小豆島八十八ヶ所遍路 06 (27/04/23) 土庄町 大鐸村地区 (1) 黒岩村 / 小馬越村 / 笠ヶ滝村、渕崎地区 (4)

土庄町 大鐸村地区 黒岩村

  • 六部堂
  • 第74番霊場 円満寺
  • 黒石さん
  • 黒岩荒神社
  • 黒岩稲荷神社
  • 足尾神社 (東山道臣神社)
  • 黒岩山の神
  • 妙見神社

土庄町 大鐸村地区 小馬越村

  • 第73番霊場 救世堂 (くぜどう)
  • 荒魂神社
  • 山の神
  • 墓地
  • 地蔵尊
  • 金比羅宮
  • 塞の神 (未訪問)

土庄町 大鐸村地区 笠ヶ滝村

  • 第72番霊場 瀧湖寺
  • 三密会密勝苑
  • 笠ヶ滝王子権現
  • 弁天大池、日清日露戦争記念碑、水神
  • 岩風呂跡
  • 西崎の塞の神 (未訪問)
  • 第72番霊場 奥の院笠ケ滝
  • 皇踏山
    • 笠ヶ滝きよめの不動堂
    • 皇踏山城跡
    • 虎口、土塁、空堀
    • 北曲輪
    • 大手木戸、一の曲輪、二の曲輪、本曲輪、三の曲輪
    • 北山皇踏権現社 (東権現)
    • 天狗の松
    • 詰の曲輪
    • 皇踏山頂上

土庄町 渕崎地区

    • 皇踏山大権現社 (西権現) (渕崎部落)


今日移動したログはアプリの不具合で保存する前に消えてしまった。他のアプリでウォーキング教理は残っていた。

ウォーキング距離: 20.2km



今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場

第74番 円満寺 (黒岩)

  • 本尊: 十一面観世音菩薩
  • 真言: オン マカ キャロニキャ ソワカ
  • 古詠歌: なし
  • 今詠歌: もちの夜の 月の姿に にたるかな 心まどかに 満つる願いは

第73番 救世堂 (くぜどう 小馬越)

  • 本尊: 聖観世音菩薩
  • 真言: オン アロリキャ ソワカ
  • 古詠歌: 人の歩みはこびてよきごとの普き供花を 頼みかくらん
  • 今詠歌: 世を救う み声なるらん この山の 松の嵐も 水の響きも

第72番 瀧湖寺 (笠ヶ滝)

  • 本尊: 無量寿如来
  • 真言: オン アミリタ テイセイ カラ ウン
  • 古詠歌: 香をとめて 岩間の道を 分けいれば 法の花さく 山寺の庭
  • 今詠歌:散る世なき 法の花咲く山寺に 安く養へ 人の心を

第72番 奥の院 笠ヶ滝 (笠ヶ滝)

  • 本尊: 不動明王
  • 真言: ナウマクサンマンダ バザラダン センダン マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン
  • 古詠歌: 
  • 今詠歌: 岩むろの 仏拝みに 笠が瀧 さして行くや うれしかるらむ


訪問ログ



今日は福田唐からオリーブバス北回りで土庄町の黒岩バス停まで行き、そこからは徒歩にて黒岩村、小馬越村、笠滝村の史跡を巡り、皇踏山に登る。


土庄町 大鐸村地区 黒岩村

黒岩村は北、東、西の三方は山に囲まれたている。集落はバス道の東側にあり、一面水田、畑の中に民家が現在している。

黒岩村はかつては大鐸村 (おおぬで) に属していたが、1955年 (昭和30年) に大鐸村が土庄町に合併吸収された際に土庄町黒岩となっている。それまで黒岩村が属していた行政区変遷は以下の通り。

  • 明治11年 肥土庄村外黒岩村
  • 明治14年 小馬越村と笠ヶ滝村を吸収
  • 明治18年 小馬越村と笠ヶ滝村が分離独立
  • 明治21年 肥土庄村、黒岩村、小馬越村、笠ヶ滝村が合併し大鐸村となる。
  • 昭和30年 大鐸村が土庄町に合併吸収
村の公民館前には村内にある拝所、井戸跡、消火栓を載せた案内板が置かれていた。この様な案内図を作っている村はまだここだけだ。村を巡る際には助けとなる。

六部堂 (ろくぶどう)

黒岩バス停の場所に庵があった。黒岩村内に置かれていた案内板では六部堂となっていた。六部とは、六十六部の略称で法華経を書写し、全国六十六箇所の神社仏閣をめぐっ て、その法華経を奉納する行脚僧 (廻国行者) をいう。それらに関連して遍路道の周辺に造立された六十六部廻国供養塔は、現在でも地域で根強く信仰されているそうだ。六部堂の中には大小二基の六十六部廻国供養塔が置かれている。

太平洋戦争戦没者慰霊碑

第74番霊場 円満寺に向かう途中に墓地があり、その中に太平洋戦争で戦死した黒岩村の兵士13名の慰霊碑が建てられている。

第74番霊場 円満寺

墓地を越えた所が十一面観世音菩薩を本尊とした第74番札所の千光山福寿院円満寺になる。境内は庭になっており綺麗に手入れがされている。円満寺は行基菩薩 (667~749) の開基と伝えられ、924年 (延長2年) に安宗法印が中興したという。もともとは現在地の東北の慈恩寺谷にあり慈恩寺と称していた。その後、治承年間 (1177~1180) に黒岩中上のこの地 (やま根地) に移り寿福院と改め、江戸期元禄年間 (1688~1703) に千光山寿福院圓満寺の寺号を京都大覚寺より允許されている。
客殿は昭和の初め頃に老朽が進み取り毀して空地となり、方丈が客殿を兼ねていたが、長い年月の後、平成4年に本堂を再建をし、境内一円も整備して現在の姿になっている。本堂には恵心僧都 (942~1017) の作と伝えられる本尊の秘仏である十一面観世音菩薩が宮殿に安置され、客殿にはその御前立ちが奉納安置されている。
境内には幾つかの仏像が置かれている。
参道入口には、島内二番目の樹齢約四百年の町指定天然記念物であるシンパクが残っている。

黒岩神社 (黒石さん)

円満寺から黒岩集落中心部に降りていく。そこには、黒岩村で重要な拝所の黒岩神社があり、村では黒岩さんと呼んでいる。村の田圃の中一画に安山岩の自然巨石があり、村では8月1日を例祭日として神様として拝まれている。神社と言っても祠などはなく、黒石だけが置かれている。この黒石がこの村が黒岩と呼ばれる起源になる。大石の敷地は約3.3m2、付近は弥生式土器、石器の散布地だった。大石の下には、大型の自然平石を敷いている。古墳時代以前の原始時代の遺構磐境に類するものと推定される。

黒岩荒神社

黒石さんのすぐ側、黒岩部落のほぼ中央になる字下地には黒岩荒魂神社がある。荒魂大神、天照皇大神、大地主大社を祀っている。 荒魂大神は三つ祀られている。その一つは東荒魂大神と書かれており、昭和39年に平見の地から遷宮し合祀したそうだ。黒岩村は上組、前組、東組で構成され、それぞれの組の氏神の荒魂大神が祀られているというわけだ。境内にはかつて豊島石造大形五輪塔婆江戸時代中期作の形式二基建立してあったが、円満寺西の集霊塔へ移転された。ここにも明治23年読める?従軍記念碑が置かれている。日清戦争 (明治28年) に関わるものだろうか?青面金剛と刻まれた石塔もあった。庚申塔だろう。この小豆島では関東に多く建てられた庚申塔は殆ど見かけない。

黒岩金比羅神社 

黒岩荒神社から村を見ると田圃の道沿いに燈籠が見える。そこに行く。ここもまだ黒岩字下地になる。臼石の上に木の小祠にがあり、隣には自然石を削った手水鉢や燈籠がある。 この燈籠は板石笠にひき臼の棒でできており金の字が刻慣れている。金比羅の「金」を表し部落神の御神体を兼ねているという。毎月1日、15日には村人が参詣していたそうだ。

黒岩稲荷神社

上の写真 (左下) の様に黒岩金比羅神社からの岡田坂と呼ばれる緩やかな坂道の向こうに建物が見える。神官の岡田の屋敷が近くにあ ったので岡田坂という。そこは字丸山になり、黒岩稲荷神社が置かれている。 地元では宮島大明神という、これも部落神になる。建物は黒岩老人クラブになっている。小豆島だけでなく地方ではの集落ではこの様にその地の氏神の場所に自治会としていることが多い。この場所が村の中心で村民が集まりをする場所だった事によるのだろう。

足尾神社 (東山道臣神社)

黒岩村の東端、肥土山村との境界線近くの黒岩字東山にも神社がある。案内板では足尾神社となっているが、土庄村史では東山道臣神社となっている。祭神は道祖神だそうだ。第59代宇多天皇の第八皇子 敦実親王 (893~967年) が小豆島を領有していた頃には、この地にはに大門 (肥土山平見大門) があったと伝えられている。ここにも石引臼の燈籠が置かれている。
ここから黒岩村の西の端にある妙見神社に向かう。一面田圃になっている。今は田植えの季節で、ここを流れる伝法川から水を取り込み田には水が張られ田植え準備をしている様だ。

黒岩山の神

黒岩村で農作業中のお爺さんと立ち話をし、黒岩村の昔を聞いた。黒岩村には山の神は祀っていないのかと聞いた所、山神かどうかは分からないが、東の山の上に拝む場所があったという。50年ほど前の少年時代には山に登り拝んでいたが、今は行く人もなく、山道も無くなってしまった。ただ、伝法川沿いに山の拝所への道がありそこに拝所への道しるべが残っていると教えてくれた。そこに行くと、確かに道しるべが置かれていた。

妙見神社

伝法川に沿って西に進み黒岩字妙見に入り、上庄村との境界近くに妙見神社がある。天御中主神 (天御中併春日大神) を祀っている。鳥居には「丙寅慶応二稔九月良辰黒岩村氏子中、世話人佐左衛門、油屋定蔵、為八」とあり1865年 (慶応2年) に建立されている。そしてここにも石臼式燈籠があった。


次は旧小馬越村の史跡を巡る。

土庄町 大鐸村地区 小馬越村

小馬越村も黒岩村と同じく戦前は大鐸村 (おおぬで) に属していた。
  • 明治14年 黒岩村に吸収される
  • 明治18年 小馬越村と笠ヶ滝村が分離独立
  • 明治21年 肥土庄村、黒岩村、小馬越村、笠ヶ滝村が合併し大鐸村となる。
  • 昭和30年 大鐸村が土庄町に合併吸収

第73番霊場 救世堂

小馬越村には第73番霊場の救世堂がある。黒岩村の第74番霊場 円満寺との間にはかつての遍路道は少し離れているので、小馬越バス停から救世堂のある小馬越集落へ道を登って行く。
救世堂は小馬越村のほぼ中央の小馬越字東にあり、鎌倉時代に作られたほぼ等身に近い一木造り立像の聖観世音菩薩を本尊としている。この片田舎の小さな庵に、鎌倉時代の観音立像が残っているのは驚きだ。于堂の前にこの救世堂の由来についての説明板が置かれていた。
本尊 聖観世音菩薩 (町指定文化財) それ、讃岐国、志度寺御本尊十一面観音様とは、ご兄弟であると昔から言い伝えられていますが、約千百年のむかし平安時代の春中ごろ 近江の滋賀のさざ波たつ琵琶湖の水面を北か南へ流れる霊光放つ、ひの木の大木がありました。坂本むらの里人が引き揚げて一体の観音像を彫りました。これが志度寺のご本尊さまです。その後、時世は藤原時代の末ごろになって、残る霊木で一刀三礼のノミで刻んだのが木像 聖観世音様立像で、救世堂のご本尊ですと言い伝えでございます。志度寺の十一面化仏と救世堂の髙と頭上の彫り出し」が違うだけで全て身二つのお似合いのお観音さまは、いずれも滋賀の湖から迎えられた共木の木の秘仏です。 よくよく念じておかげをうけて下さいませ。
詠歌
世を救うみ声なるらん この山の 松のあらしも 水のひびきも はるばると尋ね来しこの救世堂や 足も軽やか 遍路坂越
現在の堂宇は入母屋、本瓦葺きの伽藍造りだが、元々は現在地から西方約百米の路傍にあって、俗に言う四つ堂だった。昭和の初め頃にこの場所に移されている。この四つ堂は中国地方に多く見られるそうで、福山の初代藩主 水野勝成が旅人の休憩所として領内に作らせたと伝えられている。四つ辻に多くみられることから辻堂、四本の柱があることから四つ堂とも呼ばれる。元々は東屋の様に四方又は三方が吹き放しで旅人の休憩所や茶などを楽しむ茶堂で、仏像などは置かれていなかった。四国ではお遍路の盛んになった17世紀末頃から弘法大師へのご恩返しのために建立され、お遍路さんや旅人の接待や信仰・休憩場所などに利用され、仏像などを安置し仏教庵に変化している。小豆島でも各村でこの四つ堂が造られて、村民の信仰の場所となっている。小豆島の庵を訪れると多くのは側に村の共同墓地も造られている。ここで親子のお遍路さんに出会う、兵庫県の加古川からという。小豆島のお遍路はこの加古川からが断トツに多い。距離が近い事もあるだろうが、昔から加古川からは多くのお遍路さんが来ており、その伝統が続いている。お寺でも加古川住民からの寄進された燈籠が多く目につく。
狭い境内には六地蔵 (写真右上)、石造りの地蔵菩薩立像 (左中)、その他供養塔 (夜念仏) が土塀際に並んであり、また北側には、道祖神など三体の小杞 (左下) がある。

荒魂神社

救世堂の北の林の中に荒魂神社が鎮座している。ここは部落のほぼ東端に当たる。昔ながらの本瓦葺流れ造りの社殿には大国魂命、配杞春日大神を祭神として祀られている。石の門柱銘「威武輝海 外国利伝千載、明治四十年日露戦役全勝記念」とあり、その両脇にある豊島石の神明燈籠は寛政八年に奉献されたもの。
境内には古そうな手水鉢、顔が摩滅してしまった地蔵尊も見られる。また明治37年の日露戦争の記念碑が置かれ、従軍した村民の名が刻まれている。

小馬越山の神神社

荒魂神社から道を北に進む、途中地蔵尊と井戸跡があった。井戸の横には今ではレトロとなった消火栓が置かれている。以前はこの井戸の水を用水として使っていたのだろう。
道を進み、小馬越部落の北の端の山の口に山の神神社がある。この山の口の地名の如く、この先は山で民家などはない。森の中に小さな石の祠が置かれ大山祇命が祀られている。狭い境内の入り口には村人が作った愛嬌たっぷりの狛犬が鎮座している。
この奥は墓地になっている。向こうに小豆島大観音が見えている。東方向にはバス道の向こうに広がる肥土山の村が見えている。

地蔵尊

墓地より北には道はなく、救世堂に別の道を通って戻る。この道が遍路道で救世堂から先に訪れた黒岩の円満寺に通じていた。現在はバス道で遍路道は分断されてしまった。この遍路道脇に小さな祠が置かれ地蔵尊が祀られている。詳細は不明だが、遍路道には必ず地蔵尊が置かれている。なんらかの理由で安置されているのだろう。

金比羅宮

救世堂に戻り、道を南に登っていったすぐの所には金比羅宮がある。燈籠の柱に「金」 と刻まれているので分かりやすい。金比羅神 (大物主神)、和霊神、八坂神の併祀されている。この燈籠では昭和初頃まで「灯明板」を当番でまわし、灯芯と種油の献灯が毎夕おこなわれていたそうだ。

塞の神 (未訪問)

資料では村の中心部にある樹の下に塞の神も祀られていると書かれていたが、見つからず無かった。金比羅宮や救世堂は村の中心だが、小馬越は小さな村で、このすぐ西側は隣の笠ヶ滝村になる。塞の神は村や部落の境に置かれ、他地域からの侵入する邪悪なものを防ぐ境の神馬ので次回はその境界線あたりを探す事にする。


小馬越村の西側にある笠ヶ滝村に移動する。

土庄町 大鐸村地区 笠ヶ滝村

笠ヶ滝村は旧大鐸村 (おおぬで) に属していた四つの村のうちの一つ。
  • 明治14年 黒岩村に吸収される
  • 明治18年 小馬越村と笠ヶ滝村が分離独立
  • 明治21年 肥土庄村、黒岩村、小馬越村、笠ヶ滝村が合併し大鐸村となる。
  • 昭和30年 大鐸村が土庄町に合併吸収

第72番霊場 瀧湖寺

救世堂の前の道を笠ヶ滝村に進み村に入った所に第72番札所の萬年山安養院瀧湖寺があり、本尊として無量寿如来 (阿弥陀如来) を安置している。寺に伝わる縁起によれば、弘法大師が唐よりの帰途に海難を避けてここに立ち寄ったという。大師自らこの地に霊場を開き堂宇を建立し、唐から持ち帰った天竺八塔の土をここに埋めて瀧湖寺と号したとある。弘法大師が小豆島を訪れたとの古文書はないのだが、島の各地に弘法大師にまつわる言い伝えが残っている。
更に資料では、生駒騒動に関わるものもあると言う。先日、渕崎の第65番霊場 光明庵を訪れた際に生駒騒動で亡くなった人への供養塔があり、何故あるのかと疑問を持っていたのだが、これで少し生駒騒動と小豆島の関係が見えてきた。それは、この寺には、高松城主生駒家騒動の主役の一人の上坂丹波守の位牌を祭り、その墓を管理しているという。上坂丹波守の墓は瀧湖寺奥の院の鐘岩の下方、岩壁にあるそうだ。上坂丹波守は高松藩主生駒高俊の時代には鉄砲預りで千石の知行を得ていた。1637年 (寛永14年) の生駒騒動首謀者の前野助左衛門の一味であったので、幕府の仕置が厳しく、上坂一族はいち早く逃散し伊喜末の浜に落ち延びたが、幕府の代官の詮議が厳しく、上坂丹波守はやっとこの山中にたどりついたが、そこで割腹し果てている。奥の院で亡くなったので、手厚く弔い本坊のこの瀧湖寺に位牌が安置されている。
仁王門を入ると境内は綺麗に手入れがされた庭になっており鐘楼堂がある。昭和49年の大火により、仁王門、稲荷社、鐘楼堂、本堂前の石灯籠以外の境内の大半を焼失し、その後再建されている。本堂はコンクリート造りの現代風になっている。境内には焼失前のものなのだろう屋根瓦葺などが置かれている。
境内には稲荷社、仏像、井戸が置かれている。
第72番札所はこの瀧湖寺は半分で、奥の院笠ケ滝まで行って完結する。その奥の院へ向かう。山の岸壁に奥の院が見えている。まだまだ先は長そうだ。
途中、石灯籠、地蔵尊がある。

三密会密勝苑

道を進むと途中に庵があり、密勝苑と書かれている。その奥には記念碑や顕彰碑が設けられている。この三密会は小豆島霊場総本院が公認した但馬国豊岡の先達小豆島講の団体で1921年 (大正10年) に始まっている。三密会は会員が数百名の大きな会で、小豆島巡礼を何度も行なっている。この会以外にも先達は多くあり、この場所の様に、記念碑や庵を設けているものもある。
ここから山を登る事になるのだが、まだ麓の笠ヶ滝村には神社があるので、まずはそちらに行ってから奥の院へ登ることにし、そちら方面への道を進む。近くには山羊を飼っている場所があった。昔はもっと山羊を飼っている家が多かったのだが今は見かけることが少なくなった。

笠ヶ滝王子権現

笠ヶ滝北端山裾に王子権現があり、地元では八幡さんと呼ばれている。天御中主神、国狹立命、大国魂神、菅原道真朝臣を祀っている。
正面には切妻造り平家の拝殿とその奥に本殿 (写真上) があり、 明治26年に建てられたもの。この社殿の西側に鞘堂に入れられた流れ造りが王子権現 (左下) で、もとはこの社が本殿だった。東側には小祠 (右下) が置かれて大国主大神が祀られている。
笠が滝王子権現の西側は墓地がありその入り口には六地蔵と宗心禅門塔と書かれ、祠が建てられている。詳細は不明。

弁天大池、日清日露戦争記念碑、水神

王子権現の前には大きな池 (写真上) がある。笠ヶ滝の大池で池の中に岩があり弁天が祀られている。池の辺りの民家の前にも拝所がある。井戸があるので水神 (右下) を祀っているのだろう。更に民家横には日清日露戦争記念碑 (左下) が置かれ、部落の人の名が刻まれている。功績を称えている。この近くに住んでいるおばあさんと世間話をした中で、今年は水不足で田植えができるか心配だったのだが、数日前にようやく大池に水が溜められ、来週から田植えが始まるそうだ。小豆島の土庄地区は昔から水不足で、吉田ダムが造られて給水が行われているのだが、それでもまだまだ解消するには至っていない。

岩風呂跡

弁天大池の側に岩風呂跡と書かれた標識があった。興味を持ち、矢印に方向に進むと民家があるのだが入り口が分からずうろうろとしていると、畑仕事をしていた男性が、近寄って教えてくれた。獣害電気柵の奥の林の中にある。感電しない様に電気柵の紐を何本か外して入っていくと洞穴がある。これが岩風呂跡だ。昔はこの様な岩風呂は瀬戸内の各所にあった。石を組み上げてつくった空間のなかで、雑木を燃やし、焼けた燠火 (おきび) に塩水をかけ、よもぎや海藻と濡れ筵を敷き、漁師や農夫が5〜6人ずつ裸か浴衣で入り疲れを癒やしていた。現代のサウナにあたる。江戸時代後期に造られて昭和初期までは使われていたそうだ。ここの岩風呂は先程の男性が石が崩れるたびに詰み直して維持しており、昔はもう少し広かったと言っていた。

西崎の塞の神 (未訪問)

資料では笠ヶ滝部落西南端の上庄山道に西崎の塞の神が鎮座しているとあったが、場所は示されておらず見つけることが出来なかった。祭神は道祖神だが、役行者小角の像を祀っている。樹令約二百年程の神木と思われる木の根本に、巨石がありその上に小祠が安置されている。大きな草履奉納して悪い脚を癒してもらうという俗信が、近年まで盛行していたそうだ。


第72番霊場 奥の院笠ケ滝

再度、三密会密勝苑まで戻り、山の上にある奥の院笠ケ滝に向かう。道をしばらく進むと自然石を組み上げた階段がある。これが参道で遍路道で厄除段という。かなり長く急な階段だ。
階段の両脇、中に所々に仏像が安置されている。
階段を登ると広場に出る。まだ終点ではなく、長い階段なので、休憩場所なのだろう。ここには、先達から寄進された鐘楼や仏像がある。
ここからは石の階段ではなく岩場を鎖をつたって登らなければならない。両側には燈籠が並べられ、「いろは」の一字一字が上に向かって置かれている。「いろはにほへと」と文字を見ながら登ると「おわか」で踊り場に到着。まだ「いろは」の半ばなのでまだ先はあるのだろう。
この中間点は広場になっており、大師堂が置かれ、石燈籠が並ぶ向こうには鐘楼がある。この広場にも仏像、不動明王像があった。
大師堂で休憩して、「よたれぞ---」の残りの岩場を登る。上に本堂が見えている。ここからは鎖ではなくレールをつたっての登りとなっている。この途中にも仏像や龍王と書かれた洞穴の祈願所がある。
最後はまた鎖につたっての登りになっており、ようやく到着。本堂はこの上にあり、洞穴を通って行くのだが、この先は撮影禁止で、本堂には「カメラ監視しています。撮影してスマホを没収される」と貼り紙があった。小豆島八十八ケ所霊場で内部の撮影禁止はここが初めて。何か過去に事情があり、敢えてそうしているのかも知れない。それで内部写真は無し。この札所は島内の山岳寺院の中でも難所で標高313mの旧噴火山の頂上近くに建立されている。本殿では本尊の不動明王を祀っている。
ここからの眺め

皇踏山 (おうとざん)

ここからは皇踏山の頂上を目指す。皇踏山は南北朝時代に城塞が置かれていた。城愛好家としては是非とも行ってみたかった場所。登山道を示すアプリがあるのでそれで道を探すのだが、スマホでは正確な位置までは表示してくれない。お遍路マップでは次の札所への遍路道があるとなっているので、この奥の院笠ヶ滝からの遍路道を探す。大師堂奥の鐘楼の裏側に道らしきものがあったので少し進んでみた。遍路道と道しるべがあった。この道が正解だ。

笠ヶ滝きよめの不動堂

遍路道はゴツゴツした岩場になる。結構きつい道だ。
ここからは先ほど山に登る前に訪れた大池が見えている。

笠ヶ滝きよめの不動堂

更に急な登りの遍路道を進むと笠ヶ滝きよめの不動堂と書かれた場所に出る。ここは行場で、更に不動明王像の脇を登ると、上には北辰尊妙見王の祠(馬鳴堂)と十三重石塔があり、本堂の上までいけるのだが、高所恐怖症なので崖の上は遠慮する事にした。
ここからの遍路道は山の尾根沿いに通っており、比較的歩きやすい道になっている。所々に仏像が置かれていた。
道の分岐点に着く。遍路道は北へ71番札所の滝の宮方向になるのだが、皇踏山はまだまだ尾根沿いの道で、皇踏山方面の道を行く。
ここからの景色も良い。
道には松茸岩と称するものがあった。そう言われればその様に見える。皇踏山まではまだ2kmとある。
この先に広場があり展望台になっている。
広場の奥には石塁が残っている。猪鹿垣 (ししがき) と似ているのだが、集落から遠く離れたこの山の上に猪鹿垣を作るとは思えない。この場所には南北朝時代に佐々木信胤が城塞を築いていたのではないかと推測されている。その石塁かも知れない。
ここからの眺めを幾つか載せておく。写真より肉眼で見る景色はそれ以上だ。まずは北の山側の風景
先日訪れた渕崎の双子浦、土庄の海
草壁、坂手方面

皇踏山城跡

皇踏山は南北朝時代に城塞が置かれていた。佐々木信胤の星ヶ城の西方の出城であると考えられている。小豆島には城跡とされている場所が幾つかある。島は司法を海で囲まれており、佐々木信胤は敵の水軍の上陸を監視するために、島全体の要塞化を考えていただろう。


虎口、土塁、空堀

道を進むと城の出入り口にあたる虎口 (左上) の表示があった。城の大まかな縄張り図が置かれている。この小口を中心に南北に土塁 (左下) が築かれ、空堀 (右下) で守られていた様だ。皇踏山全体が城塞だったとも考えられているが、ここから頂上にかけてが、城塞の主要地域になる。

北曲輪

空堀を北に進んだ所は北曲輪になる。北側の斜面から攻めてくる敵から、この西側にある本丸防備の為に、北の見晴らしに良いこの地に造られたと推測される。

大手木戸、一の曲輪、二の曲輪、本曲輪、三の曲輪

虎口に戻り道を西に入った所には大手木戸と思われる跡が発見されている。この大手木戸を入った場所が二の曲輪で、その北に本曲輪がある。
更にその北に一の曲輪が置かれ、本曲輪は二つの曲輪で守られていた。更に北には三の曲輪が置かれていたとされる。
この三の曲輪は現在では展望台になっているが、城塞当時は見晴らし台を兼ねていたのだろう。南に登ると進むと見晴らし台の広場に出る。この辺りが一の曲輪があったと推測されている。


北山皇踏権現社 (東権現)

皇踏山頂の本曲輪の直ぐ西側に北山皇踏権現社がある。(資料では皇踏の代わりに青門と表記されている。読みは同じ「おうと」)  東権現とも称されている。皇踏山頂には東西の二社の権現社があり、こちらは北山部落の社になり、西権現は渕崎に属している。東権現社は巨石が集められ、神の鎮座する磐境 (いわさか) となっている。石済みの上の祠が置かれているところだろうか? 敷地内には篭り堂が置かれている。この皇踏権現は昔は山伏が修行のために入っていたとされる。南北朝時代にここに城を築いた佐々木信胤は備前児島郡林の長床や新熊野の山伏勢力と気脈を通じ提携していたことからも推測される。

天狗の松

東権現から頂上への山道を進むと途中に天狗の松と書かれた場所があった。道を入ると大きな松が倒れていた。これが天狗の松だが残念なことだ。どのようないきさつで天狗の松と称されるようになったのかが気になるのだが、色々調べたが不明。この山は修験者の山なので、天狗と呼んでいたのだろうか?


詰の曲輪

皇踏山頂付近は詰の曲輪と案内番には書かれていた。詰の曲輪と案内板にはあった。この城に関しての古文書はないので、城の縄張りも発掘調査で推測されたもので、曲輪名称も便宜上付けられているので、実際のところは不明。この詰の曲輪は頂上にあるので、瀬戸内海を行きかう船を監視していたと考えるのは自然だろう。


皇踏山頂上

詰の曲輪は大石がごろごろと横たわり、頂上まで続いている。ようやく頂上に到着。最高地は大岩で、その側には祠が祀られている。皇踏山自体を祀っているのだろう。

標高394mの頂上からは瀬戸内海に浮かぶ島々が幻想的に見える。この光景は古代から変わっていないのだろう。



皇踏山大権現社 (西権現) (渕崎部落)

皇踏山の西側、渕崎部落へ降りていく道の上には、権現社もう一つの東権現がある。皇踏山大権現社と書かれている。こちらの権現は西権現とも呼ばれ、渕崎部落の人々が拝んでいる。


見晴台

西権現のすぐ近くにもう一つ見晴らし台がある。ここからは土庄の町並みや土庄港が一望できる。

ここからは、下に見える土庄町の渕崎部落への登山道があり、この道で下山する。この山道はかなり急で、降りるのも踏ん張って進まないと足を滑らしてしまいそうだ。時折、木々の隙間から見える土庄の町を見て跡どれくらいかと測りながら降りていく。

途中で振り返ると、先ほどまでいた皇踏山の頂上が見える。もう少しで渕崎だ。

ようやく渕崎に到着。今日はこの山を登り横断し降りてきたので、かなり脚に疲れがきているようだ。今日はこれで打ち止めにする。渕崎から、バス停のあるオリーブタウンまで行く。オリーブタウンからは皇踏山の全景が見える。山登りをする前に山を見てももう一つ印象に残らないのだが、登って降りて山を見ると、登る前とは異なり親近感が湧き、今日歩いた道が山の中に見えるようだ。今日歩いた遍路道と登山道では誰一人として出会うことはなかった。皇踏山を独り占めにした気分。今日はかなり疲れたので、バスに乗って居眠りをしながら福田に帰る。


参考文献

  • 土庄町史 (1971 香川県小豆郡土庄町)
  • 小豆島お遍路道案内図

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