Okinawa 沖縄 #2 Day 59 (25/11/20) 旧兼城 (1) Taketomi Hamlet 武富集落

武富集落 (たけとみ、ダキドゥン)

  • サーターヤー跡
  • 武富グスク (たけとみ、ダキドゥングスク)
  • 神道 (カミミチ)
  • 国御火ヌ神 (クニミヒヌカン) 
  • 大殿 (ウフドゥン) 
  • 城之殿 (グスクヌトゥン、武富之殿)
  • 大屋腹 (ウフヤバラ) の墓、板門墓 (イタジョーバカ)
  • 後之井 (クシヌカー、ヤマスクヌカー)
  • 呑殿内 (ヌンドゥンチ)
  • 金萬御嶽( カニマンウタキ、カニハマヌウタキ、子方ヌ御嶽 ニヌフアウタキ)
  • ウーシヌアナ
  • ムイグワー (ウティンジク 御天竺)
  • 中之井 (ナカヌカー)
  • 中道 (ナカミチ)
  • 村屋跡 (ムラヤー)
  • 前之御嶽 (メーヌウタキ)
  • カーシン
  • 前之小堀 (メーヌクムイ)
  • 土帝君 (トゥーティークン)
  • 真人神 (まびとかみ)、時之神 (トウチヌカミ)
  • 国柱 (くにじく)
  • 武富大屋御先袋親加那志墓、武富大屋初代嫡子墓
  • 地頭火之神 (ジトウーヒヌカン)
  • ビジュル (霊石)
  • 卯方之 (ウヌフアヌ) 御嶽 (ウタキ)
  • 根井 (二-ガ-、ニーヌカー)
  • 東之井 (アガリンガ-)
  • 泉ロワク神
  • 東之池 (アガリヌクムイ、羅針盤之池 カラハーイヌイチ)
  • 古島古島井 (フルジマガー)
  • ンチャルガー
  • 新殿 (ミードゥン)
  • 馬場跡 (ンマイー)
  • ジンジングムイ (人格のカー神)
  • アミタポーリー (雨乞之嶽、午方之嶽)
  • 酉方之御嶽 (トゥイヌファヌウタキ、タントウィ御嶽、地ワキ之嶽)
  • 御穂田 (ミーフーダー) / 西之井 (イリンカー)
  • ヒンプン岩
  • クワンソーレー (未申方袋親)
  • 龍宮神
  • 長嶺門中墓・按司墓 (アジシー)
  • 山城門中墓、クグスクドウクル
  • ブーマサザカイ大屋女子とアンガナシの墓
  • 後原井 (クシバルガー)
  • 新屋腹の墓

旧兼城村については、かなり詳しい字史が発行されている。沖縄県立図書館で、それに目を通し、その案内に沿って武富集落を巡る。ここには昨年10月に糸満市のグスク巡りで、武富グスクを訪れた。集落にある他の文化財は見なかったので、今回はじっくりと集落の文化財を訪れる。


武富集落 (たけとみ、ダキドゥン)

武富集落は糸満市端にあり、旧兼城村に属していた。以前は豊見城間切であったが、17世紀後半の境界見直しで、兼城間切に編入された。以後1908年 (明治40年) までは兼城間切に属し、武富村と称したした。1961年 (昭和36年) に、系満町、兼城村、高嶺村、三和村合併により糸満町となり、字武富となった。字武富は北は饒波川を挟んで豊見城市高嶺と接し、東は八重瀬町の宣次、友寄、小城に接している。字は、5つの地区に分かれており、集落の中心は仲間田原 (なかまだばる、ナカンダ) にあり、那波嶺原 (なはみねばる、ナバンミバル) と溝原 (みぞばる、ンズバル) は屋取集落であった。武富集落は現在の集落の場所に移る前には古島原にあり、現在は畑が広がり、民家はあまりない。

1976年に那波嶺に武富ハイツ (下の写真左) の建設が行われ、1981年にかけて人口の急増で5年間で倍になっている。この現象は他のいくつかの沖縄の字でも起こっている。

1972年に沖縄の本土復帰までは、米軍統治下で、思い切った政策がとれなかったが、復帰により、思い切った対策が取られた、その一つは本土との行き来の自由化で沖縄に移住する人たちが増え、住宅建設が活発になった。それ以降も2000年まではコンスタントに人口増が続く。2000年代に入って2014年までは人口増加は収まっていたが、後原にも住宅街 (下の写真右) が建設され、2014年以降、再び人口増加傾向にある。特に2019年の人口増加は大きくなっている。

旧兼城村の中での武富集落の規模は、明治初期には、最も小さな字であったが、前述のように沖縄本土復帰以降の人口急増で、今では旧兼城村の中では上から4番目に人口の多い字にまでなっている。


糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編に記載されている文化財


まずは集落の中心地の仲間田原 (なかまだばる、ナカンダ) を見ていく。集落は典型的な古琉球の構造で、丘陵の高台にあり、拝所や古墓が集中している武富グスクのヤマスクと呼ばれる丘の前の広がっている。


サーターヤー跡

仲間田原の武富グスクに行く際に入り口の前のゲートボール場に自転車を停める。ここはかつては砂糖小屋 (サーターヤー) があった場所。昭和30年代まで共同製糖場が稼働していた。サトウキビは現在でもこの集落の主要な産業なのだが、1970年を境にサトウキビの生産は急速に減少し、全盛期の生産量の10分の一以下になってしまっている。

このサーターヤーの脇には丘陵があるが、そこはガマがあり墓が造られていた。沖縄戦当時は住民はこのガマに避難をしていたが、首里から移動してきた日本兵に追い出されたという。沖縄戦では集落住民の570名の内、215人が犠牲になったそうだ。


武富グスク (たけとみ、ダキドゥングスク)

集落の信仰の中心であった武富グスクから始める。武富グスクは武富集落の北側の標高85mの丘陵の緩やかな斜面に立地している。グスクの東側は開削され神道 (カミミチ) と呼ばれている小道が通っている。ここを通って部落の住民は祭祀の際にグスク内にある拝所を訪れる。このグスクは城塞というよりは聖域としての性格を持ったもので、グスク内には殿や遙拝所 (御通し) がグスク広間にあり、合わせて幾つかの古墓や風葬墓跡が残っている。


神道 (カミミチ)

神道はこのグスクの拝所に通じるものだけではなく、集落の御願所を結んだ道もある。神道とは神人が祭祀の時に通る道のことで、武富では大屋から地頭火之神を通ってニーガーに続く道、村屋から城之殿までの道、城之殿とカニマン御嶽を結ぶ小道、呑殿内の南の通りなどがカミミチとなっている。この道は名のごとく神聖な道なので、葬式の時にはカミミチを通ることは絜止されている。


国御火ヌ神 (クニミヒヌカン) 

グスクに入ると道が二つある。まずは右の道を行くと奥にこの拝所がある。火ヌ神を祀っている。


大殿 (ウフドゥン) 

もと来た道に戻り、もう一つの道の神道を行くと広間に出る。

広間には二つの拝所があり、その一つが大殿 (ウフドゥン) で、香炉が4つ置かれている。それぞれが、遙拝所 (お通し ウトゥーシ) となっており、南山、大城、玉城、今帰仁へ御願する。


城之殿 (グスクヌトゥン、武富之殿)

広間にはもう一つ拝所がある。琉球国由来記では城之殿と記載されているが、現在は武富之殿と呼ばれている。五月・六月ウマチーには武富ノロが神人 (クティングヮ) と各門中の代表を従え、御願に訪れる。

グスクは森に覆われている。森の中への小道があるので、中を散策する。深い雑木林になっており、至る所に岩がむき出しいなっている。


大屋腹 (ウフヤバラ) の墓、板門墓 (イタジョーバカ)

グスク内には武富集落の中心的な門中の墓がある。武富集落では門中を腹と呼んでいる。大屋腹は武富集落の国元 (クニムトゥ) で、根人 (ニーチュ)、居神 (イガン)、根神 (ニーガン) を代々輩出したリーダ的な門中。この大屋腹の元当世墓 (ムトゥトーシー、以前使っていた墓) が城之殿 (グスクヌトゥン) の近くにある。板門墓 (イタジョーバカ) と呼ばれている。 昔、中国との交易の功績で、首里王府から墓の建造を認められ、褒美としてもらった黒壇で墓口を塞いでいたところから、こう呼ばれている。黒壇が劣化してしまい、現在は板で墓を塞いでいる。この板も傷んでおり、剥がれかかって中が見える。板門墓と名がつけられてしまったので、今らコンクリートでふさぐわけにもいかないのだろうか..... 大屋腹が現在使っている当世墓 (トーシー) は別の場所にある。

グスク内には、これ以外にも多くの墓が見られる。この森の中にある墓はすべてが崖葬墓で、17世紀終わりから18世紀の琉球王朝時代に盛んになった亀甲墓以前のものだろう。このように、グスクがある丘陵には多くの崖葬墓があるのだが、これはかつては勝手に自由に作られていたのだろうか、この土地は誰の所有で、誰が管理しているのだろう? 中にはもう世話をする人もおらず朽ち果てた墓も多い。


後之井 (クシヌカー、ヤマスクヌカー)

グスクの林の中の墓群に交じって、この後之井がある。井戸のある岩は洞窟になっている。り、ヤマスクヌカーとも呼ばれている。この場所は、岩や雑木で覆われているので、村の人たちが、ここまで来るのは大変ということで、年頭御願やウマチーのカー拝みの際にはナカヌカーから遙拝している。標柱には殿グサイと書かれているので、城之殿と一体ということで、想像では、城之殿にノロガ御願に来るさ伊覇この井戸で身を清めたのだろう。ここは神聖な場所なので、集落の人が立ち入ることは禁止されていたであろうから、生活用水には使用できない。ノロの身を清める位牌には使われていなかったと思う。


呑殿内 (ヌンドゥンチ)

武富集落で祭祀を司っていた武富ノロを代々輩出していた門中の殿内が、グスクの入り口のところ、神道 (カミミチ) 沿いにある。この呑元 (ヌルムトゥ) の呑殿内 (ヌンドゥンチ) は新屋 (ニーヤ) 腹に属するのだが、国元の大屋の三男で分家だそうだ。


金萬御嶽( カニマンウタキ、カニハマヌウタキ、子方ヌ御嶽 

神道 (カミミチ) を進むと、金萬御嶽( カニマンウタキ) に着く。へらや鍬の刃などの鉄の農員を作ったカニマンの神にちなんでその名がつけられたといわれている.


ウーシヌアナ

金萬御嶽 (カニマンウタキ、カニハマヌウタキ) の後方に4個の香炉が置かれた墓がある。以前は複数の門中で利用していたウーシヌアナと呼ばれたイリク墓 (入込墓) の遺骨をここに移してきたものだ。


ムイグワー (ウティンジク 御天竺)

ナカミチ (中道) の北端に小さな香炉が置かれている。一説ではここは無縁仏の供養をしている拝所と言われている。ここで旧12月にハクドウの御願をする。人が亡くなった時にこのムイグワー (ウティンジク 御天竺) を拝み、その故人の登録を抹消する習慣だったという。


中之井 (ナカヌカー)

金萬御嶽とムイグワー (ウティンジク) の間にある井戸。現在も少量ではあるが水が物き、小さなクムイ (溜池) になっている。戦前は主に洗濯や洗い物などに料用していたそうだ。標柱には七色ヌワク神、金萬グサイとあるので、このすぐそばにある金萬と対の井戸だったのだ。


中道 (ナカミチ)

どこの集落でも、村の中心部にはメインストリートの一つの中道がある。この中道を通って、集落の中心部に向かう。

中道沿いには、武富集落の主要な門中の家がある。大屋門中 (腹) の長男の国元 (クニムトゥ) の大屋 (ウフヤ 写真下) 、次男の嶽元 (タキムトゥ) の安舎慶 (アシャギバラ 写真上) がこの武富集落の草分けで、その両家の家もある。もう一つの有力門中の長嶺腹 (ナガン二バラ 写真中) の二つの家 (長嶺、上長嶺) もある。武富集落には10ノ門中があるのだが、村の祭祀にかかわるのはこの四つの門中だ。それぞれが神屋を持っている。グヮンスチネーの際に御願されている。

集落内で見かけた伝統的な赤瓦の民家


村屋跡 (ムラヤー)

かつての村屋跡は現在では土地区画整理組合兼公民館となっている。公民館の前には沖縄戦が終わり、収容所から戻ってきて生活を始めた時代に使われていた鐘が残っている。今まで、いくつもの酸素ボンベの鐘は見てきたが、ここの鐘は酸素ボンベではなく、別のものを利用して使っていたようだ。何を使ってこの鐘をつくったのだろうか? 地元の人に聞くとトラックのホイールだそうだ。なるほど.....


入り口に昭和11年建設 青年学校と記された戦前の国掲台が置かれている。青年学校とは尋常小学校を終え、旧制中学校には進まず、勤労に従事している青年に補修という形で教育を施す期間。現在の定時制学校に近いかもしれない。公民館の周囲には、多くに拝所が集まっている。


前之御嶽 (メーヌウタキ)

村屋跡の南側の岩の下に前之御嶽 (メーヌウタキ) があり、昭和9年に改修した記念碑も立っている。香炉の上には平御香がきれいに並べられている。今日は何か御願の日なのだろうか?この後、見て回った拝所にも同じように平御香が並べられていた。前之御嶽 (メーヌウタキ) がある岩の反対側に香炉が置かれている。南山に関係する按司墓 (アジシー) だそうだ。


カーシン

前之御嶽 (メーヌウタキ) のすぐ脇にカーシンと呼ばれる井がある。井神と書くのだろうか?これは戦後に設置されたもので、年頭御願やウマチーのカー拝みの際に御願されている。標柱には前之御嶽、土帝君グサイとある。グサイとは一体とあるから、御願の際には前之御嶽、土帝君、カーシンをまとめて拝んだのだろう。


前之小堀 (メーヌクムイ)

前之御嶽 (メーヌウタキ) から道路を挟んだところにに前之小堀 (メーヌクムイ)  がある。戦後の一時期までは溜池として利用され、ここで農器具を洗ったりしていた。カー拝みに御願されている。クムイ (溜池) まで拝所にしている集落は、今まで巡ったところではここだけだ。この武富集落は拝所がきれいに整備され、しかも数が多い。ここに住んでいる人たちの信仰の度合いや村に対する想いがよく表れているように思える。


土帝君 (トゥーティークン)

村屋跡の前の道を挟んだところに土帝君がある。コンクリート製の祠の中にニービスフニ (第三紀砂岩) の神体が祀られている。 9月9日のムヌメー (物参り) に拝まれている。この集落では上帝君のことを仏と呼んでいるそうで、この周辺をフトウキヌメー (仏の前) と称していた。


真人神 (まびとかみ)、時之神 (トウチヌカミ)

土帝君 (トゥーティークン) と同じ場所にもう二つ拝所がある。それぞれに神の名前がついている。拝所があるところに、別の拝所がいくつかあることは多いのだが、それに標柱がおかれているのは、この集落が初めてだ。


国柱 (くにじく)

村屋跡の北に戦後に設置された国柱 (くにじく) という拝所がある。香炉は大屋腹が代々務めた居神 (イガン) と根神 (ニーガン) を祀っている。


武富大屋御先袋親加那志墓、武富大屋初代嫡子墓

ここには大屋腹に縁のある按司墓 (アジシー) が2基残っている。武富大屋初代嫡子 (写真左) は武富集落の始祖のもので、御先袋親加那志 (写真右) はその母親のものだそうだ。この二つの墓は個人墓だ。門中の始祖なので門中墓であってもおかしくないのだが、門中は17世紀おわりから18世紀琉球王朝時代に発展し、門中墓もその時代に広まっていった。この武富集落がいつ頃始まったのかは書かれていなかったのだが、この二つの個人墓はその時代以前のものなのかもしれない。


地頭火之神 (ジトウーヒヌカン)

村屋跡の東側の市道沿いに地頭火之神 (ジトウーヒヌカン) があり、ウマチーの井 (カー) 拝みの際には、まずこの地頭火之神を最初に御願する。


ビジュル (霊石)

地頭火之神がある場所の高台に石積みの祠ががあり、その中にニービヌフニ (第三紀砂岩) 之霊石が置かれている。このビジュルは万物を育む神とされており、旧歴9月9日のムヌメー (物参り) と9月29日のタキムヌメー (嶽物参り) に拝まれている。


卯方之 (ウヌフアヌ) 御嶽 (ウタキ)

ビジュルの隣に卯方之 (ウヌフアヌ) 御嶽がある。伝承によると旧暦6月15日のウマチー綱にここからクガニドゥール (黄金の灯籠) が上がったといわれている。


根井 (二-ガ-、ニーヌカー)

この場所には井戸跡がある。もう水はなく形式保存された拝所になっている。


東之井 (アガリンガ-)

村屋がある場所は集落の中でも東側に当たり、東の端には東之井 (アガリンガ-) がある。古くは武富のンブガー (産井) であった。ここには祠が二つ置かれている。「東ンカー (受水)」、右は「東ンカー (走水)」となっている。西側を受水 (うきんじゅ)、東側を走水 (はいんじゅ) というそうだ。湧水が二か所から出ていたのだろうか? 現在は農業用水として使われている。


泉ロワク神

もう一つの拝所が木の根元にある。これも東之井 (アガリンガ-) の一部だ。


東之池 (アガリヌクムイ、羅針盤之池 カラハーイヌイチ)


古島

集落の東側にかつてしゅらくがあった古島がある。この地域は一面サトウキビ畑が永遠と広がっており、民家などはほとんどない。畑の中にいくつも溜池があり、水の便は悪くなかったのではないかと思う。古島に集落を移す前は現在の集落があったところに住んでいたのだ。18世紀の琉球国惣絵図にはこの地が武富村となっている。何故またもとに集落の地に戻ったのだろうか?これについては資料では書かれていないが、想像するに、この古島は耕作地としては良い土地であったので、人を住まわすよりは、耕作地にしたほうが得策との首里王府の土地政策により、元の地に移住させられたのではないかと思う。旧具志頭村の集落を巡った時に、幾つかの集落はこの王府の土地政策で、何度も移住させられているところもあった。この武富集落もそうでないかと想像する。


古島井 (フルジマガー)

この古島集落の東の端にフルジマガー (古島井) の跡が残っている。この地区は土地改良工事で整備されたために、井戸はなくなり、畑の一角に香炉だけが置かれている。


ンチャルガー

この古島原の古島井の北東はンチャルモーで、そこには別の井戸がある。ンチャルガーと呼ばれており、井戸の周囲は石積みが施されている。今でも水が湧き出ている。


新殿 (ミードゥン)

古島原のンチャルモーの北側に新殿 (ミードゥン) がある。新殿 (ミードゥン) とは新しい殿という意味なのだが、なぜ古島に新殿があるのだろうか? この古島へは現在の集落がある仲間田原から移動してきたというわけだ。だから移動してきた時にできた新しい殿なのでその名称が付いたといわれている。かってはンチャルモーの西物に位置していたが、土地改良整備事業により現在の場所に移設されている。


馬場跡 (ンマイー)

もう一度集落のところに戻る。集落の南にはかつては馬場があったのだが、現在は武富児童公園になっている。ここでは旧歴6月15日にウマチージナ(綱) が行われている。


ここは標高80-90m高台になっており、この南側はなだらかに丘陵の裾野が広がっている。


ジンジングムイ (人格のカー神)

公圏の東にはジンジングムイとばれている拝所があり、ウマチーに拝まれている。グムイは溜池の事なので、この馬場があった場所には溜池があったのだろう。その溜池 (グムイ) がわざわざ拝所になっているのには、何か訳があるのだろう。


アミタポーリー (雨乞之嶽、午方之嶽)

武富児童公園になっている馬場跡にちょっとした丘がありそこにアミタポーリーと呼ばれている所がある.公置として整備される前は「爾乞い山」と呼ばれたこんもりとした山になっていたそうだ。集落で日照りが続いたときは、ここでアミタポーリー (雨乞い) の儀式を行っていた。クティイングワが水の入った桶の周りを回りながら、「アミターポーレー、ジースクワラビヌ、ミチフサスンドー、トウガナシ」(雨を下さい、土の下の子ども達が水を欲しがっています、どうかお願いします)と歌い、竹の葉で桶の水を7回、天に向かってはねた。そうすると一週間以内に雨が降ったといわれている。


続いて集落の西側に向かう。



酉方之御嶽 (トゥイヌファヌウタキ、タントウィ御嶽、地ワキ之嶽)

集落の西側には、かつてタントウィモーと呼ばれた原があり、ここにはナーシルダー (苗代田) があり、豊年の守り神を祀っているとも言われている。


御穂田 (ミーフーダー) / 西之井 (イリンカー)

御穂田 (ミーフーダー) はウマチーに供える稲を植えるための田で、今までもいくつかの集落で拝所となっているのを見た。この御穂田の拝所の隣には西之井 (イリンカー) があり、一緒に合祀されている。ウマチーの際に御願されている。


ヒンプン岩

道路にヒンプン岩というものが居座っている。今まで幾つかの集落を巡った際に、これほど大きな岩ではないのだが、同じように道路のど真ん中に岩が置かれているのを見た。自動車が通るには邪魔だろう。何故こんなところに岩があるのかと疑問に思っていたが、これはヒンプン岩と呼ばれている。ヒンプンと呼ばれるものだと知り、合点がいった。各家には玄関に必ずヒンプン (屏風) がある。ヒンプン岩も同じ様に、集落に魔物 (ヤナムン) が入ってくるのを防ぐ岩だそうだ。実際に自動車が走っているのを見たのだが、これは英国のランナバウトと同じ機能をしている。ここに来ると自動車は速度を緩め、対向車を確かめて進んでいた。これは使える。交通量がそれほどではない田舎では、信号を設置するより、このヒンプン岩の方が効果的で、なおかつ情緒もある。


クワンソーレー (未申方袋親)

集落の西の端の豊見城の保栄茂 (びん) 集落との境に近くにクワンソーレーと呼ばれる拝所がある。伝承によると、玉城の赤嶺家の娘マカトが男の子を出産した場所で、「クヮ ナシンソーレー (こどもを産みなさい)」が訛ってクワンソーレーになったそうだ。その男の子が この集落の国元の大屋腹の始祖と言われている。それで、ここは子宝や安産を析願する場所にもなっている。ここには拝所が二つあり、もう一つにはブーマ神と書かれていた。


ここからは、豊見城の豊崎の海岸が臨める。良い景色だ。


龍宮神

クワンソーレーの北に、龍宮神と呼ばれている拝所があった。


長嶺門中墓・按司墓 (アジシー)

武富グスクのある丘陵に北側斜面には主要な門中の亀甲墓がある。ここは武富集落のリーダー的門中の長嶺腹の亀甲墓があった。

この亀甲墓之裏側には長嶺腹の古い按司墓 (アジシー) が残っている。伝承では、国元の大屋の娘が長嶺に嫁いできた際に、大屋腹からこの墓を譲り受け、その娘が葬られているという。


山城門中墓、クグスクドウクル

長嶺腹の亀甲墓の隣にフィンチャー (堀り込み) 墓がある。山城門中の墓だ。この墓の場所に古墓がある。クグスクドウクルと呼ばれている按司墓 (アジシー) で、歴代の根人 (ニーッチュ) が葬られているそうだ。


ブーマサザカイ大屋女子とアンガナシの墓

丘陵にはもう一つ大屋腹にかかわる古い按司墓 (アジシー) がある。詳細は見つからなかった。


後原井 (クシバルガー)

武冨グスクの丘陵を下った北側にある後原地区にある井戸で、クシバルガー (後原井) と呼ばれている。球陽にも記載されている古い井戸。簡易水道の水源として使用され、現在は農業用水に使われている。

簡易水道は1958年 (昭和33年) の米軍統治下の時代に行われ、このクシバルガー (後原井) から武富グスクの丘陵に設置したタンクにモータで汲み上げて、集落に給水を行った。1983年まで使用された。先に訪れた金萬御嶽之ところに、この簡易水道之設置記念碑が残っている。記念碑は琉球群島アメリカ民政府高等弁務官によるもので英文で書かれている。米軍統治時代の遺構だ。


新屋腹の墓

後原のタカヒジモー、かつての古島の北西の端に大屋の三男にあたる新屋門中の立派な亀甲墓があった。亀甲墓に上る途中の岩には昔の墓がある。入り口が崩れて、骨甕の蓋がむき出しになっていた。何とも綺麗な蓋だったので、失礼して写真を撮らせてもらった。墓の下には神屋が建っており、ここに祖先を祀っている。

多くん拝所を巡ったが、今でもこの集落では年中行事として御願が行われている。その際にはお詣りをするメンバーや、供え物の種類・作法、平御香の本数、御願の言葉、御願の順番など、事細かく決まっている。以下は年中行事としての主要な御願。これを見ると正月、5月6月のウマチーの際には井戸を巡っている。この村での井戸に対する信仰の深さを感じる。6月のウマチーは稲の豊年祭にあたる。本土と同じように、最も重要でにぎわう祭りで、集落内の門中で西と東に分かれ綱引きや相撲大会などが行われている。



今日は武富グスクできれいな模様の蝶を見つけた。タテハモドキという蝶で南西諸島から九州に生息しているそうだ。


参考文献

  • 糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編 (2011) 





0コメント

  • 1000 / 1000