Okinawa 沖縄 #2 Day 61 (30/11/20) 旧兼城 (3) Ahagon Hamlet 阿波根集落

阿波根集落 (あはごん、アハグン)

  • 阿波根村屋跡 (阿波根公民館)
  • カリヤマ之御嶽
  • スマの神屋
  • 神谷 (カナ) 腹の神屋
  • 西前照屋の屋数東角のカー
  • 東之井 (アガリンカー、イシジガー)
  • サーターヤー跡
  • クムイ跡 (溜池)
  • 中道 (ナカミチ) 
  • 阿波根グスク
  • 御願橋、ワンジョームイグワー
  • 阿波根グスク 主郭跡
  • ウグゥンヤーグヮー
  • 殿 (トゥン)
  • フルンチビ
  • 殿前之山小 (トゥヌメーヌヤマグワー)
  • 樋川 (ヒージャガー)
  • 渡喜 (トゥチ) 腹の墓
  • 神谷 (カナ) 腹の墓
  • 平田 (ヒラタ) 腹の墓
  • 大当元 (ウフト-ムトゥ) 腹の墓
  • 富嶽山 (フチヤマ) 陣地壕
  • サキタリガマ (チカジクガマ)
  • 白川原墓群
  • 大井 (ウフカー、イリンカー) 
  • 御願小毛 (ウグワングワーモー) / シマシチン之御嶽
  • イーンカー / シマシチンガ-
  • ミーガー


阿波根集落 (あはごん、アハグン)


字阿波根は北は豊見城市字保栄茂と同市字長に接し、東は本市の字北波平と字買数に、南は字座波に、西は字潮平に接している。

阿波根は以前は豊見城間切であったが、17世紀後半の境界見直しで、兼城間切に編入された。阿波根には西原 (イーバル) にある元々の百姓 (ジーンチュ = 地人) の集落の本部落と、18世紀に首里や那覇の貧困士族が移住してきた白川原と橋口原の屋取集落 (ヤードゥイ) で形成されていた。屋取集落 (ヤードゥイ) の人たちはユカッチュと呼ばれていた。本部落と屋取集落は士族と百姓という関係からほとんど交流はなかった。

1880年 (明治13年) 以降、人口は緩やかに増え、1961年から1971年はほぼ横ばい状態になる。1976年に急激な人口増加起こっているが、これは1973年に浜原に自衛隊阿波根宿舎と1975年に浜原にできた雇用促進住宅への入居によるもの。1991年に再度人口増がある。これは住宅街のパークタウン阿波根の建設で大勢が入居したことによる。その後も緩やかに人口は増加するが、2014年をピークにその後は少しずつ人口が毎年減少傾向にある。

旧兼城村の中では三番目に人口の多い字になっているが、2番目に人口が多い字兼城とは大きく水をあけられている。


糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編に記載されている文化財


今日巡った阿波根集落の文化財


阿波根村屋跡 (阿波根公民館)

阿波根集落は西原 (イリーバル) の中心にあり、本部落と呼ばれている。その集落の真ん中に阿波根公民館があり、かつての村屋 (ムラヤー) であった。戦前は瓦葺きの建物で、事務所以外にも土間部分は製筵場も兼ねていた。沖縄戦で戦火に遭い、戦後は茅葺の一間の建物が建てて事務を行っていた。米軍統治下の琉球政府時代の1968年 (昭和43年) に高等弁務官資金の助成で、コンクリート建てになり、2001年には現在の公民館に建て替えられたもの。

公民館の前のマンションの前庭に井戸跡が残っている。これは民家にあった井戸だろう。釣瓶の柱まで残っている。民家の井戸はこんな形をしていたのだ。なかなかこんなに完全な形で残っている井戸は少ないので、今後貴重な文化財になるのだろう。


カリヤマ之御嶽

公民館の南側には阿波根児童公園があり、この一帯をカリヤマと呼んでいた。ここにカリヤマ之御嶽がある。 9月のタキムヌメーには集落住民が健康析願をする。戦前は出征兵士の武運長久祈願や青年運動会などの必勝祈願を行ったそうだ。


スマの神屋

阿波根児童公園の東南側は、この集落の嶽元 (タキムトゥ) だったスマ門中の屋敷があった場所。スマ門中は現在は絶えてしまっているが、その屋敷跡に二つの神屋が建てられている。手前の神屋は二月、五月、六月ウマチーには村で拝み、奥の神屋は数百年前に阿波根から糸満に移ったといわれている糸満の勢理腹 (シリーバラ) がウマチーにここに訪れて御願しているそうだ。


神谷 (カナ) 腹の神屋

スマの神屋のすぐ近くに別の神屋がある。神谷 (カナ) の神アサギと呼ばれている。ここには阿波根の国元 (クニムトゥ) が祀られている。戦前は、ウマチーの際には殿 (トゥヌ) を拝んだ後、ノロやカミンチュたちがここの神アサギを拝んでいた。現在でも、ウマチーではムラの三役がこの神アサギを拝んでいる。


西前照屋の屋数東角のカー

西前照屋の屋敵東角にあったカーで、門中のハチミジナディー (初水撫で) の時に、殿 (トゥヌ) を拝んだ後、このカーを拝んでいた。


東之井 (アガリンカー、イシジガー)

集落の東の端には東之井 (アガリンカー) がある。もうここは民家はなく畑になっている。場所が見つからず、畑で農作業をしていたおじいに場所を訪ねてようやくわかった。おじいがいろいろと話してくれた。昭和30年代に水道が引かれるまではこの東之井 (アガリンカー) が村のアガリ (東) の住民にとって生活用水の中心だった。岩から湧き出てくる水は澄んで、とてもおいしい水だったという。昔は村で当番制で掃除をして、井戸を清潔に保っていたのだが、今は掃除もしないので、昔のようなきれいな水ではないと残念そうに話していた。何度も何度も、いい水だったと懐かしそうに話していた。各家でも井戸をもっていたが、井戸水の様には水質がよくなく、飲料水はこの東之井 (アガリンカー) から汲んでいた。井戸では水浴びもしていた。おじいはこの井戸にはたいそう愛着があるようで、嬉しそうに話してくれた。村の昔の話が聞けるのはもう数年だろう。沖縄戦の昭和20年 (1945年) から既に75年が経っている。今、昔のはなしが聞けるのは70歳から90歳のおじい、おばあしかない。あと10年ぐらいしか、昔の話をじかに聞く機会は残っていない。なるべくおじいおばあを見つけたら話しかけるようにしているのだが、沖縄方言で話されるとチンプンカンプンの時もあるのだが、それはそれで楽しい。今日はこのおじいとは別に、自転車で走っている時に、車いすのおばあが手を振って、「気を付けてね」と言葉をかけてくれた。沖縄のおじいおばあは優しいのだ。

おじいが言っていたように、民家にはその家の専用の井戸が幾つか残っている。


サーターヤー跡

この阿波根集落 (本部落) には6つの製糖場 (サーターヤー) があり、集落の近く外側にあった。ここに畑から収穫したサトウキビを圧搾して黒糖にしていた。現在でもサトウキビはヌ産物では主力なのだが、全盛期に比べて生産量は10分の1にまで減少し、農業人口も5分の一ほどに減っている。この傾向は他の地域でも同様で、サラリーマン世帯が人口の大部分を占めるようになっている。東之井 (アガリンカー) の近くには東の砂糖場 (アガリンサーターヤー) があった。現在は中古自動車の保管場所になっている (写真中)、集落南には二つあり、ここはハツドーキヤー (発動機屋) と呼ばれ、発動機による圧縮を行っていた (写真下) 、集落の西には西の砂糖場 (イリンサーターヤー) と西門池の砂糖場 (イリジョームイヌサーターヤー) に二つ、 現在はグラウンドになっている。 (写真上) 。各製糖場 (サーターヤー) は集落のいくつかの門中が組を作り共同で利用していた。


クムイ跡 (溜池)

集落内には井戸だけでなくクムイ (溜池) もあった。5つあったすべてのクムイは埋め立てられて現存はしていないのだが、村の形が既に完成してかなりの年月が経った戦後に埋め立てられているので、クムイ跡は道路がその部分が広がってみえたり、空き地になっていたり、一部が残っていたり、比較的識別しやすい。

集落東にはアガリクムイ (写真上) など二つ、西にはイリンクムイとイリジョークムイ之二つ、集落の中心部のナカミチ沿い (写真下) にナカンクムイの一つがあった。


中道 (ナカミチ) 

ナカンクムイがある場所は南北に中道 (ナカミチ) が走っている。この集落のメインストリートだ。

集落内には赤瓦の民家が多くある。

神屋も幾つか見かけた。


阿波根グスク

グスクは、阿波根集落の南側のウグワンとよばれる小高い石灰岩丘陵に築かれている。築城された時期は不明とされている。糸満市史 (兼城村編) ではチョー阿波根が築いたとの伝承があるが、このチョー阿波根がいかなる人物化は一切書かれていない。察度王 (1321年 - 1395年) の息子の瀬長按司の子に阿波根按司 (阿波根子) がいたと云わっているが、この阿波根グスクとの関係は不明。三山時代の終わりには南山国最後の王の他魯毎 (在位: 1415~1429年) の弟が阿波根グスクに入って、阿波根按司を名乗っていたともあるので、14世紀後半から15世紀初頭には存在していたことになる。琉球王朝時代には尚真王 (1477年~1526年) に仕えていた阿波根はこの阿波根の領地を賜ったともされている。


御願橋、ワンジョームイグワー

かって集落と阿波根グスクのあるウグワンとはウグワンヌメーミチ (ウグワンの前の道) と呼ぶ小道で直接結ばれていたが、県道82号線の開通により、ウグワンメメーミチの一部が遮断され、現在では県道に架かる御願橋という高架橋によって、集落とウグワンヌメーミチやウグワンが結ばれるようになった。御願橋を渡ってすぐの右手側にワンジョームイグワーがある。 2月のシマクサランのときに、木の枝に豚や牛の血などでチーチキ (血を浸す) をする場所だった。


阿波根グスク 主郭跡

御願橋を渡ってウグワンメメーミチを進むと左手にグスクへの入り口がある。この道を登ると頂上には貯水タンクが設置されている。石垣跡のようなものも残っているようだ。貯水タンクの脇には拝所が二つ残っている。琉球国由来記には、コバモトノ嶽、サクマノ嶽、波根ノロ火の神、阿波根里主所之殿の拝所名が記載されているのだが、この二つの拝所がどれにあたるのかは不明。


ウグゥンヤーグヮー

グスクの入り口に戻りウグワンメメーミチをさらに進むとコンクリート製で瓦葺きの拝所がある。ウグゥンヤーグヮーは御願屋小と書くのだと思う。名前から推測すると村の重要な拝所なのだろう。力ミヤーグワー (神屋小) ともよばれている。ムラウグヮン (村御願) の際に拝まれている。


殿 (トゥン)

更に奥に進むと南北に細長い広場の北端に石の祠の拝所がある。かつてウマチーで、神人が祭祀を行った。旧層6月のウグヮンジナでは、この広場で子ども達の鋼引きが行われていたそうだ。今でも綱引きは続いているのだろうか?


フルンチビ

殿 (トゥン) の奥え通じる道があり、拝所がある。フルンチビという拝所で、シマクサラシやウマチー、六月のウグヮンに拝まれている。


殿前之山小 (トゥヌメーヌヤマグワー)

糸満市史 (兼城村編) には、殿 (トゥン) の周りにフルンチビ以外に殿前之山小 (トゥヌメーヌヤマグワー) という拝所があるとなっていたのだが、見つからない。付近に一つ拝所があったのだが、これがそうなのだろうか? 造りから見ると墓のように思えるのだが.....

この拝所 (墓?) がある崖の斜面に二つの洞窟がある。墓跡だったのだろうか?


樋川 (ヒージャガー)

殿 (トゥン) のある広場から下に降りる急な階段があったので、降りてみる。

井戸跡だった。水の神という拝所も造られている。ウマチーや1月2日のミジナディー (水撫で) の際に拝まれている。かっては、子ども達がミジガサー (水疱瘡) やイリガサー (麻疹) に罹った時に、ここの水でミジナディー (水撫で) をして快癒を願ったそうだ。


渡喜 (トゥチ) 腹の墓

阿波根グスクのある富嶽山 (フチヤマ) の東の崖の斜面には集落の門中墓がある。国道82号の那覇糸満線から入った所にある。まず目に入ってきたのが、この墓で渡喜 (トゥチ) 腹のものでフィンチャー形式で造られている。入口には古墓がある。


神谷 (カナ) 腹の墓

渡喜腹の墓の隣には神谷 (カナ) 腹の墓がある。この墓もフインチャー墓で造られている。周りには神谷腹祖先が祀られているアジシーがいくつもある。神谷 (カナ) 腹は阿波根集落の国元 (クニムトゥ) と言われている。本部落には神屋があった。


平田 (ヒラタ) 腹の墓

神谷腹の墓に隣接しているフィンチャー墓がある。かっては古墓が儀保原のアカモーグワーにあったのが、ここに墓が移ってきたそうだ。平田復は旧玉城村字富里の流れをくむ第一尚氏尚巴志の系統で、三百年程前にこの阿波根に移り住んだと言い伝えられている。沖縄戦では集落の住民は山原 (やんばる) に避難していたが、集落に残った人々はこの崖にある洞窟に避難していたそうだ。


大当元 (ウフト-ムトゥ) 腹の墓

もう一つ門中墓がある。大当元 (ウフト-ムトゥ) 腹のフィンチャー墓で、崖下から墓前へと続く石積みの階段がある。大当元はニープトウィ (ニーブガミ) という神役を継ぐ家で、ウマチー察祀では殿 (トゥヌ) でウンサク (神酒) の給仕をしていた。


富嶽山 (フチヤマ) 陣地壕

更に奥に進むと別のフィンチャー墓がいくつかあり、その傍らに洞窟がある。この洞窟は沖縄戦で歩兵第32連隊歩兵砲部隊の陣地として使われていた。米軍は昭和20年6月7日に阿波根集落に占領され、集落の171名が犠牲になった。


サキタリガマ (チカジクガマ)

沖縄戦の戦争遺構がもう一つ阿波根集落から潮平集落への道の途中にある住宅街の中にある。戦前にガマで酒が造られていたことから、サキタリガマ (チカジクガマ) と呼ばれる自然洞穴で、総延長が約200mもあったそうだと案内板には出ている。沖縄戦当時、ガマには阿波根の住民や他地域からの避難民など数百人が避難していた。終戦間近になっても阿波根の住民や避難民の多くは、ガマの中に隠れており、6月11日に米軍に見つかり、避難していた人々のほとんどが無事に米軍の保護下に入った。多くのガマでは自決したが、多くのケースは一死に避難していた日本軍に無理強いされたものだった。ここには那覇から一時期、警察官が逃げてきたが、間もなく南に移動していき、兵隊がいなかったことが幸いしたのではないかと思う。 


白川原墓群

サキタリガマ (チカジクガマ) から潮平への道の脇に、阿波根集落の門中墓があった。徳島袋 (トゥクスンブクル) 腹の墓 (左下)、具志堅 (グシチン) 腹のフインチャー墓 (右下)、喜納 (チナ) 兼の墓 (右中) 


大井 (ウフカー、イリンカー) 

富嶽山 (フチヤマ) の墓群の下に川が流れている。ここに大井 (ウフカー) がある。イリンカーともムラガーとも呼ばれている。上水道が開設されるまで地域の人々の共同井戸として利用され、正月の若水として、出産時の汚れ物を洗ったり、死者を清める水として使われていた。葬式を終えた後には、人々はこのカーに来て拝んでいたそうだ。


御願小毛 (ウグワングワーモー) / シマシチン之御嶽

これで西原本部落を周り終わり、次は琉球王朝時代に首里屋那覇から帰農士族が移り住んできた屋取 (ヤードイ) 集落があった前原 (メーンバル) の橋ロ原に行く。屋取集落が形成される前、ここは前回に訪れた波平集落 (北波平集落) の発祥の地で、北波平の人々はシマシチン之御嶽と呼んでいる。1月のハチウガミ (初拝み) と12月のシワーシヌウグヮン (師走の拝み) の時に、メーンバルの屋取集落の人々に拝まれていた。メーンバルの屋取集落は山内 (ヤマチ) 門中は尚円類王の子の尚真王の時代の三司官の山内親方昌信を始祖とする楊氏。この前原 (メーンバル) 屋取は山内ャードウイと言われるほど、山内姓が多勢を占めている。前原 (メーンバル) 屋取の人々と西原の本部落とは農民と士族という身分からほとんど交流がなかった。

ここには波平集落が現在の北波平集落に移住する前に集落の御嶽であったシマシチン之御嶽がある。前回北波平集落訪問の際に探したが見つからなかったところ。今回は見つけた。道路から森の中への入り口のところに拝所が一つ。奥に進むと行き止まりに拝所が二つある。大きな木の根元にあるのがシマシチン之御嶽だ。


イーンカー / シマシチンガ-

橋ロ原のウグワングワーモーの シマシチン之御嶽の近くにある井戸。前原屋取集落の人々はイーンカーと呼び、集落の生活用水だった。北波平の人々にはシマシチンガ-と呼ばれている。ここも前回北波平集落を訪れた際に探したが見つからなかった場所だ。井戸の前には、戦後、火事などの非常事態や集会、葬式などを知らせるのに利用されていた酸素ポンべが吊り下げられている。


ミーガー

橋ロ原には前原 (メーンハル) 屋取集落の人々が利用していたもう一つの井戸がある。この井戸は明治時代に掘り当てたもので、石積み方型のカーで出入り口には石段がある。かつては、前原 (メーンハル) 屋取集落の人々は旧正月の若水をこのカーから汲んでおり、ハチウガミとシワーシヌウガミ (師走の拝み) の時に拝んでいたそうだ。

これで阿波根集落の文化財巡りは終了。まだ少し時間があるので、この後、賀数集落に向かう。賀数集落のいくつかの文化財を見るが半分も見れなかったので、残りは次回訪問時に見る予定。今日見た文化財は賀数集落の訪問記に含めることとする。


参考文献

  • 糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編 (2011) 
  • 阿波根古島遺跡 (沖縄県文化財調査報告書 第96集 1990)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 尚巴志伝 (酔雲)

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