練馬区 13 (17/04/23) 下練馬村 (7) 桜台
下練馬村 桜台
- 馬頭観音 (17番)
- 馬頭観音 (104番)
- 埼玉道碑
- 熊野稲荷神社 (林稲荷神社)
- お浜井戸
- 高稲荷神社
- 広徳寺
- 桂徳院
- 広徳寺座禅堂
- 地蔵尊 (2023年12月2日 訪問)
- 庚申塔 (38番)
- 庚申塔 (番号登録なし) 桜台5-25 (未訪問)
- 庚申塔 (40番、41番)、地蔵尊、馬頭観音 (18番)
下練馬村 桜台
桜台 (旧南町3・4丁目) は戦前に早くから開けた地域だったので、高度成長期には人口は増加しているが、練馬区の他の地域に比べて増加率は低くなっている。高度成長期の後半から人口は減少に転じたが、1976年からは僅かながら毎年増加が続いていた。2021年からは横ばい状態になっている。世帯数は順調に増加が続いている。
- 仏教寺院: 広徳寺
- 神社: 高稲荷神社、熊野稲荷神社
- 庚申塔: 5基 馬頭観音: 3基
まちづくり情報誌「こもれび」- 桜台
桜台訪問ログ
馬頭観音 (17番)
馬頭観音 (104番)
埼玉道碑
林稲荷神社 (稲荷神社)
お浜井戸
氷川神社では、三年に一度春季例大祭の折に、1806年に製作された宮神輿をかつぎ白装束の総勢80人余が行列をくんで故地のお浜井戸への「里帰り」を行い、お浜井戸で「鶴の舞」という儀式を執り行っている。氷川神社から神輿を戴いた行列がお浜井戸に到着すると「獅子の舞」で土地を祓い清め、紋付羽織袴、白足袋、草履の姿でには鶴の首を表す竹組に細く切った白い和紙を沢山貼り付けた烏帽子を被り鶴に扮した二人の古老が息の合った間合いで舞い、最後に豊穣と子孫繁栄を表す愛の交歓の仕草を見せ終了となる。
高稲荷神社
高稲荷のある台地上の下は、むかしは大きな沼になっており、そこには、主の大蛇がすんでいた。村のある若者が沼に釣りに来た際に美しい娘に出会った。娘に惚れ込んだ若者は来る日も来る日も沼にやって来た。ある日沼に来ると娘は沼の奥まった所にいた。娘に近付こうとした若者はそのまま足を滑らせ沼に沈んでしまった。娘は沼の主であった大蛇の化身で若者を見込んだ大蛇が若者を沼に引き込んでしまった。
若者は篠氏の一族だともいうが、村人は
その霊をなぐさめるために祀ったのが、高稲荷だともいわれる。
広徳寺
石神井川を西に進むと臨済宗大徳寺派広徳寺がある。北条氏政の子で岩槻城主太田氏房が明叟和尚を小田原に招き、早雲寺の子院としてこの広徳寺を開山したとされる。1590年に小田原城が落城した際に焼失したと伝えられ、その後、徳川家康が二世希叟和尚を江戸神田に招き再興している。1635年 (寛永12年) には下谷に移り、加賀前田家をはじめ諸大名を檀家とする江戸屈指の大寺院となった。1923年 (大正12年) の関東大震災で寺域は焼失し、その後の区画整理のため、1925年 (大正14年) からこの地に墓地を移し、別院とした。 昭和46年には本坊も移し、平成2年に開山明叟和尚四百遠年諱を記念して、庫裡、位牌堂を建て替え、現在の形になっている。墓地には、剣法の指南役として有名な柳生宗矩、三厳 (十兵衛) 父子の墓や将軍家茶道指南役で庭園築造にも事蹟のあった小堀遠州の墓もある。その他、文禄・慶長の役で活躍した立花宗茂や、江戸時代の詩人菊池五山、菊地秋峯、大内熊耳など、大名、学者、文人の墓所が数多くあるそうだ。この広徳寺は一般の見学は行っておらず、境内や大名墓所には入ることが出来ないので、塀の外から撮影した。総門 (左上)、山門 (左中)、勅使門 (右中)、鐘楼 (左下)、本堂 (右下) は撮影できた。
桂徳院
広徳寺座禅堂
広徳寺の石神井側の塔頭の圓照院には座禅堂が置かれている。広徳寺は禅宗の臨済宗の寺院で、ここは座禅の就業場となっていた。今は精進料理店になっている。
地蔵尊 (2023年12月2日 訪問)
広徳寺の南、かつて南三軒在家の集落だった場所に地蔵尊が残っている。1773年 (安永2年) に造立されたもの。
庚申供養塔 (38番)、大乗妙典日本廻國供養塔
広徳寺前の道は江戸時代から埼玉道とふじ大山道をつなぐ旧道で、その道を新桜台方面南に進んだ所の民家の塀に祠が設けられていた。この辺りは、南三軒在家 (三軒在家) と呼ばれた地域で、戦国時代の終わりにどこからか三人の郷士移り住んできたことからそう呼ばれるようになったという。街道沿いには数軒の民家が江戸時代にはたちならんでいた。祠の中に石塔が二つある。左側には1780年 (安永9年) に造立された庚申塔が置かれ、駒型の石塔の正面に日月雲、右手に頭を載せ左手で片足を抱えた邪鬼 (ショケラ) を踏みつけた六臂青面金剛立像が浮き彫りされている。その下には三猿も浮き彫りされている。台座には庚申講中 拾八人、願主 道玄と刻まれている。塔の右側面に造立年月日。左側面に江戸小日向水道町の石工名が刻まれていた。
庚申塔の右側には、1802年 (享和2年) に造られた角柱型の日本廻国供養塔があり、これは当時流行していた日本国中の社寺を廻り、その記念として各地に建てられていたもの。塔の正面を彫りくぼめ、阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典日本廻國供養塔」上部両脇に天下和順 日月清明。右下に万人講、左下に「為二世安樂」塔の右側面に造立年月日、左側面には武州豊嶋郡下練馬村早淵とある。
庚申塔 (番号登録なし) 桜台5-25 (未訪問)
庚申塔 (40番、41番) 、地蔵菩薩像、馬頭観世音 (18番)
更に道を南に進むと塀の前に四基の石塔が並んでいた。この道は田中道戸呼ばれ、巣鴨のやっちゃ場や中野の新井薬師へ通う道だった。ここには移設された道しるべや馬頭観音、庚申塔が置かれている。この場所はかつてはリヤカーの車輪が泥に埋まって進むのが大変だったことから「地獄」と呼ばれていたそうだ。
- 左端 庚申塔 1797年 (寛政9年) に造られた駒型庚申塔 (41番) で石塔の正面には剝げ落ちかけているのだが、日月雲、剣を持ち邪鬼を踏みつけた六臂青面金剛立像、その下には三猿が浮き彫りされている。塔は道しるべにもなっており、荒井梅松院道と新井薬師へ、左り雑司ヶ谷道と刻まれている。
- その隣は地蔵菩薩立像で1690年 (元禄3年) に造立され、舟形光背で梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像が浮き彫りされ、光背右脇には「奉造立地蔵一宇為逆修也」と刻まれている。
- 右から二番目のものも庚申塔 (40番) で、1745年 (延享2年) に下練馬前湿化味村の講中により作られ、駒型石塔の正面には、日月雲、合掌型六臂青面金剛立像、足の両脇に二鶏、その下には三猿が浮き彫りされている。
- 右端のものは馬頭観音塔 (18番) で、1900年 (明治33年) に造られた角柱石塔で、正面に文字で馬頭觀世音と刻まれている。
今日はこの後、夕方から会社勤めをしていた時の同僚との会食なので、早めに切り上げ、自宅に戻り待ち合わせの場所に向かった。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)
練馬の石造物 路傍編 1 (1991 練馬区教育委員会)
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