Kii Peninsula 紀伊半島 7 (14/12/19) Futami 二見

Futami 二見

  • 御福餅本家
  • 御塩殿神社
  • 御塩浜
  • 賓日館
  • 二見興玉神社/天の岩屋

伊勢街道

  • 二軒茶屋
  • 山田奉行所跡
伊勢街道が外宮を過ぎ内宮に向かう途中から二見街道が始まる。今日はこの二見街道を通って夫婦岩で有名な二見海岸に行く。宿からは二見街道の半ばぐらいで合流。

御福餅本家

二見の夫婦岩のある二見興玉神社が近づくと古い街並みが現れる。伊勢特有の餅屋と宿屋が多い。伊勢は赤福餅が有名だが、ここ二見は270年の歴史を持つ御福餅 (おふくもち) が本家。赤福餅と同じあんころ餅だ。何故か隣に赤福餅が店を出している。ライバル同士。伊勢神宮内宮のおはらい町にもこの二つの店が競い合っていた。
ここから二見興玉神社までは古い街並みが続く。この地域は切妻造の店が目立つ。
二見の案内板

御塩殿神社 (みしおどのじんじゃ)

伊勢神宮の神饌として神事に使う堅塩を作る設備を備えた皇大神宮の所管社で御塩殿鎮守神 (みしおどののまもりがみ) を祭神としている。写真右下が御塩殿 (みしおどの) は粗塩を焼き固め堅塩を得る施設。奥には粗塩を保管する御塩御倉がある。写真左下が社殿。
境内の奥にはに御塩汲入所と御塩焼所があり、現在でも堅塩を作り、内宮と外宮に供給している。写真左下が御塩焼所 (みしおやきしょ) で塩分濃度20%前後の鹹水 (かんすい) を鉄鍋で煮込み、粗塩を得る施設。写真右下が御塩汲入所 (みしおくみいれしょ) で御塩浜から運ばれた鹹水を壷で保管する倉庫。
御塩殿神社の境外の二見町西に塩田の御塩浜があり、五十鈴川から水門を開け海水を引き入れて、1週間ぐらいで塩分濃度20%前後の鹹水 (かんすい) を作り、樽詰めして御塩汲入所へ搬入される。五十鈴川がこれほど広い川幅とは想像もしていなかった。さらさらと流れる小川のイメージを持っていた。
昨日は伊勢神宮を訪れた際に、催事に関わる物資などは自給自足をしている事を知った。その為に特別な宮や施設を所有して維持している。催事の為だけとは少し違和感を持った。時代も昔とは違っているのだから、莫大な金や人をかけて伊勢神宮を古代からと同じやり方で維持していく事は妥当なのだろうか? 昨日は否定的な考えであった。しかし、昨夜もう少し違う側面からこの問題について考えた。伊勢神宮ぐらいこの昔のやり方を続けても良いのではと考え方が変わって来た。もし伊勢神宮が他の神社と同じ様な運営になると、古来の習慣や文化が消え失せてしまうかも知れない。神宮に来てそれを感じる事が出来るので有れば良いのかも知れない。戦前とは異なり、今は宗教法人として、国の税金を投入している訳でも無い。神社本庁の運営に問題はあるとしても、取り敢えず自力でやっている。神宮に関わる史跡をここ数日、色々と周り、非常に面白かった。様々な発見があったので、これでよしとしよう。

賓日館 (ひんじつかん)

賓日館は明治20年、伊勢神宮に参拝する賓客の休憩・宿泊施設として、昨日、倭姫の森を訪れた際に知った神苑会によって建設されたという。こんなことまで神苑会はしていたのだ。1911年 (明治44年) に神苑会が解散して二見館に売却しその別館とな、宿泊所として営業を続けたが、1999年 (平成11年) に二見館が休業となり、2003年 (平成15年)に二見町に寄贈され資料館となった。
館内は公開されており、各部屋はそれぞれが違った造りや装飾が施されている。高貴な人たちの宿泊所だけあり、贅沢な趣だ。
歴代諸皇族、各界要人が数多く宿泊していた。
一階は客室になっている。
[寿の間] 竿縁と床の間が直角になっている床挿しという珍しい様式だそうだ。
[松の間]  松をあしらった装飾がある。
[梅の間]  ここも梅の装飾で統一
[桜の間]  桜の装飾と桜の木を使った床柱と天井が特徴
[紅葉の間]  
二回は中広間、大広間、そして広い客室がある。
[千鳥の間]
[御殿の間]  二重格天井や、輪島塗に螺鈿が装飾された床框のある床の間など創建当時のままに残る。神宮の紋である花菱紋の装飾がいたるところに見られる。皇族が利用し、広い庭園と二見浦が一望できる。
[翁の間 (中広間)] 昔はここが大広間だった。
[大広間]  桃山式折上格天井の大広間は120畳敷。電灯にはシャンデリアが使われている。本格的な能舞台が設けられ、現在もコンサート等に利用されている。
賓日館は廃業したので中を見れたが、通常では泊まれる様な宿ではないので、それなりに楽しめた。ここは斎宮近くで、立ち話をしたペンキ屋の爺さんが、是非ここに行きなさいと勧めてくれた所。そうでなければ素通りしていただろう。賓日館を後にし、二見の海岸をのんびりと夫婦岩に向かう。今日は晴天で冬なのに暖かい。

二見興玉神社/天の岩屋

小学校の修学旅行で来たのだが、全く記憶に残っていない。ここには夫婦岩で有名な二見興玉神社がある。江戸時代の浮世絵にも多く描かれている。江戸時代は伊勢神宮の前に、この二見が浦で「浜参宮」と言われた禊で身を清めたそうだ。
この神社の起源は天平年間 (729年-748年) に江寺 (えでら) を創建し、境内に興玉社を建てた以前に夫婦岩に注連縄を張り、興玉神石の遙拝所を設けたのに始まると言われている。その頃から夫婦岩があったのだ。二見興玉神社の祭神の猿田彦大神は天孫降臨の際に高天原と豊葦原中津国の間の道案内を務めたことから、道開きの神といわれ、この神の神使が蛙だそうだ。鳥居をくぐった海岸沿いの神社への参道には無数の蛙の像が並んでいる。これは蛙のカエルに「無事に帰る」「貸した物が還る」「お金が返る」の験担ぎ。もう一人の祭神は宇迦御魂大神 (うがのみたまのおおかみ) で伊勢神宮外宮の豊受大御神の別名。
夫婦岩が小さく見えて来た。神社に到着。デパ地下の様に混んでいる。朱印状をもらう為の長蛇の列。
そういえば、朱印状集めが流行っているらしい。所謂、スタンプラリー。神社の朱印状は寺の朱印状に比べてシンプル。寺は達筆の僧侶や近所の信者が梵字も交えて芸能人のサインのような見事な物で全く読めない。人によってそれぞれ違っている。みんな凝った朱印状を練習しているそうだ。神社はそこら辺の高校生の習字の様な物。コレクションとしてはお寺の朱印状の方が楽しそうだ。それでも朱印状は朱印状で、ありがたいのだろう。こんな感じの違いがある。右が四国の寺のもので左が内宮とここ二見興玉神社のもの。余談だが...
ここに日本神話でよく知られている天照大御神が隠れた「天の岩屋」がある。(三宮神社) 天の岩屋なるものは沖縄も含め日本全土にある。伊勢神宮外宮の高倉山古墳にもあるそうだ。
海岸の沖合約700m先に猿田彦大神縁りの興玉神石があるのだが、700mも沖合のあるので水没しているので見える筈が無い。夫婦岩はこの興玉神石と日の出を遙拝する鳥居の役割を果たしているそうだ。
境内社として綿津見大神 (わたつみのおおかみ) を祀る龍宮社がある。
伊邪那岐命 (伊弉諾尊 いざなぎ) が黄泉から帰って禊をした時に生まれた海の神で、一人ではなく、ソコツワタツミ(底津綿津見神、底津少童命)、ナカツワタツミ(中津綿津見神、中津少童命)、ウワツワタツミ(上津綿津見神、表津少童命)の三神が生まれ、この三神を総称して綿津見三神と呼んでいる。この解釈は、古代の各部族がそれぞれに祀っていた海の神の伝承を、古事記でまとめ上げた時にこの様な形を取ったのではと言われている。ちなみに日本神話の山幸彦はこの綿津見神の娘の豊玉姫と結婚をし、その孫が初代神武天皇と言われている。
神社の向こうには伊勢シーパラダイスがある。自動車で来る観光客はここに車を停めるので、コンスタントに観光客が通る様になっている。上手くできている。水族館はそれほど人が入ってはいなかったが、隣接する広い土産物店街は多くの人で賑わっていた。
二見見学を終えて、宿のある伊勢市内に戻る。二見街道で戻り、途中から伊勢街道に入るルートで行く。途中に史跡に出会す。

二軒茶屋

創業天正3年 (1575) の老舗の黄な粉餅屋。赤福やおたふく餅とは違い、餅の中にあんこが入っている。ここに観光に来た人はほとんどがこの餅屋に来るそうだ。二軒茶屋とはこの餅屋以外にうどん屋があって、それで二軒茶屋と呼ばれる様になった。伊勢神宮に舟で参宮する人たちの舟着場があった場所で、伊勢と二見を結ぶ街道沿いにもあり、伊勢と二見を行き来する旅人には良い休憩所だっただろう。

山田奉行所跡

江戸幕府が設置した遠国奉行の一つで、寛永12 (1635)、山田奉行の花房志摩守が現在地に移築後、明治までこの地に奉行所が置かれていた。
今日で、伊勢の滞在は終わりなので、食べてみたいと思っていた伊勢うどんで夕食。東京で伊勢うどんの店があり食べたのだが、本場の伊勢うどんはどうだろう。伊勢うどんは時間が無い旅人が手っ取り早く食べれるように柔らかいと聞いていたので、ぶよぶよなのかと思っていたが、柔らかいがコシはある。出汁は甘辛く醤油が濃い。結構いける。讃岐うどんも良いが、伊勢うどんも美味い。
明日伊勢を出発するのだが、予定では鳥羽まで足を伸ばすつもりだったが、ここ数日間、地元の人との立ち話が何度もあり、予定より2日程遅れている。今回の旅はフライトが決まっているのでそれまでに大阪にたどり着かねばならない。短時間でさっさと見て行くよりは、ある地域をじっくり見たいので、涙を飲んで鳥羽は断念する事にし、峠越えの紀伊長島まで行く。距離も長いので明日は早く起きて出発だ。


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