Okinawa 沖縄 #2 Day 127 (23/08/21) 旧喜屋武 (2) Kyan Hamlet 喜屋武集落
旧喜屋武 喜屋武集落 (きゃん、チャン)
- 喜屋武古島
- 喜屋武公民館
- 公民館裏の拝所
- 喜屋武公園
- トンヌマー壕
- 中の殿 (ナカヌトゥン) ④
- 仲間ウフグル ⑤
- 志礼の殿 (シリーヌトゥン) ⑦
- 奥間の殿 (ウクマヌトゥン) ③
- ヌン殿内 (ヌンドゥンチ) ①
- 仲間 (ナカマ) の神屋 ②
- 本部屋 (ムトゥブヤー) の神屋 / 村屋跡 ⑥
- 喜屋武国民学校跡 (現 喜屋武小学校)
- 喜屋武小学校前の拝所 ⑭
- 喜屋武間切番所跡 / ヘーランメー 1⃣
- ナカジン ⑪
- 南ン徳嶺 (ヘーントゥクンニ) と新東玉井 (ミーアガイダマイ) の間の拝所 ⑫
- 大前原 (ウーメーバル) の神屋 ⑮
- スンドゥンチ ⑩
- ヒジャングワー ⑬
- ンニグチ井泉 (ガー) ❸
- 火立て (ヒータティー) ⑴
- 並里の殿 (ナンザトゥヌトゥン) ⑧
- 並里井泉 (ナンザトゥガー) ❹
- クバ殿 (クバドゥン) ⑨
- マールグヮー / マーチューグヮー 2⃣
- 喜屋武馬場 (チャンンマバ) 3⃣
- 喜屋武古グスク
- 喜屋武漁港
- 喜屋武の浜
- チクグ井泉 (ガー) ❷
- 喜屋武井泉 (チャンガー) ❶
- ジルーメーの拝所 ⑯
- 具志川グスク跡
- トーチカ跡 [未訪問]
- 喜屋武岬/平和の塔
- 喜屋埼灯台
- カタハラグスク
旧喜屋武 喜屋武集落 (きゃん、チャン)
集落内には多くの空き地が目立っていた。これまで多くの集落を巡ったが、かなり過疎化が進んでいる集落の一つに思える。ここは那覇からは僅か15km-17km程なのだが、那覇から離れるに従い、この過疎化傾向は顕著になっている。特にこの島尻の南部は危機的状況にある様に思える。
喜屋武集落訪問ログ
8月19日に福地集落訪問の後、時間があったので、隣村の喜屋武集落にある文化財の一部を巡る事にした。
喜屋武古島
喜屋武公民館
公民館裏の拝所
喜屋武公園
トンヌマー壕
中の殿 (ナカヌトゥン) ④
仲間ウフグル ⑤
志礼の殿 (シリーヌトゥン) ⑦
ビンタルチーの民話/伝承については、今まで訪れた集落でも似たような聞いた話なのだが、どの集落だったのかと思い記憶を辿る。与那原町板良敷集落を訪れた際の内原子 (ウチバルシー) のヒートゥヤー (煙草盆) の伝承だった。内容は少し異なるが、ここでの民話の内容は、
- この喜屋武村の隣村の束辺名集落に保栄茂太郎 (ビンタルチー) という力持ちが住んでおり、その噂を聞きつけた武士が力比べをしようと、訪ねてきた。ビンタルチーは不在で、その妹が対応をした。煙草でもどうぞと、大きな石の煙草盆を差し出した。とても一人では持ち上がら無い程の重い煙草盆だ。妹がこれを軽々と持ち上げるなら、兄のビンタルチーはこれ以上の怪力と思い、萎縮して早々に帰って行った。ビンタルチーが帰宅して、妹から武士が訪ねて来たことを知り、武士を追いかけ見つけると、折角来たのだから、力比べをしようというと、武士は自分の2倍の力のある愛犬を飼っているので、その犬と力比べをしてくれと言う。それで武士の愛犬を連れて来て、力比べをするが、ビンタルチーは簡単に犬を二つに裂いて捨ててしまった。という愉快、痛快な話
奥間の殿 (ウクマヌトゥン) ③
ヌン殿内 (ヌンドゥンチ) ①
仲間 (ナカマ) の神屋 ②
本部屋 (ムトゥブヤー) の神屋 / 村屋跡 ⑥
喜屋武国民学校跡 (現 喜屋武小学校)
喜屋武小学校前の拝所 ⑭
喜屋武間切番所跡 / ヘーランメー 1⃣
ナカジン ⑪
南ン徳嶺 (ヘーントゥクンニ) と新東玉井 (ミーアガイダマイ) の間の拝所 ⑫
大前原 (ウーメーバル) の神屋 ⑮
スンドゥンチ ⑩
ヒジャングワー ⑬
ンニグチ井泉 (ガー) ❸
火立て (ヒータティー) ⑴
並里の殿 (ナンザトゥヌトゥン) ⑧
並里井泉 (ナンザトゥガー) ❹
クバ殿 (クバドゥン) ⑨
道端の拝所
集落内には多くの神屋があるが、それ以外にも道端に幾つかの拝所が目に付いた。
ここまでは8月19日に巡り終えた文化財で、これ以降は、台風12号が通り過ぎた8月23日に訪れた文化財。当初は22日に来る予定だったが、昨日は雨予報 (結局、雨は降らなかった) で強風なので1日延期して今日にした。今日は前日の続きで、喜屋武集落の西側と南の海岸線を巡る。
マールグヮー
マールグヮーの前には大きな屋敷跡がある。立派な石垣で囲まれている。よく見ると石垣に所々穴が開いている。琉球石灰岩はよく穴が開いているのだが、それとは違う。おそらく沖縄戦での弾痕跡ではないだろうか?
マーチューグヮー 2⃣
道を進むとマチューグヮーに出る。マチューグヮーは今は泉の広場とも呼ばれていて、公園になっている。 3月と9月の厄払いの行事マークサラーウグヮンでは、 集落の四隅に吊るす牛骨を取るため、この広場で牛を屠殺して肉や血を人々に配ったそうだ。
喜屋武馬場 (チャンンマバ) 3⃣
喜屋武古グスク
喜屋武漁港
喜屋武漁港は本島最南端に位置する漁港で訪れる人も少なく静かな港で、水の綺麗な漁港だ。
喜屋武の浜
チクグ井泉 (ガー) ❷
喜屋武井泉 (チャンガー) ❶
ジルーメーの拝所 ⑯
具志川グスク跡
一の廓のある東と西と南は絶壁となって海に臨み、ニの廓のある北側は内陸に接し平坦部になり、そこを囲む野面積みの石垣は5-6mと高く、虎口の切石積の城門の両脇には馬面 (ばめん) を置いて兵士がそこに待機し厳重な防備が可能となっている。
ニの廓の中央、城門正面寄りには幅1.5m、長さ3mほどの潮吹き穴 (スーフチミー) と呼ばれる穴が開いている。城内の案内板では火吹き穴 (ヒーフチミー) となっている。そこから縄梯子などを使い、海に降りていたと考えられている。
トーチカ跡 [未訪問]
沖縄戦当時、具志川城跡の真下にあたる海岸の岩穴にトーチカ跡が構築されていた。米軍上陸前後、喜屋武岬に歩兵第32連隊第2大隊が配備され、米軍の上陸に備えて陣地を構築し、使用していた。このトーチカ跡を探したのだが、干潮から時間が少したっているので海面が上がり、崖下の西側には移動できず、崖下全てを見る事が出来なかった。資料にこのトーチカ跡の写真が掲載されていた。帰宅後、もう一度インターネットで調べてみると、どうも、このトーチカ跡はコンクリートで埋められれしまったようだ。
喜屋武岬/平和の塔
沖縄戦では喜屋武集落住民の28%の246名が犠牲になっている。糸満市にある各集落の戦没者の状況は以下の通りだが、一番戦没者の比率が少ない集落でも20%、5人に一人は犠牲になっている。他の集落では40%から60%までの犠牲が出ている。
上のグラフは集落住民の戦没者を表しているのだが、戦没地を表しているのが下の表で、沖縄戦が終結する昭和20年6月にはこの旧喜屋武村、旧摩文仁村が激戦地となり、多くの死者を出している。もう一つ特筆すべきことは、沖縄戦は6月23日に集結したのではなく、捕虜収容所があった玉城村、知念村ややんばるで収容された捕虜となった住民が7月以降も病気で多く犠牲者が出ているということだ、
喜屋武集落から、喜屋武岬までは2km足らず。この地を自転車で走ると喜屋武集落の南側はほとんどがサトウキビ畑と森だ。この狭い範囲を住民や学徒たちはサトウキビ畑に隠れながら逃げまわった。先ほどの平和の塔に慰霊されている1万柱がこの地で命を失ったと思うと心が痛む。
喜屋埼灯台
カタハラグスク
これで喜屋武集落巡りが終わった。木陰で休憩をして帰路に着こうとしたのだが、めまいがして、息苦しい。一度自転車で出発しようとしたが、苦しくもう一度木陰に戻り体を横たえて、落ち着くまで休む。多分、軽い熱中症の症状の様だ。水分補給には気を付け、いつも2リットルの麦茶を持ってきているのだが、今日はいつもと違う。ここから自宅までは17kmあり、通常であれば1時間半の距離。少し、落ち着いたので自転車で出発。緩やかな坂もきつい。坂道の少ないルートを選び、何度も休みながら、何とか自宅に戻ってきた。2時間以上かかっただろう。着いた時には7時半だった。炎天下一日中外で活動をしているので、今後はもう少し気を付けなければト思う。 (帰宅後は特に問題なく、いつもの体調に戻った)
参考文献
- 糸満市の歴史と民俗を歩く 旧喜屋武村集落ガイドマップ (2021 糸満市教育委員会)
- 沖縄県立博物館紀要 第24号 1-28, 沖縄南部旧喜屋武間切のグスク群について (1998 當眞嗣一)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 具志川城跡保存修理事業調査概報 No.1 (2004 糸満市教育委員会)
- 具志川城跡保存修理事業調査概報 No.2 (2007 糸満市教育委員会)
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