東京 (18/04/23) 江戸城 (42) 坂道巡り (10) 新宿区 (6)

坂道巡り 新宿区 (6)

  • 市谷亀岡八幡宮
  • 市谷八幡男坂
  • 市谷八幡女坂
  • 船河原築土神社
  • 堀兼の井
  • 逢坂 (おうさか)
  • 神楽坂若宮神社
  • 庾嶺坂 (ゆれいざか)
  • 軽子坂 (かるこさか)
  • 神楽坂 (かぐらざか)
  • 毘沙門天善國寺
  • 見番横丁 (けんばんよこちょう)、伏見火防稲荷神社 [2024年4月10日 訪問]
  • 三年坂 (さんねんざか)
  • 兵庫横丁
  • 築土八幡神社、築土城跡
  • 御殿坂 (ごてんざか) [2024年4月10日 訪問]
  • 芥坂 (ごみざか、埃坂、筑土) [2024年4月10日 訪問]


今日は定期検診の日になる。検診は12時から3時頃までで、史跡巡りは検診が終わってからになるので、時間が限られている。6時半からは、会社に働いていた時代の元部下達と会食の予定。
今回は江戸時代にあった新宿区の坂道を切り口としてその周辺の史跡を巡って行く。新宿区の坂道巡りは6回目になる。神楽坂付近を巡る。この辺りは、2022年1月18日に訪れているが、その時には見ていなかった場所を訪問する。


訪問ログ



市谷亀岡八幡宮

今日最初の訪問地は市谷亀岡八幡宮。市谷亀岡八幡宮は太田道灌が1479年 (文明11年) の江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀り、市谷御門の中 (現在の千代田区内) に建立したのが始まりで、「鶴岡」に対して「亀岡」八幡宮と称したという。その後、戦火などで荒廃し、江戸時代に入り1635年 (寛永13年) 頃に江戸城の外堀が出来たのを機に、現在は境内末社となっている茶の木稲荷が鎮座していた現在地に移転し、三代将軍徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、社殿が再興された。江戸時代には市谷八幡宮と呼ばれていた。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったという。

明治時代、1872年の神仏分離令により別当寺であった東円寺が廃寺となり、芝居小屋などは撤退し樹木が植えられ、かつての賑わいはなくなっていった。

市谷八幡男坂

境内への参道は二本ある。これは急な階段。それで男坂と呼ばれている。東京の神社を巡ると、ちょっとした丘など高台にある所にはこの様に急な参道を男坂、緩やかな坂を女坂と呼んで二本ある事が多い。男坂は見上げる様なかなりの急階段になっている。男でも一気に上までは辛いかも知れない。それでか途中に踊り場が一つあった。

市谷八幡女坂

こちらが男坂に比べては緩やかな女坂で自動車で上まで登れる。とはいえ、坂道としてはやはり急坂の部類に入るだろう。
男坂を登ると途中の踊り場には1804年に建立された銅鳥居が置かれ、1729年 (享保14年) に奉納された狛犬も残っている。
この踊り場の横に境内末社の茶の木稲荷がある。この茶の木稲荷は市谷亀岡八幡宮が移ってくる前からこの地にあった神社で、鎌倉時代、豪族の市谷氏の所領だったこの周辺 (市買村) の鎮守だった。弘法大師が関東下向の際に開山したとの伝説が残り、眼病平癒の霊験があったと伝わる。
昔この山に白狐がいたものの、ある時あやまって茶の木で目をつき、それ以来崇敬者は茶を忌み、正月の三ヶ日は茶を呑まない習俗残っていた。特に眼病の人は17日、或は37日、21日の間茶をたって願えば霊験があらたかであったと伝わり、願いが成就したと云う。
これが茶ノ木稲荷神社の名の由来になる。
現在の社殿は東京大空襲で焼失して荒廃していたが、2000年 (平成12年) に再建されたもの。
踊り場のから階段を登るともう一つ境内末社の海上守護の金刀比羅宮が鎮座している。
更に階段を登り境内の奥正面に拝殿/本殿が置かれている。1945年に第二次世界大戦による戦火により神木なども含め社殿なども焼失したが、1962年に現在の社殿が再建され、八幡神社共通の祭神の誉田別命 (ほんだわけのみこと、應神天皇)、気長足姫尊 (おきながのたらしひめのみこと、應神天皇の母 神功皇后)、與登比売神 (よとひめのかみ、應神天皇の姫神)を祀っている。
境内には三つある境内末社の最後の出世稲荷神社が置かれている。この名の由来が伝わっている。
当地のお稲荷様に崇敬篤い侍がいて、霊夢によって毎日参拝(出仕の日は家来を代参)したところ、トントン拍子に出世して、大名になったと云う。その後も出世の大明神と私財を投じて祀った事から出世稲荷と呼ばれる様になった。
その他、境内には、手水舎 (写真左上)、1757年 (宝暦7年) に奉納された水鉢 (右上)、江戸時代から大正時代にかけての7基の力石が残っており、古いものは1825年 (文政8年) だそうだ。

船河原築土神社

市谷亀岡八幡宮から外堀沿いを北に進み、外側への道を少し入った所に船河原築土神社がある。この辺りは船河原町と呼ばれている。もともとは江戸城内の平河村付近(現 千代田区大手町周辺)にあったが、1589年に江戸城拡張の際に、氏神の築土神社と共に牛込見附付近へ移転。更に、1616年に築土神社が筑土八幡町に移転後、船河原町も筑土八幡町近くの現在地へ移転してきた。戦後、築土神社は千代田区九段に移転したが、船河原町は現在地に留まっている。船河原町は地理的に築土神社から最も遠い氏子となってしまったので、ここに飛地社を建てたのが、この船河原築土神社の由縁になる。

堀兼の井

神社の前に「堀兼 (ほりがね) の井」の説明板がある。この井戸の水は、飲料水の乏しい武蔵野での名水として、平安の昔から歌集や紀行に詠まれていた。これは、山から出る清水をうけて井戸にした良い水なので遠くからも茶の水として汲みに来ていたそうだ。井戸は神社の前の駐車場に形を変えて防火用水として残っている。江戸時代に幼い子どもを酷使して掘らせた井戸と伝えられている。
堀兼の井とは、「ほりかねる」からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。
昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。 男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。 ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。 


逢坂 (おうさか)


船河原築土神社の横の坂は逢坂という。昔、小野美作吾という人が武蔵守となりこの地にきた時、美しい娘と恋仲になり、後に都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因んで逢坂と呼ば れるようになったという。

神楽坂若宮神社

逢阪を登り切り、1ブロック西に進み次の坂道に行く。庾嶺坂 (ゆれいざか) の上に着くと、そこには神楽坂若宮神社が置かれている。
鎌倉時代の1189年 (文治5年) に、源頼朝が奥州の藤原泰衡を征伐するため出陣し、途中、この地で、戦勝祈願を行った。奥州平治の後、宮鎌倉鶴岡の若宮八幡宮をこの地に分社し大鷦鷯尊 (おほさざきのみこと 仁徳天皇) を祀っていた。その後、一時衰微していたが、太田道灌によって、江戸城の鎮護の一社とて再興されたと伝わる。現在では仁徳天皇 (応神天皇の若宮) に加え、その父の誉田別尊 (応神天皇 八幡神) も祀り、神楽坂の一部区域や若宮町の鎮守となっている。この神社には別当寺として普門院も置かれていたが、明治時代に入り、神仏分離の際に廃寺となっている。
以前はもっと広い境内を有していたが、戦災によって社殿が焼失し、1962年 (昭和37年) に、社殿を造営し再建した際に現在の規模となっている。現在の社殿は1999年 (平成11年) に、老朽化した旧社殿を新しい社殿に建て替えたもの。参道の右手に境内末社稲荷神社 (写真下) があり、こちらも社殿と建て替え時に同様に整備されている。

庾嶺坂 (ゆれいざか)

神楽坂若宮神社の前の道が庾嶺坂で外堀に向かって降り坂になっている。庾嶺坂の由来は江戸初期に坂のあたりが美しい梅林であったため、二代将軍 徳川秀忠が中国江西省の梅の名所の大庾嶺 (だいゆうれい) にちなみ命名したと伝えられる。また、神楽坂若宮神社の前にあるので若宮坂とも呼ばれた。その他にも行人坂、唯念坂、幽霊坂、祐玄坂、祐念坂、新坂などと町人が思いのままに呼び始めた色々な名がついている。唯念坂の名は、唯念という僧がこの坂脇に小庵を構え ていたからという。幽霊坂は唯念坂のなまり。祐玄坂は近くに住んでいた祐玄という医師の名からと思われる。祐念坂は祐玄と唯念の混同。新坂は新しく開設されたときに名づけられたという。

軽子坂

庾嶺坂を下り、外堀に沿って飯田橋方面に進む。神楽坂を素通りして、その北にある軽子坂を登る。この坂名の軽子とは軽籠持の略称で、江戸時代には軽子坂の下の飯田濠に神楽河岸の船着場があり、隅田川から神田川をさかのぼってきた船荷を縄で編んだもっこの軽籠で運んだ人夫の事で、この付近に多く住んでいた。この事からこの名がついたそうだ。
神楽坂より、この軽子坂の方が傾斜が緩やかなので、船荷運搬はこの坂を使っていたのだろう。

神楽坂

軽子坂の途中から、路地を通って神楽坂に出ると、この坂の両側には商店街が立ち並び賑やかな通りになっている。
この坂の右側に高田穴八幡の旅所があり、祭礼で神輿が通るときに神楽を奏した事から神楽坂の名が付いたとも、先程訪れた若宮八幡神社から神楽の音がこの坂まで聞こえたからともいわれる。神楽坂付近は、大正時代には花街で、その名残で、神楽坂からは何本も曲がりくねった細い石畳の路地がある。

毘沙門天善國寺

この寺院は安土桃山時代、1595年 (文禄4年)、池上本門寺第12代貫主で、二条関白昭実公の実子の日惺上人が、徳川家康の庇護の元日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を賜り、創建している。家康は鎮護国家の意を込めて、手ずから鎮護山善國寺の額をしたためて贈り開基となっている。その後、たびたび火災に見舞われ、毘沙門天を信仰していた徳川光圀により麹町に移転し再興し、徳川本家、田安家、一橋家の祈願所となった。その後も享保、寛政年間の火災、更に1792年 (寛政4年) にも火災を被り、翌年の1793年 (寛政5年) に神楽坂の現在地へ移転し再建された。毘沙門天様へのは時代とともに盛んになり、
本尊の毘沙門天は江戸時代より信仰は将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期には「神楽坂の毘沙門さま」として庶民の尊崇の的ともなり、芝正伝寺、浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれた。
この神楽坂界隈は当初は殆ど武家屋敷だけだったが、善國寺の移転してきてからは、麹町より店が九軒が寺の門前に移転するなど、除々に民家も増え、明治初期に花街も形成され、華やかな街になっていった。 明治・大正初期には大いに賑わい、山の手銀座と呼ばれるほどだった。
昭和20年の東京大空襲では当山も灰燼に帰したが、昭和26年に毘沙門堂を再建、昭和46年には本堂・毘沙門堂が完成している。本堂の前左右には神社でもないのに狛犬が置かれている。不思議に思ったのだが、案内板には、これは狛犬ではなく石虎という。1848ねい (嘉永元年) に神楽坂の住民により、毘沙門天の使いとされる阿吽一対の狛虎像が寄進されたという。
境内には開運出世稲荷がある。明治時代には既にあったそうで、お稲荷さんがこの世に降り立った日とされる初午の日に縁日が開かれ豊作、商売繁盛、開運、家内安全などを祈願するそうだ。もう一つ浄行菩薩堂が置かれている。浄行菩薩は煩悩の汚泥を除いて身心の病を除き寿命を延ばし衆生の願いを満たすといわれ、お題目を唱えながら備え付けの布で体の悪い部分を洗うとご利益があると言う。

見番横丁 (けんばんよこちょう)、伏見火防稲荷神社 [2024年4月10日 訪問]

善國寺の横の細い路地は2011年(平成23年) に見番横丁と名付けられた。神楽坂花柳界の芸者衆の手配や稽古を行う「見番」が道沿いにあることからだそうだ。この道沿いに小さな祠が置かれている。扁額には伏見火防稲荷神社と書かれている。神楽坂の芸妓衆や料亭などの寄進により、地域一帯の火伏のご利益を願い、宇迦之御魂神 (うかのみたま 倉稲魂) を祀り建てられたそうだ。


三年坂

神楽坂からは何本も横丁が出ている。どれも飲食店が並び賑わっている。その一つの本多横丁に入り、軽子坂の道を越えると三年坂になる。大久保通りまで緩やかな坂になっている。言い伝えでは、この坂で転ぶと、すぐにその土を三度舐めないと三年以内に死ぬとある。これが名の由来か、後の創作かはわからないそうだ。赤穂浪士の堀部安兵衛が高田馬場の決闘に向った際に、この三年坂を駆け抜けたと伝えられている。

兵庫横丁

神楽坂から軽子坂に抜ける細い道で石畳と黒板塀が並ぶ路地に老舗高級料理店が並んでいる。戦国時代に牛込城の武器庫 (兵庫) があったことが名称の由来。


築土八幡神社、築土城跡

三年坂を抜けると大久保通りの築土八幡町交差点になる。この交差点を渡った所に築土八幡神社がある。社殿は階段の参道を登り、かつて筑土山と呼ばれた小高い丘の上に鎮座している。下の絵は江戸時代の様子だが、山の上に神社が二つ描かれている。右側が今訪れている築土八幡神社で左側が築土神社 (九段下に移っている) になる。
神社の始まりについてに伝説がある。
昔、嵯峨天皇の御代に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連縄をゆいまわして、その松を祀った。
その後、伝教大師がこの地を訪れた畤、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた。
また、この築土八幡神社が創建される以前には関東管領の上杉時氏が築いた砦 (築土城) があったともされている。別の説では太田道灌が別館を築いたともいうが、どちらも明確にはなっていない。

神社が創建された後、文明年間 (1469~1487年) には江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神とし、江戸鎮護の神と仰いでいた。
1945年 (昭和20年) の戦災で社殿は焼失 (写真左下) したが、1963年 (昭和38年) に氏子の人々の浄財によりを再建 (右下) されている。
参道の石段を登る途中には1726年 (享保11年) に建立された、新宿区内に現存する最古の石鳥居が建っている。
石段を登り切ると境内になり、正面に拝殿、その奥に本殿がある。拝殿前には1810年 (文化7年) に奉納された狛犬が残っている
境内には下宮比町一番地にあった旗本屋敷の邸内社を1907年 (明治40年) に移した宮比神社が置かれ、大宮売命 (天細女命) を祀っている。神輿庫もある、中には二基の神輿が保管されていた。神輿庫脇に奉納されている酒は伊勢神宮の御料酒・白鷹の樽。江戸末期「白鹿」の辰馬本家から分家した初代辰馬悦蔵によって白鷹の酒造が始められ、一定の評価はされども普及は進んでいなかったという。明治時代に神楽坂の酒問屋や倉庫の中に埋もれていた白鷹を見出し、高く評価し、それ以降、神楽坂の料亭などへおさめ、広く流通していった。1924年 (大正13年) に伊勢神宮の御料酒として選定されたという経緯があるそうだ。
ここで最も興味を持ったのが境内に置かれている庚申塔だ。この庚申塔は1664年 (寛文4年) に奉納されている。高さ186cmと庚申塔としては破格の大きさで、黒褐色安山岩の舟型光背型塔になっている。正面最上部に日月、中央部に雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がって実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の牝猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。他に類を見ないデザインになっており、標準の庚申塔のスタイルとは大きく異なり、極めて珍しい。練馬区の史跡巡りで多くの庚申塔を見てきたが、この様な庚申塔は見た事が無い。

御殿坂 (ごてんざか) [2024年4月10日 訪問]

筑土八幡神社の西側は江戸時代には御殿山と呼ばれ、寛永年間 (1624~1644)、三代将軍家光が鷹狩の際に仮御殿を設けていた。またその後、慶安年間(1648~52)にも四代将軍家綱が、大納言時代にこの丘陵に牛込御殿を作った。どちらがその由来かは不明だが、その事から、この坂を御殿山と呼んでいた。大久保通りから築土八幡神社方面に登って行く坂になっている。

芥坂 (ごみざか、埃坂、筑土) [2024年4月10日 訪問]

御殿坂を登り切ると今度は神田川 (江戸川) 方面へ下り坂になる。この坂は芥坂 (ごみざか) と呼ばれていた。埃坂とも書く。坂の途中に崖がありゴミが捨てられていた事からこの名が付いたという。

この築土八幡神社を見終わった時点でタイムアップ、そろそろ日が暮れかけている。ここから新宿の会食の居酒屋に向かう。

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