Okinawa 沖縄 #2 Day 60 (27/11/20) 旧兼城 (2) Kitanamihira Hamlet 北波平集落

北波平集落 (きたなみひら、波平 ハンジャ)

  • 北波平武富公園/タカヒジモー
  • カニマン御嶽、吞呂 (ノロ) 墓、三様 (ミサマ)、波平大主 (ハンジャウフヌシ)、前番所 (メーバンドゥクル)
  • 後之毛 (クシヌモー)
  • カニハマ御嶽
  • 三様 (ミサマ)
  • 志茂・大嶺の墓とその他の墓跡
  • 後之井泉 (クシヌカー)
  • カンサギ
  • 中道 (ナカミチ)
  • 野原之殿 (ヌバルヌトゥン)
  • 山当井泉 (ヤマタイガー)
  • 西井泉 (イリ-ガ-)
  • 産井 (ンブガ-)
  • 東井泉 (アガリガ-)
  • 北波平公民館
  • 馬場跡 (ウマィー)
  • 村屋跡
  • 東の溜池 (アガリヌグムイ) と東の森 (アガリヌムイ)
  • 役人屋敷跡/西組砂糖小屋 (イリーグミサーターヤー) 跡
  • 焚字炉 (?)
  • 古島
  • シマシチン之御嶽 (シマシキン之御嶽) [11/30に訪問]
  • シマシチン之井 [11/30に訪問]
  • クバガー [未訪問]
  • クミンバラの墓

北波平集落 (きたなみひら、波平 ハンジャ)

北波平集落はもとは波平 (ハンジャ) と呼ばれていたが、1968年 (昭和38年) に北波平と名称を変更した。波平はおもろそうしでは「はひら」と記載されている。「はひら」がハンジャと変化したと考えられている。その他の説では、鍛冶屋 (カンジャー) が変化したともある。写真の丘陵の上は一昨日訪れた武富集落がある。北波平集落はその丘陵の緩斜面にひろがっている。


この北波平集落は1976年沖縄本土復帰以降も人口はほとんど変化がない。しかしながら世帯数は2倍以上に増えている。

この集落は明治初期から人口の少ない村だった。昭和に入ってからは常に一番小さな字。他の字のように、集合住宅や団地建設の計画から外れたことが一因だろう。


糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編に記載されている文化財


那覇から豊見城を通り、一昨日に訪れた武富集落に着く。北波平集落は、武富集落がある丘陵の南側斜面にある。丘陵の上の部分はタカヒジモーとクシヌモーと呼ばれる森があり、そこは波平集落の聖域であり、墓所でもあった。まずはこの部分から見て行く。


北波平武富公園/タカヒジモー

一昨日訪れた武富集落に道路を挟んだ隣に北波平武富公園があり、その奥にこんもりとタカヒジモーがある。このタカヒジモーにカニマン御嶽があるはずなのだが、公園からこのタカヒジモーに入る道が無く、立入禁止の看板が出ている。


カニマン御嶽、吞呂 (ノロ) 墓、三様 (ミサマ)、波平大主 (ハンジャウフヌシ)、前番所 (メーバンドゥクル)

集落の北のタカヒジモーにあったのを、土地改良事業の際にタカヒジモーの南側に移設されていた。この公園もタカヒジモーを削って造られたのかもしれない。道路沿いに入り口があったので、そこを進む。

カニマン御嶽だけでは無く、全部で9つもの拝所が、集められていた。吞呂 (ノロ) 墓、三様 (ミサマ)、波平大主 (ハンジャウフヌシ)、前番所 (メーバンドゥクル)、そして4つの名が記載されていない拝所がある。それぞれに関しては、兼城字史では解説はほとんどなく、インターネットでも情報は皆無だ。一昨日訪れた武富集落の記事と比べて、随分と見劣りがする。これは集落の文化財に対しての向き合い方の違いだろう。カニマン御嶽は旧暦9月のタキムヌメー (嶽物参り) に拝まれているとだけあった。

後之毛 (クシヌモー)

タカヒジモーの前の道路を渡ると、もう一つのモー (毛) がある。クシヌモーと言う。後之毛と書く。名の如く、波平 (ハンジャ) 集落の後方にあるモー (毛) だ。この中にも多くに拝所や墓があると書かれていた。道を進み森の中に入って行く。


カニハマ御嶽

集落の北のクシヌモーにある御嶽。戦前は旅の前や戦争に従軍する前に拝まれていた。どのような神を祀っているのかは不明だそうだ。ここも旧暦9月のタキムヌメー (嶽物参り) に拝まれている。


三様 (ミサマ)

先程訪れたタカヒジモーに三様 (ミサマ) の拝所があったのだが、元々はこのクシヌモーのカニハマ御嶽の近くにあったと書かれていた。なんらかの理由で移設されたのだろう。2011年に刊行された旧兼城村史にはこのミサマの写真が掲載されていた。この写真と位置関係からこれがミサマだと思う。岩が崩れてしまっている。これが移設された理由と思える。ミサマには拝所が3つ並んでいたそうだ。ミサマは三様と書く。これは三つの何かを祀っているからなのだが、何を祀っているのかは不明だそうだ。按司墓 (アジシー) ではと推測されている。


志茂・大嶺の墓とその他の墓跡

このクシヌモーの中に志茂門中と大嶺門中の墓があると書かれていた。この両門中は絶えてしまい、子孫はいないのだが、この両門中は波平集落の国元 (クニムトゥ) 筋ということで、村がこの墓を管理しており。清明で拝まれているそうだ。資料にあった写真から判断すると、写真右上がその墓と思われる。


後之井泉 (クシヌカー)

クシヌモーを集落側に抜けると、井戸がある。集落の後方にあるので、後之井泉 (クシヌカー) という。別名、ミカヅキガ- (三日月井泉) で、表示版はこうなっている。戦前は生活用水として利用され、戦後の一時期は農業用に利用されていたが、現在は井戸としては利用されておらず拝所となっている。

カンサギ

村の中心部の北側にあり、琉球国由来記では、「神アシアゲ」(写真中) が記載されている。隣の西側には火の神 (写真下) が祀られている。

中道 (ナカミチ)

カンサギから集落の中を南に突っ切っている道が中道 (ナカミチ) で集落のメインストリート。自動車が一台通れるくらいの幅。道の両脇には民家の石垣が残っており、昔ながらの風景が残っている。

野原之殿 (ヌバルヌトゥン)

集落内の西の端には殿 (トゥン) がある。5月と6月のウマチーに御願されている殿で、伝承では、波平集落が始まった古島にあったシマシチン之御嶽への遙拝所 (ウトゥーシ) という。別の説では南山への遙拝所ともある。

山当井泉 (ヤマタイガー)

集落内には幾つか井戸跡が残っている。殆どが集落内に上の方にある。この井戸は集落の西にあり、民家に挟まれた小さな井戸跡だ。
集落には、写真に見られるように、井戸を敷地内に設置している家が幾つか見られた。水の便は良かったのだろう。

西井泉 (イリ-ガ-)

集落内の西側にはもう一つ井戸がある。西井泉 (イリ-ガ-) だ。東井泉 (アガリガ-) に次いで、よく使われていたそうだ。

産井 (ンブガ-)

集落の東の畑の中にある井戸で、昔は正月の若水や産湯はここで汲んでいたというから、集落では最も澄んだ水で、重要だったのだろう。後に産井としての役割はアガリガ-に移っているそうだ。

東井泉 (アガリガ-)

現在の集落内東にある井戸で、村では生活用水として共同の村井だった。この井戸の水量は豊富で、農業用にも使われており、稲作が盛んだったという。この井戸の踊り場にイシドーニと呼ばれる石桶が残っている。これは昔、女性が髪を洗うのに使われていたそうだ。
戦前の沖縄の民家には風呂は無く、井戸で体を洗っていた。戦後、ドラム缶風呂が広がり、やがて各家庭に五右衛門風呂が普及して、1970年代にはボイラー風呂に変わっていった。本土に比べて普及の時期は少し遅れている。自分の子供の頃は田舎だったせいか、沖縄と同じ状況で、1970年代でも五右衛門風呂で薪で沸かしていたのを思い出した。


北波平公民館

村の中心部、メインストリートである中道 (ナカミチ) が走っている場所に公民館がある。この公民館は1938年 (昭和13年) に建てられたもの。ここの一角には村の始祖とされている志茂/大嶺門中の香炉が置かれている。沖縄戦では、昭和19 年に日本陸軍に接収され、昭和20年6月6日に米軍に攻められ焼失、村は占領されている。当時の住民354人の内131人が犠牲になった。ここに御願に来る道である神道 (カミミチ) の一部が残っている。

馬場跡 (ウマィー)

集落内の東側に広い道路がある。元々は道路ではなく、馬場があった場所だった。道理で広い訳だ。昔はここで馬競争が行われていた。戦後は綱引きなど村の祭の行事に使われていた。


集落内にあった赤瓦の沖縄風民家。一つは家の前に石畳がまだ残っていた。


村屋跡

現在の公民館の前は、少し離れた所に村屋があった。今は民家になっているのだが、跡地の一画に米軍トラックの廃品となったタイヤのホイールを使ったの鐘がぶら下がっていた。一昨日訪れた武富集落にもあった。ホイール鐘は一昨日に続き、2個目だ。

東の溜池 (アガリヌグムイ) と東の森 (アガリヌムイ)

旧村屋の側に溜池 (グムイ) と森 (ムイ) があった場所がある。集落の案内図ではクムイ (溜池) 跡が幾つか載っており、その脇にはムイ (森) が対であった様だ。今ではクムイもムイも残ってはいないのだが、この集落は水に恵まれていたことがわかる。一昨日訪れた隣の武富集落も同様に水には恵まれていた。旧具志頭村の集落は水が湧き出てこない地形で、常に水の確保に苦労していた。10キロも離れていないのだが、地域によってこんなに差があるには驚きだ。

役人屋敷跡/西組砂糖小屋 (イリーグミサーターヤー) 跡

西井泉 (イリ-ガ-) の近くに多目的広場がある。ここはかつては役人屋敷が建っていた。その後、西組砂糖小屋 (イリーグミサーターヤー) が建てられていたが、沖縄戦で焼失。戦後、この場所にサーターヤーが再建されたのだろう。ここに、その時に使われていた酸素ボンベの鐘がある。時を伝える為に使われていた。昔は銅羅や太鼓や螺貝を使い、昭和初期はラッパ、そして戦後はこの酸素ボンベを使っていた。現在は多目的広場になっている。この役人屋敷があった場所にも西の溜池 (イリーヌグムイ) と西の森 (イリーヌムイ) があったそうだ。

焚字炉 (?)
集落内に資料では載っていなかった拝所を見つけた。祠の中には何もなく白い灰が貯まっており、前面は金網で覆われている。何かをこの祠の中で燃やしている様に思える。焚字炉ではないだろうか? これは中国明代の敬惜字紙の風習で、冊封使林鴻年が、文字を敬重し字紙を敬うことを説き、焚字炉を各地に設置させたそうだ。

古島

これで資料に紹介されていた北波平集落の文化財巡りは終了。かつて4‐5世帯が移り住んだのが始まりという。波平集落が始まった古島を訪れることにする。波平古島は隣の字の阿波根 (アハゴン) にある。



シマシチン之御嶽 (シマシキン之御嶽) [11/30に訪問]

この御嶽は現在の北波平集落に移動してくる前の古島時代のものだ。シマシチン之御嶽 (神名: イシラゴ之威部) は波平集落の人にとっては聖地になる。この場所は字北波平ではなく字阿波根にあるせいか、地図も正確な場所は書かれていない。阿波根集落の資料にも、自分たちの拝所でないということなのか、一切触れられていない。大雑把な地図の場所を探し回ったのだが、結局見つからなかった。波平集落の人たちは普段は波平集落にある野原之殿 (ヌバルヌトゥン) から遙拝しているそうだ。11月30日に阿波根集落訪問時に再度探し、見つかった。


シマシチン之井 [11/30に訪問]

シマシチン之御嶽の近くにある井戸で波平の人々が古島に住んでいたころに使用されていた井戸のシマシチン之井が載っていたが、それらしきものは見つからなかった。阿波根ではイーンカーとかメーバルガ-と呼ばれていると書かれていたので、阿波根集落に来た際にもう一度探してみよう。そしてここも11月30日に阿波根集落訪問時に再度探し、見つかった。


クバガー [未訪問]

この井戸も古島に住んでいたころに使用されていたもので、古島と現在の集落の間ぐらいにあると地図にはあったので、その周辺を探してみた。通りかかった人に聞いてみたが、井戸跡は見たことがないとの返答。この辺りは昔は山で工事で現在のようになったと言っていた。



クミンバラの墓

古島跡で唯一見つけたのがクミンバラの墓。この場所は字賀数でこの地点は北波平、阿波根、賀数が隣接している場所。ミナクーターチーバカ (亀甲2連式墓) で北波平の富銘腹と長嶺腹、武富の長嶺門中、賀数の東江腹との共同墓で、クンミパラともばれている。


今日は11月も終わりにも拘わらず夏日で、熱かった。今までで11月としては最も気温が高い年だそうだ。


参考文献

  • 糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編 (2011) 

0コメント

  • 1000 / 1000