小豆島八十八ヶ所遍路 08 (29/04/23) 小豆島町 (旧内海町) 片城村 (1) / 木庄村 / 安田村 (1)
小豆島町 (旧内海町) 片城村 (かたじょう)
- ヤマヒサ
- 塩田跡
- 道しるべ
- 花地蔵(木庄拝所)
- 祠 (愛宕神社?)
- 片城庵
- 片城金刀比羅神社、荒魂神社、若宮神社、天満宮
- 第16番霊場 極楽寺
- 第17番霊場 一ノ谷庵
- 秋葉神社
小豆島町 (旧内海町) 木庄村 (きのしょう)
- 祠
- 木庄天満宮 (天神社、菅原神社)
- 若宮神社
- 第15番霊場 大師堂 (旧木庄庵)
- 木庄荒魂神社、秋葉神社
- 稲荷神社
- 木庄神社
- 瑜伽 (ゆうが) 大明神
小豆島町 (旧内海町) 安田村 (やすだ)
- 地蔵尊
- 吉太郎 (きちたろう)
- 八坂神社/安田天神社 (安田小学校)
- 安田金比羅宮/天王山城跡
- ヤマロク醤油
- 第13番霊場 栄光寺
- 地蔵尊
- 荒神神社
- 第12番霊場 岡ノ坊
- 竹成御前の祠
- 安田踊りの像
- お妻の局社
- 玉姫神社
- 佐々木信胤廟
- 塩釜神社
- 小豆島醤油同業組合顕彰碑、高橋實造像
- 馬場跡、高橋商店 (ヤマモ)
- ヤマヒサ
ウォーキング距離: 15.7km
今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場
第16番 極楽寺
- 本尊: 阿弥陀如来
- 真言: オン アミリタ テイセイ カラ ウン
- 御詠歌: 怠らず 願へばいたる 国にこそ 蓮のうてなは ありというなれ
第17番 一ノ谷庵
- 本尊: 薬師如来
- 真言: オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ
- 御詠歌: 晴れくもる 人の心の 中までも 空に照らして 澄める月影
第15番 大師堂
- 本尊: 弘法大師
- 真言: オン バイタレイヤ ソワカ
- 宝号: 南無大師遍照金剛
- 御詠歌: 現し世 (うつしよ) は たゞしばらくの 旅なれば はるけき後の ミオヤ頼まむ
第13番 栄光寺
- 本尊: 無量寿如来
- 真言: オン アミリタ テイセイ カラ ウン
- 御詠歌: 西に入る 日のひかりにも たのしみを 極むる國の しのばるゝかな
第12番 岡ノ坊
- 本尊: 六地蔵菩薩
- 真言: オン カカカビ サンマエイ ソワカ
- 御詠歌: み佛の たむけに今日は つみてまし 岡のいおりの 朝の若菜を
訪問ログ
小豆島町 (旧内海町) 片城村 (かたじょう)
片城村の人口推移
方城村 (片城、小坪) の史跡
- 寺院/庵等: 第16番霊場 極楽寺 (16)、一ノ谷庵 (17)、片城庵、花地蔵(木庄拝所)、龍王子 (未訪問)
- 神社: 片城金刀比羅神社、荒魂神社、若宮神社、天満宮、秋葉神社、愛宕神社
- 大手醤油会社: なし
ヤマヒサ
塩田跡
道しるべ
花地蔵 (木庄拝所)
祠 (愛宕神社?)
片城庵
片城金刀比羅神社、荒魂神社、若宮神社、天満宮
第16番霊場 極楽寺
第17番霊場 一ノ谷庵
秋葉神社
小豆島町 (旧内海町) 木庄村 (きのしょう)
木庄村の人口推移
木庄村は小豆島町の中でも2015年現在の人口は287人と少ないのだが1972年の人口に比べて10.8%の増加になっており、小豆島の中でも近年の人口減少傾向になっている他の地域とは異なっている。この背景はわからないのだが、何故人口が減っていないのかが気になる。
木庄村の史跡
- 寺院/庵等: 大師堂 (15 旧木庄庵)、花地蔵
- 神社: 木庄天満宮、天神社、菅原神社、若宮神社、木庄荒魂神社、秋葉神社、稲荷神社、木庄神社、瑜伽大明神
- 大手醤油会社: なし
祠
木庄天満宮 (天神社、菅原神社)
若宮神社
第15番霊場 大師堂 (旧木庄庵)
木庄荒魂神社、秋葉神社
稲荷神社
木庄神社
瑜伽大明神 (ゆうがだいみょうじん)
ここから山道を降りて安田村に向かう。
小豆島町 (旧内海町) 安田村 (やすだ)
安田村の人口推移
安田村の史跡
- 寺院/庵等: 栄光寺 (13)、岡ノ坊 (12)
- 神社: 八坂神社、安田天神社、安田金比羅宮、荒神神社、お妻の局社、玉姫神社、佐々木信胤廟、塩釜神社、竹成御前の祠
- 城跡: 天王山城跡
- 大手醤油会社: ヤマロク醤油、高橋商店 (ヤマモ)、ヤマヒサ、タケサン (未訪問)
地蔵尊
吉太郎 (きちたろう)
八坂神社/安田天神社 (安田小学校)
天王山城跡、安田金比羅宮
ヤマロク醤油
第13番霊場 栄光寺
地蔵尊
荒神神社、秋葉神社
第12番霊場 岡ノ坊
竹成御前の祠
お妻の局社
安田踊り像
玉姫神社
佐々木信胤廟
塩釜神社
小豆島醤油同業組合顕彰碑、高橋實造像
佐々木信胤廟の側に小豆島醤油同業組合顕彰碑と高橋実造像が造られている。小豆島の醤油産業に貢献に係わるものだ。碑文はすべて漢字 (漢文ではないのだが) で書かれているので読みずらいのだが、だいたいの内容はわかる。他の資料の内容と合わせると以下のようになる。小豆島の醸造家として初めて文献にあらわれたのは 徳川第11代将軍家斉の時代に草加部村枝郷安田村の高橋文右衛門だった。1809年 (文化6年) には 文右衛門の醸造石数は38 石 6斗とあり, 1828年 (文政11年) には 344 石3斗に達している。その後、醤油問屋は文政年間には42軒、1832年 (天保3年) には 52軒に も増加している。 このことで、文政年間には醤油問屋組合を組織し年行司という制度をつくって販売を統制している。 明治維新以降、小豆島の醤油産業は大発展を、明治3年には業者数は115 軒、造石高 16,700 石 に達している。業者が増えたことでによる不便不利解消のため、明治5年頃には「小豆島醬油造元」と称して全島の同業者を包容する団体を結成し、蔵元や問屋の和合と統制を保ち、小売値段を統制、神戸、兵庫、大阪の業者との取引の交渉、出荷調節、運送船統制、官庁への届出、免許願出、税金の取りまとめ、命 令伝達等を行なっていた。
明治11年には業者は400余となり, 粗製乱売の徴候があらわれる。そこで後に醤油王と呼ばれる長西栄三郎の提唱で、高橋彌三治、木下定次郎、水野金七、高橋實造 (銅像) などの賛同を得て「小豆島醬油造元」を解消し、新たに「栄久社」と改め、新陣容を整えて、京阪神のほか広島、高知、愛媛、九州方面にも新販路を開拓するなど島醤油発展の基盤を着々と築いていった。日清戦争後は査覧発展を続け、家内工業的小規模生産から次第に株式組織による大規模な工場へと移行していった。明治34年には重要物産同業組合法に基づき「小豆島醤油製造同業組合」が設立され昭和15年に解散するまでの約40年間、取引の改善、価格改訂法の革新、空樽回収事業、品質の向上に貢献した。
馬場跡、高橋商店 (ヤマモ)
馬場跡には1852年 (嘉永5年) に穀物の販売業として創業し、1863年 (文久3年) に醤油醸造をはじめた醤油醸造老舗の高橋商店 (ヤマモ) がある。大豆、脱脂加工大豆、食用油、素麺、醤油醸造、各種漬物を製造販売をしている。切り妻造りの長屋門形式の醤油蔵が残っておりで国の登録有形文化財に指定されている。前述の高橋實造像と関係があるのだろうか?
ヤマヒサ
高橋商店の近く西側にもヤマヒサの醤油会社がある。今日方城に向かう途中にヤマヒサの醤油蔵 (方城の項に写真を載せている) をみたのだが、安田地区の散策の最後には正門を訪れた。この会社は昭和7年に植松初蔵によって醤油醸造業がはじめられ、昭和26年にヤマヒサ醤油株式会社と法人化している。醤油醸造、オリーブ生産・加工商品販売を行っている。
バス時間までにはまだ少し時間があるので、安田の隣村の馬木の史跡の数か所を見たのだが、これは次回馬木を巡った際に含めることにする。
参考文献
- 内海町史 (香川県小豆郡内海町)
- 小豆島おへんろ道案内図
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