坐の金剛界大日如来坐像が浮き彫りされている。
  • 胎蔵界大日如来 (中上) - 1781年 (天明元年) に救済祈願で造立された舟形石塔上部に胎蔵界大日如来を表す梵字「ア—ク」が刻まれ、その下に法界定印を結び、結跏趺坐の胎蔵界大日如来坐像が浮き彫りされている。
  • 百箇所巡礼塔 (右上) - 1823年 (文政6年) に廻国巡礼記念として像立された山角柱に「秩父 西国 坂東百ヶ所供養塔」の文字が刻まれている。
墓地の中にも石仏が集められていた。
  • 閻魔大王 (左下) - 1779年 (安永8年) に延命長寿、災厄除け、疫病除けを祈願して造立された駒形石塔に右手に笏を持つ閻魔大王坐像が浮き彫りされている。
  • 奪衣婆 (右上) - 1781年 (天明元年) に疫病除け、咳止めにご利益があるとして、閻魔大王の施主が2年後に舟形石塔を建て、左膝を立てた奪衣婆坐像が浮き彫りされている。
墓地奥にも資料に紹介されていた、1702年 (元禄15年) 造立の僧侶の供養の単制の卵塔の無縫塔が置かれている。

歓喜寺跡の道を挟んだ所が高虫氷川神社の敷地になる。高虫氷川神社への道の奥には鎮守の森が見えている。

庚申社 (35番) 

高虫氷川神社への道を進んでいくと道沿いに鳥居が置かれ、その奥に祠が置かれている。祠の中には1778年 (安永6年) に造立された駒角柱形の庚申塔があり、正面上部には青面金剛を表す梵字「ウーン」が記され、その下にm「庚申供養塔」の文字が刻まれている。まわりの木をいじると祟りがあると伝わりっている。正月に門松や注連縄を奉納し拝まれているそうだ。

高虫氷川神社

道を進むと一の鳥居、その直ぐ奥に朱塗りの二の鳥居があり境内に入る。
高虫氷川神社は、1689年 (元禄2年) に高虫村の中の小名の向山の高台に武蔵国一宮氷川大明神を勧請して創建し、その後、1719年 (享保4年) に米津出羽守からこの場所の社地七反歩を賜り、翌年1720年 (享保5年) にこの地へ移転し、武運長久の神の建速須佐之男命 (たけはやすさのおのみこと) を祭神、大己貴命 (おおなむちのみこと)、奇稲田姫命 (くしなだひめのみこと) を配神として高虫の鎮守として祀られてきたたと伝わっている。1738年 (元文3年) に本殿の建築、1845年 (弘化2年) に屋根の大修繕、天保年間(1830 ~ 1844年) に幣殿、拝殿を再建、1866年 (慶応2年)に本殿再建をしたと記録に残っている。明治5年村社に列格し、昭和19年に「氷川社」から「氷川神社」に改称している。蓮田市を含め旧埼玉郡では殆どの鎮守は久伊豆神社で、氷川社があるのは大変めずらしく、ここに氷川社が創建された経緯は謎だそうだ。一つの推論では、先に訪れた上平野村と同様に高虫村では室町時代末期に村が戦場となり、それまでの住民たちが兆散し、村人のいなかった期間があり、戦国の終わりごろに、村が再建されたのではないかと考えられている。江戸期1640年 (寛永17年) に小室藩備前守の領地となり、小室藩知行期の末期の1688年 (元禄元年) に、小室の武蔵国一之宮氷川社が向山の地に勧請されたのではないかとも考えられる。
境内には伊勢参宮記念で1852年 (嘉永5年) に伊勢講により奉納された寺社型の手水鉢 (中上)、その隣には、1906年 (明治38年) 奉納の石塔 (右上) 、1858年 (安政5年) に天照寺廿世他49名により寄進された石燈籠 (右下、左下) があり、奥に幣殿 (中) が建てられている。
幣殿の奥に本殿があり、この神社の見所になる。蓮田市の人に「蓮田市におすすめのスポットは」と聞くと、寅小石とこの氷川神社本殿が必ず含まれる。この本殿は1738年 (元文3年) に建築され、その後、1865年 (慶応元年) に解体修理され、江戸時代後期の神社建築の様式の権現造りで屋根は一間社流造りとなり、妻飾・斗拱・装飾彫刻等が良好に残されている。流造りとは正面の屋根だけを長く伸ばす建て方で、正面の柱間が1間 (柱が2本) であれば一間社流造、3間 (柱が4本) であれば三間社流造という。圧巻は本殿の周囲に施された彫刻で、階段にも施され、一部にには彩色も残っている。1973年 (昭和48年) に市の文化財として指定されている。
本殿に施された彫刻は中国元代の郭居敬が編纂した「二十四孝 (にじゅうしこう)」を題材としている。二十四孝は、後世の範として孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物で、日本にも伝来後、仏閣等の建築物に描かれ、浮世絵、御伽草子の題材や寺子屋の教材にも採られていた。江戸時代には広く知られていたもの。
二十四孝の内容を知っていれば、其々の彫刻がどの孝行話を表しているのかが分かるのだが、読んだ事は無いので、ただ彫刻の素晴らしさだけを実感した。
氷川神社の境内には四つの境内末社が置かれている。

天朝神社

社殿の前に天朝神社の祠が置かれている。この天朝神社が何の神を祀っているのかは調べても見当たらなかった。天朝神社なるものはここ以外には無い様で検索してもヒットしなかった。

三峰神社

境内を囲んでいる森の境内側に三峰神社が置かれている。秩父の三峰神社を勧請していると思うのだが、三峰神社ではよく見る狼像や札は置かれていない。

琴平神社

境内を挟んで三峰神社の反対側には琴平神社がある。四国金刀比羅宮を勧請しているのだろう。


雷電社

境内の北の森の中には、関東地方を中心に点在する雷除けの神とされる雷電社の祠が置かれれいる。

門客神社 (かどまろうどじんじゃ)、高虫自治会館

境内には高虫自治会館が併設されている。高虫村住民の集まる場所だったのだろう。高虫自治会館の横には門客神社 (かどまろうどじんじゃ) と呼ばれる社殿があり、中には祠が納められている。この神社が境内末社とはなっていないのだが、末社のようだ。この門客神社は初めて聞く神社なので調べると厳島神社とこの神社の二つのみヒットした。何の神を祭り、どの様な経緯でこの地にあるのかは分からなかった。
これ以外にも天神社、稲荷社、第六天神社、愛宕社等の小社も祀られているとあったが、資料ではには載っていたのだが、愛宕社だけが紹介されていた。この愛宕社も森の中に鎮座しており、火伏せの為に1800年 (寛政12年) に造立され、切妻唐破風角柱形の石柱に「愛宕山」の文字が刻まれている。天神社、稲荷社、第六天神社は探したが見つからなかった。

庚申祭神 (37番)

高虫氷川神社の西側は畑が広がっており、所々に森がある。森の入り口付近、綺麗に整備された場所に庚申塔が置かれている。1810年 (文化7年) に建てられた山角柱形石塔で、上部に瑞雲を伴う日輪、月輪が浮き彫りされ、その下に「庚申祭神」、脇には「天下泰平 国家安穏」と刻まれている。台石には三猿が浮き彫りされている。正月にはしめ飾りをし、餅を供え拝まれているそうだ。庚申祭神と刻まれた庚申塔は初めて見る。側面には幾つもの神の名が刻まれている。岐神(ふなとのかみ)、来名戸祖神(くなどのさえのかみ)、衢神(ちまたのかみ)、猿田彦大神(さるたひこおおかみ)、事勝国勝長狭神(ことかつくにのなぎさのかみ、鹽土老翁(しおつちのおじ)、鬼神(きしん)、気神(きしん)、興玉神(おきたまのかみ)、太田神(おおたのかみ)、御饌津神(みけつのかみ)、国底立神(くにのそこたちのかみ) とある。庚申塔は時代や広まった地域により、その祀る神が変わっている。青面金剛が一般的に見られ、猿田彦や馬頭観音、阿弥陀、地蔵なども見かけたが、この庚申塔に刻まれた神々も庚申信仰の中で拝まれていた事がわかる。貴重な史跡だ。

馬頭観音 (7番)

庚申祭神 (37番) の近くの道沿いの野原の電信柱の根本に、1878年 (明治11年) 造立の角柱形の馬頭観音が置かれている。「馬頭観世音」の文字が刻まれています。ここの住民が足の病気が治らず、家で飼っていて馬が死んだ後にその霊が足にとりついていると言われ、その馬の供養のために馬頭観音を建てたところ、足が治ったとのいう言い伝えがあるそうだ。

道を妙楽寺に向けて進む。妙楽寺の参道の森の外側に朱塗の祠が置かれている。この祠の情報は見つからず。中には紙垂が置かれている。

妙楽寺

妙楽寺に到着。入り口に「日本初 疎開保育園開設の地」と書かれた柱が立っている。案内板には
1944年 (昭和19年) 11月25日、太平洋戦争末期に空襲を避けるため、東京の戸越保育所 (現品川区)、愛育隣保館 (現墨田区) の三歳から六歳の園児53人が若き保母たちに連れられて、 南埼玉郡平野村 (現蓮田市大字高虫) に集団疎開し、日本で初めての疎開保育園がここ妙楽寺で始まりました。11人の保母たちは、終戦を迎えるまでの年近く、幾多の困難を乗り越え、保育への理念や希望を失うことなく、明るくひたむきに園児たちの命を守り抜きました。疎開保育園を運営した恩賜財団大日本母子愛育会  (現社会福祉法人恩 賜財団母子愛育会) は、財政支援と園児たちの健康管理に奮闘するとともに、村人たちとの交流に奔走しました。村人たちも、これに応えて、食糧不足の厳しい環境の中、村を挙げて園児たちの食糧確保に取り組み、この疎開保育園を支えました。戦後、その保母たちは各方面で活躍し、保育の基礎を築き、その思いは後進に脈々と引き継がれ今日に至っています。この実話が2018年 (平成30年)、映画「あの日のオルガン」として映画化され、多くの人々に感動を与え、全国各地で上映会が行われま した。私たちはこの実話を永く語り継ぐとともに、命の大切さや平和の尊さを伝えていきます。
とある。今回の旅を終えた後、Youtubeにこの映画がアップされていたので見ると、解説の向こう側が見えて来る。戦時中未就学児童は疎開の対象外だったのをこの保母さん達は行政、保護者の理解を得る事も難しいながら、幼児の命を守ろうと奮闘した姿が描かれている。疎開に反対した家族の子供達はその後の東京大空襲で亡くなっている。疎開に出した家族も亡くなっている。この保母さん達が53人の園児の命を救った。小学生の疎開とは異なり、まだ聞き分けの出来ない53人の幼児を11人の保母で面倒を見るのはストレスの大きな仕事で、何度も挫折しそうになりながら、当初思い描いていた使命感を支えとして頑張った姿には敬服。ロケ地は京都の奥でやったのだが、実際の疎開保育所があった妙楽寺やその周辺と良く似ている。映画を見ながら訪れた高虫の風景が重なって来る。
妙楽寺へ大木が並ぶ参道を進んで行くと参道の2基の石燈籠の後側にそれぞれ地蔵菩薩像が置かれている。
  • 地蔵百万遍供養塔 (右上) - 1782年 (天明2年) に高虫村百万遍講中により造立された地蔵菩薩立像で右手に錫杖、左手に宝珠を持っている。
  • 地蔵光明真言塔 (左下) - 1719年 (享保4年) に高虫村の光明真言講中により、延命祈願、功徳回向、経典読誦記念の目的で建てられた地蔵菩薩立像。蓮華座の上に右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩が立っている。台石左側面に地蔵菩薩を表す梵字「カ」、「奉造立地蔵 光明真言講 高虫邑中」、正面には延命地蔵の偈、右側面には回向文が刻まれている。


馬頭観音 (4番)、馬頭観音 (6番)

参道を進み、道を左に曲がった所が山門になる。山門に前には幾つもの石仏、石塔があり、2基の戦を従軍記念碑も置かれている。

  • 聖観音 (左下) - 1784年 (天明4年) に男性の菩提を弔うために造られた舟形石塔に両手で蓮華を持つ聖観音菩薩立像と蓮華座が浮き彫りされている半彫りされている。
  • 聖観音 (中下) - 1824年 (文政7年) に女性の供養のために建てられた聖観音菩薩立像で、右手で与願印を結び、左手に蓮華をっている持つが丸彫りされています。
  • 馬頭観音 (4番 右下) - 1836年 (天保7年) に造立された山角柱に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
  • 馬頭観音 (6番 左上) - 1872年 (明治5年) 造立の駒角柱に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
  • 地蔵菩薩 (中上) - 1719年 (享保4年) に造られた地蔵菩薩立像で右手に錫杖、左手に宝珠を持っている。台石正面に「念仏供養」の文字が刻まれている。
  • 地蔵菩薩 (右上) - 1850年 (文久3年) に男性の供養のために建てられた舟形石塔に合掌する地蔵菩薩と蓮華座が浮き彫りされている。
  • 六地蔵 (左下) - 1757年 (宝暦7年) に救済祈願、念仏供養として高虫村念仏講中48人により造立された六地蔵。独立した六地蔵ではなく舟形石塔上段に合掌する宝性地蔵、両手で香炉を持つ法性地蔵、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ鶏亀地蔵、下段には両手で幡を持つ法印地蔵、両手で天蓋を持つ陀羅尼地蔵、両手で数珠を持つ地持地蔵が浮き彫りされている。
  • 従軍記念碑 - 写真下の右の二つは碑文を見ると日清戦争の激戦地旅順で戦死した様で、その功績を讃えている様だ。(読めない所もあり推測)
山門をくぐった奥に本堂が建てられている。真言宗智山派寺院の妙楽寺は、薬王山延命院と号している。創建年代等ははっきりとはしないのだが、弘治年間 (1555 ~ 1557年) に法印覚本が開基として創建したと考えられている。
妙楽寺の墓地にも多くの石仏や供養塔が置かれれいる。その中に古い供養塔がある。経典読誦塔 (写真左下) と呼ばれている。1698年 (元禄11年) に造立された宝形造角柱に釈迦如来を表す梵字「バク」を刻み、蓮華経の「寂寞無人声 読誦此経典 我爾時為現 清浄光明身」の偈句が刻まれている。刻文の中に「薫読千部妙典」とあり、法華経を千部読誦したことを表している。これはある女性の供養のために経典を千部読誦してこの塔を建てたと考えられている。
経典読誦塔の後方に観音堂がある。この中に1670年 (寛文10年) に造られた聖観音菩薩立像が安置されている。右手で与願印、左手で施無印を結んだ像で、地元では「耳だれ観音」と呼ばれ、耳の病気に効くといわれている。供えてある酒の腐った水を竹筒で持ち帰りそれを耳に付け、治ったらお礼に倍量の酒を返すそうだ。立派な堂宇まで建てて拝まれているので、この聖観音への地元住民の深い信仰がうかがえる。
墓地中には、まだまだ多くの石仏や石塔が置かれていた。

馬頭観音 (10番)

妙楽寺の入り口の県道77号線から分岐する西への道沿いには、1935年 (昭和10年) 隅丸角柱形の馬頭観音が置かれている。石塔に「奉納 馬頭観世音」と刻まれている。この家で飼っていた馬が急死したためその供養のため建てたという。正月に注連縄を張り拝んでいるそうだ。
馬頭観音と備前堤の間の道で今日も雉に遭遇。

備前堤、御定杭

馬頭観音 (10番) の道を西に進むと元荒川と綾瀬川の分流点にぶつかる。ここが高虫の西の端になる。元荒川を挟んで北が久喜市、綾瀬川の西は桶川市、南は伊那町に接している。写真にあるように川が分岐している。上の川が元荒川でそこから南 (下) に分岐しているのが綾瀬川になる。
この辺り県道77号線となっている所に江戸時代に備前堤が造られた。慶長年間 (1596 ~ 1615年) に小針領家と高虫の間に伊奈備前守忠次により築かれた綾瀬川と元荒川を隔てる大囲水除堰で、当時荒川本流であった綾瀬川の下流域諸村を水害から守る目的だったとされる。この備前堤と呼ばれる締切堤により、元荒川と綾瀬川に分離されここが綾瀬川の起点となっている。綾瀬川の高虫側には御定杭と刻まれた石の杭が置かれている。この備前堤の完成によって、下流の伊奈、蓮田方面の村は洪水の害をまぬがれるようになったが、上流の村は大雨の降るたびに田が冠水し、その被害は大きく近年にまで及んだという。
出水のたびに、上流と下流の村々の間で備前堤をめぐる争いがしばしばあったと伝えられ、現在も残る「御定杭」はこの争いを調停するために、土俵を積む高さを制限する目安で設置された。桶川市の綾瀬川対岸にも別の御定杭が置かれている。

ここから東に戻る。妙楽寺を過ぎて県道5号線 (さいたま菖蒲線) を北に向かう。

庚申塔❓ (36番)

県道5号線を少し東に外れた所に庚申塔 (36番)     があると資料に載っていた。地図に示す付近を探すのだが、それらしきものは見当たらない。民家の周りを探していると不審者と間違えられたのだろう、民家から住民が出てきて「何か用があるか?」と少し警戒しながら聞いてきた。事情を話すとニヤリとして、庚申塔は無いと言われた。「以前、蓮田市の職員が庚申塔調査に来た時にこれは庚申塔では無いと説明し、資料には載せない様に言ったにだが、まだ消していないのか」と不満そうに教えてくれた。この人の話では、明治時代に日清戦争か日露戦争で勝利し、当時の爺さんが喜んで石碑を造ったもので、決して庚申信仰のものでは無いと教えてくれた。その石碑の場所まで案内してくれたが、石碑がほとんどが埋められている、頭が少しだけのぞいている。因みに資料にある説明は1948年 (昭和23年) に自然石に「庚申供養塔」、両脇には「天下泰平 民主主義」と刻み、平和祈願のために建立したと書かれている。この二つの説明は時代も、目的も異なっている。蓮田市の庚申塔は殆どが大切にされているのだが、この石塔は埋没し、忘れられている事から見るとここに住民の説明が事実に近いようにも思える。

馬頭観音 (9番)

更に道を東に進むと道沿いに1932年 (昭和7年) に建てられた駒角柱形石塔があり、「馬頭観世音」の文字が刻まれている。この辺りでは酒造りをしていたそうで、その為の水を桶川から運んでいた。そのさ作業中に馬が足を折るなど事故が続いたため建立したという。正月にしめ飾りをして拝んでいるそうだ。

馬頭観音 (11番)

道を北に天照寺に向かい進むと、道沿いに1941年 (昭和16年) に造立した隅丸角柱形石塔があり、「馬頭観世音」刻まれている。子どもの身体が弱かったため建立したというのだが、この馬頭観音は馬に関わるものでは無いようだ。馬頭観音の信仰も時代を経て変わって来ているのがわかる。

天照寺

天照寺山門前には4基の石塔、石仏が置かれれいる。向かって左から
  • 経典読誦塔 - 1778年 (安永7年) に造られた山角柱に「奉 読誦 法華経千部供養塔」の文字が刻まれている。法華経千部読み通した記念碑にあたる。
  • 六地蔵 - 1812年 (文化9年) に造られた集合型六地蔵の隅丸角柱形塔で、上段右から、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ鶏亀地蔵、合掌する宝性地蔵、両手で数珠を持つ地持地蔵、下段右から両手で幡を持つ法印地蔵、両手で天蓋を持つ陀羅尼地蔵、両手で香炉を持つ法性地蔵と蓮華座が浮き彫りされている。
  • 念仏供養尊地蔵菩薩 - 1702年 (元禄15年) に二世安楽祈願、念仏供養、寺の先祖の供養のために舟形石塔に右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。脇には「奉修造 念仏供養尊」、法華経の「為現世安穏 後生善所」の文字が刻まれている。
  • 道祖神 - 1789年 (安永9年) に、災厄除け、疫病除け、治癒祈願、子授け安産祈願の為に、寄棟角柱を建て正面には「道祖神宮」の文字が刻まれ、背面には三猿が半彫りされている。道祖神と庚申塔が融合した形のものだろう。足が痛いときに願かけが行われていたそうだ。
山門を入り参道を進むと、途中に木の祠があり中に板碑が祀られている。板碑がこのような形で祀られているのを見るのは初めてだ。この板碑は古く1488年 (長享3年) に造られたもので、阿弥陀三尊を表す種子と光明真言が刻まれている。歯痛でに願掛けをすると御利益があるそうで、地元では「白山さま」と呼ばれている。
参道の奥に本堂が置かれている。青光山天照寺は曹洞宗の寺院で創建年代等は不詳。江戸時代の文献では上閏戸村秀源寺の末寺で本尊不動と記載されている。

庚申塔 (33番)

天照寺から西側の県道5号線に戻り、北の元荒川方面に進むと道沿いに祠がある。その中には、1742年 (寛保2年) に駒角柱の庚申塔が置かれ、石塔上部に青面金剛を表す梵字「ウーン」が刻まれ、その下に瑞雲を伴う日輪、月輪、邪鬼を踏見つけた青面金剛立像、台座には三猿が浮き彫りされている。地元住民の信仰は厚く、220日に燈篭に火を入れ、お神酒を供え、1月14日には目玉団子 (まゆ玉団子) を供え、また、子どもが生まれたときに拝まれている。

芝山伏越

今日予定していた史跡は芝山伏越を残すのみとなり、宿のある蓮田市中心部を目指して元荒川沿いの道を通る。道を進むと見沼代用水と交差する。この交差点が芝山伏越が造られていた場所になる。4月8日に立合橋にある瓦葺掛樋跡を訪れた際に綾瀬川と見沼代用水の合流点に建設されたのサイフォン形式の伏越 (ふせこし) と水路橋の掛渡 (かけとい) を見たのだが、ここでは伏越が造られていた。江戸時代に徳川吉宗は見沼を干拓して田に変える計画を井澤弥惣兵衛為永に命じ、井澤は沼を埋め新たに水路を引いて、沼に代わり田への用水にする水路 (見沼代用水) を「紀州流」という土木技術で工事に取りかかる。その見沼代用水がこの場所で元荒川と十字に交差しており、井澤はそれぞれの流れが干渉しないように元荒川の河床下に木の樋管を2本埋設して通水する「伏越」を作った。見沼代用水の工事が終わったのは1728年 (享保13年) だった。左の絵は施工図で右が伏越完成の図。
木製の樋管は修繕のため、毎回多額の費用がかかり問題となっており、1887年 (明治20年) に耐久性の強い煉瓦作りへの改造を行った。それ以降、1928年 (昭和3年) に伏越の構造はさらにコンクリート製に改められ、20数回の改修工事が行われ現在の形になっているが、今でも基本的には伏越の方法が維持されている。考えると江戸時代の土木技術はかなり進んでいたようで、驚きでもある。
ここには小さな休憩所があり、そこには1887年 (明治20年) に煉瓦作りへの改造された完成記念碑が置かれている。


これで8日間にわたった蓮田市全域の史跡巡りが終了した。今日も朝早く出発し、一気に上平野、高虫を巡ったので少々疲れている。芝山伏越の元荒川対岸に綺麗に桜が咲いている。そこで休憩して帰路に着く。
訪問記は蓮田市中心部はまだ完成していない。蓮田市各地域を巡る際にその行き帰りに立ち寄って見ている。次回の訪問記でそれをまとめて記録に残す事にする。

参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)

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