小豆島八十八ヶ所遍路 16 (08/05/23) 小豆島町 旧内海町 草加部郷 草壁本村 (上村・下村)

草加部郷 上村

(川南)

  • 稲荷社

(川北)

  • 西城川、大水害復興記念碑 禍福無門

(立江)

  • 第19番霊場 木下庵
  • 大橋之碑

(川西)

  • 天津神社 (妙見社)
    • 境内末社 (瘡神社、八坂神社、天満宮、金刀比羅宮、今宮神社、人丸神社 歯神様)
    • 荒神宮
    • 稲荷神社
  • 内海ダム
    • 落合池記念公園、水神、さくら広場
  • 別当川

(門原)

  • 地蔵尊

(立江)

  • 樋出庵 (第6番観音霊場)
  • 十日會

草加部郷 下村

(川東西、川東東)

  • 小豆島高校跡
  • 菅家屋敷跡
  • 地蔵堂
(南)
  • 荒魂神社 (2023年10月31日 訪問)
  • 長楽寺 (2023年10月31日 訪問)


下村内の中村の史跡を見終わった後、次は上村に移動する。


今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場

第19番霊場 木下庵

  • 本尊: 薬師如来
  • 真言: オン コロコロセンダリ マトウギ ソワカ
  • 詠歌: 濁る世の 人の心を 澄ませとの 仏の誓 頼もしきかな 


訪問ログ


上村

上村はその地域がそのまま、現在の行政区である神懸通となっている。江戸時代の藩政時代、上村には東条、西条、後山、門原、立江、柴中、小坪の7つの条 (庄、組) に分かれていた。現在の行政区は8つあり、東条、門原、立江、小坪は行政区名として残っているが、西条、後山、柴中の三つの条は川南、川北、川西、川東の四つの区に分かれている。それぞれがどの条に相当していたのかは分からなかった。


上村の史跡

  • 寺院/庵等: 木下庵 (19)
  • 神社: 稲荷社、天津神社 (境内末社: 瘡神社、八坂神社、天満宮、金刀比羅宮、今宮神社、人丸神社 歯神様、荒神宮、稲荷神社)、地蔵堂、樋出庵 (第6番観音霊場)、立恵地蔵 (未訪問)
  • 大手醤油会社: なし
  • その他: 大水害復興記念碑 禍福無門、大橋之碑、内海ダム

中村の北側の上村の川南、川北を通り、更に北の立江村に向かう。


(上村 川北)


稲荷社

峰之山庵から墓地を北に抜け、集落内の道を進む。西城川の手前の民家の前に稲荷社の小さな祠があり、中に狐様が祀られていた。この道が川南と川北の境になる。稲荷社は川北側に置かれている。


(上村 川南)


西城川、大水害復興記念碑 禍福無門

川南と川北の地区境を流れる西城川を渡る手前、川南側に大きな石の碑が置かれていた。大水害復興記念碑 禍福無門と刻まれている。この西城部落も災害に見舞われた所なのだ。
小豆島では昭和49年と51年に集中豪雨が引き起こした大災害が起きている。昭和49年の七夕台風では橘村が最も大きな損害、死者を出したが、昭和51年には池田町で多くの死者を出している。安田やこの神懸通では死者は出なかったが損害はやはり大きなものだった。
神懸通地区では山崩れ、土石流などが発生し、地区全体では重軽傷者10人、全壊4戸、半壊22戸、床上床下浸水254戸を記録した。記念碑の裏にその時の記録が刻まれている。
大水害復興記念碑 禍福無門
昭和51年9月8日からの連日の降雨は1400ミリに及び小豆島東部に壊滅的な被害を与えた。当西城地区においても11日には819ミリの集中豪雨となって岩石樹木をともなった山津波を起こし平山池をも一 挙に決壊させ部落を直撃した。ほとんどの家屋が流出埋没床上浸水を蒙り住居地帯への土砂の流入は二万立 方米にも及んだのである。その凄惨なる光景は大正7年の災害をはるかに上回るものとなった。この水害の爪跡は国県町の巨費を投じての復旧事業建設業者の協力、地区民の奮起によって三箇年の間に復興することができたのである。ここにこれを記念して碑を建て同じ 被災した大正7年水害の断碑とともに永く後世に伝えるものである。
昭和54年9月11日
西城部落有志


(上村 立江)

道を進み立江村に入る。向こうに木下庵が見えてきた。立江村の集落は木下庵の北側にこの道沿いにある。この集落地域は木ノ下と呼ばれている。

第19番霊場 木下庵

木下庵は、江戸時代の記録では上之薬師堂と呼ばれていた。 (下薬師堂は第20番霊場として清見寺内にあったそうだ。) 現在の庵は昭和の初めに木ノ下地域住民有志が私財を投じて建立され、地域住民が交代で守っている。上之薬師堂は「日限りの薬師」として土地の信仰を集めていた。庵の奥にも建物があり、立江コミュニティセンターとして使われている。
庵の隣は墓地になっており、墓地入り口には念仏供養塔が数基建てられている。

木下庵から道を進むと先には別当川を堰き止めた巨大な内海ダムが見えてきた。

大橋之碑

道は別当川にぶつかる。ここは小川水路が別当川に注いでいる場所で堀川橋が架けられている。ここは立江、門原、川西の三つの地区が交わる場所になる。立江側に大橋之碑が建てられている。地域の文化財なのだが、情報は見つからない。大橋と呼ばれていた様なので、何か由来か逸話がありそうだ。次回訪問時に地元の人に聞いてみよう。


(上村 川西)


別当川を渡らず、川の西側の川西地区を北に進み天津神社に向かう。


天津神社 (妙見社)

内海ダムの手前西側にある妙見山には応神天皇所縁の由緒ある天津神社がある。神社を囲む妙見山の林は小豆島町天然記念物に指定され、クスノキやクロガネモチなどの巨樹がそびえ立ち、神社の南にはアラカシやイヌマキ、マンリョウ、ヤブニッケイ、ヤブコウジなども茂っているそうだ。神社の別当川河岸には神木とされるクスノキの大木がある。
参道は階段で本殿まで長い道になっている。入口の一の鳥居を入ると両側に拝所がある。地蔵尊や仏像が祀られている。
参道を進むと二の鳥居があり、その奥に三の鳥居が見えている。

三の鳥居脇にも幾つもの拝所がある。その一つは岩の間に狐像を幾つもの置いたお稲荷さん。
ようやく参道階段がの終点に着く。最後の四の鳥居があり、その上に建物の中央に参道が設けられた珍しい割拝殿がある。小豆島では幾つか割拝殿を見たのだが、どれも東屋の様な建物の内側左右に床間があるもの (当浜荒魂神社安田玉姫神社) だったが、ここの割拝殿は立派な建物になっている。
境内連注柱を潜った正面に拝殿その奥に本殿がある。昔は妙見社と呼ばれ、祭神は本来は海上安全の航海の神とされる北斗七星だった。その後、神道の解釈で天津神社といわれ、天御中主神を祭神としている。妙見社は妙見山一円を境内とし面積は1500余坪の広大な地域を占め、江戸時代には舞台も二個所にあったといわれ、内海地区では有数の神社だった。本山派熊野系の修験山伏と関係が深かったとも推測されている。

境内末社 (瘡神社、八坂神社、天満宮、金刀比羅宮、今宮神社、人丸神社 歯神様)

拝殿の向かいに社務所左右に神輿倉と境内末社を集めた社殿がある。社殿内には9つの神棚が置かれている。その内幾つかには神社名が書かれている。左端には瘡神社とある。小豆島では初めて見る神社だ。瘡 (かさ) はおでき、疱瘡などの皮膚病の事で、疱瘡、火傷、天然痘にご利益があるとされている。その右に八坂神社、更に文字が消えたのが一つ、名札がないものが二つ、そして天満宮があり定番の牛の像が横に置かれている。更に金刀比羅宮、今宮神社 (恵比寿)、ひとまるかみと呼ばれ歯痛に御利益があるとされる人丸神社 歯神様が祀られている。

荒神宮

境内には独立した祠の荒神宮がある。村の氏神として祀られている。昔からこの地にあったのか、災害など何らかの理由で移設されているのかはわからない。

稲荷神社

もう一つ独立した境内末社が稲荷神社になり、中には狐がいっぱい置かれている。ただこの祠の鳥居には峠龍王、白髭大明神と書かれている。稲荷神社の筈だがどの様な相関があるのだろうか?
一の鳥居の前の広場では毎年秋の祭りの際に妙見天津神社祭典が行われて太鼓台奉納が行われている。


(川東)


内海ダム

天津神社の北の内海ダムは訪問予定にしていなかったのだが、下から見たダムが雄大なので、寄り道をすることにした。神社から坂道を登って行くと、古落川 (写真右) が流れて別当川に合流している。西の妙見山からは川が何本も別当川に注いでいる。この川もその一つだ。この川を渡ると内海ダムに到着する。
このダムは正式には「新内海ダム」という。三代目の内海ダムになる。このダム竣工前には、昭和31年に水道水源として建設した高さ14mの初代重力式コンクリート堰堤を昭和34年にコンクリートと土石の混成堤の高さ21mの二代目内海ダムが改築されていた。新たに洪水調節機能を持たせた多目的ダムだった。しかし、集水面積に比べ洪水調節容量が小さいことから、1961年 (昭和36年) の台風17号によりダムの上部から越流し (ダムの管理人が放水ゲートを閉じたまま出かけたことが影響したとされる)、ダム堤体下流の土石部分が流出してしまった。1974年 (昭和49年) と1976年 (昭和51年) の集中豪雨では小豆島では最も急勾配の河川の別当川が氾濫し、堤防の決壊や落橋、住宅の浸水といった大きな被害が発生している。(写真右下)  抜本的な治水対策を図る必要に迫られた事が新内海ダム建設に繋がって行く。
新内海ダム再開発事業は、香川県と小豆島町が「別当川総合開発事業」の一環として、洪水調節、新規水道用水の開発、流水の正常な機能の維持を目的とした多目的ダムを建設するというもの。
1997年 (平成9年) から2013年 (平成25年) にかけて122億円 (国58、県58、町6) で竣功し、堤高40m、400mの四国最長となる重力式コンクリートダムになっている。旧内海ダムの貯水量の7.5倍になっている。2017年には土木学会デザイン賞最優秀賞を獲得している。
ダムの上からは草壁港と街並みが臨める。
この新内海ダム建設では、2009年に地元住民らは土地収用法の強制収用の事業認定取り消しを求め裁判を起こしていた。2014年に裁判所は国の事業認定を認め原告敗訴となった。原告は高齢であり、失望の中上告を諦め結審となっている。その争点は再開発に合理性が無いというもので、
  • 小豆島の水源は1999年の吉田ダム (貯水量は内海ダムの2倍以上) 供用開始で水道容量が2.5倍に増加し、それ以来、渇水も給水制限も起きていない事から水は余る状態で供水対策は不要で費用対効果では正当化できない。
  • 災害対策とされている事に対して、過去の災害は別当川下流の西城川の土石流と片城川の氾濫での被害が大きく、別当川が直接の原因ではなく川付近は人的損害もなく比較的少なかったので、建設の根拠になり得ない。
  • 内海ダムがある場所には3本の断層が走り、強力な岩盤がない。ダムが決壊した際は過去の以上の惨事の可能性がある。
  • 巨大ダムは名勝寒霞渓の景観を損ない、小豆島の主要産業・観光に寄与することはなく、それ以上に生態系に影響がある。
  • 水面下で土地収用法適用で事業認定を行い、住民土地が強制収用されたやり方に問題があり、根拠とされる公益性は証明できず、不当強制収用に当たる。
この問題について色々な記事を見る限りでは、行政の問題が浮き彫りになっている。公共事業の多くは経済活性化を大義名分とし、必要のない公共事業を作り出している。働く役人は、疑問を持たず忠実に仕事をこなし、事業が進展し中止又は後戻りをする行政にとり、不都合な事が表面化する。多くのケース政治、行政、行者の癒着がある。この内海ダムがこれにあたるかどうかはわからないが、中止出来ないところまで進んでしまい正当化せざるを得なかった例では無いだろうか?

落合池記念公園、水神、さくら広場

少し重い話になってしまったのだが、ダム建設では必ずと言っていいほど、ダムの周辺に公園や住民に協力の感謝を表した碑がある。これらは建設の条件の一部なのだろう。ダム貯水池の周りは東側に落合池記念公園、西側にさくら広場が作られている。落合池記念公園にはかつてここにあった落合池の水神が移設されて祀られ記念碑が建てられている。
江戸期、徳川五代将軍綱吉の頃、元禄八年に神懸山の麓に注ぐ別当川水路と荒神谷水路の落ち合うところに水田農家の希末の事業とし て造られた落合池は俗名落矢池とも呼ばれ永きにわたり下流域の水田の水がめとしてその役割を小さい乍らよく果たして来ました。
別当川再開発事業・新内海ダム建設によりダム湖に没することになりましたが、親しまれたその名は湖内に残り、またその利水も水遠に存続し新設のパイプラインを作って供されることになりました。ダム建設事業にあたり落合池の守護神である水神の祠をこの地に移設し新内海ダム完成後も久しく地域水田のうるおいとなるよう祈願し、その御魂をつつしんで奉るものです。平成二十六年三月吉日 落合池水掛
公園に脇をダムに流れ込む別当川
この北側には小豆島の景勝地の寒霞渓の山が聳えている。今日は時間もなく寒霞渓には登らない。寒霞渓は紅葉の季節が最も美しいので次回10月に訪れる時までとっておく。
振り返ると瀬戸内海に落ち込む様に上村と下村の風景も見える。
ダムの東から下に降りて行く、本当に長いダムだ。ダムの下には運動グラウンドが造られている。
ダムの水は再び別当川に流れ込んで行く。
別当川沿いには「ほたる広場」が造られて子供の遊戯具が置かれていた。


(門原)

今度は別当川沿いの東側を歩き海岸方面に向かう。川東の南は門原という条になる。

地蔵尊

門原の南の端付近、別当川沿いに燈籠や地蔵尊を集めて祀っている。村にあったものをここに集めているのだろう。


(立江)

門原の南側は立江になる。立江は別当川の西岸と東岸に東西に広がっている。先に西岸を歩いたので、今度は東岸を南に歩く。

樋出庵 (第6番観音霊場)

道沿いにたまたま庵を見つけた。樋出庵と書かれており、第6番観音霊場とある。小豆島八十八ケ所札所でもなく。この庵の情報は見つからなかった。第6番観音霊場なので、小豆島に観音堂の巡礼地があるのだろう、引き続き他の観音霊場を探し訪れてみよう。

十日會

道を進むとレトロな建物があった。地図でここを見ると十日會とあるが、何の為に建てられたのかは見つからず。今は誰かが借りて利用している様だ。


草加部郷 下村

道を更に南に進むと、今日前半に訪れた下村に戻って来た。

(川東西、川東東)

下村は殆どの小字は別当川の西側にあるのだが、ここは東側の小字の川東地区になり、川東西と川東東の二つの地域で構成されている。


小豆島高校跡

道を進み丸島醤油のところで東に曲がり、別当川を渡ると、小豆島高校の跡地がある。昔はこの前の道はバス道で片城の親戚を訪れるときはここのバス停 (ここは下村なのだが、確か片城となっていた様な記憶がある) で降りていたので懐かしい。社会福祉法人聖マルチンの家が落札し、現在は跡地利用の工事が行われている。2017年に香川県立土庄高等学校と統合して閉校、小豆島中央高等学校となり池田に移っている。この高校の歴史は古く、内海実業学校 (1908年 明治41年設立) の女子技芸部を昇格して1920年 (大正9年) に草壁町外四ヶ村組合立小豆島高等女学校として始まった。女子校ができたのだが、男子校はなく、男子学生は高松の学校に通っていたが、1923年 (大正12年) に旧制中学校 (男子校) が併設された。1949年 (昭和24年) に両校が統合され、香川県立小豆島高等学校となった。校門には高等女学校、旧制中学校、小豆島高等学校三つの校章が残っている。この校門も撤去されるのだろうか? 残して欲しいものだ。

菅家屋敷跡

小豆島高校跡から南に進んだ所には大庄屋だった菅家屋敷跡がある。小豆島内の親村九ヶ村には一人ずつ大庄屋が任命されて、代官の指揮に従って、その組下の枝村 (年寄一名が置かれていた) を統治していた。大庄屋は中世以来の有力名主層か、あるいは何かの理由でこの島へ転して来た由緒ある武士の子孫だった。菅家は草加部村の大庄屋で美作国弓削庄神目代城主菅納左近将監家利か、その遠祖と伝わっている。他の言い伝えでは、大川郡の豪族安富氏の重臣の長町氏が安富氏の養子 筑後守某 (肥前守盛定?)  となり、土佐の長曽我部元親の侵攻をうけ小豆島へ逃がれ草加部村下村に居を定め、本姓の長町氏を称したが、のち江田氏、更に菅氏と改姓したとされる。こちらの説の方が有力だそうだ。菅家屋敷 (写真右下) は取り壊されて、今は敷地の一部が花壇になっている。その中につな引石と刻まれて石柱が置かれている。この地域の文化財の様だが何に使われたのか調べたが、見つからず、次回訪問時に地元の人に聞いてみよう。

地蔵堂

時間も夕方に近くなって来たので帰りのバス停の安田に向かう事にする。道沿い片城川手前にある片城橋 (昭和2年竣工) の側に地蔵堂があった。片城橋というのだがそこには片城川は流れておらず細い水路となっている。昭和46年、49年、51年の集中豪雨で大規模な土石流が発生し、その対策のとして川の流れを変えた事で橋だけが残る事になった。流れが変わった片城川には新片城橋が架かっている。そうするとこの地蔵堂は川沿いにあったのだ。地蔵尊の詳細は見つからず。

これで4月22日から今日5月8日迄16日間の小豆島八十八ケ所遍路の旅が終了。今まで小豆島は故郷とはいえ、殆ど地元以外知らなかったのだが、今回、多くの地域を歩く史跡を巡ると、こんなに自然豊かで、歴史ある島である事が分かり、この故郷が一層好きになり、この島で生まれた事が誇らしくなる。八十八ケ所霊場の48の寺や庵を巡った。まだ、半分をようやく越えたところで、10月の紅葉の季節に母へのご機嫌伺いを兼ねて続きはを行う予定だ。

明日は早朝に坂手港からジャンボフェリーで神戸港に移動、更に船で関西国際空港まで行き、飛行機で沖縄那覇に帰る予定。


(南)

10月に再び小豆島を訪問。馬木、片城を散策中にたまたま、史跡を見つけた。

荒魂神社 (2023年10月31日 訪問)

草壁本村の下村字三軒家にある草壁第2児童公園の片隅に荒魂神社が置かれている。江戸時代中期の文献によれば草壁本村 (上村、下村、片城) には荒神社が6社あったと記載されている。ここはその一つになる。祠が三社あり荒魂を中心に向かって左には地主大明神を祀っている。右側の祠では何を祀っているのかは記載がなかった。


長楽寺 (2023年10月31日 訪問)

浄土真宗本願寺派法蔵院分院の長楽寺があったが、情報は見つからず。


参考文献

  • 内海町史 (香川県小豆郡内海町)
  • 小豆島お遍路道案内図
  • 小豆島町文化財保存活用地域計画 (2022 小豆島町)
  • 小豆島災害の記憶 (2014 香川県小豆島町)

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