Kii Peninsula 紀伊半島 9 (16/12/19) Onigajo Castle Ruins 鬼ヶ城跡
三浦津波碑
熊野古道 馬越峠道
熊野古道 観音道
鬼ヶ城
昨日は左足太腿が峠越え手前で腓返り起こり暫く太腿を休ませて、峠までは自転車を押して登り、後は下坂をなるべく左脚に負担をかけない様にゆっくりと民宿までたどり着いたが、宿でふとした弾みで両足の太腿が腓返りが何度も起きた。食生活の偏りか、毎日走行しているので足に負担が来ているのか、睡眠不足か、年齢か? どうも全てが当てはまり様だ。この紀伊半島を走破すれば日本一周は終了となるので、その後は暫くゆっくりとしたい。自転車もスポークが折れて前輪が少し波打ち始めた。自転車の方も、もう3万キロは越えているだろうからリハビリが必要になってきている様だ。
今日は紀伊半島の一番の難所が待っている。400mの峠越え。熊野市近くまで登り坂。腓返りの再発の心配がある。坂道は一番軽いギアでゆっくりと登る事にしよう。
三浦津波碑
朝8時に出発のつもりで荷物を自転車に積んでいると、宿のオーナーから声をかけられて話が始まる。この地域も過疎化で悩んでいるそうだ。どんどん人が減って来ている。行政に対しての不満も多いと言っていた。近畿地方も色々なところを回ったが、兵庫県の日本海側とこの紀伊半島の南部は過疎化が進んでいる。どちらも悩んではいるが、外部からの移住者はあまり歓迎されていないようだ。結局出発は9時になった。宿は三野瀬という港にある。宿を出て海岸を見に行く。東南海地震の津波被害の碑が建っていた。港は堤防で覆われてそこからは海岸線は見えないのだが、この堤防の高さでは東日本大震災級の地震が起こったなら、津波は防げない。
ここから尾鷲を通り熊野までの道に入る。国道42号線。暫くすると道は山に向かい出した。尾鷲には峠越えとなる。宿の主人が言っていたが、このルートはアップダウンが多く自転車では大変だと。ひとつ目のトンネルが迫ってきた。今日はいくつもトンネルを潜る事になる。
熊野古道 馬越峠道
国道を走っていると、熊野古道の入り口があった。熊野古道はひとつだけなのかと思っていたが、熊野の三神社への参詣道の総称で、伊勢、奈良、大阪、和歌山などいろいろなところから熊野街道が伸びている。その中で昔ながらも道が残っている所がハイキングやトレッキングコースとして整備されている。ここもそのひとつだ。ここは馬越峠道と呼ばれ、17の伊勢路の一つ。尾鷲の桧林の中に石畳が残っている。5km程しか残っていないのだが、熊野街道の中では保存状態が非常に良い所だ。昔はこの石畳道で標高325mの馬越峠を越えていた。ここの石畳は東海道や中山道も石畳よりもゴツゴツしており歩きにくい、ましてや自転車で通ることは無謀だ。5kmの峠越えの往復は5時間はかかるそうなので、途中まで歩いて引き返すことにした。
熊野古道は走れないので、国道に戻り、尾鷲に向かう。これからしばらくは登り坂。熊野古道よりは楽だろう。昔の人は凄い。この様な峠をいくつも超えたのだ。
太平洋岸自転車道の表示がある。ここは自転車道にもなっているのだが、自転車専用道路は歩道の様で、荒れていて走りにくいし、この様にガードレールで保護された道がずうっとあるわけではない。どうも普通の国道を自転車道にしているだけの様な気がする。この様な自転車道は全国に多い。国民の健康増進のため、一時期に自転車道の設置が盛んとなった。既存の国道をほんの少しだけ手を入れて形だけ自転車道としている所が多い。サイクリストにすればこの様なものは自転車道ではない。いろいろなところを回って本当に自転車道を整備しているのは群馬県の様な気がする。至る所に自転車“専用”道路がつくられており、その専用道路だけでも群馬を満喫できるぐらい広い範囲をカバーしている。
尾鷲市の中心部近くまできた。尾鷲の桧は名産。鉄道の駅には桧の集荷場があり、国道には檜を積載したトラックが走っている。
尾鷲市中心部は海岸沿いにあるが、国道42号はそこには行かず、再び山の中の川沿いを走り熊野まで続く。尾鷲市の境にモニュメント、檜と魚の町と書かれている。
ここから熊野まではいくつものトンネルを通る事になった。この山間にも熊野古道があるのだ。昔の旅人はこのトンネルの上の峠を超えていた。現代人は柔になってしまった。
熊野古道 観音道
その熊野街道の名残があった。観音道と呼ばれている。国道42号がちょうどこの熊野古道 観音道に交わり、少し古道の雰囲気を感じることができる。江戸時代の観音信仰によって現在の熊野市波田須と大泊を結ぶ道が作られたそうで、この道には33体の観音像があると言う。ここも5km程の長さなので、往復は無理なので、少しだけ中に歩いて引き返した。確かに観音像が道端に建てられていた。
ここから海岸が山間を通して臨める。あの海岸まで行けば、今日のほぼ終点に近くなる。心配していた腓返りも起こらずなんとか今日は大丈夫そうだ。
鬼ヶ城
ここは熊野灘の名勝に数えられている所。熊野灘の荒波に削られた大小無数の海食洞が、地震による隆起によって階段上に並び、熊野灘に面して約1.2km続いている。志摩半島から続くリアス式海岸の最南端で、これより南はなだらかな七里御浜へと変わる。ここは平安時代に鬼と恐れられた海賊の多娥丸 (たがまる) がこの地を根城にしていたことから「鬼の岩屋」と呼ばれていたが、室町時代に有馬忠親が山頂に城を築いて以降、鬼ヶ城と呼ばれるようになった。ここに着いたのが4時前で、今の時期は5時には暗くなってしまうので、あと1時間ほどしか時間がない。ここをじっくりと見る余裕は無いので、まずは、名勝と呼ばれている海食洞を見て、鬼ヶ城に登ることにする。
海食洞への道は、海岸線に切り立った崖に沿って道がある。途中、坂上田村麻呂が桓武天皇の命を受けて、鬼と恐れられこの地を荒らし廻っていた海賊の多娥丸 (たがまる) を征伐したという伝説の無人島の地元の人がマブリカと呼んでいる魔見ヶ島 (まみるがしま) が見える。
道を進むと奇妙な形の岩が立ち並び、千畳敷と呼ばれる広場もある。ここは総延長2kmもあり海岸線の岩場に細い道が設置されている。途中まで行ったのだが、時間の制約があるのと、高所恐怖症で、これ以上行くのは躊躇われるので、引き返し、城跡に登る事にした。
紀州鬼ヶ城
室町時代(1523年頃)に熊野大神に奉仕した熊野別当家の出と言われている有馬忠親が隠居城として山頂に築城した日本の城。有馬氏はのちに紀伊国新宮の堀内氏虎によって攻められ、有馬氏と堀内氏両家の和議となり、氏虎の次男の氏善が有馬の養子に入った。その後、天正2年 (1574年) 氏虎が死去すると、氏善が堀内に戻り新宮城主となり両家の主となった。堀内氏は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いまで当地を治めた。インターネットに縄張り図があったので借用。急な坂道を登城するのだがここが本来の登り口であったのかは不明。ただかなり急な坂を登りその頂上に城が造られているので、攻めるのは容易でなかったと思うが、城跡はそれほど広くなく、籠城したとしても、どれだけ持つかは疑問だ。隠居城と書かれてあったが、隠居用であればもっと便利な所に城を築くのが妥当と思われる。
登り坂の斜面は段々畑の様になっており、所々石垣跡が見受けられる、これも城の遺構なのだろうか?
山の頂上は整地され平たくなっており、いくつかの曲輪跡が見られる。
山頂と熊野古道の松本峠への道がある。地図を見るとここからの道は熊野古道では無いのだが、昔からこの道があったのだろうか?
城跡を見終わり下山すると、もう日は暮れてしまい暗くなり、電燈が着いている。宿までは後数キロのところ。熊野古道が通っている松本峠の下のトンネルを抜ければ熊野市で、宿がある。今日はビジネスホテルに宿泊。ビジネスホテルとしては格安料金。なんとか今日も無事に1日が終わった。
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