Tokaido 東海道 24 (22/11/19) Yoshida Shuku 吉田宿

(34) Yoshida Shuku 吉田宿

  • 寿泉寺
  • 東惣門
  • 曲尺手門跡 (かねんてもん)
  • 龍拈寺 (りゅうねんじ)
  • 問屋場跡
  • 本陣跡
  • きく宗
  • 西惣門
  • 豊川/豊橋 (旧豊川大橋)
  • 豊川稲荷 遥拝所
  • 子だが橋の碑
  • 伊奈村立場茶屋跡
今日は一日中雨の予報。風邪で少々弱っている様なので休養も兼ねて無理をせずに5キロ先の吉田宿があった豊橋市までに留め、マクドナルドとイオンで溜まっている旅日記の編集をする。

(34) Yoshida Shuku 吉田宿

吉田宿は東海道34番の宿場で二川宿から 1里20町 (6.1km) の距離。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠65軒、戸数1,293戸、人口5,277人。
浮世絵に描かれているのは吉田川に架かる吉田大橋と吉田城。現在の吉田大橋では無く、豊橋と呼ばれているのが旧吉田大橋。ここは徳川家康の領地であったの三河だが、この三河は三つの川から来ている。ここを流れている豊川はその3つの一つ。(ちなみに、残り2つは男川と矢矧川) この吉田宿がある所は、今は豊橋と呼ばれているが、鎌倉時代に、ここが整備されて今橋と称して街が始まった。関ヶ原合戦があった頃、今橋は「忌まわしい」を連想させると言う理由で吉田に改名。吉田城の城下町として発展し、これが宿の名として残っている。今の豊橋は明治2年に豊川に架かる橋の名をとって改名された。
豊川と豊橋 (旧豊川大橋) 川幅は思っていた以上に広い。
宿を出て、昨日終了時点の旧東海道の場所まで戻り、再び街道を走るのだが、このところから豊橋への旧東海道は国道1号線となる。国道1号線なので、道幅も広くなり、もう昔の街道の名残は全くなく、単調な風景。

寿泉寺

国道1号線を走っていると立派な目立つ寺の塔が見えてきたので寄ってみた。この寺に関わる情報は調べても見つからなかったが、この寺に関しては三つの幼稚園を経営しており、その紹介と園児募集のページだった。寺の紹介は無いが、幼稚園のホームページはしっかりしている。境内には廃材が放置されて、決して手入れが行き届いている様には思えない。多分幼稚園経営が主で寺はその次なのだろう。訪れた多くの寺が幼稚園をやっている。檀家だけでは維持できないのだろう。理解は出来るが違和感はある。
吉田宿に近づいてきた。

東惣門

吉田宿の江戸からの入口にあたる。ここまで東海道を廻ってきて、宿場への入口は色々な名前で呼ばれていた。見附、木戸、枡形など。初めて惣門という表現が出てきた。どうも、当時は宿場の入口に関しては統一された名称はなかったのだろう。それで、入口の形態や建物の形でそう表現していた様に思える。ここには東惣門の縮小モニュメントが立っており、交差点の向かい側には常夜灯がある。当時はこの惣門を入った所に番所と駒寄があったそうだ。惣門は朝六ツ (午前六時) から夜四ツ (午後十時) の間だけ開いており、それ以外の時間は通行ができなかったそうだ。宿場が城壁や柵で囲まれているわけでないので、どこからでも入れたのではとも思っているのだが、実際に当時はどの様な監視体制だったのだろう。ここは国道1号線が通っており、道も広くまっすぐで古地図に見られる様な鍵型道路や枡形は消滅している。

曲尺手門跡 (かねんてもん)

曲尺手門跡 (かねんてもん)、難しい読みだ。曲尺手とは、城の出入口、または宿場内の街道を鍵の手のように曲がりくねって敵の侵入を妨げたものをいう。ここでは城への出入口を指している。この道を北に進むと吉田城に入る。今はここも大通りが走り、当時の面影はない。

龍拈寺 (りゅうねんじ)

街道から少し離れて寄り道をする。この寺は大永初年頃 (1520年代初頭) に吉田城主の牧野信成が亡父のために創建。古い山門が残っている。徳川家康は桶狭間の戦いで今川義元が横死後、人質の立場から開放され自立した。徳川に味方した元今川家臣達の今川に軟禁されていた人質が、今川氏真永にこの寺で処刑されたと言う。当時の吉田城代 小原肥前守鎮実の子もその処刑リストに含まれていた。ここも幼稚園をやっていて境内は全面駐車場になっている。儲かっているのか本堂はコンクリート製で新しくなっていた。

問屋場跡

人馬の継立業務 (馬や人足の手配) と飛脚業務を行う問屋場の跡。宿場には必ず設けられた施設。

本陣跡

ここに2つの本陣と1つの脇本陣が集まっていた。

きく宗

江戸時代文政年間に創業し、200年以上続いている。出しているものも今も変わらず、豆腐田楽と菜飯のみだそうだ。当時としては、この地域ではありふれたものだっただろうに。強気の経営だ。東海道の旅人には人気だったのだろう。昨日見た江戸時代の観光ブックにも載っているのだろうか?きっと載っている。あの江戸時代の観光ブックを見ながらどれだけの観光地や店が残っているのかを確かめるのも面白そうだ。節約旅行の旅人には値段が高すぎる。(写真のもので2000円近くする) 有名店になってしまえば、これが出来る。

西惣門

吉田宿の西の入口。ここにも縮小板のモニュメントが建っている。
ここで雨が強くなってきた。この後できれば吉田城に行きたいが、夕方迄雨は弱まりそうにないので、今日はこれ以上は見れないだろう。マクドナルドに駆け込み、旅日記の編集を始める。暫くすると、知らない間に寝てしまっていた。やはり、風邪の影響で疲れているのかも知れない。数時間いたが、一向に雨は弱まってくれない。痺れを切らし、強い雨の中、今日の宿がある場所の近くまで移動する事にする。東海道から少し離れた豊川市に行く。分岐点までは東海道を走ったのだが、雨の中、街道沿いに史跡の案内板が目に入る。見てしまうと、立ち止まりたくなる。またここに来れるか分からないので案内板を読み、頭の中で当時を想像する。

豊川稲荷 遥拝所跡

豊橋を渡って直ぐの所に豊川稲荷の遥拝所跡があった。豊川稲荷。聞き覚えがある神社だ。東京にある。あの豊川とはここの豊川の事なのか? 沖縄でこの遥拝所が至る所にあったのを思い出した。その場所に行くことができない人のために拝む場所を設けていた。ここに豊川稲荷の遥拝所がある。東海道は豊川を通っていないので、東海道を旅していた人はここから拝んだのだろう。
東京の豊川稲荷はここの豊川稲荷神社本山の別院だった。東京赤阪以外にも札幌、横須賀、大阪、福岡等にあるそうだ。

子だが橋の碑

子だが橋 (子断が橋との言われる) にまつわる悲しい話がここに書かれていた。ただ地元の子供達はこの風習を知っていたはずなので、作り話だろう。案内板には今でこそ人の生贄はしていないが、12羽の雀を生贄にする風習が続いているそうだ。WWFが知ったら問題になるのだろうな。

伊奈村立場茶屋跡

吉田宿と御油宿の中間地点に設けられた立場跡。(立場は当時の休憩所の事) 明治天皇が遷都で東京に向かう際にも休憩で立ち寄った所。
結局、完全休養とはいかなかった。雨で吉田城を見れなかったのは残念。豊川稲荷も見てみたい。それと興味を持ったのが、この豊川に世界心道教なるものの本部があった。巨大な鳥居の横を通った。
瀬戸内を旅したときには金光教や黒住教本部を見た。丹波篠山から京都に向かうときには大本教の本部も見た。世界心道教とは何なのか? 明日はゆっくりとここら辺に行ってみるか.....


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