Kii Peninsula 紀伊半島 8 (15/12/19) Tamaru Castle Ruins 田丸城跡
宮川堤
Tamaru Castle Ruins 田丸城跡
瀧原宮
宮川堤
宮川は、豊受大神宮 (外宮) の西側を流れており、外宮の禊川で、かつては豊宮川と呼ばれてい、豊の字を略して宮川の名になった。かつては水運を利用し、参拝客のための渡しもあった。神宮の御用材をはじめとする木材の運搬や和船の造船業なども栄えていた。度合橋の袂には神宮御用材貯木池跡の石碑が建っている。宮川は昔から暴れ川と呼ばれ度重なる氾濫で住民が苦しんでいたが、平清盛が堤を築いたと伝わっている。
Tamaru Castle Ruins 田丸城跡
紀伊長島への通り道に、遺構が残っている田丸城があるので寄り道をする。続100名城に認定されているので期待が持てる。
南北朝時代に南朝方の拠点として北畠親房、北畠顕信によって築かれた平山城。伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられたが、1342年 (康永元年)、足利尊氏によって落城。その後、室町時代には伊勢国司となった北畠氏の手によって再建。第5代 北畠政郷の四男の顕晴が田丸城に入り、田丸氏を名乗った。戦国時代、城主の田丸直昌は織田信長の伊勢侵攻に伴い北畠具教の養嗣子となった織田信雄に田丸城を明け渡し、信雄に仕えた。田丸城は信雄の居城として1575年 (天正3年) に改築され、三層の天守を備えた近世城郭へと生まれ変わり、織田氏の伊勢支配の中心拠点となった。天正12年 (1584年)、小牧長久手の戦いでの、松ヶ島城主 (松坂城に移るまでので居城) となった蒲生氏郷の支配下に入る。天正18年 (1590年) の奥州仕置で蒲生氏郷が陸奥国会津に移封になり、妹婿となっていた田丸直昌も与力大名として陸奥に移動。江戸時代初頭には稲葉道通が入り田丸藩となる。稲葉氏転封ののち藤堂氏の支配地になるが、1619年 (元和5年)、徳川御三家の紀州徳川家の治める紀州藩の所領となり明治まで城代が置かれ続いた。
国道13号線から離れ、田丸城方面に向かう。暫くすると、外堀が現れる。外堀に沿って、城の入り口の大手門跡に到着。いよいよ城見学だ。
[外堀] 外堀の内側には玉城町役場と田丸保育園が建っている。外堀は完全には残っておらず、残っているのはこの部分の3分の一ぐらい。
[大手門] 大手門を入ると左手に駐車場が見えてきた。ここは当時は目付役所と同心屋敷が建っていた。現在は玉城町役場になっている。右手は代官所と代官屋敷跡で現在は多目的広場になっている。
[ニノ門] 大手門を通り、真っ直ぐ進む内堀があり、そこには三ノ丸への入り口にあたるニノ門跡がある。内堀がかなり短い。他は埋め立てられてしまったのかと思っていたが、当時もこの部分だけが内堀でそれ以外は土塁と石垣で三の丸、二の丸、北の丸、本丸を囲んでいた。何故ここだけに内堀を配置したのか疑問は残る。
[三の丸] ニノ門を入ると三の丸になるのだが、今はこの三の丸跡地全体を中学校の敷地になっており、当時の三ノ丸の縄張りは完全に失われてしまった。本来は二ノ門を更に上に登ると二の丸に入れたのだが、そのルートは中学校の敷地内で今は残っていない。この三の丸には、三の丸御殿があった。昔にはなかった道が中学校の周囲を登校道として造られている。ちょうど昔の三の丸御殿の周囲にあたる。中学校のグラウンドの脇に井戸跡表示がある。
[富士見門] ニノ門から三の丸御殿へは富士見門を潜って行くのだが、この富士見門が、ずいぶんと本来あった場所とは離れたところだが、移設復元されている。
[蓮池] 外堀と三の丸の土塁、石垣の間にこの池がある。表示板や古地図にも名前が載っているので、城にとって重要な池であったのだろうが、とうとうその説明は見つからなかった。城は籠城すると水が重要になるので溜池か、それとも三の丸御殿からこの蓮池への小道があるので庭園としての池だったのだろうか? 今日は紅葉がみごとに紅葉している。庭園も池でも通用するかな....
[二の丸虎口/富士見櫓台二の丸] 中学校のグラウンドの辺りが、二の丸への登城口にあたる。表示板には二の丸虎口と書かれている。二の丸への唯一の登城口。この門を入ると坂になった細長い枡形の様になっており、その突き当たりの上には富士見台 (左下) があった。万が一敵が侵入した場合は枡形の周囲の石垣とこの台からの攻撃を想定した縄張り。二の丸 (右下) はそこそこの広さ。何に使われたのかは、見つからなかった。
[二の丸から本丸への土橋/堀切] 二の丸から本丸へは狭い土橋を渡ることになりそこは深い堀切で防備されている。
[本丸門] 土橋を渡り二の丸から本丸への門
[本丸] 本丸は石垣で守られ、本丸虎口への道を見下ろせる櫓があり、それ程大きく無いが天守閣があった。
櫓跡。ここからは遠くまで遮るものがなくみわたせる。昔とそう変わっていない様に思える。
天守閣だが、遠くから見ると天守閣が残っているのか、復元されたのかと思ったが、ライトアップ用のスクリーンで天守閣の形になっている。興味を引いたのは、天守台の階段で扇型で上に行くにつれて段の幅も狭くなっており、登りにくくなっている。
ライトアップの時間までは入れないので、インターネットサイトでどの様な感じか見てみた。なななかだ。
[本丸虎口、茅門] 本丸から二の丸へとは別に北の丸への茅門 (写真右上/左下) がある。その道から三ノ丸へも抜ける道があり、城跡案内では本丸虎口 (写真左上、中) とあるが、見つけた縄張り図では特に門らしきものは無かった。この縄張り図では、三の丸への道は見当たらず、北の丸へのみ行き来が出来る様に見える。縄張り図はある特定の時期のものなので、別の時期、特に太平の世になってからは、利便性を考えるとは三の丸への道が付け加わったとしてもおかしくは無い。むしろその方が理解できる。
[北の丸] 本丸とは直接繋がっておらず、先程の茅門から一度下って、北の丸に登って行くことになる。北の丸跡のは稲荷神社が建っており、北の丸への入り口が神社の入り口になっている。ここにも防衛のための深い石垣の堀切がある。
これで城の主要な所は見学は終わったが、いつものことなのだが、城の隅々までいける所は行かないと気が治まらないので、城の遊歩道なのだろう細い舗装されていない道を行ってみた。整備はあまりされておらず林になっているが、はっきりと分かる土塁が多く見られた。こちらの方も整備すれば、もっと城の輪郭が分かるのに、少しもったいない気がする。城の端には外堀跡もあった。水量はチョロチョロといった感じで、今は空堀の様に見えるが、当時はどうだったのだろう。防衛上はやはり水を貯めていたのだろう。
更に外堀の外周も走る。こうすれば城の大まかな規模が見えてくるし、思いがけず史跡に出会う事がある。外堀のすぐ側に道がないところもあり、そこには鉄道が走っている。外堀がまた現れ、別の橋が架かっていた。玉城橋と書かれてある。そこに大門跡と石碑が建っている。大門跡跡が何の史跡かはとうとう分からずじまいだが、ここは伊勢本街道の道だった。大阪から伊勢への参詣道だそうだ。総延長170kmで、大阪からは奈良を通り最短距離だそうだ。
これで田丸城は終了して、国道13号線に向かう。
ここからは殆ど山の中を走る様になり、民家もちらほらになってきている。それ程きつい坂でないのと、今日は快晴で、景色を見ながら走っていると気分爽快になる。
城が見えてきたので、史跡かと思いきや、近づくにつれて、少し違う様な感じだ。コンクリート製の城。看板が出ている。神霊学会主神教とある。信仰宗教の教会だ。鳥居があるので、神道系だろう。後で調べると、須佐之男命を宇宙創造の神と崇めている。倭姫も祀っている。創始者の教祖はここ多気郡の出身。この宗教団体に関してはインターネットでは、この教団のホームページ以外は情報はほとんど見当たらない。
城跡ではなかったので、素通りとし先に進む。相変わらず、山岳地帯。国道からそれて、県道に入る。だんだん道が狭くなり、参道らしき道となる。柵で囲まれているところが瀧原宮だろう。しばらく走って、ようやく鳥居が見えてきた。到着。今日のメインの場所。
瀧原宮 (たきはらのみや)
内宮 (皇大神宮) の別宮で、正確な起源は不明だが、この瀧原宮が古代の文章に登場する事から、804年以前に創建されたと推定される。伝承では、倭姫命が内宮よりも先に天照大御神を祀った場所という。倭姫命はここを天照大御神の鎮座宮とすべく、新宮を建てたのだが天照大御神の神意により、現在の内宮に移ることになり、ここは別宮となった。この様に内宮に鎮座するまでの仮の場所を元伊勢と呼んでいる。第10代崇神天皇の皇女の豊鋤入姫命とそれを引き継いだ第11代垂仁天皇の第四皇女の倭姫命が90年間かけて、天照大御神の鎮座地を探し、その間に天照大御神を祀った元伊勢は90社以上ある。その中で別宮とされた元伊勢は瀧原宮だけ。この説であれば、内宮よりも古いことになり、紀元前の創建という事になる。祭神は天照坐皇大御神御魂 (あまてらしますすめおおみかみのみたま)。
入り口の鳥居から拝所までは立派な杉が立ち並んでいる参道を進む。長い参道。参道の中からも杉が生えている。式年遷宮で建て替える際に使われる桧は現在では神宮の管轄の山 (御杣山 みそまやま と呼ばれる) からは取れなくなっているので、宮内省管轄の木曽の山から調達している。もう少しするとこの神宮や瀧原宮の領内の山の桧で式年遷宮の建て替え木材が調達できるそうだ。鎌倉時代以来、やっと自給出来る様になるそうだ。
参道の途中に川へ降りるみちがあり、古来からの御手洗所がある。内宮の五十鈴川御手洗所と同じものだ。一般の神社にある手洗所もあるが、こちらの方が歴史を感じさせる。川に御手洗所があるが、昔は手洗いではなく、ここで禊をして参拝をしたそうだ。禊の簡略版が現在の手洗所になっている。
御手洗所から参道に戻った所にお札を貰う宿衛屋 (右上)、供物を準備する忌火屋殿 (左下)、祓所 (右下) がある。
参道の終点に四つの祠が見えてきた。宮域には瀧原宮と瀧原竝宮 (たきはらならびのみや) の2つの別宮と瀧原宮所管社が3社 (若宮神社、長由介神社、川島神社) がある。瀧原宮と瀧原竝宮共に祭神は天照大御神なのだが、瀧原宮は天照皇大御神の和魂 (にぎみたま、穏やかな状態)、瀧原竝宮は天照皇大御神の荒魂 (あらみたま、荒々しい状態) を祀る。
ここも式年遷宮が20年毎に行われる。現在の四つの宮の隣に空き地があるが、ここが次回式年遷宮に使われる場所。ここを古殿地 (こでんち) と呼び、式年遷宮の前に宮があった場所という意味だが、式年遷宮から6ヶ月経つと古殿地の呼び方が新御敷地 (しんみしきち) と次回の式年遷宮の為の用地と変わる。この古殿地との間に倭姫が天照大御神の神体を載せて運んだ船 (御船代) が保管されているとされる御船倉がある。
これで伊勢神宮の外宮と内宮の別宮は鳥羽志摩にある伊雑宮以外は全てまわれた。当初は鳥羽まで足を伸ばし伊雑宮も見る予定だったが、1日仕事になり、時間の余裕がなかったので断念した。
この瀧原宮周辺の街並みを見ながら国道42号線に戻ることにする。多くの古い建物が建っている。風情があって観光地には良いと思うが、そうにはなっていない。
国道42号線で再び山あいの大内山川沿いを走る。ちょうど紀勢本線の鉄道もこの川沿いを通っている。
最後の峠越えにさしかかり、坂を脚に力を入れて登る。この時に腓返りが起きる。夜寝ている時に時々起こっていたのだが、走行中に起きたのは初めて。峠迄もう少しだが、国道沿いに座り、落ち着くまで休憩。休憩中に反対側のふくろはぎも腓返り。この後の事が不安になるが、症状が治るまで待つしか無い。1時間は休んだだろう。とにかく宿までたどり着いてゆっくりと脚を休めたい。峠迄は自転車を押して上がる。向こうに海が見えてきた。ここからは一気に下りになる。脚への負担も少なくなる。もう夕方が近くなってきている。ゆっくりと脚に負担がかからない様に走り、なんとか日没間際ではあるが宿に到着。この紀北町周辺は安宿はあまりなく、紀伊長島と三野瀬の間の民宿に泊まる。ここは経由地で明日朝には熊野へ出発予定。脚が平常に戻っていれば良いのだが....
0コメント