Okinawa 沖縄 #2 Day 77 (04/02/21) 旧糸満町 (2) Itoman Hamlet 糸満集落 新組/南組/真安良
旧糸満町 糸満集落
中組 一部 (ナカグミ、町端区)
- 白鳥ヌ御嶽 (シラヌイヌタキ)
- 村屋之井 (ムラヤーヌカー)
- マチンカー
新組 (新島区、新屋敷区)
- ウーカンガー
- 伊佐 (イサ) 腹の墓
- 鍛冶屋新屋 (カンザ―ミーヤ) 門中の墓
- 勢理 (シリ―) 腹の墓
- 糸満国民学校跡 (現 糸満小学校)
- 山巓毛 (サンティンモー)
- 他魯毎の墓 (アジバカ)
- 下茂 (スム) 腹・茂太 (ムテー) 腹墓
- 根人 (ニーチュ) 腹墓
- 山城腹墓
- 神井 (カミガ一)・按司井 (アジガー)
- 糸満ロータリー
- ナガガ一
- 浜井 (ハマガ一)
南組 (南区、新川区)
- 上地 (ウィーチ) 腹の墓
- 大毛具志堅 (ウーモーグシキン) 腹の墓
- 当堅 (トーギン) 腹の墓
- 君が前 (キミガメー) の墓
- 兼久 (カニク) 腹 (南ン門兼久腹) の墓
- 大殿内 (ウールンチ) 腹・与那城 (ユナグスク) 腹の墓
- 蒙姓糸数家の墓
- 蓋墓 (フタバカ)
- 新井 (ミーガー)
真安良 (まあら マーラ、新島区と新屋敵区の一部)
- 幸地 (コーチ) 腹・赤比儀 (アカヒギ) 腹の墓
- 前平田 (メーヒラタ) 腹・頭ノ前 (カシランメー) 腹の墓
- ウィーサトウガ-
- ワリガー
その他 (稲嶺原、潟原)
- 稲嶺井 (ンナンミガー)
- 潟井 (ガタガ一)
糸満市文化財マップ
糸満集落文化財訪問ログ
中組 一部 (ナカグミ、町端区)
1月24日は旧糸満町の西組、上組、中組にあった文化財を巡ったが、今日は中組 一部 (町端区) と残りの新組、、南組と真安良の地区の文化財を巡る。
白鳥ヌ御嶽 (シラヌイヌタキ)
シラヌイヌタキは町端区の東端、ティングヮンヤマ東側の琉球石灰岩丘の岩陰にある拝所で、白鳥ヌ御嶽 (シラヌイヌタキ) とも呼ばれる。シラヌイ、シラトゥイともにその名称の由来は不明だが、現在も町ン門はここを御願している。また、ここはトゥイヌファヌウタキ (酉の方の御嶽) と呼ばれることもあり、トゥイヌファは西方を意味しているが、どこから見て西側を指した呼称かは明らかではない。そのほか、この拝所はシラトゥイガーと呼ばれることもあり、保才 (フセ―) 門中では、かつて門中行事であるアガリウマーイの際に巡拝するカーのひとつに「白鳥ガー」があったと記されている。現在の拝所は、岩下のわずかな間に白砂を敷き詰め、その奥に「白鳥ヌ御嶽」の文字を刻んだ小さな碑が立てられている。
村屋之井 (ムラヤーヌカー)
白鳥ヌ御嶽 (シラヌイヌタキ) の近く、新島公園の北側、ティングワン山の崖下に井戸跡があり、村屋之井 (ムラヤーヌカー) があるとなっていたので、何度も探すのだが、墓や拝所は見つかるのだが、資料に載っていた写真のような井戸跡が見つからなかった。この井戸は村之井 (ムランカー) とも呼ばれる。村屋之井 (ムラヤーヌカー) という名称から、開校当初の糸満小学校が置かれていたという新島村屋との関連が考えられるが、詳細は不明。元日に各門中が行うミジトウイで拝まれるほか、町ン門の立御願とシリガフー御願で拝まれているそうだ。
マチンカー
上之平区と町端区の境界近くにはマチンカーがある。かつてこの一帯にはマチ (市場) やマチャ (店舗) が立ち並んでいたことから、マチンカー (マチのカー) と呼ばれた。現在も水量は豊富で、その脇にはコンクリート造りの小さな祠があり香炉が置かれている。マチンカーは、高良小ン門の住民のンプガー (産井) であり、町ン門の門でもこのカーを拝んでいる。元日に各門中が行うミジトウイで拝まれている。
新組 (新島区、新屋敷区)
新組は現在の新島区の北部と新屋敷区の北部にあたる。かつては旧糸満町の行政の中心地だった。
ウーカンガー
新島区集落の南向きの斜面の途中にウーカンガーがある。かつて糸満郵便局がおかれた東風平小の屋敷の西隣にあることから、郵便局ガーともいわれていた。1975 (昭和)年1月に修理が行われ、現在のようなコンクリートで囲まれてている。
伊佐 (イサ) 腹の墓
ウーカンガーの近くには糸満の有力門中の内の3つの門中の墓がある。この墓は伊佐腹のトーシー (当世 現在使用している墓の事を云う) で2基の龜甲墓 (カーミンク―バカ) が並んでいる。向かって右がトーシー で、左に一段握り下げて造られているのがシルヒラシ (洗骨までの期間遺体を安置する場所) である。最初は右側の龜甲墓だけを使っていたが、門中の人口が増加して、この龜甲墓内のシルヒラシドゥクルだけでは間に合わなくなったので、シルヒラシ専用の墓を左に造設している。
鍛冶屋新屋 (カンザ―ミーヤ) 門中の墓
伊佐腹の墓の隣には鍛冶屋新屋門中の墓がある。これも龜甲墓 (カーミンク―バカ) だ。この鍛冶新門中の始祖は、公儀の鍛冶職として兼城間切へ派遣された際に、雨宿りのため軒先を借りた縁から根人腹の新屋の娘を妻にして系満に定住したとされ、仕事の鍛冶屋と妻の屋号の新屋を合わせて新しい屋号にしたと伝わっている。
勢理 (シリ―) 腹の墓
鍛冶屋新屋門中の墓から東側にある上ン毛 (ウィンモ―) に勢理腹の墓が見える。勢理腹の墓は入り口が施錠されていて中に入ることはできなかった。写真左が鍛冶屋新屋門中の墓から見たもので、右が墓の上の裏手からの龜甲墓の上部。墓は龜甲墓とその手前に破風墓が見える。古い墓で破風墓があるのは珍しい。廃藩置県以前は破風墓は王家にのみに許されていた墓の形式で、勢理腹は琉球王朝の許可を得て造ったそうだ。勢理腹は字阿波根の嶽元であるくスマからの分かれとされる。阿波根を訪れた際にスマの神屋があった。今はスマの子孫は残っていないので、勢理腹がスマの神屋に行き御願している。
糸満国民学校跡 (現 糸満小学校)
新組 (現在の新屋敷区) の東の端に糸満小学校がある。ここは糸満国民学校があった所だ。
次は新組の西側に移る。
山巓毛 (サンティンモー)
山巓毛は、字糸満の中心に位置する糸満ロータリーの北にある標高約25メートルの石灰岩丘にある。三山時代の1429年、南山最後の王 他魯毎が、中山の尚巴志王の攻撃を受け、妻子とともに自害した場所といわれている。
展望台からは慶良間諸島がうっすらと見えている。山巓毛はかつては海上にいる船が現在の位置を測るための目印にもなっていた。
ここにかつての糸満西組の町並みの写真のパネルがある。まだ糸満港の埋め立てがされる前の写真だ。海の向こうには沖之島が写っている。今は埋め立てられて縞は消滅してしまっている。
糸満ハーレーの当日には、祭祀を司る関係者による神事がここで行われる。ハーレー舟の出発の旗もここで振り下ろされる。神人やハーレーに参加する三村 (西村、中村、新島) の代表者たちによる古式の御願しきたりに従って行われる。山巓毛の頂上には4つの香炉が置かれている。御願は、太陽の昇る方向 (東ノ三星・天) から始まって、北・東・南・西の順に行われる。
古代の航海で目標を定めされる御嶽をおさん嶽と呼んでおり、サンは航海および近海における漁場設定の目印になる山のことと考えられる。また、糸満魚師が陸地の頂上部の目印で自分の位置を確認し見当をつけることをサンアティン(サンを当てる)ということから山巓毛 (サンティンモー) は、サンを当てる丘の意味があるものと考えられている。
最上段にある八角形のコンクリート構造物は、昭和18年沖縄県警防課によって県内11カ所に設置された防空監視哨の一つの跡だそうだ。この上に建物が建っており八方に監視用窓から24時間監視を行い、北東側にあった糸満警察署との間に直通電話に通じていたといわれる。
御大典記念山巓毛改修碑と国旗掲揚台跡が残っている。御大典記念山巓毛改修碑は、昭和天皇の即位を記念して1932年 (昭和7年) に山巓毛が整備されたされた際のものだが、横倒しになっている。沖縄戦当時日本軍が、米軍の攻撃目標になるとして、台座から碑身を切り倒したとある。石碑・台座部分とも沖縄戦当時の弾痕が残っている。国旗掲揚台は前面に「皇太子殿下御誕生記念」、西側面に「昭和九年八月一日建立」と刻銘されている。改修碑と同様に弾痕が残る。
山巓毛から糸満ロータリーに降りていく。この場所も古写真が残っている。
他魯毎の墓 (アジバカ)
山巓毛の下茂腹・茂太腹の敵地内、トーシーの東側には、アジバカと呼ばれ、中山王尚巴志に居城であった南山城が攻められ、そこからこの山巓毛に逃れてきたが、もはやこれまでと家族とともに自刃したといわれている南山最後の王の他魯毎のものだと伝わる古墓がある。墓内には複数のジーシガーミのほかに他魯毎の遺骨が入っていたとされる石棺 (石厨子) も残されていたが、戦時中、日本軍による陣地構築に伴なって、墓内のすべての遺骨が運び出された際、石棺に入っていた遺骨もほかの遺骨と混ざってしまったそうだ。
下茂 (スム) 腹・茂太 (ムテー) 腹墓
他魯毎の墓に向かって左側に琉球石灰岩の丘茂に横穴を掘ったフィンチャー墓がある。下茂腹と茂太腹が共同で使用している。下茂腹は南山王他魯毎の子孫という伝承があるそうだ。南山王の孫の越地大屋子 (ウィージウフヤ) とは兄弟とも伝わっている。茂太腹も南山王の系統だという。
根人 (ニーチュ) 腹墓
下茂腹・茂太腹の墓の隣には根人腹の墓がある。フィンチャー墓のトーシー (当世) はコンクリートで屋根が造られている。葬儀があった様で、墓の入り口 (ジョー) の前には供え物がされていた。トーシー (当世) の下側には古墓がある。祖先の墓のアジシー (写真左下の右の墓) とトーシー (当世) の前に使っていたムトゥトーシ (元当世、写真左上) がある。根人腹は先日訪れた白銀堂の裏にあった糸満満子 (馬子、マンクー) を始祖とする門中で、糸満集落の国元 (クニムトゥ)、嶽元 (タキムトゥ)。
山城腹墓
この墓についての情報は糸満町史資料には見つからなかった。糸満の門中リストにもなかった。門中墓には解説を記した石板があった。そこには大里村で生活していたとあるので、大里村の門中を参照すると、この門中の祖は南山王の子孫の山城親雲上の子孫と書かれていた。ここに墓がある理由については不明ということだが、他魯毎の墓の隣にあるのは何かの因縁があるのだろう。他魯毎がここに逃れてきて自決した際に殉死とか、戦死とか遺言でここに墓が造られたとか、いろいろと推測はできるが、謎のままだ。最も他魯毎についても生き延びたとの説もある。
神井 (カミガ一)・按司井 (アジガー)
山巓毛の南側の、他魯毎王を葬った按司墓 (アジバカ) と下茂 (スム) 腹・茂太 (ムテー) 腹の門中墓の南に位置するカーで、神井 (カミガ一)・按司井 (アジガー)という。カミガーの名の由来は不明だが、アジガーはおそらくこのカーの背後に位置するアジバカに由来するものと思われる。現在は、長方形のコンクリート製の枠が設けられ、その上にはコンクリート製の蓋を被せてあり、枠の両脇には香炉が1つづつ置かれている。また、カーの敷地を囲む擁壁は石積みが施されている。戦前は、このカーの南側に鯉を養殖するクムイ (池) があり、その南隣には防火用の貯水池が掘られていたという。元日に各門中が行うミジトゥイで拝まれるほか、玉城門中が行う1月3日の神年頭はこのカーも巡拝する。
糸満ロータリー
沖縄では二つ目のランナバウトを見た。与那原のマリンタウンにもあった。英国で生活をしていたのでランナバウトは懐かしい。県道256号豊見城糸満線の糸満の集落の中心地の山巓毛 (サンティンモー) のすぐ下にある。珍しいので調べると、ここはランナバウトが交通渋滞を緩和できるかの社会実験を行っているそうだ。2015年 (平成27年) から半年間にわたって行われた。報告書ではかなりの渋滞が緩和されたとあり、本格導入が決定された。しばらく見ていても、車もスムーズに流れている。この県道256号と平行に沖縄西海岸道路の糸満道路が海岸線に走っている。長距離はこちらの方の道路が主流になっているので交通量もこの道路で緩和はされているのだろう。実験結果は期待以上の成果があったので、導入決定となったのだが、それから既に4年たっているが、計画通りには進んでいないようだ。
ナガガ一
山巓毛の南東、新組集落の中にナガガ一という井戸跡がある。かつては長い釣瓶で水を汲んでいたのでナガガーと呼ばれたそうだ。イシガキガーとも呼ばれた。円型堀抜き井戸で、現在はコンクリート製の蓋がされており、井戸の奥の塀に窪みを設けて香炉が置かれている。
浜井 (ハマガ一)
浜井 (ハマガ一) は糸満ロータリーの南、建物の間にある。場所を知らないと見つけにくい。大正期に埋立てられるまで、この一帯は海の浜であったとから、こう呼ばれている。現在も水量は豊かな井戸で、旧歴の元日早朝に若水を汲みにくる人が多い。元日に各門中が行うミジトゥイで拝まれるほか、玉城門中でもこのカーを拝んでいる。また、近隈の住民は、旧歴8月15日の綱引きの後にこのハマガーを拝み、無事に綱を引き終えたことを感謝し、来年もよい年であるようにと祈願するそうだ。
南組 (南区、新川区)
次は糸満ロータリーの南側の南組集落に移動する。南組は字糸満では最も面積が広い小字で、現在の行政区では南区、新川区にあたる。
上地 (ウィーチ) 腹の墓
糸満ロータリーの南側にハーカンジョ―と呼ばれる墓地地帯がある。この丘を囲むように7つの墓が集まっている。まずは上地 (ウィーチ) 腹の墓から見ていく。岩を掘り込んで造った亀甲墓で、この門中の元 (ムトゥー) の越来 (ウィーク) 腹との共同使用となっている。越来腹は南山王汪応祖の子孫といわれ、墓の正面が大里.の南山城跡に向くように造られている。上地腹は越来腹の分かれで、越来の次男と三男が漁業に従事するため糸満に移り住んで形成した門中といわれ、次男は上地腹の元 (ムートウ) となり、三男は頭拝見 (カシラテーキン) を起こしたとされている。
大毛具志堅 (ウーモーグシキン) 腹の墓
上地腹の墓の隣には大毛具志堅腹のトーシー (当世) がある。背後の琉球石灰岩を掘り込んで墓室を造ったフィンチャー墓で、この大毛具志堅腹の元 (ムートゥ) が大里にあったということから、正面が大里の南山城跡に向いている。トーシーの左手前に「大里中道御先祖/一九九四年十月十六日」と刻まれた石板が付いた小さな家形の墓がある。これが大毛具志堅腹のムートゥといわれる大里中道の墓で大里から移設されている。
当堅 (トーギン) 腹之墓
隣には当堅腹のトーシー (当世) があり、これも背後の岩を第り込んで造ったフィンチャー形式になっている。照屋の宇 (ウー) 腹とその分かれの系満の当堅腹、同じく字腹の分かれの座波の前幸地小 (メーゴーチグヮ) チュチョーデー (チュチョーデーは親族集団を表す言葉) の三つの門中で共同使用している。
君が前 (キミガメー) の墓
この墓群の中に、少し異質の墓がある。門中の墓ではなく、君が前 (キミガメー) の墓と呼ばれ、南山王の妃の墓といわれている。どの南山王の妃とは資料では書かれていないのだが、他魯毎の墓 (アジシー) と糸満ロータリーを挟んだところにあるので、山巓毛で他魯毎と共に自害した妃の墓かもしれない。墓の中には朱塗りの板厨子 (木棺) があったと伝わる。板厨子 (木棺) は石製や陶製の厨子が使えわれる以前16世紀頃までのものと考えられている。朱塗りであるので南山王族など高貴な人の墓であるとされている。
兼久 (カニク) 腹 (南ン門兼久腹) の墓
君が前 (キミガメー) の墓の奥にあるフィンチャー墓は兼久腹 (南ン門兼久腹) の墓で、前面を石積にした古い様式がそのまま残っている。右の奥に、もう1つ古墓のようなものがあるが、これはかってニジリノカミと呼んで搾んでいたもので、昔は拝まれていたそうだ。沖縄戦では住民の避難壕として使われており、この壕に潜み生き延びた人も多いという。兼久腹の根元は大里のいずれかの家の系統に連なっているのだが、どの家なのかは明らかではないが、祖先は南山の王族につながると伝わっている。
大殿内 (ウールンチ) 腹・与那城 (ユナグスク) 腹の墓
兼久腹 の墓から一度、糸満ロータリーに出て別の道からハーカンジョーに戻ったところに大殿内腹と与那城腹が共同で使っている2連式の平葺墓がある。向かって左がトーシーで右がアサギと呼ばれているシルヒラシとして使われている。トーシーの左には蒙姓糸数家の墓があり、その向こうにアジシー、さらにその左手にムトウトーシーと子ども用の仮墓が設置されている。大殿内腹は中城按司護佐丸を祖とする首里士族の毛姓新崎家につながるとされる大殿内大屋子で、その長男は大殿内を継ぎ、次男は与城腹のムートウである与那城の養子となって跡目を継いだと伝わる。大殿内腹と与那城腹のそれぞれの祖は兄弟であったということで現在でも深い関係が続いている。
蒙姓糸数家の墓
大殿内腹・与那城腹のトーシーとムトゥトーシーの間には蒙姓糸数家の墓がある。岩をり込んで墓室を造り、前面に石積みをして漆喰で仕上げたフィンチャー形式になっている。蒙姓糸数家は那覇系の士族で、日本の泉州堺の出身で16世紀末に来琉した前糸数親雲上宗延 (1543 ~ 1615) を元祖とする。廃藩置県前後に那覇泉崎から移り住んだのが始まりといわれている。
蓋墓 (フタバカ)
ハーカンジョーから東に新組の住宅の中に入ったところに、少し変わった墓がある。今まで見たフィンチャー墓、亀甲墓、破風墓、平葺墓とはずいぶんと異なっている。、フタバカと呼ばれ、2基の墓が並んでいる。この周辺を屋敷地として整えたときに、一帯に散乱していた古い人骨を集めて納めた墓で、南山にかかわる戦で戦死した兵士の遺骨ではないかといわれている。蓋をしたように見えるので、蓋墓 (フタバカ) といわれるようになったとか、二つあるのでフタツ墓がフタバカとなったともいわれている。
新井 (ミーガー)
新組集落の南東の端に井戸跡がある。東宇那志 (アガリウナシ) 門中の祖先が宮城宇那志 (マーグスクウナシ) から分家するため屋敷を整地していた際、水がき出し、そこを掘ったのがこのカーの由来とされる。当初は新島 (三―ジマ) ガーといったが、後に宮城 (マーグスク) カーと呼ばれるようになり、さらにミ-ガ-と呼ぶようになった。現在も水量は豊かで、宮城宇那志スコーレー (スコーレーは親族集団を表す) は、旧歴元日にはこのカーから若水を汲んでいた。近住民のンブガー (産井) ともされ、現在でも拝まれている。
真安良 (まあら マーラ、新島区と新屋敵区の一部)
字糸満のほば中央に位置し、新島区と新屋敵区の一部がこの範囲にある。方言で海砂の意味のマーラという。
幸地 (コーチ) 腹・赤比儀 (アカヒギ) 腹の墓
新井 (ミーガー) から道路を渡った真安良集落にに広大な敷地の墓がある。幸地 腹・赤比儀腹の共同墓で沖縄では最も大きな墓である。入り口を入ると五基の墓があり中央がトーシーで左右に二基づつアサギと呼ばれているシルヒラシがある。幸地の元所は幸地グスクのある西原村字幸地で、由来記によれば、西原間切幸地村の仲門の祖である幸地按司の次男幸地子は、東風平間切の友寄村か志多伯村で子孫を残し、その後、摩文仁間切石原村 (伊原) ではノロとの間に3人の子が生まれた。その後、南山王に仕え、南山国滅亡の際に姫の鍋小 (ナビグヮー) を連れて糸満村に逃れれ、この姫を育て妻にし、幸地子の名を幸地美殿に改めたといわれる。 (白銀堂の伝承ではこの美殿が登場する)
向かって右側にあるシルヒラシの一つには供え物が置かれている、門中の誰かが亡くなってこのシルヒラシにあんちされているのだ。隣のシルヒラシの前には開門標と書かれた印石が置かれている。(写真右下) これはシルヒラシの一つを使うとこの印石を隣のシルヒラシに移し、使用状態がわかるようになっている。
五基の墓の右手には、コンクリート造りの納骨堂と倉庫が並んでいる。納骨彙は離島や県外、海外で亡くなった人など、葬式当日に墓に入れられなかった遣骨を一年に一度墓をあけるジョーアキー (門開き) まで安置しておく施設になっている。(写真左上) 納骨堂と倉庫の後ろには、横長の家形で10の墓口を持つワラビ墓がある。ワラビ墓は満7歳未満で亡くなっった子供をジョーアキーまで安置する場所。 (写真右上) 墓敷地の全面の広場には古井戸かあリ、火葬が普及する前の風葬の時代はこの井戸の水を利用して洗骨を行ったという。 (写真左下)
前平田 (メーヒラタ) 腹・頭ノ前 (カシランメー) 腹の墓
幸地腹・赤比儀腹の墓の隣にも墓がある。破風墓になっている。祖先が兄弟だったといわれる前平田腹と頭ノ前腹が共同で使用している。トーシーの横には3連の仮墓がある。
前平田腹・頭ノ前腹の墓の隣にある真安良児童公園の桜がきれいに咲いていた。数日前に比べて所々で桜が咲き始めている。
ウィーサトウガ-
真安良集落を外れた南側、現在の新屋敷区の南側にウィーサトウガ-がある。方形の幅の広い石組みの忰の上部に、コンクリート造りの屋根付きの覆いが設けられ、前面には鉄製の格子が取り付けられている。井戸の右側には香炉が置かれている。近隣住民の飲科水として長く利用されていた。
ワリガー
ウィーザトウガーの南にもう一つ井戸跡がある。ワリガーという井戸で、水は塩分が多く、飲用には適さなかったという。現在はアパートの駐車場となり、コンクリートで全体が覆われていて見ることのできない状態となっている。祠や香炉は置かれていないのだが、この井戸跡は駐車スペースにはなっておらず、パイプの横には石が置かれている。まだここを拝んでいる人がいるだろうか?
その他 (稲嶺原、潟原)
稲嶺井 (ンナンミガー)
小字稲嶺原のほは中央に稲嶺井 (ンナンミガー) があり、元々この一帯に形成された稲嶺屋取集落に住む人々が飲料水や生活用水として利用したため、ンナンミガー (稲嶺ガー) と呼ばれた。琉球石灰岩の切石を積んで屋根のある覆いを設け、カーの後方の斜面上に香炉が置かれている。現在、カーの周囲は雑木や草で覆われているが、かつてこの一帯には水田が広がっており、近隣の家庭では、このカーから正月の若水を汲んだという。
潟井 (ガタガ一)
小字潟原のほぼ中央にいどあとがある。この一帯は元々へーンガタ (南の潟) との湿地帯であったことから、ガタガー (潟井) と呼ばれた。かつてこの一帯には田が広がっていた。現在は、コンクリートの方形の忰が設けられ、その横に祠がある。ガタガーは、民家のある場所からは少し離れていたが、飲用に適した水質であったことから、かってはカーのすぐ北側を流れる水路に架かる白銀橋を渡り、水を汲みに訪れる人は多かったそうだ。
これで糸満の文化財巡りは終了。今日は少し時間があるので、これから海岸沿いをポタリングすることにする。何も考えずに景色を見ながら、サイクリングを楽しみながら家に帰る。
まずは埋め立てて造られた糸満港の端まで行ってみる。この地区は西崎区で海に近づくにつれて、民家はなくなり倉庫や水産加工工場などが建っている。海岸にはヨットハーバーがあり、リゾートホテルも建ち、その前は美々ビーチが広がる。
糸満市の西崎区から北へ端を渡ると豊見城市の豊崎に入る。豊崎も埋め立てられた地区で、海岸沿いは豊崎海浜公園になっており、ここにもオリオンECO美らSUNビーチがあり、近くにはイーアス沖縄豊崎というショッピングモールがある。
糸満から豊崎までの海岸線は遊歩道が続き自転車も走れる。人もほとんど歩いておらず、のんびりと走ることができた。今日の気温は20度を超えたぐらいで、寒くもなく暑くもなくサイクリングには格好のコンディションだ。
参考文献
- 糸満市史 資料編13 村落資料 旧糸満町編 (2016)
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