練馬区 13 (17/04/23) 下練馬村 (7) 桜台

下練馬村 桜台

  • 馬頭観音 (17番)
  • 馬頭観音 (104番)
  • 埼玉道碑
  • 熊野稲荷神社 (林稲荷神社)
  • お浜井戸
  • 高稲荷神社
  • 広徳寺
  • 桂徳院
  • 広徳寺座禅堂
  • 地蔵尊 (2023年12月2日 訪問)
  • 庚申塔 (38番)
  • 庚申塔 (番号登録なし) 桜台5-25 (未訪問)
  • 庚申塔 (40番、41番)、地蔵尊、馬頭観音 (18番)

昨日蓮田市の史跡巡りを終えて、練馬の自宅に戻ってきた。21日には小豆島へ移動するのだが、それまで数日あので、以前から練馬区内の史跡を巡っていたので、その続きを行う。今日は桜台地区内の史跡を巡る。この地区は2022年10月8日に訪れたのだが、まだ見ていないスポットが残っていたので、今日 (2023年4月17日) に訪れる。


下練馬村 桜台

桜台は、練馬区の南東部にあり、北部は早宮、氷川台、南部は豊玉上、東部は羽沢、栄町、西部は練馬と接している。桜台の北の境界線となっている石神井川の桜と、千川の桜に囲まれた文字通り桜の町だった。残念ながら、ここを訪問したのは4月半ばで、既に桜の季節は終わっていた。1915年 (大正4年) に大正天皇即位を記念して、千川上水沿いの村々が桜や楓を7kmにわたって植樹した事から桜の町となった。江古田から練馬まで、千川堤の桜は、玉川上水の小金井堤の桜に対して、「新小金井の桜」と呼ばれ、東京の新名所となっていた。1953年 (昭和28年) 頃から千川は暗渠化され、元の千川両岸の桜はつぎつぎに伐られていった。 その後、1985年 (昭和60年) 代に入り、地元の有志によりかつての千川は千川通りとなり桜が植樹され、「桜の碑」が建てられている。
現在の桜台は昔は下練馬村に属し、1929年 (昭和4年) に下練馬村が練馬町と変わり、更に1932年 (昭和7年) の市郡合併で、板橋区練馬南町の2丁目・3丁目となった。1915年 (大正4年) に開通した武蔵野鉄道路線に、この地に1936年 (昭和11年) に駅ができ、桜の名所にちなんで、この駅を「桜台」と命名している。1962年 (昭和37年) に南町2丁目が地番整理で桜台1~3丁目となり、翌1963年 (昭和38年) に南町3丁目が桜台4~6丁目となっている。桜台の民家の変遷は以下の通りになる。現在はほぼ全土に住宅が建てられて密集しているが、1896年 (明治29年) 年の民家の分布は三ヶ所に分かれている。一つは桜台の西、練馬二丁目との境界辺りで練馬二丁目にある栗山遺跡の東側で旧石器・縄文・弥生・古墳・平安時代の住居遺構・遺物が発見されており、昔から人が住んでいた地域になる。二つ目はその北にある南三軒在家と呼ばれた地域で、戦国末期に集落がつくられた。三つ目の集落は桜台の東側にある下練馬村の小名の宿濕(湿)化味 (しゅくじっけみ) と呼ばれた石神井川南の低湿地だった。この辺りでは、旧石器時代から人々が生活していたことが分かる遺構や遺物が出土している。桜台の北の境界線は石神井川だが大正時代までは、かなり蛇行していた、それを現在の様にほぼ直線に変更して境界線となったようだ。南の境界線は千川通りになっている、この通りは千川上水を暗渠化し幹線道路となった。1922年 (大正11年) に武蔵野鉄道 (現在の西武池袋線) が開通し、関東大震災による都心からの人口流入を背景に、大正後期から昭和初期にかけて桜台は急激に市街化していった。戦後、更に住宅地として開発され現在のような住宅密集地域と変貌している。

桜台 (旧南町3・4丁目) は戦前に早くから開けた地域だったので、高度成長期には人口は増加しているが、練馬区の他の地域に比べて増加率は低くなっている。高度成長期の後半から人口は減少に転じたが、1976年からは僅かながら毎年増加が続いていた。2021年からは横ばい状態になっている。世帯数は順調に増加が続いている。


練馬区史 歴史編に記載されている桜台内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
  • 仏教寺院: 広徳寺
  • 神社: 高稲荷神社、熊野稲荷神社
  • 庚申塔: 5基  馬頭観音: 3基


まちづくり情報誌「こもれび」- 桜台


桜台訪問ログ



桜台駅まで行きそこから史跡巡りを始めた。

馬頭観音 (17番)

桜台駅の北側にあるマンション前の道端に小さなコンクリート製の堂宇があり、その中に馬頭観音 (17番) が置かれている。造率時期はは不明で、塔の正面に顔がつぶれているのだが馬頭観音が浮き彫りされている。

馬頭観音 (104番)

馬頭観音 (17番) から道を東に少し進んだところに、もう一つ馬頭観音があった。路傍の芝生にポツンと立っている。この馬頭観音は第12代徳川家慶の頃の1845年 (弘化2年) に造立されたもので、正面には通例とは違い優しげな馬頭観音座像が浮き彫りされ、今でもはっきりと残っている。台石には「願主 米蔵」とあり、側面には「篠三郎左エ門」の銘が刻まれている。

埼玉道碑

更に道を東に進むと、地下鉄新桜台駅のある441号線 (正久保通り) に出る。この441号線がかつての埼玉道にあたり、清戸道 (千川通り) を江古田駅の南、下練馬・上板橋・中新井の三か村の村境の二又で北西へ分かれて、埼玉県戸田市方面に通じていた。この埼玉道碑は開進第三小学校の前にあり、1947年 (昭和22年) に練馬区が独立した際に、初の区役所はこの小学校の講堂に置かれていた。

林稲荷神社 (稲荷神社)

旧埼玉道を北に進んだ所に林稲荷神社がある。創建の時期や由緒等は明らかでないが、相当に古くから在ったそうで、倉稲魂命を祀っている。地元では熊野稲荷神社とも呼んでいる。境内は周囲をブロック塀で囲み施錠されて中には入れず、外から写真を撮った。境内に立っている鳥居は1901年 (明治34年) と1905年 (明治38年) に建てられたもの。昔は、二月の初午には、おびしゃの祭りが執り行われていたそうだ。(おびしゃは、主として関東地方の各村落で行われる春の行事で、戸の世帯主がムラの氏神や小祠に集まり、神事の後、決められた人、あるいは参加者全員で弓を射り、年1年の作物の作柄など、神意を占う予祝行事)

お浜井戸

旧埼玉道を更に北に進むと、石神井川に出る。石神井川に沿って西進むと、川の近く南側にお浜井戸がある。この場所にはかつては泉が湧出し、近隣の田を潤していたそうだ。この井戸がある場所は氷川台にある氷川神社 (大氷川) 創建の地とされている。1457年 (長禄元年) に渋川義鏡率いる軍兵が古河公方の足利成氏との戦いに赴く途上、下練馬のこの地を流れる石神井川を渡ろうとしたところ、この泉に出会い、兵を休めて須佐之男尊を祀り戦勝を祈願したと伝わっている。(他の伝承では近隣の谷原村で疫病が起きたので沈静を祈って村の氷川神社の神札を川に流し行き着いたのが、このお浜井戸の辺りだったという。) 氷川神社の祠は創建してから20年後の1477年に江古田原の戦いで焼失している。その後、延享年間 (1744~48年) に海老名左近により、氷川神社の祠はお浜井戸があるこの地から氷川台の現在地に遷座再建されている。お浜井戸は1950年代までは水澄んだ池だったが、60年代に入ると人口増加とともにゴミ捨て場のような状態となり、1968年に埋め立てられてしまった。その後、現在のように整備されている。

氷川神社では、三年に一度春季例大祭の折に、1806年に製作された宮神輿をかつぎ白装束の総勢80人余が行列をくんで故地のお浜井戸への「里帰り」を行い、お浜井戸で「鶴の舞」という儀式を執り行っている。氷川神社から神輿を戴いた行列がお浜井戸に到着すると「獅子の舞」で土地を祓い清め、紋付羽織袴、白足袋、草履の姿でには鶴の首を表す竹組に細く切った白い和紙を沢山貼り付けた烏帽子を被り鶴に扮した二人の古老が息の合った間合いで舞い、最後に豊穣と子孫繁栄を表す愛の交歓の仕草を見せ終了となる。


高稲荷神社

お浜井戸のすぐ西、石神井川沿いに公園がある。石神井川のこの辺りはかつては両岸から武蔵野台地の高台が迫って流路が細くなっていたため流れの速い瀬となり「早淵」と呼ばれていた。公園の高台に祭神を保食命とする高稲荷神社がある。高稲荷神社は、1822年 (文政5年) の頃より、戦国末期に移り住んで来た三軒在家の守護神として勧請されたと推定され、土地の農民が崇敬してきた。この神社には大蛇伝説が伝わっている。
高稲荷のある台地上の下は、むかしは大きな沼になっており、そこには、主の大蛇がすんでいた。村のある若者が沼に釣りに来た際に美しい娘に出会った。娘に惚れ込んだ若者は来る日も来る日も沼にやって来た。ある日沼に来ると娘は沼の奥まった所にいた。娘に近付こうとした若者はそのまま足を滑らせ沼に沈んでしまった。娘は沼の主であった大蛇の化身で若者を見込んだ大蛇が若者を沼に引き込んでしまった。
若者は篠氏の一族だともいうが、村人は
その霊をなぐさめるために祀ったのが、高稲荷だともいわれる。
境内には1853年 (嘉永6年) 造立の二の鳥居が残り、社殿は1980年 (昭和55年) に新築されている。昭和33年にも建て替えられており、二つの新築記念碑 (写真左下) が立っていた。一の鳥居は1990年代に造立。この一帯は沼地だったが昭和初期に埋め立てられて高稲荷公園が造園された。この公園には130本もの桜が植えられ、シーズンには花見客で賑わっている。また、高稲荷神社では旧石器時代から弥生時代にかけての集落遺跡が発掘され、旧石器時代の礫器群や縄文時代の土器などが出土している。


広徳寺

石神井川を西に進むと臨済宗大徳寺派広徳寺がある。北条氏政の子で岩槻城主太田氏房が明叟和尚を小田原に招き、早雲寺の子院としてこの広徳寺を開山したとされる。1590年に小田原城が落城した際に焼失したと伝えられ、その後、徳川家康が二世希叟和尚を江戸神田に招き再興している。1635年 (寛永12年) には下谷に移り、加賀前田家をはじめ諸大名を檀家とする江戸屈指の大寺院となった。1923年 (大正12年) の関東大震災で寺域は焼失し、その後の区画整理のため、1925年 (大正14年) からこの地に墓地を移し、別院とした。 昭和46年には本坊も移し、平成2年に開山明叟和尚四百遠年諱を記念して、庫裡、位牌堂を建て替え、現在の形になっている。墓地には、剣法の指南役として有名な柳生宗矩、三厳 (十兵衛) 父子の墓や将軍家茶道指南役で庭園築造にも事蹟のあった小堀遠州の墓もある。その他、文禄・慶長の役で活躍した立花宗茂や、江戸時代の詩人菊池五山、菊地秋峯、大内熊耳など、大名、学者、文人の墓所が数多くあるそうだ。この広徳寺は一般の見学は行っておらず、境内や大名墓所には入ることが出来ないので、塀の外から撮影した。総門 (左上)、山門 (左中)、勅使門 (右中)、鐘楼 (左下)、本堂 (右下) は撮影できた。


桂徳院

広徳寺の隣にある本尊を釋迦如来とする桂徳院は、広徳寺の塔頭 (たっちゅう) で、滝川壹岐守正利が、神田昌平橋内廣徳寺内に、1602年 (慶長7年) に建立し、亡父の滝川 (羽柴) 下総守雄親の香華所 (菩提寺) とした。1635年 (寛永12年) に広徳寺と共に下谷に移り、1777年 (安永6年) に焼失。明治に入り泰樹院、梅雲院を合併、1923年 (大正12年) の関東大震災で焼失後、当地へ徐々に移転し、1955年 (昭和30年) に完了している。


広徳寺座禅堂

広徳寺の石神井側の塔頭の圓照院には座禅堂が置かれている。広徳寺は禅宗の臨済宗の寺院で、ここは座禅の就業場となっていた。今は精進料理店になっている。


地蔵尊 (2023年12月2日 訪問)

広徳寺の南、かつて南三軒在家の集落だった場所に地蔵尊が残っている。1773年 (安永2年) に造立されたもの。 


庚申供養塔 (38番)、大乗妙典日本廻國供養塔

広徳寺前の道は江戸時代から埼玉道とふじ大山道をつなぐ旧道で、その道を新桜台方面南に進んだ所の民家の塀に祠が設けられていた。この辺りは、南三軒在家 (三軒在家) と呼ばれた地域で、戦国時代の終わりにどこからか三人の郷士移り住んできたことからそう呼ばれるようになったという。街道沿いには数軒の民家が江戸時代にはたちならんでいた。祠の中に石塔が二つある。左側には1780年 (安永9年) に造立された庚申塔が置かれ、駒型の石塔の正面に日月雲、右手に頭を載せ左手で片足を抱えた邪鬼 (ショケラ) を踏みつけた六臂青面金剛立像が浮き彫りされている。その下には三猿も浮き彫りされている。台座には庚申講中 拾八人、願主 道玄と刻まれている。塔の右側面に造立年月日。左側面に江戸小日向水道町の石工名が刻まれていた。

庚申塔の右側には、1802年 (享和2年) に造られた角柱型の日本廻国供養塔があり、これは当時流行していた日本国中の社寺を廻り、その記念として各地に建てられていたもの。塔の正面を彫りくぼめ、阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典日本廻國供養塔」上部両脇に天下和順 日月清明。右下に万人講、左下に「為二世安樂」塔の右側面に造立年月日、左側面には武州豊嶋郡下練馬村早淵とある。


庚申塔 (番号登録なし) 桜台5-25 (未訪問)

更に道を南に進むと、資料では桜台5-25に、1763年 (宝暦13年) の造立された方形で文字型の庚申塔があるとなっていた。庚申塔なので昔の道沿いにあるはずと思いこの番地の道沿いを探したが、マンションなどの住宅地になっており、見つからなかった。消滅したのか、どこかに移設されているのだろうか?


庚申塔 (40番、41番) 、地蔵菩薩像、馬頭観世音 (18番)

更に道を南に進むと塀の前に四基の石塔が並んでいた。この道は田中道戸呼ばれ、巣鴨のやっちゃ場や中野の新井薬師へ通う道だった。ここには移設された道しるべや馬頭観音、庚申塔が置かれている。この場所はかつてはリヤカーの車輪が泥に埋まって進むのが大変だったことから「地獄」と呼ばれていたそうだ。

  • 左端 庚申塔 1797年 (寛政9年) に造られた駒型庚申塔 (41番) で石塔の正面には剝げ落ちかけているのだが、日月雲、剣を持ち邪鬼を踏みつけた六臂青面金剛立像、その下には三猿が浮き彫りされている。塔は道しるべにもなっており、荒井梅松院道と新井薬師へ、左り雑司ヶ谷道と刻まれている。
  • その隣は地蔵菩薩立像で1690年 (元禄3年) に造立され、舟形光背で梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像が浮き彫りされ、光背右脇には「奉造立地蔵一宇為逆修也」と刻まれている。
  • 右から二番目のものも庚申塔 (40番) で、1745年 (延享2年) に下練馬前湿化味村の講中により作られ、駒型石塔の正面には、日月雲、合掌型六臂青面金剛立像、足の両脇に二鶏、その下には三猿が浮き彫りされている。
  • 右端のものは馬頭観音塔 (18番) で、1900年 (明治33年) に造られた角柱石塔で、正面に文字で馬頭觀世音と刻まれている。


今日はこの後、夕方から会社勤めをしていた時の同僚との会食なので、早めに切り上げ、自宅に戻り待ち合わせの場所に向かった。


参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)
  • 練馬の石造物 路傍編 1 (1991 練馬区教育委員会)


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